水滸伝 12 炳乎の章
著者の北方謙三氏が、「キューバ革命」をモチーフに「水滸伝」を執筆したというエピソードは有名です。
ただしカストロが宋江、ゲバラが晁蓋、カリブ海が梁山湖をイメージしていると言われても、作品を読んでいると限りピンと来ません。
それは地理的、時代背景の条件が違い過ぎるせいですが、あくまでも作者のインスピーレーションの話のため、読者はそれを気にする必要はないのかも知れません。
一方で"独自のハードボイルド小説"という地位を築き上げた著者が(最終的ではないにしろ)行き着いた場所が、「水滸伝」という見方もできます。
私自身が"ハードボイルド"という定義をよく分かっていませんが、なんとなく"硬派"、"反骨精神"というキーワードは浮かび上がってきます。
ただし1人の男がハードボイルドな生き方を貫き通しても、国家への影響力はたかが知れています。
ハードボイルドな生き方の男たちが集まって、国家を相手に戦いを挑んだ物語として捉えれば、「水滸伝」という作品が生まれてきた背景も納得できる気がします。
作品中では国家の腐敗を象徴するのが「役人への賄賂」であり、そうした政権を打倒しようとする革命戦争であるというという構図が基本にあります。
皮肉なことに現在の中国共産党の方針を見る限り、「北方水滸伝」が中国へ逆輸入されることはしばらく無さそうです。
水滸伝 11 天地の章
11巻目にしてようやく「北方水滸伝」も後半に突入します。
禁軍との対決が本格的に迫ろうとしているさなかに、梁山泊にとって衝撃的な事件が起こります。
梁山泊に君臨する宋江・晁蓋2人のリーダーのうち、晁蓋が暗殺されてしまうのです。
2人については以前紹介しましたが、晁蓋は前線で指揮を採るタイプのリーダーであったため、それが災いして無防備な瞬間を狙われて暗殺の標的となったのです。
じつは晁蓋が暗殺される前から、宋江と梁山泊の将来についてたびたび意見がぶつかるようになります。
晁蓋は梁山泊の軍勢が3万人に達した時点から宋へ対して攻勢に転じるべきだとし、宋江は軍勢が10万人になるまでは慎重に事を進めようとします。
つまり晁蓋が積極的かつ攻撃的な方針であり、宋江は消極的、守備的な考えを持っているのです。
これは性格や戦略の相違から来るもので、いずれか一方が正しいという訳ではありません。
例えば経営者を見ても、事業拡大に慎重な姿勢をとる社長もいれば、積極的に拡大しようとする社長がいるのと同じことです。
ただし少なくともトップの地位にいる2人が正反対の方針を打ち出せば、「船頭多くして船山に登る」という状況になりかねません。
歯に衣着せぬ発言をする魯達(魯智深)は、"不幸中の幸い"のような意味の発言をしていますが、少なくとも梁山泊のリーダーが事実上1人に絞られたという状況は、決して梁山泊の将来にとって悪いことではないという核心をついた発言ではないでしょうか。
一方で多くの人が、すべてを部下に委ねる"宋江"よりも、積極的に部下を率いていく"晁蓋"の方がリーダーとしてふさわしいと思うのではないでしょうか。
原作ではイマイチ存在感を出せなかった宋江ですが、今後「北方水滸伝」で彼がどのように梁山泊を率いてゆくのかが楽しみです。
水滸伝 10 濁流の章
「水滸伝」、特にこの「北方水滸伝」は非常に男臭い物語です。
ある男は人生に絶望し、またある男は人の道を踏み外しそうになり、さらにある男は戦いに明け暮れて自分を見失ってしまいます。
そんな時、男は生まれ変わるための時間と場所が必要になります。
世間から隔離されたのどかな風景の広がる山の庵。
そこに禁軍の武術師範として無双の強さを誇りながらも、無実の罪によってその地位を追われた"王進"が老いた母と共に隠遁生活を送っています。
王進は自己の内面を見つめる生き方を選んだために、梁山泊に加わることはありません。
それでも王進の元には梁山泊の内外から心に傷を負った男たちが訪れ、王進はそれを静かに受け入れます。
王進親子と共に畠を耕し、陶芸を行う中で多くの男たちが何かを悟り、そして一回り大きくなって再び戦いの日々へ戻ってゆきます。
中国風にいえば王進は"仙人"であり、日本風にいえば剣を極めた伝説の剣豪(柳生石舟斎、上泉伊勢守あたりでしょうか)といったイメージになります。
ちなみに原作での王進は史進の棒術師匠として登場するだけですが、「北方水滸伝」の中では目に見えない傷を負った男たちの導き手として、シリーズ全般を通して欠かせない存在となります。
現代社会でも、プレッシャーに押しつぶされそうになったり、すべてを投げ出したくなることは誰にでもあると思います。
王進の庵のような場所があれば、誰しも1度は訪れてみたいと思うのではないでしょうか。
水滸伝 9 嵐翠の章
"宋"という中国を支配する国家と比べて、余りにも小さな存在である"梁山泊"。
彼らがどうして宋と互角に渡り合えるのか?
作品を読めば、それが資金源となる"闇の塩のルート"だったり、先見性のある戦略、勇敢な指揮官、そして効率的な内政システムだったりと幾らでも理由を挙げられます。
ただ決定的な要素を1つだけ挙げるとするならば、「梁山泊に集った優秀な人材」に尽きるのではないでしょうか?
「北方水滸伝」で優秀な人材をリクルートする役割は、原作でもおなじみの魯智深(ろちしん)、武松(ぶしょう)、李逵(りき)といった3人の好漢たちが担います。
いずれも原作では深く考えるよりも手が先に出る典型的な暴れん坊タイプの好漢たちですが、彼らが梁山泊の人材獲得のために奔走するという設定は興味深く、著者のセンスを感じます。
この3人は林冲や史進といった梁山泊きっての武将と比べても決して劣らないほどの武勇を持っているにも関わらず、軍勢を指揮することなく、常に人材を集めるために各地を旅しています。
武力や知力といった目に見える技能よりも、人物を見抜く目、人から共感と信頼を得られる人間性を持っていなければ、この役割は務まりません。
魯智深ははじめは僧形で、片腕を失った後は"魯達"という派手な格好をした流浪の旅人の姿で、懐の深い、そして掴みどころのない性格で3人の中では長兄的な存在として活躍します。個人的には、宮本武蔵に登場する沢庵和尚のようなイメージと重なります。
武松は過去に犯してしまった大きな過ちを十字架として背負って生きている、寡黙で朴訥な人物です。苦しい修行に耐える禅僧や武道家といったタイプです。
李逵は武松を兄として慕って常に行動を共にしています。
もっとも原作のイメージに近い猪突猛進してしまうタイプですが、純真で明るい性格であり、料理が得意という意外な一面も持っています。
長いシリーズの中で度々登場するこの3人の活躍する場面は、もっとも読者を惹きつける魅力的なシーンであることは間違いありません。
水滸伝 8 青龍の章
腐敗しつつあるとはいえ宋は強力であり、梁山泊勢は綱渡りの戦いを強いられます。
それでも梁山泊は少しずつ仲間を増やし、そして規模を拡大してゆきます。
盗賊を働いていた人間や、犯罪により役人から追われて梁山泊に加わる無頼漢は多いですが、宋を見限って梁山泊へ入山した元官軍出身の揚志(ようし)、秦明(しんめい)、呼延灼(こえんしゃく)といった好漢たちが、梁山泊の成長を大きく助けます。
"官軍"といえば梁山泊にとって宿敵であり、相容れない存在です。
敵対する組織へ身を投じる訳ですから、今の会社員が転職するのとは訳が違います。
自分たちのアイデンティティを築いてきた存在を否定するのと変わらない、どちらかというと宗旨替えのイメージが近いのではないでしょうか。
官軍出身の好漢たちは誰もが個性的であり、北方氏が巧みに書き分けてゆきます。
揚志は情熱に燃える若き幹部候補生として、秦明は老練な思慮深い将軍として、そして呼延灼はもっとも脂の乗りきった最前線の指揮官として活躍します。
彼らは生粋の軍人であるため、兵士たちを訓練するノウハウや軍を指揮する能力に優れています。
つまり梁山泊を会社組織だとすると、優秀な幹部候補生や技術者をヘッドハンティングした形になるのではないでしょうか。
しかも彼らは官軍の弱点、そしてその恐ろしさをよく知っています。
やがてどのような形で、かつて所属した組織と対峙するのか?
こうした展開を楽しみにしながら読むのも本作の魅力です。
水滸伝 7 烈火の章
全国各地から集った好漢たちの頂点に立つ梁山泊の頭領といえば、宋江と晁蓋です。
この2人は、林冲のように他を圧倒する武力があるわけでもなく、呉用のように軍師としても優秀でもありません。
もちろん魯智深のような怪力どころか、安道全の医術のような専門的な知識も技術もありません。
さらには晁蓋も宋江も率先して動くタイプではなく、呉用が徹夜で梁山泊の体制を考えだしているときに晁蓋は昼寝をし、林冲が戦場を駆けているときに宋江は呑気に旅をしていたりします。
それでも梁山泊に集う好漢たちは、誰もが2人を指導者として仰ぎます。
また晁蓋と宋江を比較して、指導者としての性格が違うところも興味深いところです。
晁蓋はリダーシップを発揮して戦場でも最前線に立ちます。
分り易く例えると、織田信長型の指導者といえます。
一方の宋江は、部下にすべてを委ねて物事に動じない、どっしりと構えるタイプです。こちらは前漢を建国した劉邦タイプの指導者といえるのではないでしょうか。
2人に共通するのは、誰にも負けない「世直しのために梁山泊を拠点に宋を打倒する」という強い意志であり、梁山泊に集う好漢たちにビジョンを示す役割を担っているのです。
リーダーは必ずしも部下より優れた能力を持っている必要はなく、如何にして部下の優れた能力を発揮させるかが重要です。
梁山泊のリーダー2人の姿は、まるでビジネス書のように示唆に富んでいるのではないでしょうか。
水滸伝 6 風塵の章
大長編「北方水滸伝」もそろそろ中盤に入りつつあります。
108人の好漢が梁山泊に集結する日はまだまだ先だと思いつつ読み進めていましたが、なんと全員が登場する前から官軍との戦いで命を落としてしまう好漢たちが出てきます。
もっとも108人の好漢たちが揃うという思い込みは原作からの先入観であり、本作はあくまでも「北方水滸伝」なのです。
志をもった男たちが命がけで官軍と熾烈な戦いを繰り広げるのです。
当然のように、その過程で命を失う者が出てくるのはきわめて現実的であり、フィクションだからといってお伽話のような小説ではなく、男の生き様をリアルに描きたいという著者の強い思いが伝わってきます。
現代社会において、男が命を賭けて戦うという姿は滅多に見ることができませんし、戦国武将や維新の志士たちのような生き方を真似できる時代でもありません。
つまり希薄になりつつある「青雲の志」、「闘争本能」、「利害を超えた友情」といった古ぼけた、露骨にいえば汗臭い男の生き様を「水滸伝」を題材に書き上げた作品なのです。
敵の刃にかかり道半ばで斃れる好漢がいますが、その志を同僚や部下、そして家族が継いでゆくといった場面が何度も登場します。
たしかに命を失ってしまえば人生はそこで終わりですが、北方水滸伝の中では生き残った者たちが確実に、そして目に見える形で死んだ者の「志」を受け継いでゆきます。
愛着がある好漢たちが道半ばで斃れてゆくのは残念ですが、新しい好漢が活躍してゆき、長い作品をうまく新陳代謝させる役割もあるようです。
水滸伝 5 玄武の章
林冲や史進といった武将は、軍勢を率いて正面から敵軍を撃破する役割を担いますが、水面下の戦いを指揮する公孫勝は水滸伝の中で異質な存在です。
原作の公孫勝は、道士として法術を自由自在に操り、敵として現れる妖術使いを倒してゆく好漢ですが、北方水滸伝ではもう少し現実的な役割を果たします。
それは致死軍と名付けた兵士たちを率いて、諜報活動、撹乱や暗殺を目的とした常に裏の任務に従事することです。
彼は致死軍の兵士たちに次のように語りかけます。
「死ぬる時も、名もなく死んでいく。それでよしと思った者だけが、ここに集まった。報われることは、なにもない。人々の心の中で生き続けることもない」
現代風にいえばスパイですが、舞台が中世であることを考えると戦国時代に活躍した忍者の方が近いイメージです。
公孫勝の立場は戦国時代でいえば、服部半蔵や百地三太夫といったところでしょうか。
もちろん敵となる青蓮寺にも致死軍と同じような影の軍団が存在します。
王和が率いる軍勢がそれにあたり、常に水面下で梁山泊としのぎを削り合う関係です。
北方水滸伝はフィクションでありながらもリアルさを追求したストーリー構成であるため、妖術という存在が介入しずらい世界観であるのは確かです。
ただし原作で大活躍した公孫勝の存在を消してしまうのは作品の魅力を削いでしまうものであり、日本人にとって馴染みのある忍者のような役割を与えることによって、違和感なく「北方水滸伝」の中に溶け込んでゆきます。
「致死軍」は北方氏のバランス感覚やセンスの良さを象徴するような存在なのかも知れません。
水滸伝 4 道蛇の章
北方謙三「水滸伝」4巻目に突入です。
全19巻にも及ぶ大作のため、途中でレビューのネタが尽きてしまうことを心配していますが、今のところ大丈夫なようです。
これから読む人のためにストーリー詳細を紹介するのは控えますが、ストーリー自体は宋を倒すべく梁山泊を拠点に決起した反乱軍の物語という、きわめて単純な構図であることは以前にも触れました。
ただし武勇に優れた豪傑、天才的な軍略を生み出す軍師が次々と登場し、強大な国家を相手に奮闘するといった内容だけでは途中でマンネリ化してしまうことを避けれませんし、講談本のような内容に終始してしまいます。
そこで今回は一見単純に見えるストーリーでありながらも、読者を飽きさせない北方水滸伝の魅力を紹介してみたいと思います。
1つ目は、登場人物たちの幅の広さです。
登場するのは豪傑や軍師といった人物だけではありません。
料理人や大工、医師、薬草師、鍛冶屋といった専門技能を持った人物たちが中心に活躍する章が度々登場します。
さらに馬の調教師、獣医、偽書や偽造印鑑を作成する専門家たちまでが登場し、それぞれ重要な役割を担います。
医師がメスを剣に持ち替えて兵士として活躍するのではなく、彼らが持っている専門技能をそのまま発揮して梁山泊の一員として活躍するのです。
それは梁山泊が単なる盗賊の根城ではなく、数万人が常時生活をしている本格的な反乱軍であり、小さな国家を形成しているといった奥行きを作品全体に与えています。
北方氏は彼らの活躍を要所々々で描いていますが、それは決して退屈なシーンなどではなく、梁山泊に参加したヒーローの1人として苦悩し、そして成長してゆく姿は、サイドストーリーだと片付けられないほど力がこもっています。
2つめは梁山泊と連携して戦う、リーダーたちの存在です。
梁山泊の首領は晁蓋と宋江ですが、梁山泊の外部にも二竜山、少華山、桃花山、清風山、双頭山といった拠点が連携し、梁山泊と同じ「潜天行道」の旗を掲げて官軍と戦いを繰り広げます。
特に序盤に行われる戦闘の殆どは、各拠点が官軍と激突するシーンであり、首領には青面獣・揚志、九紋龍・史進といったお馴染みの好漢たちが獅子奮迅の働きをします。
彼らはいずれも一騎当千の強者ですが、はじめは自分にも部下にも厳しいだけの"どこか心に余裕のない指揮官"でした。
しかし戦いを通じてリーダーにとって本当に必要な要素を学んで成長してゆく姿に惹きつけられてゆきます。
つまり晁蓋や宋江が生まれながらに人望を備えていたかのような指導者であるのに対し、揚志や史進たちの成長は現在進行形であり、彼らの成長をじっくり描くことができるのも、長編小説の長所ではないでしょうか。
とにかく読み進めるほどに登場人物に愛着が出てくるような魅力を持った作品であることは間違いありません。
水滸伝 3 輪舞の章
梁山泊には数多の豪傑や軍師、そして一芸に秀でた傑出した人物が集ってきます。
一方で彼らの宿敵となる宋も強力な布陣で対抗してきます。
ちなみに「水滸伝」の原作では、敵役として"高キュウ"が有名です。
元々はゴロツキに過ぎなかった高キュウは、蹴鞠(けまり)の才能を見込まれて徽宗皇帝に取り入り、賄賂を好んで権力を濫用します。
保身のためには手段を選びませんが、私利私欲を満たすことにしか関心の無い、小悪党といったイメージです。
そこは北方氏だけあって、北方水滸伝の高キュウの存在感は薄く、代わりに"青蓮寺"という強力な敵役を登場させます。
青蓮寺は、袁明(えんめい)を頂点とした秘密機関であり、宰相の蔡京(さいけい)でさえ無視できない大きな影響力を持っています。
アメリカのCIAやFBIあたりを想像してもらえば、おおよそのイメージを掴めるのではないでしょうか。
よって青蓮寺は政治的な工作以外にも、諜報活動も担っています。
青蓮寺は傾きつつある国家を立て直そうとする目的を持っていますが、梁山泊は世直しのために国家権力の打倒を目的としています。
手段は正反対であるものの、青蓮寺の指導者たちは汚職や賄賂といった私腹を肥やすことに一切興味を持たず、ストイックな姿勢で職務を全うしようとします。
いわば志を持った男たち同士が生き残りを賭けて戦うといった構図が、本作品の大きな枠組みになっています。
原作に色濃くあった"勧善懲悪"といった単純なイメージを払拭し、大人のためのエンターテイメントとして青蓮寺の存在は欠かすことができません。
水滸伝 2 替天の章
長編大作「北方水滸伝」の第2巻です。
「水滸伝」といえば中国の古典ですが、およそ1000年前の中国を舞台にした物語であることを忘れてしまうほど現代小説として読みやすい内容になっています。
タイトルに抵抗を感じる人でも、まずは第1巻を手にとって読んでみることをお薦めします。
壮大な物語がゼロから始まるのかと思えば、読み始めて意外な感想を持ちます。
梁山泊の首領といえば宋江と晁蓋ですが、この2人は冒頭から国(宋)の打倒を目指す同志たちのネットワークを築いている状態から始まります。
まだ梁山泊の姿形は無いものの、例えば花和尚・魯智深といった力自慢の暴れ者が、最初から宋江の右腕として活躍します。
さらに豹子頭・林冲が武術の達人で禁軍の師範として登場するのは原作通りですが、すでに魯智深と志を共にする仲間として登場します。
あくまでも"オリジナル水滸伝"のため、原作との相違を指摘するのはこれくらいにしますが、読み進めてゆくうちに著者の意図が分かってきます。
つまり原作の前半では場面と登場人物が一気に切り替わってしまうことがよくありますが、長編小説として物語の一貫性とテンポを維持するため、キーとなる登場人物に最初から役割を与えています。
魯智深や武松は同志のネットワークを維持し、さらに開拓するために中国全土を渡り歩きます。
そして林冲は同志を牢獄から脱出させるために潜入したり、梁山泊を最適な旗揚げの拠点として考えている宋江や晁蓋の計画を実行すべく、梁山泊を根城にしている盗賊・王倫の元に工作員として潜り込みます。
序盤は官軍との大きな戦闘シーンは出てきませんが、スパイ小説のようなスリリングな展開で読者を一気に惹きつけてしまいます。
梁山泊へ潜入した林冲の奮闘もあり、いよいよ2巻の後半で晁蓋や呉用たちが入山を果たします。
真正面から国へ反旗を掲げる日が近づき、今後のダイナミックな展開が楽しみです。
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