青年
山口県から作家を目指して上京してきた青年・小泉純一を主人公した森鴎外の小説です。
おそらく時代は明治末期から大正初期だと思われますが、ともかく日清・日露戦争に勝利した日本が列強国の仲間入りを果たし、近代的な大都市となりかけている東京が舞台です。
ただし主人公は垢抜けない貧乏な青年ではなく、裕福な実家に生まれ学問優秀、しかも美青年という設定です。
作風は夏目漱石に代表されるようなインテリ小説ともいうべき内容であり、主人公の友人たちとの会話には、西洋哲学やヨーロッパの小説、美術といった話題が日常会話に散りばめられています。
それだけに注釈なしで理解するのが難しい側面がありますが、作品の内容は外面的な出来事(事件)よりも少年の内面的な成長を描いた作品であるため、ストーリーは至ってシンプルです。
大都市・東京で出会うさまざまな知人たちの影響を受けるにはもちろんですが、それと同じくらいの影響を主人公へ対して好意をもつ女性からも受けることになります。
ともかく青年の内面的な葛藤や変化の過程をじっくりと読み進める作品であり、読了までに同じ分量の最近の小説と比べて2倍の時間は必要です。
また他にも当時(今から100年前)の風俗を理解する上で大変参考になる小説です。
この作品の文学的な評価は専門家に任せておくとして、そんなことは気にせず現代小説の幕開けとなった作品の1つとしてチャレンジしてみてはどうでしょうか?
ちなみに青空文庫にもなっているためインターネット上で無料で読むことも出来ますが、書籍にしおりを2つ用意して注釈を確認しながら読むことをお勧めします。
阿部一族―他二編
3編の森鴎外作品を収録した岩波文庫です。
- 興津弥五右衛門の遺書
- 阿部一族
- 佐橋甚五郎
収録されている作品は、1912年から1913年にかけて発表された歴史小説です。
森鴎外は作家としての後期から晩年にかけて歴史小説を中心に発表しており、初期に西洋文学や芸術の色濃い影響を受けた作品が多かったことを考えると、その作風が大きく変化したと言えます。
伝統ある岩波文庫から発売されていることもあり、巻末で解説を(おそらく監修も)担当しているのは斎藤茂吉という豪華さです。
昭和13年に書かれた解説ですが、収録されている作品の醍醐味や時代背景が整理され分かり易く説明されています。
はじめの2編は殉死(追腹)をテーマにしており、作品が発表されたタイミングから鴎外が明治天皇の崩御と乃木希典の殉死に影響を受けて書き上げたことが明白です。
またそうした時代的背景をまったく意識せずとも、本書に収められている作品はどれも抜群の面白さです。
決して大きな歴史上の事件を扱った作品ではありませんが、武士たちが生きる社会、意地とそれらをひっくるめた死生観がどのように追腹(殉死)を習慣化していったのかを鋭く指摘した作品です。
追腹は主君が亡くなり、あまりの悲しみと喪失感による絶望、そして武士特有の行動力が組み合わさったものだと思い込んでいましたが、実際には家名(名誉と財産)を残すため、そうせざるを得ない状況に追い込まれた武士も多くいたようです。
茂吉は言及していませんが、軍医総監(中将相当)にまで昇り詰めた鴎外が、本作品を通じて乃木大将の殉死を賞賛するどころか、皮肉ったという見方まで出来てしまいます。
さらにはこの作品が発表されて30年以上のちに起きてしまう大戦における特攻、つまり若者たちの殉死が悲劇として起こりますが、もし鴎外が生きていたらどう考えたのかを想像してしまうのです。
舞姫・うたかたの記
森鴎外の短編が5作品収められれています。
- うたかたの記
- ふた夜
- 舞姫
- 文づかい
- 普請中
最後の「普請中」を除いていずれも鴎外初期の作品になります。
重々しい文語体で書かれていることや、ドイツ語などの固有名詞が用いられていることもあり、注釈なしではなかなかスムーズに読み進められない作品ばかりです。
各作品に共通するのは、若い頃より陸軍軍医として5年間ドイツ留学した経験が色濃く反映されているという点です。
つまり小説の舞台はドイツやイタリアであり、西洋の文学や芸術思想を積極的に取り入れようとした試みが作品から伝わってきます。
ストーリー構成自体はよく練られており、文学作品としての格調の高さが伝わってくる一方、現代の読者にとっては必要以上に難解な表現が用いられているという印象も否めません。
鴎外の作品は口語調文体となる後期の作品ほど読みやすく、前期ほど読みにくくなります。
よってこれから同氏の作品を手にとる人は、年代の新しい作品から遡って読むことをお勧めします。
それでも明治前期の日本文学に触れるという点では相応しい作品であり、ゆっくりと根気よく読めば充分に理解できるレベルです。
是非一度はチャレンジしてみることをお勧めします。
雁
明治の文豪・森鴎外の代表作です。
文庫本で150ページに満たない分量ですが、鴎外の作品としては長編に属する作品ではないでしょうか。
構図は至ってシンプルであり、書生の岡田、高利貸しの末造、そして末造の妾となったお玉という三角関係を描いています(正確には、岡田と末造はお互いの存在を知らないため三角関係と言えないかもしれません)。
作品は岡田の友人であった"僕"の視点から書かれており、この"僕"は若かりし頃の森鴎外自身にほかなりません。
ストーリーも起伏に富んだものではなく、比較的ゆっくりとした時間軸で進行してゆき、青春のいち場面を切り取ったかのような丁寧な描写が印象に残ります。
こうした描写を退屈せずに、読者がゆったりと楽しめるかどうかが明治から大正にかけての文学作品を好きになれるかの境目になるように思います。
構成や進行のペース、印象的なシーンの演出など、すべてが円熟の域に入った鴎外によって計算されいる感があり、舞台となっている明治13年当時に東京の片隅でひっそりと繰り広げられる人間模様を虫メガネで食い入るように見てしまうような感覚に陥ってしまいます。
今だからこそ古くて新しい感覚で読める作品であるともいえます。
森鴎外の作品の中では比較的読みやすく、最初に手にとる作品としてもお薦めです。
勝海舟と幕末外交
よく知られているように江戸時代は鎖国政策によって長崎に限ってオランダ、そして明との貿易のみが許されている状態でした。
そこへ1853年にペリー提督率いるアメリカ艦隊が浦賀を訪れ、翌1953年に通商条約を締結することになります。
やがてそれを皮切りに、ロシア、イギリス、フランスといった世界の列強国が次々と日本を訪れ、国交を開くように迫ってきます。
一方で国内では尊王攘夷熱が高まり、異人を排除しようとする動きが見え始めますが、幕府の高官たちは攘夷派の人々を弾圧し、また時には懐柔しながら一貫して開国の方向へ舵を切り続けることになります。
老中の阿部正弘を皮切りに、井伊直弼、安藤信正、小栗忠順といった歴代の老中たち、水野忠徳や大久保一翁、そして本書のタイトルにもなっている勝海舟を含めて方針や手法にそれぞれ違いはあるものの、幕府側の主要人物たちはいずれも開国路線を続けます。
しかし彼らも無邪気に開国し、貿易を盛んにしてゆくといった単純な考えであった訳ではありません。
もちろん国内の過激攘夷派を刺激したくないといった要因も含まれますが、何より彼らが恐れたのは、隣国の清(中国)との戦争に勝利し、領土を借用(実質的な占領)し、経済を牛耳り混乱をもたらした列強国、つまり国交を迫ってきた張本人たちへ対してでした。
幕府の首脳たちは隣国の清が日本と比べて大国であることを充分知っており、その清を打ち負かした相手に日本が勝てるとは思わなかった程度のバランス感覚は充分に持っていたのです。
少なくとも海や海岸線において彼らの持つ蒸気船の機動力と砲撃の攻撃力と飛距離へ対しては到底太刀打ちできず、外国に敗北することは幕府の威信失墜や体制崩壊に直結することになるのです。
しかし開国で一致していた幕府首脳陣たちも決して1枚岩ではありませんでした。
親米派、親露派、親英派、そしてバランス重視派など、その外交方針は一貫しておらず、政局が変動する度に揺れ動くことにります。
本書はそんな幕末外交の表と裏側を、1861年に起きるポサドニック号事件(ロシア軍艦対馬占領事件)をクライマックスにして解説していきます。
私自身は外交という側面から勝海舟を評価する本だと早合点して手にとった本ですが、幕府全体の外交政策を解説していると本だと表現した方が適切です。
技術も経済力も劣る日本が清と同じ轍を踏まないよう、列強国を相手に回していかに外交に苦心していたのかを東西の文献から、また記録が残されていない空白部分を著者(上垣外憲一氏)の推理で埋めながら丁寧に解説している印象を受けました。
本書の学術的な価値は分かりませんが、歴史ファンにとっては幕末のあまり知られていない側面を肉付けしてくれる1冊だと思います。
勝海舟 この人物の大きさを見よ!
津本陽氏の歴史小説「勝海舟」を読んだついでに手にとった1冊です。
目次には次のような文句が並んでいます。
- 第一章 敵も味方も惹きつける「男の魅力」とは何か?
- 第二章 この"不屈の闘志"こそ、海舟という男の「原点」だった!
- 第三章 この「胆力」、この「眼力」を見よ!
- 第四章 海舟の夢、破れたあと - この信念があればこそ!
- 第五章 「知略」と「剛毅」- 海舟はいかに使いわけたか?
- 第六章 男の本懐 - 人が黙ってついてくるこの「人物の大きさ」
本書は三笠書房の知的生きかた文庫シリーズとして出版されていますが、タイトルと目次を見る限り、勝海舟を教材とした啓発本という印象を受けます。
結果だけを見れば、貧乏旗本から幕府軍の最高責任者(幕府陸軍総裁)にまで出世した人物ですが、勝海舟を社会人の出世や処世術の参考として見るのは相応しくありません。
なぜなら勝は何度も命を狙われ、また幾度も罷免や左遷を経験しており、幕末という激動の時代だからこそ後世に名を残した人物だからです。
むしろ坂本龍馬や大久保利通のように暗殺されなかったことが幸運でさえあり、薄氷を履むが如しの人生はとても万人に勧められるものではありません。
それでも本書を手に取ったのは、勝海舟という人間がどのように啓発本で紹介されているかに興味があったからですが、結論からいうと啓発本としては殆ど期待外れの内容でした。
著者の主観がどのくらい本書に盛り込まれているのかを期待していたのですが、基本的に勝海舟の業績を時系列に紹介し、そこに簡単かつ無難なコメントが添えられているといった程度です。
一方で勝の業績をコンパクトに整理し、分かり易く解説しているという点では予想外の完成度の高さです。
結局は著者と編集の意図がうまく噛み合っていないだけのような気もしますが、勝海舟の半生を手っ取り早く知りたい人にとっては、Wikipediaよりもはるかに頭に入りやすく、格好の入門書になっていると思います。
難しい専門書や、長い歴史小説を読みたくない人は本書を読んで見るのも悪くありません。
勝海舟―私に帰せず〈下〉
勝海舟は維新後も長く存命だったこと、また当時の日記や談話が多く残っていることから、彼の業績を辿ることはそれほど難しくありません。
それだけに本書(文庫本)、上下巻合わせて900ページにも及ぶ作品を読んでゆくと逆に勝海舟の本質が見えにくくなってしまうのも事実です。
江戸無血開城が最大の功績とされていますが、どの場面も津本陽氏らしい淡々とした描写によって進行してゆくため、場面ごとの強弱が分かり難くなってしまっていることも否めません。
逆に言えば、勝海舟の人生から何を感じ取るのかは読者自身に委ねられているともいえます。
勝海舟の半生を読み終えて感じることは、西郷隆盛との共通点が多いということです。
お互い下級武士の家に生まれながらも頭角を表した人物ですが、勝は西郷を薩長土肥の指導者の中で一番高く買い、西郷も勝を幕臣の中でもっとも傑出した人物であると手放しで賞賛しています。
また立場は違えども、薩摩藩主島津斉彬を希代の名君と評価している点も一緒であり、人物を見抜く観点が似ているのか、もしくは単純に馬が合う同士なのかも知れません。
さらに両者ともに維新後の新政府に請われながらも要職に長く留まらず、勝は幕府の旧臣、西郷は鹿児島の士族というかつての同士たちの面倒を見ることに奔走しています。
にも関わらず勝は徳川慶喜、西郷は斉彬の後を継いだ島津久光という自分の主君筋とは意見が合わず、快く思われていなかった点まで共通しているから面白いものです。
ただし勝はいかにも江戸っ子といった感じの歯切れのよさが談話からも伝わってくる一方、西郷は薩摩隼人らしい冷静沈着というイメージがあり、性格はまったく違うのかも知れません。
さらにお互いの立場が異なっている以上、戦略や政略面における考え方の違いは当然のように存在しました。
しかし戊辰戦争におけるギリギリの局面、しかも幕府陸軍総裁(陸軍の最高司令官)と東征大総督府参謀(実質的な官軍司令官)という対極に位置する者同士が、田町の薩摩藩邸で江戸総攻撃中止の合意に至ったという点は、理屈以前にやはり両者の本質的な共通点が大きく寄与していたように思えてなりません。
勝海舟―私に帰せず〈上〉
「勝海舟」を主人公にした歴史小説は幾つか存在しますが、津本陽氏の作品は子母澤寛氏と双璧をなす決定版ともいえる名作です。
勝はのちに江戸城無血開城の立役者として有名になりますが、その出自は禄高わずか四十一石の貧乏を絵に描いたようような旗本でした。
飢饉の時には赤土に生麩の粉を混ぜた団子を食べるといった有様で、巨大な組織(幕府)において彼の存在は取るに足らないものでした。
そんな中で勝少年は剣術に熱中し、禅によって精神を練るという青春時代を送ります。
そして勝が世の中に出るきっかけになったのは、剣術という武士としての素養ではなく、二十歳頃より習い始めた蘭学の知識でした。
最初に蘭学を勧めたのが剣の師匠である島田虎之助であるとも言われ、いずれにしても剣術だけでは外国を相手にすることは出来ず、西洋砲術や西洋兵学が必要になってくるという将来を見据えたものでした。
貧乏な暮らしの中で猛烈に勉学を続けた勝の心中は、武士として出世したいという想いもありつつも、貧乏から抜け出したいという切実な願望がより強く表れている気がします。
ともかく猛烈な勉強で蘭学の知識を得た勝にとって一気に目の前が開けてくるのが1853年ペリー提督の黒船来航であり、幕府に重用され歴史の表舞台に登場する最大のきっかけとなるのです。
幕末において勤王派、佐幕派、攘夷派、開国派、または薩長土肥といった官軍側、幕府軍側、どのような括りで見ても勝海舟という人物はキーマンとなる人物です。
そもそも勝自身がそうした派閥に無頓着な人物でありながらも、彼の考えは最初から開国派であり、かつ徳川家の禄を食む旗本(幕臣)という立場を忘れることはありませんでした。
ただし権威を振りかざしつつも行動を起こさず、責任も取ろうとしない無能な幕臣を嫌というほど見てきた勝にとって従来通りの体制では立ち行かなくという危機感だけは強烈にありました。
豊富な知識と時勢を見抜く眼力、歯に衣着せぬ発言なども相まって、どの派閥とも人脈と信頼がある一方で、どの派閥からも命を狙われるという奇妙なことになります。
のちに一番弟子になる坂本龍馬でさえ、最初は勝を誤解していたと言われています。
本書は津本陽氏の作品らしく、生い立ちから貧乏時代、そして一歩ずつ出世してゆく過程をこと細やかに仔細漏らさず描いているという印象を受けます。
勝海舟の半生を詳細に追うことで、幕末日本の歩みそのものが見えてくるのです。
安吾新日本地理
本書は舌鋒鋭い坂口安吾氏が日本各地を巡り、紀行文として1冊の本にまとめたものです。
紀行文であれば大なり小なりのテーマを決めた上で執筆するのが普通ですが、坂口氏はテーマなどを決めずに自らの興味の赴くままに、時には脱線を繰り返して自由奔放に書かれているという印象を受けます。
それでいて全編を通して妙な迫力と説得力があるという点が本作品の特徴です。
目次を見ればおおよそ訪れた土地が分かりますが、軸となる話題は章ごとに大きく異なります。
- 安吾・伊勢神宮にゆく
- 道頓堀罷り通る
- 伊達政宗の城に乗り込む
- 飛鳥の幻
- 消え失せた砂漠
- 長崎チャンポン
- 飛驒・高山の抹殺
- 宝塚女子占領軍
- 秋田県訪問記
- 高麗神社の祭りの笛
それでも大まかに分類することが出来ます。
「安吾・伊勢神宮にゆく」、「飛鳥の幻」、「飛驒・高山の抹殺」、「高麗神社の祭りの笛」は古代史の謎を解き明かすという壮大なテーマを持っています。
どことなく司馬遼太郎氏の「街道をゆく」と似たような雰囲気を感じますが、古代文献、土地の言い伝えなどを参考にしつつも、学者のように固定概念に縛られず、何よりも大胆な推理と自由な発想で謎に迫っている点が特徴的です。
そんな坂口氏の歴史へ対する根底にある考えが垣間見れるのが以下の部分です。
新しい統治者がそこまで苦心して、自分の新しい統治に有利な方策をあみだして実行するのは理の当然で、その利巧さが賞賛されても、それだからその子孫たる現代の天皇がどうだこうだ、という、そんなバカげた理論はなりたたない。ただ神代以来万世一系などとはウソであって、むろん亡ぼされた方も神ではない。しかし当時は神から位を譲られたというアカシをみせないと統治できにくい未開時代だから、そこでこういう歴史ができた。
~中略~
千二百年前の政治上の方便が現代でもまだ政治上の方便でなければならぬように思いこまれている現代日本の在り方や常識がナンセンスきわまるのですよ。
この原始史観、皇祖即神論はどうしても歴史の常識からも日本の常識からも実質的に取り除く必要があるだろうと思います。
さもないと、また国全体が神ガカリになってしまう。
~中略~
歴史には常にに支配者(=歴史の勝者)側が残した記録から書かれているという観点はだいぶ浸透しつつありますが、現在でもここまで直接的な言い回しをする作家は殆どいませんし、しかもそれを戦後の傷跡も癒えない時代(昭和25年)に発表している点が、坂口安吾という作家のパーソナリティであるともいえます。
また「道頓堀罷り通る」、「長崎チャンポン」ではおもにその土地の風俗習慣を話題にし、その視点は現代に生きる人々へ向けられており、町並みや食べ歩きの記録など、旅をテーマにした雑多なエッセーという印象を受けます。
かと思えば「秋田県訪問記」では文字通り"秋田犬"の話題だけを取り上げに大館を訪れています。
三好達治は「坂口は堂々たる建築であるけれども、中へ這入ってみると畳が敷かれていない感じだ」と評したそうですが、その意味するところが本書を読むことで何となく分かってくるのです。
赤猫異聞
「希代のストーリーテラー」、「平成の泣かせ屋」として知られる浅田次郎氏が2012年に発表した作品です。
彼の本領は現代小説、歴史小説、そして時代小説などジャンルを問わずに発揮されます。
とくに東京生まれ東京育ちという経歴、そして古地図と古文書を趣味にしている浅田氏が描く時代小説は、深い造詣と豊かな想像力が絶妙に融合し、読者自身が江戸時代にタイムスリップしたような気分になれる活気ある作品が多いという印象があります。
本書「赤猫異聞」もまさしくそれに当てはまる作品であり、3人の個性的な主人公が登場します。
1人目は、信州無宿繁松。
義理固い親分肌のある深川界隈で知られた侠客です。
2人目は、岩瀬七之丞。
千石取り旗本の次男坊であり、無口ですが剣の腕はめっぽう立ちます。
3人目は、白魚のお仙。
八丁堀界隈の夜鷹(娼婦)の元締めをしている、男勝りの度胸をもった女性です。
いずれもかつて江戸に住んでいた人びとを象徴するような味付けの濃いキャラクターたちであり、必然的に読者の興味を引かずにはいられません。
綿密な時代考証によって作り上げたリアルな江戸時代を背景に、デフォルメ化された主人公たちが縦横無尽に動き回るといった点がこの作品を魅力的なものにしています。
明治元年、江戸が官軍によって占領されてから3ヶ月後に起こった大火事を中心に物語が展開されます。
3人は伝馬町牢屋敷に重罪人として入牢していましたが、火の手が迫るとともに解き放ちとなります。
江戸時代には大火事によって牢屋敷へ延焼する可能性がある場合、囚人たちを解き放つという慣習があったようで、これが俗に「赤猫」と呼ばれていたようです。
そして鎮火ののちに戻ってくれば罪一等を減じるという処置が取られていたようです。
しかし3人たちに下された処断は
「三人のうち一人でも戻らなければ戻った者も死罪、三人とも戻れば全員が無罪」
という変わったものでした。
果たして牢から解き放たれた3人はどこへ向い、どのような判断を下すのか?
激動の時代に波乱万丈の人生を歩んできた3人の主人公、そして彼らを取り巻く牢役人たちのダイナミックな物語に最初から最後まで魅了されてしまうエンターテイメント型時代小説です。
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