レビュー本が1000冊を突破しました。
引き続きジャンルを問わず読んだ本をマイペースで紹介してゆきます。

勝海舟―私に帰せず〈上〉


勝海舟」を主人公にした歴史小説は幾つか存在しますが、津本陽氏の作品は子母澤寛氏と双璧をなす決定版ともいえる名作です。

勝はのちに江戸城無血開城の立役者として有名になりますが、その出自は禄高わずか四十一石の貧乏を絵に描いたようような旗本でした。

飢饉の時には赤土に生麩の粉を混ぜた団子を食べるといった有様で、巨大な組織(幕府)において彼の存在は取るに足らないものでした。

そんな中で勝少年は剣術に熱中し、禅によって精神を練るという青春時代を送ります。

そして勝が世の中に出るきっかけになったのは、剣術という武士としての素養ではなく、二十歳頃より習い始めた蘭学の知識でした。

最初に蘭学を勧めたのが剣の師匠である島田虎之助であるとも言われ、いずれにしても剣術だけでは外国を相手にすることは出来ず、西洋砲術西洋兵学が必要になってくるという将来を見据えたものでした。

貧乏な暮らしの中で猛烈に勉学を続けた勝の心中は、武士として出世したいという想いもありつつも、貧乏から抜け出したいという切実な願望がより強く表れている気がします。

ともかく猛烈な勉強で蘭学の知識を得た勝にとって一気に目の前が開けてくるのが1853年ペリー提督の黒船来航であり、幕府に重用され歴史の表舞台に登場する最大のきっかけとなるのです。

幕末において勤王派佐幕派攘夷派開国派、または薩長土肥といった官軍側、幕府軍側、どのような括りで見ても勝海舟という人物はキーマンとなる人物です。

そもそも勝自身がそうした派閥に無頓着な人物でありながらも、彼の考えは最初から開国派であり、かつ徳川家の禄を食む旗本(幕臣)という立場を忘れることはありませんでした。

ただし権威を振りかざしつつも行動を起こさず、責任も取ろうとしない無能な幕臣を嫌というほど見てきた勝にとって従来通りの体制では立ち行かなくという危機感だけは強烈にありました。

豊富な知識と時勢を見抜く眼力、歯に衣着せぬ発言なども相まって、どの派閥とも人脈と信頼がある一方で、どの派閥からも命を狙われるという奇妙なことになります。
のちに一番弟子になる坂本龍馬でさえ、最初は勝を誤解していたと言われています。

本書は津本陽氏の作品らしく、生い立ちから貧乏時代、そして一歩ずつ出世してゆく過程をこと細やかに仔細漏らさず描いているという印象を受けます。

勝海舟の半生を詳細に追うことで、幕末日本の歩みそのものが見えてくるのです。