安吾新日本地理
本書は舌鋒鋭い坂口安吾氏が日本各地を巡り、紀行文として1冊の本にまとめたものです。
紀行文であれば大なり小なりのテーマを決めた上で執筆するのが普通ですが、坂口氏はテーマなどを決めずに自らの興味の赴くままに、時には脱線を繰り返して自由奔放に書かれているという印象を受けます。
それでいて全編を通して妙な迫力と説得力があるという点が本作品の特徴です。
目次を見ればおおよそ訪れた土地が分かりますが、軸となる話題は章ごとに大きく異なります。
- 安吾・伊勢神宮にゆく
- 道頓堀罷り通る
- 伊達政宗の城に乗り込む
- 飛鳥の幻
- 消え失せた砂漠
- 長崎チャンポン
- 飛驒・高山の抹殺
- 宝塚女子占領軍
- 秋田県訪問記
- 高麗神社の祭りの笛
それでも大まかに分類することが出来ます。
「安吾・伊勢神宮にゆく」、「飛鳥の幻」、「飛驒・高山の抹殺」、「高麗神社の祭りの笛」は古代史の謎を解き明かすという壮大なテーマを持っています。
どことなく司馬遼太郎氏の「街道をゆく」と似たような雰囲気を感じますが、古代文献、土地の言い伝えなどを参考にしつつも、学者のように固定概念に縛られず、何よりも大胆な推理と自由な発想で謎に迫っている点が特徴的です。
そんな坂口氏の歴史へ対する根底にある考えが垣間見れるのが以下の部分です。
新しい統治者がそこまで苦心して、自分の新しい統治に有利な方策をあみだして実行するのは理の当然で、その利巧さが賞賛されても、それだからその子孫たる現代の天皇がどうだこうだ、という、そんなバカげた理論はなりたたない。ただ神代以来万世一系などとはウソであって、むろん亡ぼされた方も神ではない。しかし当時は神から位を譲られたというアカシをみせないと統治できにくい未開時代だから、そこでこういう歴史ができた。
~中略~
千二百年前の政治上の方便が現代でもまだ政治上の方便でなければならぬように思いこまれている現代日本の在り方や常識がナンセンスきわまるのですよ。
この原始史観、皇祖即神論はどうしても歴史の常識からも日本の常識からも実質的に取り除く必要があるだろうと思います。
さもないと、また国全体が神ガカリになってしまう。
~中略~
歴史には常にに支配者(=歴史の勝者)側が残した記録から書かれているという観点はだいぶ浸透しつつありますが、現在でもここまで直接的な言い回しをする作家は殆どいませんし、しかもそれを戦後の傷跡も癒えない時代(昭和25年)に発表している点が、坂口安吾という作家のパーソナリティであるともいえます。
また「道頓堀罷り通る」、「長崎チャンポン」ではおもにその土地の風俗習慣を話題にし、その視点は現代に生きる人々へ向けられており、町並みや食べ歩きの記録など、旅をテーマにした雑多なエッセーという印象を受けます。
かと思えば「秋田県訪問記」では文字通り"秋田犬"の話題だけを取り上げに大館を訪れています。
三好達治は「坂口は堂々たる建築であるけれども、中へ這入ってみると畳が敷かれていない感じだ」と評したそうですが、その意味するところが本書を読むことで何となく分かってくるのです。