関ヶ原連判状 上巻
歴史小説には大きく2種類の作品があります。
1つはなるべく史実に忠実に描いてく作品、そしてもう1つは歴史に"If(もしも)"を取り入れたフィクション要素を取り入れた作品です。
しかし本書はそのどちらにも組しない3番めのジャンルに属する作品という見方ができます。
著者の安部龍太郎氏は、本ブログでも紹介した「信長はなぜ葬られたのか」において、本能寺の変は壮大な陰謀によって企てられた計画という大胆な説を唱えています。
本書もその流れの中で執筆された小説であり、表面上は史実をなぞりながらも、その裏に隠された壮大な陰謀に焦点を当てて書かれています。
その陰謀の中心にいるのは細川幽斎(藤孝)であり、智将と言われた彼に相応しい役回りといえるでしょう。
幽斎は足利将軍家の家臣から出発して織田家、豊臣家、徳川家と主人を変え、最終的には豊前小倉藩40万石の基礎を築いた武将です。
さらに信長の家臣時代には、明智光秀の指揮下で活躍していた経歴を持っています。
ちなみに生まれ年は織田信長と一緒ですから、作品の舞台となる関ヶ原の戦いの頃には66歳という高齢になります。
まさに戦国時代の生き字引きのような存在であると同時に、底知れぬ考えを秘めた古狸のような存在でもあったのです。
世の中の武将たちが豊臣方の西軍、または徳川方の東軍に味方すべきか迷っている、またはいち早く決断して駆け付ける中で幽斎はそのどちらでもない第三の道を探り出そうとします。
作品の性質上ネタバレはあまり好ましくないため、あらすじの説明は控えますが、戦国ミステリー小説、または戦国スパイ小説としてじっくりと読める作品になっています。
天平の甍
井上靖氏による天平時代の遣唐使を扱った文学作品です。
本書に限らず遣隋使や遣唐使を扱った書籍から分かることは、日本から大陸に渡るという行為は当時の造船・航海技術の未熟さを考えると命懸けであったということです。
つまり日本の僧が中国へ留学するためには、死の覚悟が必要だったのです。
物語に登場するのは、遣唐使と一緒に留学のために大陸へ渡る普照(ふしょう)、栄叡(ようえい)、戒融(かいゆう)、玄郎(げんろう)という4人の若い僧です。
4人とも当時の記録に存在していた僧のようですが、著者はこの4人を実に個性的に描いています。
留学と言っても言葉や習慣の違いからホームシックになる人もいれば、肌が合い過ぎてそのまま帰国せずに居着いてしまう人もいます。
また新しい仏教を学ぶのに人もいれば、学問以外に熱中するものを見つけて没頭する人もいるでしょう。
このように平安時代初期の僧たちを色鮮やかに描いているという点で画期的な作品であるといえます。
また作品にはもう1人キーとなる人物が登場します。
それは日本史の教科書でもおなじみの鑑真和上であり、中国の揚州で生まれた唐の高名な僧でありながら、日本への渡航を決意します。
遣唐使の場合と同じように鑑真の試みは命懸けであり、実際彼は4回も渡航に失敗し、その間に失明というハンデを負いながらも5回目で渡日に成功します。
唐から見れば当時の日本は仏教が伝来してから間もない制度やインフラ面も不足している未開の国でしたが、不屈の精神と情熱が彼を突き動かし続けたのであり、渡日した時には既に66歳という高齢でした。
歴史書からは当時の人びとの抱いていた情熱は伝わりにくいですが、本書のような作品を通じて読者が当時を生きた人たちへ思いを巡らすというのは良い体験だと思いますし、いつかは鑑真のために創建された唐招提寺へ訪れてみたいと思いが強くなりました。
ちなみにタイトルにある甍(いらか)は難しい漢字ですが、ざっくりと瓦(かわら)と同じ意味で捉えておけばよさそうです。
柳生兵庫助〈8〉
長編剣豪小説「柳生兵庫助」もいよいよ最終巻です。
兵庫助が兵法師範役として尾張徳川家に仕えてから長い年月が経ち、老齢に差し掛かかってからは隠居所で平穏な日々を送ります。
二男二女をもうけたお千代には先立たれますが珠という女性と再婚し、後進の指導や自らの稽古を変わらずに続けています。
多くの強豪と剣を交えそのいずれにも勝利してきた兵庫助はすでに円熟の境地に達しており、すでに名人・達人という存在でした。
よって本巻に登場するのはおもに次の世代を担う若者であり、兵庫助が彼らを指導するというストーリーになっています。
まずは叔父宗矩の息子である柳生十兵衛(三厳)です。
血の気のが多く、悪人を辻切りをしたり、道場破りを繰り返す十兵衛をたまたま逗留していた武蔵と一緒に懲らしめます。
次に兵庫助の2人の息子である茂左衛門(もちの利方)、七郎兵衛(のちの厳包)たちが日々稽古を続け成長してゆく姿も描かれています。
その過程はシリーズ1巻目で描かれた兵庫助の少年時代と重なるものがあり、長編シリーズならではの感慨に浸ることができます。
かつて祖父の石舟斎がそうだったように、兵庫助は老年となってからも若く頑強な相手に何もさせずに勝利する圧倒的な強さを誇っていました。
人間が肉体的にもっとも最盛期にあるのは20代くらいですが、剣豪には老年になってからも無敵であり続けるエピソードが数多く存在します。
後世の幕末にも天真一刀流の白井亨、一刀正伝無刀流を開いた山岡鉄舟、また新選組の斎藤一にも同じように晩年まで無敵を誇ったエピソードがあります。
もちろん近代のスポーツ科学ではあり得ない理論ですが、いわゆる"達人"と言われる人たちです。
彼らに共通するのは、実戦や修行を通して鍛錬を長年続けることで、人の心や動きが手に取るよう読めるようになるということです。
兵庫助はこれを次のように語っています。
「これが儂の力ではなく、神仏の力であることはあきらかじゃ」
具体的には日々の鍛錬はもちろん、山籠りと禅によって得た言葉に表せない境地を"神仏"という人間を超越した存在で表現したのです。
柳生兵庫助〈7〉
柳生兵庫助の生涯を描いた長編小説ですが、本書には兵庫助にとって永遠のライバルとして宮本武蔵が登場します。
同時代を生きた2人の剣豪ですが、実際に兵庫助と武蔵が出会い立ち合いを行ったという記録はありません。
吉川英治「宮本武蔵」において武蔵が柳生の里を訪れる場面がありますが、これもフィクションだと思われます。
ただ津本陽氏は、どうしても本作品中でこの2人を出会わせ、そして立ち合いを行う場面を描きたかったのでしょう。
そしてそれは、そのまま読者へのサプライズにもなっているのです。
全編を通じて何度か兵庫助と武蔵が出会う場面が登場します。
2人は最初、修行中の兵法家同士として出会い、やがてライバル関係になります。
そしてお互いの力量を認め合い、ライバルというより同志に近い関係に変化してゆきます。
ただし大大名ともいうべき尾張徳川家に仕える兵庫助と、未だ浪人として諸国修行を続ける武蔵とでは身分や待遇にかなりの差があります。
それでも兵庫助にとって兵法指南役として仕える徳川義直よりも、そして大勢の弟子たちの誰よりも2人の間には共感があったのです。
兵庫助のいる名古屋城下に武蔵が訪れますが、その際に家老である成瀬隼人正(正成)が兵庫助と次のようなやりとりをします。
隼人正:「武蔵は名人か?」
兵庫助:「仰せのごとくにござりまする。あれほどの兵法者には、なかなかにめぐりあいませぬ」
隼人正:「うむ、伊豫殿(兵庫助)がいま立ちおうたなら、勝てるであろうかの」
兵庫助:「われらは兵法者なれば、挑まれしときはいかなる相手とも立あいまする。主命なれば従いまするが、あいなるべくは武蔵と試合はいたしとうござりませぬ」
隼人正:「それはなにゆえじゃ」
兵庫助:「それがしか武蔵のいずれかが、おそらく落命いたすゆえにござりまする。命を捨てるは惜しからねど、得がたき兵法者を失うは惜しみてもあまりあることと存じまする」
武蔵もまったく同じことを考えていたに違いなく、もはや戦わずともお互いの力量は分かりきっていたのです。
柳生兵庫助〈6〉
兵庫助は幼少の頃より剣術の修行に励み、若くして加藤清正へ兵法師範として仕えるも1年で退去し、10年にも渡る諸国修行の旅を続けます。
その間に祖父・石舟斎より柳生新陰流の印可状・目録一式を受け継ぎ、新陰流の三代目として相応しい実力・名声を手に入れます。
間違いなく達人の境地にあった兵庫助ですが、世間的に主人を持たない侍は単なる"浪人"であるのが現実です。
もちろん兵庫助を家臣にしようと魅力的な条件を提示した大名もいたはずですが、彼自身に叔父宗矩のように俗世間で出世しようという野望はなく、剣一筋で生きることを望んでいました。
そんな兵庫助へ対して理解を示した上で兵法師範として迎えてくれたのが、尾張初代藩主である徳川義直です。
義直が歴史小説に取り上げられる機会は少ない気がしますが、江戸時代初期に活躍した名君の1人です。
家康の九男として生まれ、優れた藩政を行い尾張藩の礎を築いた人物です。
戦国武将のような激しい気性の持ち主であり、かつ家康の実子としてのプライドもあったため、家康の孫である第三代将軍・家光との相性は良くなかったようですが、尾張藩が徳川御三家の筆頭として地位を得るようになったのは、義直の功績によるところが大きかったはずです。
徳川御三家筆頭ということは、すなわち格式において全大名のトップであることを意味し、将軍・家光が師事していたのが叔父の宗矩であり、義直が師事したのが兵庫助ということを考えると、柳生新陰流が兵法家としてNo1、2を独占したと見ることができます。
面白いのは義直と家光が叔父と甥という関係であり、その兵法指南役である宗矩と兵庫助の関係も同じ叔父と甥という関係であるということです。
兵庫助はかつて清正へ仕えたときに家臣間のいざこざ(出世争い)に辟易した経験があり、兵法一筋の奉公、つまり剣術や兵法に関すること以外は一切やらないという条件を義直へ出し、義直はそれを快諾します。
もし兵庫助が出世を望むのであれば、宗矩のように兵法指南役のほかに大目付として諜報活動に励むなど、ほかの役目も兼任する方が望ましいはずですが、彼はそれを剣術修行の妨げになると判断して退けるのです。
兵庫助らしい判断ですが、剛毅な性格の義直には一途に剣の道を極めようとする姿にむしろ好印象と信頼を抱いたのではないでしょうか。
柳生兵庫助〈5〉
本作品は長編ということもあり、主人公・兵庫助の周りにはさまざまな人間が登場します。
まずは祖父であり師匠でもある石舟斎。
そして諸国修行の旅に兵庫助と行動を共にする恋人の千世、伊賀忍者の子猿、柳生家の家来でありながら石舟斎の高弟でもある松右衛門など、その顔はバラエティに富んでいます。
その中で兵庫助と特殊な関係にあるのが、叔父である柳生宗矩です。
宗矩は石舟斎の末子ですが、石舟斎の孫である兵庫助とは8歳しか年齢が離れていません。
宗矩は徳川将軍家の兵法指南役として幕府の中枢で重きをなしている人物であり、剣豪というより1万石の所領を持つ大名といった方が正確な表現です。
一方の兵庫助は一度は兵法師範として加藤清正に仕官するもすぐに辞め、剣術修行のために諸国を旅する身分です。
兵庫助は、宗矩へ対して剣の腕よりも巧みな世渡りで出世したという軽い嫌悪感を抱いている一方で、宗矩は兵庫助へ対して剣術のほかに取り柄のない、権謀渦巻く政治の場では通用しない人間とたかをくくっている側面があります。
この2人が面と向かって対決することはありませんが、本作品では対照的な存在として描かれています。
もちろん本作品の読者としては兵庫助を応援したい気持ちになりますが、実際には宗矩からの依頼によって兵庫助が危険な役回りを担うことになります。
石舟斎より直々に印可状と目録一式を受け継いだのは兵庫助でしたが、叔父として、また石舟斎亡きあとの柳生家の当主として君臨する宗矩には頭が上がらなかったというのが現実のようです。
ただ実際には2人が対照的であるがゆえに柳生新陰流にとってはこれ以上ない都合の良い組み合わせだったと言えます。
兵庫助は剣の実力で柳生新陰流の名を高め、宗矩は徳川幕府の中枢で重臣としての腕を振るうことで政治的に柳生新陰流の地位を確固たるものにしたと言えるでしょう。
新陰流を切り開いた上泉信綱、柳生石舟斎はいずれも武将としての立身出世よりも、俗世間からある程度の距離を置いて剣の道を極める方に熱心だったことを考えると、兵庫助の気質もまったく同じだったといえるでしょう。
むしろ柳生一族にとって宗矩の存在が異端だったという見方ができますが、剣術を含めた兵法の極意は勝利を得ることであり、それを処世術にまで応用した彼の器量も大きかったと言えます。
いずれにせよ作品中で対比的に書かれるこの2人がストーリーを面白くしていることは間違いありません。
柳生兵庫助〈4〉
数々の戦いに勝ち続け、各地にいる達人を訪ねながら修行を続けてきた兵介は、柳生の里へ帰ってきます。
もはや兵介の剣の腕は新陰流の三代目を継ぐに相応しいレベルにまで達していましたが、祖父・石舟斎の勧めで十津川金龍院で薙刀を学ぶことになります。
武芸に飽くなき情熱を持っていた兵介は剣のみならず、剣が苦手とする薙刀や槍の扱いにも熟練することで自らの剣を完全無欠にする意欲があったのです。
兵介の祖父・石舟斎の盟友であった胤栄は宝蔵院流槍術の創始者でしたが、お互いに剣と槍の技量を磨き合った関係であったことを考えると当時としては自然な流れでもありました。
山深い十津川へ薙刀を習いに出向くのですが、そこで隠遁生活を送っていた棒庵という老人に兵介は手も足も出ないという経験をします。
ここまでの完全な敗北は疋田豊五郎と対峙して以来でしたが、ともかく兵介は棒庵の元で新当流薙刀術の奥義を学ぶことになります。
それは手取り足取りの修行ではなく、修験道の行場としれ知られている笙ノ窟(しょうのいわや)に百日間籠もるというものでした。
やはり剣豪の修行には山篭もりが似合います。
私たち一般人からすると山篭もりをして強くなる理由が今ひとつ理解できませんが、共通するのは大自然の霊気を受けて感覚が研ぎ澄まされる、欲望を消し去ることで不動心を得られるといった精神修行であり、現代スポーツで言うところのメンタルトレーニングに近いのかもしれません。
本作品において、兵介が山籠りを終え柳生の里に帰還した時点で最強の剣士になったと言えそうです。
そしてそれは最強の敵が兵介たちの前に現れることを示唆する伏線でもあったのです。
柳生兵庫助〈3〉
疋田豊五郎に敗北した兵介でしたが、この出来事が彼をさらに1段上に成長をもたらしてくれるきっかけになりました。
一方で叔父の柳生宗矩が徳川将軍家の兵法指南役となった今、柳生新陰流がすべての流派の頂点に君臨したと言っても過言ではありません。
これは諸国を廻り武者修行を続ける兵介を倒せば、その地位を奪い返せるチャンスを得るということを意味しています。
すでに剣術が圧倒的な地位を獲得していた幕末時代と違い、この時代の兵法者は槍、鎖鎌、飛び道具などおよそ武器と呼ばれるものは何でも使用し、奇襲も含めて勝てば何をやってもよいという風潮がありました。
戦国時代で幾度も繰り広げられてきた合戦、つまり乱戦の中を生き残ってきた気性の荒い猛者も多く、殺伐とした時代だったと言えるでしょう。
その中で兵介は、場所を選ばず試合を所望してくる兵法者と立ち会い、また山賊に落ちぶれた元兵法者に付け狙われながらも何とか無事に修行を続けてゆきます。
こうした兵法者同士の対決シーンで緊迫感を読者へ伝えるという点において津本陽氏の手腕は抜群といってよいでしょう。
自身が剣道有段者ということもあり、剣術への造詣の深さはもちろんのこと、白刃で命のやり取りをする人間の心理を巧みに捉えた描写は、手に汗握る迫真のシーンを演出してくれます。
また兵介のお伴をしている小猿、千世をはじめとした忍者たちの使う武器も実に個性的です。
棒手裏剣、焙烙玉、微塵(金輪の3方向に鎖と分銅を取り付けた武器)といったいかにも忍者が使いそうな武器が登場し、ともすれば単調になりがちな戦いのシーンを多彩にしてくれます。
長編小説において読者を楽しませる要素をなるべく多く取り入れてゆく努力が感じられ、だからこそ読者は心地よく作品を読み続けられるのです。
柳生兵庫助〈2〉
津本陽氏の描く長編大作・柳生兵庫助の第2巻です。
前回は内容について殆ど触れませんでしたが、今回は少しストーリーに触れてみます。
物語は兵庫助の少年時代から始まります。
のどかで自然豊かな柳生の里で兵庫助は育ち、剣豪として日本中に名を馳せた祖父・柳生宗厳は健在であるものの、老齢ということもあり"石舟斎"と号して半ば隠居生活を送っていました。
もちろん兵庫助も幼少の頃より剣の修行に打ち込み、青年になる頃には非凡な才能を見せるようになります。
この噂を聞きつけた加藤清正が兵庫助を兵法師範として熊本に迎えることになります。
しかも実高三千石という破格の待遇です。
これは兵庫助の剣術が優れていたこともありますが、戦国大名たちにとって"柳生"という名の持つブランド力によるところが大きかったと言えます。
しかしここで兵庫助が清正へ仕え続けてしまってはストーリーが面白くなりません。
兵庫助は熊本で発生した百姓一揆を鎮圧する際、同じ清正の家臣であった伊藤長門守と言い争いになり最後には斬ってしまうのです。
伊藤に限らず、加藤家の中には若輩の新参者(兵庫助)が厚遇されていることを嫉妬している家臣たちもいたのです。
兵庫助にとって剣の道を極めることが最も重要であり、複雑な人間関係の中で他人を出し抜いて出世することに興味は無かったのです。
結果的に1年足らずで加藤家を退転し、修行のために諸国流浪の旅に出ることになります。
剣で他者に遅れを取ることはないと自負していた兵庫助ですが、最初に訪れた小倉の細川家に使えていた老剣士・疋田豊五郎の前に敗北を喫することになります。
老齢ではあるものの豊五郎は祖父・石舟斎とともに、かつての上泉信綱の直弟子でもあり、師匠より自らの流派を開くことを許されるほど高名な剣豪でした。
簡単に言えば先輩に鼻っ柱をへし折られた形ですが、同時に若い兵庫助にとって世間が広いことを痛感した出来事でもあり、ますます剣術修行に励むきっかけになった敗北でもあったのです。
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