本と戯れる日々


レビュー本が1000冊を突破しました。
引き続きジャンルを問わず読んだ本をマイペースで紹介してゆきます。

麻雀放浪記 4 番外篇



第4巻は1~3巻とストーリーに連続性があるものの「番外編」と銘打たれています。

それは主人公である坊や哲が博打で生計を立てるバイニン(麻雀玄人)から足を洗い、完全に勤め人へ転身してからのストーリーだからです。

昭和30年も近くなると日本は戦後の復興が進み、同時に治安が良くなるにつれ堂々と違法である賭博をする雀荘も減ってきました。

さらに手軽に楽しめるパチンコが大流行したことにより、麻雀そのものが不況になってゆきます。

そこへ重なるように哲は栄養失調で入院してしまい、実家に戻ったのを機にサラリーマンとして再出発することになります。

それでも彼はまだ幸運だったといえます。
敗戦後の混乱期にごろついていた仲間(博打打ち)の大部分は、体を壊して寝たきりになったり、貧窮の中で消息不明となっていったのです。

このようにバイニンたちが活躍する余地は殆ど残されていない状況でしたが、本巻ではそれでも麻雀で生きていゆくことを止めない人たちが登場します。

1巻目から登場しているドサ健は戦後間もなくから活動し、今でもバイニンとして生活している稀少な1人ですが、本巻では李億春という新しい登場人物も登場します。

彼は無国籍者であり、つねに黒い手袋をしていますが、それは勝負に負けて、あるいはイカサマがバレたことにより殆どの指を失っているからであり、哲は李のことを生きるということに関してまったく無責任だと評しています。

勤め人となり守るものが増えた哲にとって、李の生き方は、そこにかつての自分を見出してしまうような存在として描かれています。

哲たちはふとした偶然から、強引な手法で都内の雀荘を乗っ取る(今は使われない言葉ですが)三国人たちの組織と麻雀勝負をやることになります。

もちろんイカサマ何でもありのルールで、そこではある意味で自分の持てるテクニックや勝負感をすべて賭けた真剣勝負が繰り広げられます。

イカサマがバレれば時に死ぬほどの制裁を覚悟しなければなりませんが(実際に作品中でガスという麻雀打ちはイカサマがバレて刺殺されてしまう)、相手のイカサマ技を見抜くことができなければ、それは見抜けなかった方が悪いという弱肉強食の世界であり、足を洗ったはすの坊や哲も面子の1人としてその卓に座ることになるのです。

本巻での主人公は、現役バリバリの"坊や哲"としではなく、元バイニンとして1歩引いた目で周囲のバイニンたちを観察しているような描写が印象的です。

物語の最後は、田舎町まで逃れてきた彼らがそこまでも相変わらず麻雀を打ち続けるというシーンですが、その結末はどこか物悲しい小説作品らしい終わり方になっています。

麻雀放浪記 3 激闘篇


昭和27年、本作の主人公である坊や哲がバイニン(麻雀玄人)となって7年の月日が流れましたが、彼ら博打打ちは1晩でサラリーマンの月収を超える金を手にすることもあれば、同時に失うこともある稼業です。

彼はその世界では名前を知られるようになりましたが、相変わらず着たきり雀であり、家もないため雀荘で仮眠ととるか道路や山手線の車中で寝ているような生活を送っていました。

さらには洗濯や入浴といった習慣もなかったため、外見だけを見れば浮浪者と何ら変わりない状態だったのです。

戦後直後ならまだしも焼け野原だった東京は着実に復興を進めていき、バラック小屋や闇市、そこで屯していた怪しげな人間たちも姿を消しつつありました。

一般人にとっては治安や衛生環境が良くなるという意味で歓迎すべき状況でしたが、戦後の混沌が収まってゆくにつれ違法賭博を生業にするバイニンたちにとっては確実に住みにくい世の中へと移行しつつあったのです。

さらにこの頃から麻雀という遊興が一般に普及してゆき、麻雀賭博を生活の糧としてイカサマ何でもありというバイニンたちの数は次第に減っていったのです。

一方で彼らの代わりに登場してきたのが、スマートな麻雀を打つ次世代雀士たちがであり、彼らは本職を別に持ちながらも賭博麻雀を趣味の範囲で楽しむことをモットーとしていました。

つまり副業で麻雀をやっている人たちです。

少なくとも全財産を(時には命までも)賭けるような麻雀は行わず、彼らを近代的なスタイルとするならば、坊や哲やかつて彼とコンビを組んだことのあるドサ健たちのスタイルは古臭いものになってきたのです。

そんな中、坊や哲は長年の麻雀のやり過ぎが祟ったのか右肘を痛め、イカサマを使うことが難しい状況にあり、行き詰まった末に地下組織から高利な金を借りて麻雀で返すといった危うい生活を続けていました。

彼は組織に所属せず一匹狼として生きてゆくことをモットーとしてきましたが行き詰まり、偶然の縁から会社勤めをするようになります。

しかしその会社の社長が賭博好きであり、次第にその腕を認められた坊や哲は、その会社を中心に、つまりある意味で組織に属しながら麻雀を続けることになるのです。

もっとも麻雀の徹夜勝負で無断欠勤などしょっちゅうという有り様でしたが、賭博麻雀における社長の右腕として重宝されいたためクビになることもなかったのです。

やがて社長の別宅で新しいスタイルの麻雀打ちたちと大きな勝負をすることなるのですが、ここからは読んでのお楽しみです。

坊や哲が厳しい勝負を繰り広げるという点では今までのストーリーと同様ですが、やがて自分のような昔ながらのバイニンが生きる世界が無くなるという予感を抱きつつ麻雀を打っている点が大きく異なります。

勝負に疲れた坊や哲は、もうろうとする意識の中で自嘲気味に、同じ昔からのバイニンであるドサ健へ対して心の中でこうつぶやくのです。
世間の人は、暮らしていくことで勲章を貰うが、俺たちは違う。
俺たちの値うちは、どのくらいすばらしい博打を打ったができまるんだ。
だからお前も、ケチな客をお守りして細く長く生活費を稼ごうなんてことやめちまえよ。 麻雀打ちが長生きしたって誰も喜びはしねえよ。

麻雀放浪記 2 風雲篇



第1巻では終戦直後の昭和20年の東京の焼け野原に立つドヤ街を舞台に、主人公である坊や哲バイニン(麻雀玄人)として1人立ちするまでのストーリーが描かれていました。

第2巻では昭和26年から始まり、バイニンを続けていた坊や哲がヒロポン中毒者になり、自暴自棄な生活を送るというショッキングな場面から始まります。

ヒロポン浸けのため普通の生活を送れなくなり、その影響でイカサマ技が相手にバレて袋叩きにされるなどして東京に居場所が無くなってしまいます。

さらに逮捕までされてしまい、幸いにも豚箱生活でヒロンポン中毒から立ち直った坊や哲は、ふとしたことから知り合ったクソ丸(博打好きの禅僧)、ドテ子(クソ丸と一旧知の博打好きの女性)と連れ立って大阪へ逃れるように旅立つのです。

ただその移動手段である夜行列車でも賭博が行わており、終戦から復興までの日本の混沌とした様子が伺われます。

信じられないかもしれないが、その頃、警察の眼をのがれるために貸元が団体を作って客車をひとつ貸し切り、夜じゅう、賭場にしたことがあった。
むろん車掌の眼には触れないよう両側の客車に立番をおいておく。

当時の関西では関東とは違ったルールで行われるブウ麻雀が盛んな地域であり、ルールの細かい説明は省きますが、簡単に言えばせっかちと言われることの多い関西人らしく短時間で勝ち負けをつけることのできるルールです。

このブウ麻雀で勝つコツは大きな手を作るのではなく、とにかく早くアガることのようです。

やはりと言うべきか、関西にも東京と同じく一癖も二癖もあるバイニンたちが登場し、いわば剣豪を目指す若者が諸国で武者修行を続け、他流試合を繰り広げるかのような展開が楽しめます。

大阪、神戸のバイニンたちと勝負をしてきた坊や哲が関西での最終決戦の場所にしたのが京都の大恩寺です。

寺銭(テラ銭)という言葉が今でも残っていることから分かる通り、江戸時代には寺社の境内で賭博が行われることが多く、賭場でのアガリの一部を場所提供代として寄進してきた歴史があります。

博打好きの老師が密かに開催している麻雀というと独特の雰囲気がありますが、そこでの勝負の結末は意外なものとなります。

詳しくは読んでからのお楽しみですが、勝負における博打打ちの非情さ、したたかさ、そして時には遊び心を垣間見ることができます。

麻雀放浪記 1 青春篇



1969年(昭和44年)に発表された作品ですが、文庫本として発刊され続け、ひと昔前の麻雀好きであれば必読の書と言われた小説です。

私自身は学生時代に麻雀をしていた時期がありましたが、社会人になってからは牌を触る機会も無くなり、たまにゲームで遊ぶ程度のため熱心な麻雀好きとは言えないかも知れません。

また本作品を原作の一部として取り入れた漫画「哲也-雀聖と呼ばれた男」は学生時代に読んでいた好きな作品であり、本書を楽しみに読み始めました。

舞台は終戦直後、焼け野原の上野のドヤ街の一番奥にあるバラック小屋で行われるチンチロ賭博からはじまります。

主人公は著者自身、つまり阿佐田哲也(通称:坊や哲)であり、彼は戦争中は軍需工場で勤労動員として働いていましたが、ふとしたきっかけで博打打ちの道へ足を踏み込むことになるのです。

今でも何かと話題になるギャンブラーと本作品に登場する博打打ちでは本質的に違うところがあります。

それは麻雀博打であれば、それは"積み込み"や"すり替え"、"ぶっこ抜き"、"コンビ打ちの通し"(サイン出し)といったような不正行為をためらわずに実行する点です。

彼らはこうした技を他人に見破られないようなレベルにまで磨き上げ、地道な努力で自分の思った通りのサイの目を出す技術を習得したりします。

たとえイカサマをしても玄人の博打打ち同士であれば、それを見破ることをできなかった側が悪いのであり、とにかく勝つことが絶対正義という弱肉強食の世界です。

こうした混沌とした独特の世界の中で坊や哲は"バイニン"(麻雀の玄人)として頭角を表していきますが、彼の前には年季の入った化け物のようなバイニンたちが登場して作品を盛り上げていきます。

本作品では文章の中に配牌や手牌がフォントとして印刷されているため、麻雀のルールを知らない人にとってはとっつきにくいかも知れませんが、逆に麻雀好きであれば手に取るように対戦の模様を知ることができます。

よく年配の人たちがやっている健康マージャンとは対極の世界観であり、勝負に負けて全財産どころか身ぐるみを剥がれて路上に追い出される人、徹夜麻雀で集中力を保つためにヒロンポンを常用する人など、登場人物はほぼ例外なく破滅型の人生を送っている人たちばかりです。

坊や哲自身もやがて家出をして、タネ銭(博打に参加するための資金)以外は使い果たして路上で寝起きするという生活を送っています。

本作品は完全なノンフィクションではないものの、著者自身の経験を元にして構成されたものだといいます。

一見すると治外法権といえるこの世界にも存在する暗黙のルール、バイニン同士の勝負の様子などがリアルに描写されており、多くの読者がこの独特の雰囲気を持つアウトローな世界に引き込まれた理由がよく分かります。

アマゾンの倉庫で絶望し、ウーバーの車で発狂した



作家やジャーナリストが現場に潜入して書き上げたルポタージュは本ブログでも何冊か紹介していますが、海外版は読んだことがありませんでした。

日本での潜入ルポとしてもっとも古い部類に入るのが、鎌田慧氏による1972年にトヨタの期間工として潜入取材を行った「自動車絶望工場」であり、本ブログでも紹介しています。

一方ジャーナリズム発祥の地であるイギリスでは、19世紀頃からたとえば貧民街へ潜入してどん底の暮らしを送る人々を取材した作品が発表されており、その歴史の長さに驚かされます。

本書はイギリス人ジャーナリストであるジェームズ・ブラッドワース氏による潜入ルポです。

タイトルにアマゾンウーバーとありますが、実際にはこの2つに加えて訪問介護コールセンターでの潜入取材も本書に収められています。

これらの仕事に共通にするのは、イギリスにおいて最低賃金、もしくはそれに近い賃金での労働という点です。

また同時にイギリスではこうした仕事における「ゼロ時間契約」が問題になっています。

これを簡単に説明すると、定まった労働時間がなく、仕事のあるときだけ雇用者から呼び出しを受けて働く契約のことであり、基本給という概念がなく、何かの事情で働く時間を減らされたり、病気などの欠勤に対して何の保障もない、不安定な生活を送る労働者を増加させる大きな要因になっています。

たとえば病気によって1週間寝込んでしまうと、家賃を払えず簡単にホームレスとなってしまう境遇にある労働者たちが多いのです。

ジャーナリストという立場から政府の政策を検証し、その数値を上げながら批判することも可能でしたが、著者は最低賃金で働く労働者たちの生活の一部を実際に体験し、彼らの声を直接聞く"血の通った取材"を望んで本書を書き上げたのです。

本書を読み進めると、著者自身の体験はもちろん、同じ職場やそこに住む人たちにも積極的にインタビューを実施しています。

かつてはリゾート地として、または鉄鋼産業で繁栄した町から雇用が失われ、活気が失われてしまった様子を古くからの住人から取材したり、ルーマニアからの外国人労働者たちとルームシェアしその生活を観察したりと、数字からは見えない当事者たちの切実な声が多く掲載されています。

一番最後に著者が経験したウーバーについては他とすこし毛色が違い、ギグ・エコノミー(Gig Economy)といった新しい経済概念のなかで働く人びとの姿が見えてきます。

ギグ・エコノミーとは、インターネットを通じた単発の仕事でお金を稼ぐといった働き方のことであり、時間に縛られず自分な好きなときに好きなだけ働くといった新しい労働スタイルです。

そこで働く人たちは、従業員としてではなく個人事業主として雇用主(本書ではウーバー)と契約することになります。

実際、こうしたフレキシブルな働き方に憧れて飛びつく人たちは多いようですが、現実的にこうした仕事によって安定した生活基盤を築くのが容易でないことが分かります。

個人事業主といっても、それを事実上支配しているのはスマホにインストールされたアプリケショーンからの指示であり、監視であるのです。

つまりこうしたサービスを提供する企業が作ったアルゴリズムが労働者たちを支配しているのであり、業務内容について個人事業主たちに自由な差配の余地や賃金の決定権などは存在しないに等しいのです。

総じてイギリスで起こっていることは日本でも起こっていることですが、さまざまな制度において効率化や民営化が進んでいるイギリスの方が、より厳しい現実に晒されているイメージを抱きました。

ただしこうしたイギリスの殺伐とした労働者を取り巻く環境が、数年後の日本に訪れたとしてもまったく不思議がない状況です。

さらに言えば、こうした問題はグローバル化された世界中で起こっている現象であり、「一生懸命に働く人たちが人並みの生活を送ることができる自由」という当たり前のような権利の実現がいかに難しいかを実感させられる1冊でもありました。

潜入ルポ アマゾン帝国の闇


アマゾンといえば世界最大のショッピングサイトとしてあらゆる分野の商品を取り扱い、翌日、早ければ当日中に商品を届けてくれるインターネットを利用している人であれば誰もが知っている企業です。

さらに月額(または年額)でアマゾンのプライム会員になると配送費が無料となる上に、映画・TV番組が見放題のPrime Videoが利用できるなど、ほかにも多くの特典が用意されています。

アマゾンの提供しているサービスはそれだけでなく、おもに企業向けにAWS(Amazon Web Services)というクラウドコンピューティングサービスを提供しており、世界中の著名な企業がAWSのユーザであり、この分野でも世界一のシェアを持っています。

私自身もかなり前からプライム会員に加入済みでインターネットで何かを購入する際には、まずはアマゾンで検索する習慣が付いており、その便利さを日々実感している1人です。

アマゾンは「地球上で最もお客様を大切にする企業」を目標として掲げており、そのユーザーは世界中に20億人以上いるというから驚きです。

本書はノンフィクション作家である横田増生(よこた ますお)氏が、帝国というにふさわしい規模を持つアマゾンの闇を取材した1冊です。

まず手始めとして著者はルポ取材の王道としてアマゾンの巨大物流センター(巨大倉庫)にアルバイトとして潜入します。

日本にいくつかあるアマゾンの巨大倉庫の中でも、東京ドーム4個分という床面積を持つ日本最大の小田原郊外の倉庫でピッキング作業を経験する著者ですが、1日で2万5千歩、約20kmの距離を歩くというから驚きです。

若者であってもかなりの運動量であり、年配者にとっては過酷な仕事量といえるでしょう。

しかも作業従事者はハンディ端末の指示によって秒単位で管理・監視され、その実績はすべて数値となって集計され続ける仕組が導入されています。

詳細は読んでからの楽しみですが、あまりに殺伐とした職場であり、ネットの情報だと現時点で1300~1500円ほどの時給でアルバイト募集されていますが、個人的には倍の金額をもらっても働きたくないと思ってしまいました。

続いてアマゾンで注文された商品を配送する宅配ドラバーたちの現状にも迫っています。

著者はヤマト運輸のセールスドライバー、アマゾンと契約する中小の宅配業者であるデリバリープロバイダのドライバに同乗する形で取材に挑みます。

ドライバーたちの仕事量も倉庫でのピッキング作業に劣らず過酷な内容で、ニュースにもなっている物流問題を凝縮したかのような内容になっています。

さらに著者は日本の問題と比較するためにイギリス、フランス、ドイツでも取材を行いますが、そこでも日本と同じ問題が起こっていることが分かってきます。

ほかにもマーケットプレイスへ出店している事業者、フェイクレビューを募集している違法業者、AWS事業の現場などを精力的に取材しています。

読み進むにつれ、普段利用しているアマゾンを支えている裏方の人たちの苦悩が次々と紹介されてゆき、かなり複雑な気持ちになってゆきます。

一方で、小売、物流、製造、医療、福祉、出版、サービス業などあらゆる業種で同質の問題が潜んでおり、本質的には行き過ぎた資本主義の抱える共通の問題であることも分かってきます。

私自身も徹夜で働くことも当たり前であったブラックな環境にいた経験がありますが、彼らの苦しい状況に共感できる部分がありました。

ほかにもアマゾンを創業したジェフ・ベゾスの生い立ちからその考え方を考察したり、アマゾンが世界中で行っている租税回避の取り組み、アマゾンが出版業界へもたらした影響なども取材されており、かなり広範囲に渡って精力的に取材を行っています。

先ほど書いたように本書に書かれている問題はあらゆる業種で共通の問題なのかも知れませんが、時価総額で世界5位の規模を誇るというアマゾンという巨大帝国を精力的に取材した本書は、その代表例といえる内容であり、社会や企業の仕組みの抱える問題を知る上でも読む価値のある1冊です。

浅草ルンタッタ



お笑い芸人である劇団ひとり氏が執筆した小説です。

著者が2006年に発表した処女作「陰日向に咲く」、続いて2010年に発表した「青天の霹靂」を本ブログで紹介してきましたが、本作品は2022年に発表された最新作ということになります。

今までの2作品は現代を舞台にした作品でしたが、本作品は大正時代初期の浅草で物語が繰り広げられれます。

読み始めてすぐに気付いたのは、今までの作品と違い、かなり入念に下調べをしてから作り上げられた作品であるという点です。

当時の浅草の風景や地理、遊郭や芝居小屋の様子などが細かく描写されており、より本格的な設定が取り入れられた作品という印象を受けました。

ただし本作品の登場人物たちは従来の作品同様に、不幸な生い立ちを持っていたり、社会の片隅で暮らしている人たちという点では共通しています。

舞台は浅草に当時流行ったという(政府公認の遊郭である吉原とは違い)非合法な売春宿の1つである燕屋です。

そこで娼婦として働く女性たち、そしてその店の前の往来で捨てられ燕屋で育てられた孤児、加えて店を取り仕切る元締めたちがおもな登場人物です。

ネタバレしない程度に内容を紹介すると、拾われた女の子は"お雪"という名前を付けられ、かつて子を失った経験を持つ千代をはじめとした遊女たちによって育てられてゆきます。

お雪は学校には通わないものの、賑やかな燕屋という特殊な環境の中でそれなりに順調に育ってゆきます。

身寄りのない子どもを同じく身寄りのない大人が育てるというストーリーは、どこか人情噺のような温かさがあります。

しかしちょっとした出来事が大きな事件へと発展してしまい、さらに大正12年に起きた関東大震災によってストーリーが大きく動き出すことになります。

そのためお雪は母親と慕う千代と別々に暮らさざるを得ない状況へと陥ってゆくのです。

物語の中心に親子の絆というテーマがありつつも、かつて日本の芸能の中心地であり、今なおその面影を残す浅草という街を舞台としている点も著者の強いこだわりを感じます。

おそらく浅草以外の街を舞台に同じテーマの作品を描いたら、まったく違うストーリーになってしまうのではないでしょうか。

ストーリの流れに落語の人情噺、あるいは講談のような雰囲気を感じてしまうのは、やはり著者が芸人であることが関係しているように思えます。

作品としての完成度、スケールの大きさという点では本作品が最も優れており、着実に作家としての技量を身に付けつつつある劇団ひとり氏の作品が今後も楽しみになる1冊です。