孫ニモ負ケズ
北杜夫氏が1人娘に誕生した初孫"ヒロ君"との日常をエッセー風に描いた作品です。
もちろん祖父にとって初孫が可愛いには違いありませんが、それを素直に書き記す作家でないことは、氏の作品を何冊か読んできた読者であれば容易に想像できます。
子どもは3歳にもなれば飛び跳ねて遊び始めますが、北氏は歳をとり体が思うように動かなくなっています。
加えて長年にわたって躁鬱病を患っているため、精神的にもヒロ君の天真爛漫さについてゆく気力もありません。
やがてヒロ君の元気さに圧倒され、両親との関係と違った独特の関係が築かれてゆくのです。
孫にとって組み易い格好の遊び相手であり、著者にとってみれば自らは孫の"オモチャ"であり、そんな境遇を嘆いて「悲劇のジイジ」としての日常を綴っていきます。
もっとも北杜夫氏は若い頃より自虐的でユーモア溢れるエッセーを得意にしていましたので、老いたとはいえスタンスはまったく変わっていません。
孫にとって「威厳のある祖父」という存在よりも、身近で親しみやすい「ダメなジイジ」であり続けたいという著者の願いが込められた1冊です。
歴史の世界から
本書は司馬遼太郎氏のエッセイと紹介されていますが、実際には少し異なります。
本書は昭和35年~55年にかけて新聞や雑誌、そして書籍の解説として司馬氏が執筆した文章が1冊にまとめられたものです。
決められたテーマに沿って書かれた文章が殆どですが、そのテーマが多岐にわたるため結果的にエッセイ集という形で出版されています。
本書には「国民的作家」と評された、司馬氏の飄々とした、そして独特な表現で筆を進めてゆく文章をたっぷりと堪能できる1冊です。
言うまでもなく司馬氏は歴史小説を専門分野にしてきましたが、その独自の視点が多くの日本人に影響を与えベストセラーを次々と生み出しました。
個人的には、自身の考えを率直かつ大胆に表現する物言いが好きです。
本書でいえば大阪城を
この城が栄えた時代というのは、貧乏くさい日本史のなかで、唯一といっていいほど豪華けんらんたる時代だった。
と表現し、まったく別の話題でオーストラリア首都の印象を
私の予備知識ではキャンベラは万博会場のように人工的な町で、行ったところで人間のにおいは希薄だろうということがあった。
といった具合で表現し、しかもこの表現を結論としてではなく、いきなり冒頭や文中に登場させるのが、いかにも司馬遼太郎らしさを感じます。
同時に自分の考えを誤解されたくない場合(主に自分自身の身の回りの出来事)には、必要以上に遠回しな表現をしてしまうのも司馬遼太郎らしさといえます。
本書でいえば、自身の先輩で恩師ともいえる海音寺潮五郎氏への回想にその特徴がよく表れています。
最初に作品を評価してくれた海音寺氏へ感謝を伝えたい気持ちがある一方、当時作家として未熟だったことを自分自身が一番認めているという葛藤が、次のように文章を結ばせています。
以上のようなことは私事のなかでも門外に出す必要のない私事に類している。
ことごとしく書いてひとに読んでもらったところでなんの意味もなさないとおもっているが、氏の全集の読者のためには多少の意味をなすかもしれないとおもって、あえてこの話題をえらんだ。
司馬遼太郎氏の文書は総じて散文的でありながらも、その独特のリズムに引き込まれてしまうと、まるで近所を散歩しているかのように歴史の舞台を身近に感じる不思議な錯覚を与えてくれます。
デカルト
本書は約50年前に初版が発行されていますが、何度も重版され続けているデカルト入門書のスタンダードといえる1冊です。
著者は京都大学の名誉教授であった野田又夫氏です。
デカルトは17世紀前半に活躍したフランスの哲学者であり、数学者としても知られています。
その理論的かつ明快な姿勢から、近世合理主義哲学の開祖とされています。
有名な著書に「方法序説」があり、その中の「我思う、ゆえに我あり」は彼の思想を表す有名な言葉として知られています。
本書ではデカルトの思想を解説するだけでなく、その生涯にも詳しく触れらています。
ただし専門知識として掘り下げるというよりは、本書の原型がNHKで放送された古典講座の原稿を元にしていることからも分かる通り、必要十分な教養知識として網羅しているレベルのため、"哲学"を題材にした本の中ではそれほど難解な内容ではありません。
デカルトの生きた時代を前後してガリレイやニュートンが活躍しており、ヨーロッパでは科学の時代の幕が開けようとしていました。
それでも当時は科学へ対する理解よりも、宗教的な世界観が大勢を占めていた時代でした。
実際にガリレイは異端訊問によって教会から有罪判決を受けるという悲運に見舞われます。
デカルト自身は数学者であったこともあり、カトリック教徒でありながらも哲学へ対する態度は科学者に近い立場でした。
つまり科学が大幅な進歩と便利さをもたらした後世の我々から見ると、デカルトの哲学は合理的、論理的であるがゆえに理解しやすいのです。
加えて後世へ大きな影響を与えた哲学者としても、専門家でない大多数の人にとってデカルトは"哲学の入り口"として最適ではないでしょうか。
宗教哲学入門
教養書からもう1歩踏み込んだ専門書に近い1冊です。
宗教を哲学的に考察するという内容に何となく興味を持って手にとった1冊です。
そもそも宗教哲学という体系的な専門分野があることを本書ではじめて知ったのですが、その起源は16世紀ドイツの有名な哲学者"カント"まで遡るようです。
特定の宗教を理論的に考察してゆく神学とは異なり、宗教哲学は宗教一般の真理、絶対有(もしくは絶対無)の本質を理解するための学問であるため、特定の宗教や宗派を批判することはしません。
とはいえ無数に存在する宗教を一括りにして考察するのは現実的ではないため、本書では世界三大宗教といわれる仏教、キリスト教、イスラム教を取り上げています。
前半では本書の前提知識としての世界三大宗教の生い立ちや教義の説明を行い、さらには個別に哲学的な考察を行ってゆきます。
中盤では宗教の提示する真理を虚構だとする(宗教批判の)哲学への反論を展開しています。
特にニーチェやマルクスといった代表的な無神論者に的を絞って、最終的には彼らの思想こそが反哲学的であると断じています。
後半では世界三大宗教を横断的に宗教哲学として考察してゆき、各宗教に共通する救済、絶対者、信仰、そして真理といった内容へ踏み込んでゆきます。
最終章では「現代という時代の深層ないし底流にあるものはニヒリズム・無神論なのである」とし、確かな価値を見出すことのできない時代だとしています。
情報化が進みリアリティが失われつつある現在は道徳が退廃しつつあり、その先に「第三次世界大戦=人類破滅」が潜む危険性さえ指摘しています。
大げさだと思う反面、現代の大勢を無神論が占めているという部分は否定できません。
瞑想や只管打坐による自力本願の実践、念仏や経文による他力本願を日常的に実践している人は、私含めて同年代にはまず見当たりません。
これは当然のようにも思えますが、日本が仏教国であることを前提とするならば、むしろ異常な状態なのかも知れません。
私自身に当てはめて言えば宗教による絶対的な救済を心から信じられないからであり、この気分は多くの現代人にも共通するのではないでしょうか。
一方で宗教を積極的に否定する理由も持たないのですが、一概に言ってしまえば宗教に対する"無知"や"無関心"が理由であることに尽きます。
とはいえ、いきなり熱心な信者となるのも現実的ではありません。
内容は少々難解ですが、私と同じ関心を持つ人であれば、宗教全般の本質を理解する一端として本書を手に取ってみるのもよいかも知れません。
南極風
前回の「未踏峰」引き続き、笹本稜平氏の小説です。
物語の冒頭は以下のような文で始まります。
ニュージーランド南島の西岸を貫くサザンアルプス -。ニュージーランドでトレッキングが盛んなのは知っていましたが、本格的な氷河があることまでは知りませんでした。
最高峰のマウント・クックをはじめとする三〇〇〇メートル級の高峰と無数の氷河を擁するこの山脈には、登山の対象となる山が数多い。ここマウント・アスパイアリングもそんな山の一つで、標高は三〇三十三メートル。広大な氷河を内懐に抱き、鋭く天を衝く頂きは南半球のマッターホルンの異名を持つ。
本書はそんなアスパイアリングを目玉にした日本人向け山岳ツアー会社「アスパイアリング・ツアーズ」で起きた山岳事故をきっかけにして起きるミステリー小説です。
どんなに知識や経験そして技術を持ってしても自然が相手である以上、山岳事故をゼロにすることは不可能なのかも知れません。
仮に吹雪によって遭難の危機を迎えた時、ビバークするのか下山するのか、また下山するのならどのルートを選ぶのか?
こうした判断の1つ1つが生死を分ける厳しい世界です。
本書はこうしたテーマを取り上げてミステリー小説化したユニークな作品です。
「アスパイアリング・ツアーズ」でツアー責任者の立場にあった森尾正樹は、ツアー中に起こった事故を巡って突如刑事責任を追求されることになります。
森尾にとって自分を告発した人間が謎であるにも関わらず検察が起訴するといった事態に陥り、見に覚えのないまま拘置所に抑留されることになります。
そこには検察当局(国家権力)との闘いも大きな1つのテーマとして含まれています。
何ら政治的な背景を持たない1人の人間が国家権力を相手にしなくてはならない。
森尾は、そんな自らの正義を貫き通す困難な道を選ぶのです。。
登山の描写は本格的な山岳小説そのものであり、実際の山岳事故を取り上げているかのようなリアリティと迫力があります。
現在と過去の回想場面が頻繁に入れ替わる手法で書かれていますが、ストーリー自体がそれほど複雑ではないため、むしろリズムの良さを感じます。
いろんな要素を楽しめる贅沢な小説であり、お勧めできる1冊です。
未踏峰
社会人として挫折を味わった橘裕也、アスペルガー症候群の戸村サヤカ、知的障害を抱える勝田慎二。
現代社会が彼らを寛容に受け入れることは難しいのかもしれません。
それでも北八ヶ岳で山小屋を営む通称"パウロさん"は、そんな彼らを好意的に受け入れます。
大自然の懐で質素ながらも充実した毎日を山小屋で過ごすうちに、彼らは生きがいを見つけるようになります。
やがてパウロさんたちは、みんなでヒマラヤにある未踏峰の登頂を目指すように提案します。
ただし未踏峰とはいっても6千メートル級の無名ゆえの未踏峰であり、それは決して快挙を果たすことを目的としたものではありません。
心に傷を負い人生の再起を誓う彼らが、再び自信を取り戻すための儀式として登頂を目指すのです。
そして何よりも裕也たちを受け入れたパウロさん自身が、世界的なクライマーとして活躍していた頃に負った心の傷を癒やすための儀式でもあったのです。
もちろん山は人間を癒やすために存在するのではなく、時には過酷な自然が人の命を奪うこともあります。
それでも小さな存在である人間は偉大な山へ畏敬の念を抱き続けるのです。。。
山の素晴らしさを綴っただけの物語ではなく、人間同士が助け合うことでお互いが救われるという大切なメッセージが込められている作品です。
壮大な自然は、そのきっかけを作ってくれる存在なのかも知れません。
ふたつの枷
終戦記念日が近づく暑いこの時期には、第二次世界大戦や太平洋戦争を扱った本を読むことを習慣にしようと考えています。
去年の夏には浅田次郎氏の「終わらざる夏」を読みましたが、今年はかなり前から古処誠二氏の作品を読むことに決めていました。
それは古処氏が戦争や自衛隊を題材にした作品を意欲的に発表している若手の作家であり、今まで何冊かの作品を読んでもその意気込みが伝わってきたからです。
ただし雰囲気は作品によってかなりの違いがあります。
本書「ふたつの枷」には、4つの短編~中編小説が収録されていますが、今まで読んだ作品の中ではもっとも"戦争文学"に近い印象を持ちました。
小説の舞台はビルマ、サイパン、フィリピン、ニューギニアとそれぞれ違いますが、いずれも太平洋戦争当を日本軍を中心に描いています。
著者は私とそれほど年齢が離れていないこともあり、当然のように戦争を体験した世代ではありません。
しかし作品中の描写はリアルさを感じる内容であり、特に日本兵をもっとも苦しめた飢餓やマラリアなどの風土病の描写をはじめて読んだときの迫力に驚いたことを今も覚えています。
本書に収められている作品はどれも単純なストーリーであり、意外性を持ったものはありません。
その分、兵士たちの置かれた状況や心理などがじっくりと描かれています。
彼らは屈強で選び抜かれた人間ではなく、おそらく現在の我々とそれほど変わらない民間人たちが徴兵によって強制的に兵士となったに過ぎません。
つまりたった2世代生まれる時代が変わるだけで、私も戦地で戦う経験をしていた可能性が高いのです。
もちろん戦争の体験など絶対にしたくありませんが、だからこそ本書を読む価値があります。
一般的に我々の世代が戦争へ無関心だという意見には私も同意せざるを得ません。
終戦記念日が近づくこの時期に是非おすすめしたい1冊です。
ニンジアンエ
著者の古処誠二氏がテーマとして取り上げることの多い太平洋戦争を背景に書かれた小説です。
小説の舞台はビルマ(現ミャンマー)です。
当時のビルマはイギリスの植民地でしたが、日本軍が大東亜共栄圏の確立を目的としてビルマへ進軍し、一時はイギリス軍を駆逐することに成功します。
いずれにしてもビルマ人にとっては自国の中で外国同士が戦争をはじめる訳ですから、彼らが一番の被害者であることは間違いありません。
日本軍やイギリス軍もそれを充分に自覚しており、宣撫班を組織して地元住民たちの理解と協力を得るための活動を続けてきました。
本作のストーリーは日本軍の宣撫班に同行する新聞記者の視点から書かれています。
一介の従軍記者の視点を利用することで日本軍、イギリス軍、そしてビルマ人といった3つの異なる立場に属する人間たちの思惑や行動を描いてゆきます。
実際には軍の中にも兵士や将校といった階級の違い、そして地元のビルマ人の中にも様々な立場をとる人びとがいるため、実際にはもっと複雑な構造になりますが、記者の視点から描くことで読者の頭の中を整理してくれます。
兵士たちは遠い祖国に家族を残して銃弾やマラリア、空腹の脅威に晒されながら、彼らなりの正義を掲げて異国で戦争を遂行します。
いずれにしても日本やイギリス兵士にとってビルマは祖国ではなく、最後は生き残って故郷に帰る希望を抱いています。
一方でビルマ人たちは?
いずれの国が戦争に勝利しようともビルマ人にとっては支配者の顔ぶれが変わるだけであり、彼らは生涯に渡ってそこに住み続けなければなりません。
つまり、どの立場にあっても誰も望まない状況を作り出すのが戦争の矛盾でもあるのです。
著者の古処氏は戦争という人災を淡々と描写してゆきますが、あえてそうすることで作品の中に痛烈なメッセージを埋め込もうとしているように思えます。
風の中のマリア
オオスズメバチ(学名:ヴェスパ・マンダリニア)。
昆虫の頂点に立つ獰猛な捕食者であり、人間にとっても危険な生物です。
本書はスズメバチのワーカー(働きバチ)を擬人化した"マリア"を主人公にしています。
マリアのワーカーとしての仕事は、幼虫のエサとなる昆虫を捕獲するハンターです。
スズメバチにとって無抵抗にも等しい昆虫もいれば、時には同類のスズメバチ、カマキリやオニヤンマといった危険な武器を持った昆虫さえも狩りの対象にしなければなりません。
そしてワーカーの寿命はたったの30日。
つまり主人公マリアの一生も30日であり、本書はそんなオオスズメバチの生涯を物語にするといった面白い手法で書かれています。
当然のように擬人化されたオオスズメバチは物語の中で喋ることもあれば思考することもあります。
オオスズメバチたちが自らの遺伝子(染色体)について話し出したときは少々驚きましたが、幼虫から成虫になるまで、狩りの方法、そして何よりも女王バチが1から"巣"という名の帝国を築いて、やがて滅びるまでの過程を壮大な物語として読むことで自然に知識を得ることができます。
オオスズメバチに猛毒があることは知っていても、その生態系については殆ど知らない人が多いのではないでしょうか。
全体的には子ども向けを意識した描写で書かれているため、中学生が読んでも充分楽しめますし、小学高学年でも読めるのではないでしょうか。
もちろん大人が読んでも知的好奇心を充分に満足させてくれる出来栄えです。
人気作家の百田尚樹氏が手掛けただけあってストーリーも無難にまとまっており、夏休みの読書に最適な1冊です。
ひとびとの跫音〈下〉
正岡子規の亡き後、正岡家の養子となった"忠三郎"を中心とした人びとの軌跡を描いた長編小説です。
前回も書いた通り、"忠三郎"はけっして歴史的な偉人ではありません。
それでも一見すると平凡にしか見えない人間の人生が、決して無味乾燥なものではないことを本書は教えてくれます。
例えば忠三郎は、正岡子規をけっして"利用する"ことはありませんでした。
正岡家の跡取りとして子規の残した遺品を丁寧に整理して保存することはしても、人に子規の養子であることを話すこともなく、彼の中には、父の名前を利用して一銭たりとも得ようとしない確固たる掟があり、生涯それを破ることはありませんでした。
そして忠三郎とは学生の頃からの友人で、同じく著者の知り合いであった"タカジ"がもう1人の主人公として登場します。
"タカジ"は若くして共産党に入りますが、やがて思想犯として逮捕され戦前・戦時中の12年間を刑務所で過ごすといった"忠三郎"と比べると、少し変わった経歴を持っています。
彼は生涯にわたり共産思想を捨てませんでしたが、決して著名な思想家や指導者とは言えず、戦後も地道な活動を続けた人物です。
著者の話題はこの2人のみならず、その両親や兄弟、妻、友人などにとりとめもなく広がってゆきます。
まるでこの作品全体が余談でもあるかのように、気の向くまま自由にテーマを見つけては書き綴ってゆくという表現がぴったりです。
そして唐突に2人の物語は終わりを迎えます。
"忠三郎"が7年間に渡る闘病生活の後に病没すると、そのわずか8日後に"タカジ"も後を追うように病院で息を引き取るのです。
こうして淡々と続いてきた物語が突然終わりを告げますが、読了後は案外人生もそのようなものと思えてしまうのです。
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