ひとびとの跫音〈下〉
正岡子規の亡き後、正岡家の養子となった"忠三郎"を中心とした人びとの軌跡を描いた長編小説です。
前回も書いた通り、"忠三郎"はけっして歴史的な偉人ではありません。
それでも一見すると平凡にしか見えない人間の人生が、決して無味乾燥なものではないことを本書は教えてくれます。
例えば忠三郎は、正岡子規をけっして"利用する"ことはありませんでした。
正岡家の跡取りとして子規の残した遺品を丁寧に整理して保存することはしても、人に子規の養子であることを話すこともなく、彼の中には、父の名前を利用して一銭たりとも得ようとしない確固たる掟があり、生涯それを破ることはありませんでした。
そして忠三郎とは学生の頃からの友人で、同じく著者の知り合いであった"タカジ"がもう1人の主人公として登場します。
"タカジ"は若くして共産党に入りますが、やがて思想犯として逮捕され戦前・戦時中の12年間を刑務所で過ごすといった"忠三郎"と比べると、少し変わった経歴を持っています。
彼は生涯にわたり共産思想を捨てませんでしたが、決して著名な思想家や指導者とは言えず、戦後も地道な活動を続けた人物です。
著者の話題はこの2人のみならず、その両親や兄弟、妻、友人などにとりとめもなく広がってゆきます。
まるでこの作品全体が余談でもあるかのように、気の向くまま自由にテーマを見つけては書き綴ってゆくという表現がぴったりです。
そして唐突に2人の物語は終わりを迎えます。
"忠三郎"が7年間に渡る闘病生活の後に病没すると、そのわずか8日後に"タカジ"も後を追うように病院で息を引き取るのです。
こうして淡々と続いてきた物語が突然終わりを告げますが、読了後は案外人生もそのようなものと思えてしまうのです。