史実を追う旅
吉村昭氏の作品には、誰もが知っている歴史的大事件を題材にしたものもあれば、殆ど世の中から忘れ去られてしまった事件を掘り起こしたものもあります。
本書にはこれらの作品を手掛けようとした動機、また作品が生まれるまでの舞台裏などがエッセイ風に紹介されている1冊です。
吉村昭氏の作品をあまり読んだことのない人であれば、エッセイ風に作品の目録が掲載されている本として、既にファンであれば作品の創作秘話を垣間見れる1冊として楽しむことができます。
著者は綿密な取材や調査を通じて、事実をなるべく正確に書くことを心がけてきました。
そのスタイルから"記録小説"と呼ばれることもありますが、単純に歴史的事実を並べただけではまったく小説は成立しません。
江戸時代の事件であれば、記録と記録の行間を埋めるための描写が必要となりますし、近代の事件を題材とする場合には、関係者や遺族が存命の場合もあることからプライバシーに考慮することが求められます。
さらに重要なのは、小説において題材とした事件を歴史的にどのように位置付け、どのような視点で描くかは完全に作者自身の主観によって決めるものであり、それを誤ったため桜田門外の変を扱った作品は2度も作品を書き直したといいます。
零式戦闘機を題材とした作品を描いたときには、その設計者である堀越二郎氏は吉村氏の文章が80パーセントの正確さしかないと指摘し、自分の技術論文をそのまま作品に転載するように求めたといいます。
しかし吉村氏は80パーセントのままで十分だと返答し、その理由を次のように説明しました。
老練な編集者は、多少誇張があるかも知れませんが小説家の書く文章の一行を読んだだけでも、だれのものかわかるのです。
私は、学生時代から小説を書いてきていますが、それは文章との闘いということにつきます。
堀越さんの論文をそのまま引き写せば、私が今まで小説を書いてきた意味はなくなります。正確度80パーセントでもいい、と言ったのは、このような理由からです。
これは読者の立場から考えても、専門書や学術書のように小説としての娯楽性が失われた作品を読むのは苦痛となるはずです。
本書は気楽な話題に終始するエッセイではなく、プロの作家としてのプライド、そして仕事へ対する厳しい姿勢も垣間見れる1冊になっています。
旅行鞄のなか
著者の吉村昭氏は、いわゆる書斎に籠もって小説を構想して執筆するタイプの作家ではありません。
彼の執筆スタイルは記録小説と言われる通り、史実に基づいた作品を書くことで知られています。
そのため小説の舞台となった場所を訪れ、丹念に記録を調べ、関係者への取材を行うために、必然的に取材旅行の機会が多くなるフィールドワークを重視するタイプの作家といえます。
本書はそうした旅先で出会った人びと、グルメや酒のことなどをエッセーとしてまとめた1冊です。
作家として長年に渡り活躍してきた著者の取材旅行スタイルは確立しており、本書によるとおおよそ次のようなものです。
<昼間>
図書館、古書店などをまわったり、人に会って小説の背景になる地へ案内してもらったりする。
<夕方以降>
ホテルに戻って入浴し、街へでかける。
地元の小料理店風のカウンターで地酒を飲み、その後に中流程度のバーに入り、最後にホテルにもどってバーでウィスキーの水割りを三、四杯飲んで就寝する。
長年の旅行取材によって培われた経験と勘で、期待はずれの店を物色してしまうことはないといいます。
また本書ではまったく触れられていませんが、かなりお酒が強かったと思わせるエピソードが幾つかあり、著者の意外な側面を見ることができます。
加えて本書には旅以外のエピソードも収めされています。
読者から作品の誤りを修正されたときにはお礼の返事を書く、原稿の締切には一度も遅れたことがないというエピソードからは著者の几帳面な性格が伺えますし、少年時代からの読書遍歴や交友関係といったエピソードからも人間としての輪郭が見えてきます。
客観的に見れば、まるでブログのようなたわいのない話題ばかりですが、それでも好きな作家のエピソードは読んでいて味わい深くて楽しいものなのです。
流星ワゴン
不景気で会社をリストラされ、妻は浮気に走り、受験に失敗した息子は家庭内暴力を振るうようになる。。。
そんな一家の父親である主人公・永田一雄(38歳)は壊れつつある家庭を目に前にして、
「もう死んだっていいや」
と投げやりな気持ちになります。
そんな一雄は、故郷で入院する父親を見舞った帰り道で1台のワインカラーのオデッセイに出会い乗車することになります。
そこにはかつて新聞記事で目にした、5年前に事故で亡くなったはずの橋本父子が乗っていたのです。
少しホラーっぽいですが、これが作品プロローグです。
かなり不幸な状況にある主人公ですが、1つ1つの結果には過去に岐路となる出来事があり、橋本さんたちの不思議な力によって主人公の一雄はそうした場面へタイムスリップすることになります。
多くの映画や小説作品で使われるいわゆるタイムトラベラーという設定ですが、主人公は過去のある時点に戻って自分の意志で行動することは出来ても、未来(結果)は変えられないというルールがあります。
死にたいほど不幸な現状を変えることが出来ないと知りつつ、タイムスリップを繰り返すことに苦しむ主人公ですが、そこにはもう1人のタイムトラベラーが登場します。
それは病院で意識不明の危篤に陥っている父親であり、彼は自分と同じ38歳の姿として登場するのです。
SF小説にありがちな時間を何度も往復することで展開が複雑になるということはなく、ストーリーそのものは至ってシンプルです。
つまりタイムスリップという仕掛けはあくまで作品を構成する装置の1つに過ぎず、親子で繋がれてゆく人生そのものが作品のテーマであり、結局は著者の重松清氏らしい作品であるといえます。
決してバック・トゥ・ザ・フューチャーのような派手な展開にはなりませんが、人間ドラマとして楽しめる構成になっています。
主人公と同じアラフォー男性にもっとも突き刺さるストーリーでもあり、忙しく働いているサラリーマンを応援してくれるような作品であると感じました。
鉄のライオン
最近はノンフィクションや歴史ものを読む機会が多かったこともあり、気分転換に普通の小説作品を手にとってみました。
本書は著者自身の大学生時代のエピソードを元に書き上げた青春小説です。
著者である重松清氏の年齢は私よりひと回り年上ですが、田舎から大学進学のために上京してきたという点は作品中の主人公と共通しています。
さらに言えば、あまり勉学に熱心でなかった点、お金に余裕がなかった点、それでもお酒を飲む機会だけはやたらと多かった点なども作品に登場する主人公と共通していることもあり、どこか懐かしさと親近感を覚えるエピソードばかりです。
初めて経験する東京での一人暮らし、同学年の友人、やけに大人びて見えた先輩、アルバイト先での出来事など、どれも多くの読者の学生時代に当てはまる経験だと思いますが、そうした日常が少しだけドラマチックに描かれています。
そもそも学生は好奇心と行動力だけは旺盛なものであり、傍から見れば生産性の無い、つまり社会の役に立つ存在ではありません。
一方でのちに振り返ると、無為に過ごしたような学生時代の日々が人生において貴重な時間だったと気付くものです。
2時間くらいで一気に読める分量ですが、雑誌へ連載された5~10分程度で読める短編小説を文庫本としてまとめた1冊であるため、少しずつ楽しむことをお勧めします。
アメリカ黒人史
タイトルはシンプルに「アメリカ黒人史」となっていますが、15世紀にはじまるヨーロッパとアフリカ人の出会いを奴隷制度の起源とし、本書が発売された2020年現在までの歴史を扱うという、まさしくタイトル通りの壮大な内容になっています。
本書は以下の目次で構成されています。
- 第1章 アフリカの自由民からアフリカの奴隷へ
- 第2章 奴隷としての生活
- 第3章 南北戦争と再建(1861~1877)
- 第4章 「ジム・クロウ」とその時代(1877~1940)
- 第5章 第二の「大移動」から公民権運動まで(1940~1968)
- 第6章 公民権運動後からオバマ政権まで(1968~2017)
- 第7章 アメリカ黒人の現在と未来
著者のジェームス・M・バーダマンはアメリカ文化史を専門とする学者ですが、本書の目的を次のように述べています。
本書は、日本人がアメリカ黒人の歴史についていかに知らないことが多いかを、また黒人の歴史がアメリカの歴史の根幹に関わるものであり、人種差別の根深さそのものを体現していることを明らかにするものである。
根深い問題だけに新書1冊ですべてを語ることは不可能ですが、それでも本書からはアメリカ黒人の歩んできた苦難の歴史を俯瞰して追うことができます。
世界史では奴隷貿易(三角貿易)、奴隷を解放した南北戦争、そして1950年代半ばから1960年代に盛んになった公民権運動といった程度にその歴史をなぞるが現状であり、学校では本書で触れられている多くのことを学ぶことはできません。
さらに言えば、2014年に武装していない黒人の若者を白人警官が射殺した事件(マイケル・ブラウン射殺事件)、それによって起こった抗議運動と暴動(ファーガソン暴動)も、まさしくアメリカ黒人史そのものの延長線上にあることが分かります。
そして残念なことに制度としての奴隷制度は消滅しても、今も多くの分野において間違いなくアメリカ黒人をはじめとした人種差別が存在し続けていることを意味しています。
タイトル通り、本書はアメリカ黒人の視点から描かれた内容だけに気が重く深刻な内容が多いですが、それでも一筋の光明が差し込む場面があります。
しかし歴史はそんな単純なものではなく、問題解消に向けて1歩進んだかと思うと、また半歩戻るといったことを100年以上も繰り返していることが分かります。
今も続く人種差別の現実に対して、著者は読者へ対してもなかり厳しい言葉を投げかけています。
「レイシズム(人種差別主義)」という言葉に中立性はない。
「レイシスト(人種差別主義者)」の反対語は「非レイシスト」ではない。
その反対語は、「反レイシスト」であり、それは、権力や政策や個々人の態度のなかに問題の根幹を見出し、解体しようと行動する者のことである。
「反レイシズム」は異なる「人種」の人びとを理解しようとする絶え間ない試みであり、レイシズムに向き合わない、ただの「人種にたいする受動的な態度」である「カラー・ブラインド」になることではない。
これをわかり易く言えば、著者は次のような態度の日本人をも批判していることになります。
「私は日本人だから白人のように黒人を差別的には見ていない」
ちなみにアメリカでは以下の有名な言葉があります。
If you are not part of the solution, you are part of the problem.
(もしあなたが解決の一部でなければ、あなたは問題の一部である。)
これは問題解決へ積極的に働きかけない人は、問題そのものの一部に含まれるという、日和見主義者を批判した言葉です。
つまり断固としてレイシストを許さないという態度と行動のみが、人種差別を根絶する解決策となりえるのです。
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