呉漢(下)
貧しい小作農民の子として生まれ、その勤勉さを評価されて停長という地方役人に抜擢された呉漢ですが、自分の師であり賓客として扱っていた祗登(きとう)が親の仇討ちのために殺人を犯したため、自らも罪に連座されることを恐れて職を投げ出して逃亡します。
呉漢は保身のために師を売ることはしない人物でした。
彼は自分を慕う部下たちと共に河北地方へ向かい、そこでの紆余曲折を経て、やがて運命の劉秀と出会います。
この頃は中国各地で自ら皇帝と名乗る人物や、盗賊団などが跋扈し、劉秀自身もその中の1人に過ぎませんでした。
そこで呉漢は劉秀の躍進とともに大司馬(軍事の最高責任者)に抜擢されます。
呉漢は各地で転戦を重ねますが、彼の面白いところは天才的な戦略を駆使するタイプでも、無双の武力を備えたタイプの将軍ではなかったことです。
たしかに彼の部下には武力に優れた部下がいましたが、呉漢自身は人の本質を見抜く目を備えていたのです。
そして彼が迷ったときには、師として尊敬する前述の祗登(きとう)が助言を行います。
つまり人を見る目があるということは、すこし拡大解釈すれば人の考えていることが分かるということであり、戦争においては相手の裏や、裏の裏を察知する能力につながってゆくのです。
また劉秀からの絶大な信頼を寄せられていたという点においては、その能力はもちろんですが、彼の誠実な性格を知っていたという点も大きかったのです。
実際、劉秀から離反して反旗を翻す将軍も登場しますが、ひたすら呉漢は劉秀のため、そして天下平定のために働き続けるのです。
これを現代風に例えると社員として誰よりもよく働き、成果を出し続けた会社に忠実な社員ということになりますが、客観的に見ると、こうした人物を物語の主人公にしても読者はあまり楽しめません。
しかしこの作品からは、呉漢という人間の奥行きの広さを感じられます。
それは登場人物の魅力もさることながら、呉漢と祗登、呉漢と劉秀という血の通った、強固な人間同士のつながりといった要素が物語全般に渡って取り入れられているからだと言えます。
歴史書の文字を表面から追っただけでは見えてこない、彼らの内面を見つめて物語として紡ぎ出すという、歴史小説家・宮城谷昌光氏の見せ所を充分に堪能できる名作です。
呉漢(上)
紀元前221年、秦の始皇帝が初めて中国を統一しますが、この王朝はわずか15年後で崩壊します。
いわゆる項羽と劉邦の時代が始まり、この戦いに勝利した劉邦が秦に続いて中国を再び統一し漢を建国します。
この王朝は約400年もの間繁栄することになります。
世界史の教科書にある通り知っている人も多いと思いますが、この漢はちょうど200年間を境に前漢と後漢とに別れます。
それは漢という王朝が途中で一度滅んでしまうからです。
前漢が滅んだ時点で再び群雄割拠の戦乱時代が到来しますが、その戦いを制したのが前漢の第6代皇帝・劉景の血を引く劉秀(りゅうしゅう)でした。
彼の片腕として、またもっとも信頼の置ける将軍として活躍したのが、本作品の主人公である呉漢(ごかん)です。
彼は貧しい家の出身であり、もし前漢が滅ぶことがなければ歴史上では名もなき民として生涯を終えるはずだった境遇の人間でした。
劉秀にしても戦乱の世が訪れなかったら、中央に出ることなく地方でのみ知られた名家の1人として人生を終えていたに違いありません。
実際に作品の冒頭で呉漢は、家族を養うため領主の経営する大農園で働く小作農民として登場します。
しかも彼には、人並み外れた武芸の才能があるわけでも、学問に励むということもしていない、特筆すべき人物ではありませんでした。
ただし1つ彼の長所を挙げるとすれば、人一倍熱心に働くことだけが取り柄でした。
社交的で周りを巻き込むタイプでもなく寡黙だった呉漢ですが、彼が一途に働く姿を見て声をかけてくる人が現れ始めます。
やがてさまざまな人の縁で彼は亭長に抜擢されることになりますが、これは地方の宿駅の管理や警察署長といった役職であり、中央から見れば取るに足らない役人の1人に過ぎませんでした。
亭長といえば前漢を興した劉邦も一時経験した役職でもありました。
そんな呉漢がやがて戦乱の世へ乗り出し、天下の大将軍となるまでの軌跡を描いた歴史ロマン小説です。
古代中国史を舞台にした歴史小説を書かせたら右に出る者のいない宮城谷昌光氏の作品だけに、読者の期待を裏切らない出来栄えに仕上がっています。
漂流
1994年。
沖縄のあるマグロ漁師は、フィリピン人船員とともに37日間も海を漂流することになります。
さらにその8年後、その漁師は再び漁に出て今度は2度と戻ることはありませんでした。
その漁師の名前は木村実という伊良部島の佐良浜出身の漁師であり、本書は木村の足跡を追ってゆくノンフィクションです。
著者の角幡唯介氏は、極地冒険を行うノンフィクション作家として活動しています。
今までの彼の作品は自らの体験を作品にしたものが主であり、今回のように自分以外の人物にスポットを当てた作品は初めてではないでしょうか。
角幡氏は極地冒険を行う理由を、便利安全になった都会生活では"死"が希薄になり、そのために"生"を実感できないことを理由に挙げています。
つまり、その"死"を身近に感じるためにわざわざ北極を犬ぞりで横断するような冒険に出かけているのであり、これは登山家やクライマーにも当てはまるかも知れません。
一方、漁師は船が沈没し漂流する危険性が仕事の中につきまとう職業であり、"死"を取り込んだ日常を送っていることに興味を覚えたと述べています。
実際、取材で出会った漁師たちは、事故や災害によって訪れるかもしれない"死"というものをどこか運命として受け入れている姿勢、もしくは"生"に対しての執着が薄いような印象を受けたといいます。
文庫本で600ページ以上のかなりの大作ですが、2度の漂流を経験したとはいえ、1人の漁師の足取りを追うための作品としてはかなりの分量という印象を持ちました。
しかし本書では木村実の足取りを追う一方で、彼自身がそうであった佐良浜出身の漁師たちの実像にもかなりのページを割いて迫っています。
佐良浜漁師は豪快な性格の人が多く、沖縄でもっとも漁師らしい気質を持った人びとだといいます。
20メートル近くの潜水をしての追い込み漁、戦後間もない頃の密貿易への従事、禁止されていた危険なダイナマイト漁を長く続けていた経緯など、確かに命知らずの側面があることは確かなようです。
沖縄の南方カツオ漁やマグロ漁など何ヶ月もかけての危険な遠方漁の歴史には、佐良浜漁師は欠かせない存在であり、最盛期にはグアムで豪遊し、故郷に家族がいるにも関わらず現地妻がいた佐良浜漁師も多かったようです。
今も佐良浜には最盛期に漁師たちが大金を稼いで建てた豪邸が所狭しと立ち並んでいるようです。
地域特有の文化が色濃く残っている場所では独自の死生観すらをも内包していることがあり、まさしく佐良浜がそうであるといえます。
こうした特有の文化は、外部の人間から見るとときに新鮮であり、ときにショッキングでさえあります。
木村実という漁師は間違いなく佐良浜漁師のもつ特有の文化を代表する典型的な1人であり、本作品が問いかけるスケールの大きさに読者は引き込まれるはずです。
路地の子
「路地」とは人家のひしめく狭い通路という意味があり、例えば"路地裏の名店"などといった使われ方が一般的です。
一方で「路地」は別の意味を持っており、それは被差別部落・同和地区を指す言葉としても使われてきました。
"路地"は日本各地に1000箇所以上存在するといい、特に大都市には大規模な路地が存在していました。
本書のタイトルにある「路地」はまさしく後者の意味で使われており、著者の上原善広氏は大阪の路地出身者者という出自を持っています。
私自身は同和問題(部落差別)といったものを殆ど意識せずに育ちましたが、私より一回りくらい上の世代になると少年時代にこうした差別を目にした経験を持つ人が多いように感じます。
作品の舞台は大阪堺市の東に隣接する松原市にかつてあった更池(さらいけ)という路地であり、そこは"えた(穢多)"と呼ばれる食肉処理、や皮革加工に従事する人が住む地区でした。
また、そうした歴史的背景を持つことから戦後には大規模な"とば(屠殺場)"が運営され、最盛期には住民の8割が食肉関係の仕事に従事していたといいます。
ちなみに穢多差別は平安時代に始まったとされ、長く根強い差別の歴史を持つことが分かります。
しかし本書は部落差別による人権侵犯がメインテーマではありません。
貧しく、識字率も低い更池の路地において、自身の腕っぷしと才覚だけで成り上がってゆく1人の男の半生を描いたものです。
主人公は著者の実父でもある上原龍造であり、彼は昭和24年生まれの団塊世代です。
龍造少年は、中学生の年齢にして学校に通わず、多くの路地の住民がそうだったように"とば"で働いていましたが、わずか15歳にして牛刀を手にヤクザを追い回すという、近所で評判の突破者(とっぱもん)、つまり向こう意気の強い何をしでかすか分からない乱暴者として知られていました。
本書のストーリーを乱暴に表現すれば、昭和の不良漫画と任侠映画を足して二で割ったような内容ですが、舞台が"路地"や"とば"であるという描写にノンフィクションとしてのリアルさと迫力を感じます。
牛が引きずり出されると同時に、為野はいつものように、何のためらいもなく勢いよくハンマーを眉間に叩きこんだ。
「ここで可哀そうや、思たらアカンで。動物やから、牛もそれをわかってすがってくる。そうなったら手元が狂って打ち損じる。その方が余計に可哀そうや。だから一発で決めたらなアカン」
四五歳になる為野は、そう教えられてハンマーを振るってきた。
~省略~
もろに眉間を打たれた牛は、一瞬で失神し、脚を宙に浮かせドッと崩れ落ちる。途端に左側の扉が開けられ、倒れた牛はザーッと音を立てながら職人たちが待つ解体場へと滑り落ちてゆく。
「なあ、為野のおっちゃん。エッタってなんや」
「・・・・・・そんな難しいこと、おっちゃんにわかるわけないやろ。ワシら、昔からずっとエッタだのヨツだの言われるんや」
負けん気と度胸、そして腕っぷしだけを頼りに龍造少年は成り上がりを目指し、やがて職人修行を経て自分の店を持つことになります。
龍造の信念は至ってシンプルなものであり、「金さえあれば差別されない」というものでした。
ただし龍造の店が大きくなるにつれ、極道や右翼、部落解放同盟や共産党など、利権を巡っての人物が現れます。
怒涛のようなストーリーは圧巻であり、ある意味で龍造の半生は歴史上の偉人よりも劇的だったといえます。
時代と歴史が生み出した人間の熱量と狂気のようなものが作品全体から漂っている1冊です。
サイレント・マイノリティ
西洋史を題材にした作品で知られる塩野七生氏によるエッセイです。
今までも塩野氏の小説やエッセイは多く読んできましたが、本書は1985年に彼女が作家として初めて手掛けたエッセイ集です。
そのためか今まで読んできたどのエッセイよりも歯切れが良く、何気ない日常を取り上げるというよりも、自分の考えをしっかりと主張しているといった印象を受けました。
それでも作家活動を始めると同時にイタリアに移り住んだ著者は、本書が発表された時点で15年もの間イタリアに在住している経験がありました。
その交友範囲もイタリアの文化人や政治家、実業家など多岐に渡り、彼らを題材にしたエッセイも何編か収録されています。
また彼女の作家としての考えが明確に示されているたエッセイも掲載されています。
いわゆる歴史小説家は有名になればなるほど、世間から史実と異なる部分を指摘されたり、またその史観が公平ではないといった類の批判の声は大きくなっていきます。
そして塩野氏も本ブログでも紹介した長編小説「ローマ人の物語」によって、一躍有名作家の仲間入りをした1人といえます。
塩野氏の執筆スタイルは、その大部分を文献集めや取材に費やすようで、できる限り史実に忠実な歴史小説を書くことを心がけているようです。
しかし1人の人間が膨大な史料すべてに目を通して、間違いをゼロにすることは歴史学者にさえ困難なことであり、それが作家であればなおさらです。
さらに付け加えるならば、研究結果や作品を世の中に送り出してから、ある史実の定説が覆されることも珍しくないのです。
それを充分に承知した上で、彼女は次のように結論付けています。
「小説」を書こうという意図のあるなしにかかわらず、取捨選択は絶対に必要なのである。いや、それだけでは充分でなく、想像力や推理の助けなしには、つなげようもないくらいなのだ。
歴史における国家の盛衰は、その国の国民の精神の衰微や、過去の成功に囚われ堕落してしまうことに起因するという説明は、一見すると説得力があるように思えます。
しかし彼女はヴェネツィア共和国の盛衰史を書いた「海の都の物語」を次のような仮設に基づいて執筆したと言っています。
国家であろうと民族であろうと、いずれもそれぞれ特有の魂(スピリット)を持っている。
そして、国家ないし民族の盛衰は、根本的にはこの魂に起因している。盛期には、このスピリットがポジティーブに働らき、衰退期には、同じものなのにネガティーブに作用することによって。
歴史小説というフィールドでは真実性も大事だが、同時に仮設を立てることも可能であり、最終的にそれが読者を楽しませるものかが問われるはずです。
そして塩野氏は、物語の奥行きを持たせるために、手の混んだ偽史料作りをして作品に登場させたこともあります。
それは専門家さえ欺くほどの手の混んだ偽史料であり、それは実在する史料を引用するよりも困難でした。
これにはイタズラ心もありましたが、その反響の大きさに少し反省した著者は次のように結んでいます。
少なくとも三年間は、偽史料づくりはしないと、と決心したのである。
三年間というのが、今年から続けて三年間にするか、それとも、1年ずつ飛び飛びにするかは、まだ決めていないのだけど。
その他にも作家としては珍しい自身の政治的信条を明らかにするエッセイがあったりと、もっとも新進気鋭だった頃の勢いを感じられる良いエッセイに仕上がっていると思います。
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