本と戯れる日々


レビュー本が1000冊を突破しました。
引き続きジャンルを問わず読んだ本をマイペースで紹介してゆきます。

海賊の日本史


歴史における勝者だけでなく、敗者として葬られた人物にスポットライトを当てたり、天皇、宗教、地形といった観点から歴史を考察した小説や歴史学の本を読んできました。

それでも今回紹介する本のように、日本史における"海賊"を中心に歴史を考察した本には初めて出会いました。

まずは本書の主な章立てを紹介しておきます。

  • 藤原純友の実像
  • 松浦党と倭寇
  • 熊野海賊と南朝の海上ネットワーク
  • 戦国大名と海賊 - 西国と東国

見てわかる通り、平安時代から戦国時代までの海賊を網羅しています。
さすがに徳川幕府という近世的な統一国家が成立すると海賊の活躍する場所は失われてしまいますが、そこに至るまでの歴史には、常に海賊が活動していたことが分かります。

時代によって海賊の勢力分布や地域は変動するものの、藤原純友、そして塩飽水軍村上水軍が活躍した瀬戸内海は、日本海賊史の中心地であったといえます。

一方で、漫画や映画に代表される海賊、つまり"パイレーツ(Pirates)"や"バイキング(Viking)"をそのまま日本の海賊のイメージへ当てはめてしまうと、相当なズレが生じてしまうことも事実です。

日本史に登場する海賊にはさまざまなタイプがあり、時代の移り変わりと共に変容してきたその姿を終章で総括していますが、要するに日本史における海賊は単一のイメージで捉えることの出来ないものであることが分かってきます。

また本書に掲載されている地図を参照しながら読み進めてゆくと、今あの島や沿岸に住んでいる人たちの先祖は"海賊"だったのかも知れないという想像が広がってゆき楽しむことができます。

談志最後の落語論


少し前に三遊亭円朝を扱った本を読んだこともあり、落語つながりで立川談志の本を手にとってみました。

談志の落語は映像でしか見たことはなく、生では見たことがありません。

もっとも私自身は落語ファンではなく、ごくたまに寄席へ訪れる程度であり、そもそも寄席への出演が禁止されている立川流の落語を聞ける可能性はありませんでした。
ちなみに有名な落語番組「笑点」についても滅多に見ることはありません。

そのため肩書で誰が真打ちかは分かりますが、落語通を唸らせる名人についても私自身はまったく判断できません。

寄席には出演しない立川談志でしたが、独演会という形で各地で開催される公演ではチケットが高額で転売されるほど人気があり、熱心なファンが多いことで有名でした。

一方で一般的には、談志は口が悪い、気難しいというイメージがあり、ともかく一筋縄ではいかない人物だったことは確かです。

そんな談志が亡くなったのが2011年、本書が出版されたのが2009年と考えると最晩年に近い時期の著書といえるでしょう。

本書に限らず談志がこだわったのは、落語そのものを定義しようとしたことです。

「落語とは、人間の業の肯定である」
「落語とは、非常識の肯定である」

特に前者は有名な言葉ですが、いかに落語を上手く演るかという次元ではなく、落語そのものを本質から突き詰めようとしていたことが伺えます。

古今の落語家を引き合いにして落語論を展開してゆきますが、談志が認める落語家はごく一部であり、大方がマイナス評価という手厳しい結果になっています。

本書にか書かれている落語独自の間合いや、その笑いの質というのは初心者にとって難解であり、そもそも文字で表せる性質ではないのかも知れませんが、それでもヒントになりそうな言葉が幾つか登場します。

その1つが、落語の雰囲気から発生する「落語リアリズム」であり、また昔から育んできた「江戸っ子の了見に合うもの」ということになります。

落語家の突然変異のように言われる談志ですが、こうした伝統芸能の根底にあるものを重んじていた姿勢が見えてきます。

それは同時に落語を聞く側にも、江戸の空気や、そこに登場する人物の心理を理解することが求められるということになります。

逆に言えば、そうした価値が分かっていない落語家、それを笑う観客は談志にとって落語ではなく、場違いのイヤらしい芸ということになるのです。

私なりに解釈すれば、前提条件として演者と観客が共通の世界観を持った上で楽しむのが落語ということになります。

その前提に立つと談志の次の言葉も単純に傲慢とは言い切れなくなり、彼のプライドが言わしめたと捉えることができます。

「談志が"いい"と称(い)うものを、"いい"と言う客だけが談志を聴きにくればいい。それを"否"と言う人は、どうぞご自由にお帰りください。おいでにならなくも結構です」

落語界の未来を心配していた談志でしたが、この頃はすでに半分あきらめの心境になっていたのが残念な点です。

てくてくカメラ紀行


2003年。
カメラマンの石川文洋氏は、65歳にして日本縦断徒歩の旅を出発します。

宗谷岬から那覇市までを約150日間かけて、3300kmの道のりを踏破することになりますが、その記録は岩波新書から出版されている「日本縦断 徒歩の旅―65歳の挑戦におて日記形式で詳しく触れられており、本ブログでも紹介しています。

自分の限界に挑戦する旅というより、マイペースで歩きながら職業柄、日本各地の風景や人びとをカメラに収めながらの比較的気軽な旅といった印象があります。

石川氏はこの旅で、1万2000枚の写真を撮りましたが、前述の本では新書という紙面の都合もあり、掲載されている写真の数は限られていました。

そこで旅の写真を中心とした書籍が、本書「てくてくカメラ紀行」です。

著者の徒歩旅行を都道府県ごとに章立てして写真を掲載しています。
紀行文も掲載されていますが、あくまでも写真がメインであり、読むというよりも鑑賞するための本といえるでしょう。

個人的にうれしいのは、写真メインの本でありながら、簡単に持ち運びできるコンパクトな文庫サイズであることです。
350ページ以上にわたって各地の風景、そしてそこに暮らす人びとの姿が収められた写真が散りばめられています。

そこに掲載されている写真は、世界遺産のような壮大な風景ではないものの、素朴であるが故に眺めていて飽きません。

私の印象に残った写真を挙げてみても、特別なシチュエーションで撮影されたものは1枚もありません。

  • 夕涼みする親子(山形県)
  • サザエを漁る漁師(新潟県)
  • 秋祭り(京都府)
  • 普賢岳を背景に噴火で消失した鉄筋校舎跡(長崎県)
  • 小学校の生徒たち(沖縄県)

活字を目で追うのも楽しいですが、たまには気分転換に写真を眺めながらページをめくるのも悪くありません。

そら、そうよ ~勝つ理由、負ける理由


プロ野球選手として主に阪神タイガースで活躍した岡田彰布氏の著書です。

以前に本ブログで岡田氏の「頑固力」を紹介しまたが、こちらは主に阪神タイガースの監督としての経験を踏まえた采配や選手の起用といった話題が中心でしたが、本書で語られるのはスバリ組織論です。

本書の内容を紹介する前に岡田監督の成績を見てみます。

  • 阪神監督時代
    • 2004年 4位(Bクラス)
    • 2005年 1位(Aクラス)
    • 2006年 2位(Aクラス)
    • 2007年 3位(Aクラス)
    • 2008年 2位(Aクラス)

  • オリックス監督時代
    • 2010年 5位(Bクラス)
    • 2011年 4位(Bクラス)
    • 2012年 6位(Bクラス)※途中休養

阪神監督として5年で4回のAクラス、そして1回の優勝という成績は結果を出していると言えます。

一方オリックスの監督としての3年間はいずれもBクラス、最終年は事実上の更迭という残念な結果に終わっています。

よって本書で語られる組織論は阪神を良い例として、オリックスが悪い例として引き合いに出されています。

ただし本書で岡田氏の主張していることは次の言葉にほぼ集約されているといえます。

勝つチームをつくるために必要なのは、組織の力だ。
プロ野球は現場だけの力でも、フロントだけの力でも勝てない。
両者の力が合わさってこそ、結果が出る。そのためには、現場とフロントが同じ方向を向いて、どういうチームをつくるのかを、お互いでしっかりと話し合わなければいけない。
現場とフロントが1つになって、組織は初めて力を発揮する。

本書の示す現場とは、監督やコーチたち(選手は含まない)であり、"フロント"とは球団社長や本部長、場合によってはオーナーも含まれます。

最近は野球ファンの目も肥えており、監督やコーチの采配や指導力だけでなく、フロントの行う球団運営の手法が批判の矛先になることが多くなっています。

ただよく考えると、フロントは現場の人事や予算に関する主導権があり、さらにFAやトレード、ドラフトといった戦力補強にも一定の発言権を持っているから当然といえます。

これを企業に例えると、営業や製造といった部門が"現場"、経営陣、人事や財務といった間接部門が"フロント"といえます。

この2つの要素がうまく噛み合わない企業が業績を伸ばせる訳もなく、それだけに岡田監督が実際に経験し、そして分析した本書の内容は、ビジネスにも充分に応用できるといえます。


最後に蛇足ですが、悪い例として挙げられているオリックスはあくまでも組織論とはいえ、ファンが気の毒に思えるほどこき下ろされているのでご注意ください。

峠うどん物語 下



国道の走る峠に市営斎場と向かい合って営業している「峠うどん」を舞台にして繰り広げられる物語の下巻です。

作品自体は上下巻を通じて10編の短編で構成されています。

基本的にそれぞれの短編は独立した形で完結していますが、全編をつなぐストーリーも存在しています。

その1つが「峠うどん」の商売についてです。

中学に通う主人公・淑子(よしこ)の祖父母がうどん屋を経営していますが、職人気質の祖父は客席を増やして葬儀帰りの団体客を受け入れるような提案にまったく耳を貸しません。
つまり商売っ気が無いのです。

葬儀帰りの悲しみに沈んだ人を慰めるような味にこだわったうどんが売りであり、そんなお店だけに人生の終焉つまり""を扱った作品でありながら、人情味溢れるストーリーが繰り広げられます。

そこへ頑固な祖父とおせっかいな祖母、そして何にでも興味津々な孫の淑子、時には教師である淑子の両親が加わりストーリーが多彩に広がってゆきます。

下巻の終わりへ近づくにつれ毎週楽しみにしていた連続ドラマが最終回を迎えつつあるような寂しさを覚えますが、それも読者としていつの間にか「峠うどん」へ愛着を抱き始めているからです。

著者の重松清氏はあとがきで次のように書いています。
舞台は、斎場のすぐ近くにあるうどん屋 - 書き出す前に決めていたのは、それだけだった。

作者自身が、好奇心と期待を胸にどんなお客が入ってくるかを待っていたに違いありません。