本と戯れる日々


レビュー本が1000冊を突破しました。
引き続きジャンルを問わず読んだ本をマイペースで紹介してゆきます。

ローマ人の物語〈23〉危機と克服〈下〉



1年間もの間に3人の皇帝が次々と登場しては消えていった内乱を収め、ローマ帝国の平和を完全に取り戻したヴェスパシアヌス帝

彼の死後、そのバトンを受け取ったのは長男のティトゥスです。

ティトゥスはヴェスパシアヌスの存命時より後継者として指名され、共同統治者としての経験があったこと、さらにユダヤ戦記の司令官をはじめとした軍団の経験も積んできました。

つまりティトゥスは正式にローマ皇帝として即位した時点で、皇帝見習い(?)としての経験は充分にあった人物です。

父親に似て誠実でローマ皇帝としての責任感を持った人物でしたが、残念なことに彼の治世は、ローマで流行った疫病の犠牲になり2年間で幕を閉じます。

しかもその2年の間には、ポンペイの遺跡で有名なヴェスヴィオ火山の大噴火、そして首都ローマでの大火という災害に見舞われて、その陣頭指揮に追われるという日々だったのです。

著者はヴェスヴィオ火山の大噴火という出来事を「悲しい事件であったのは確かであるが、一千年を越えるローマ史の中では、ローマ人が耐えねばならなかった数多い災害の1つに過ぎない」と前置きした上でその様子を紹介しています。

たしかにTVでも何度か特集されたこともあり、さらに世界遺産として登録されたことで有名なポンペイやエルコラーノの埋没ですが、壮大なローマ史の中では特別な出来事にはなり得なかったのかも知れません。

そしてティトゥスの後を継いだのは、その弟であるドミティアヌスです。

このドミティアヌスは約15年もの間に渡ってローマ皇帝として君臨することになりますが、その業績はカリグラネロと同様に、その死後に元老院によって「記録抹殺刑」に処されるため、彫像は破壊され、また公式記録からもドミティアヌスの名前が抹消されることになるのです。

たしかに素朴で飾らない性格だった父や兄とは違い、皇帝としての体面を重んじ、多少尊大な性格だったドミティアヌスには誤解されやすい面があったのも確かです。

それでも自らの見栄のために浪費を続けたカリグラ、そして皇帝の立場を利用して私怨を晴らし、自分の趣味へ没頭していったネロとは違い、ドミティアヌスは皇帝としての責務を自覚し、なかなかの実績を上げます。

本巻に紹介されているドミティアヌスの主な実績だけでも以下の通りです。

  • ローマ版万里の長城ともいえるゲルマニア防壁(リメス・ゲルマニクス)の着工
  • 兵士の給料値上げ
  • 首都ローマにおける大規模な公共事業
  • 属州における大規模な道路敷設、灌漑工事といった公共事業
  • ブルタニア制圧の続行
  • 現ルーマニアを中心に行われたダキア戦役およびダキア人との平和協定

これだけ見てもローマ帝国の安全保障という義務を完全に果たし、さらなる繁栄のためのインフラ整備にも手を抜くことはありませんでした。

にも関わらずドミティアヌスは暗殺されてしまいます。
しかも反皇帝派の暗殺者によってではなく、女の嫉妬による復讐が引き金になるという不名誉な理由が直接の引き金になってしまうのです。

さらに元老院を支配下に置こうとしてきたドミティアヌスは、自らにとって目障りな元老議員を追放刑にするという恐怖政治をしてきたこともあり、「記録抹殺刑」はそのしっぺ返しに他になりません。

皇帝としての能力は充分にあったにも関わらず、彼は私人としても公人としても人の心の機敏を察するバランス感覚が欠如していたのかも知れません。

ドミティアヌスの死後、ローマ帝国は有名な五賢帝時代に入りますが、それでもヴェスパシアヌス、ティトゥス、ドミティアヌス親子が治めたローマ帝国は平和を享受し続け、結果だけ見れば彼らの実績はそれに勝るとも劣らないものだったことが分かります。

ローマ人の物語〈22〉危機と克服(中)



本巻では、ローマ帝国の混乱を鎮め、皇帝の地位に就いたヴェスパシアヌスの治世に触れられています。

著者の塩野七生氏はヴェスパシアヌスを「健全な常識人」と評し、独創的でもなく抜群の能力の持主でもなかったと断じています。

内乱を収拾し、再び帝国に平和をもたらした輝かしい実績を持った皇帝としては素直に喜べない評価ですが、これには理由があります。

ヴェスパシアヌスには、部下というよりも同志として尽力したシリア総督ムキアヌスの存在がありました。

皇帝ヴィテリウスの過酷な処罰へ対し反旗を翻した「ライン軍団」と双璧をなす「ドナウ軍団」をヴェスパシアヌス派にまとめたのはムキアヌスだったのです。

さらにドナウ軍団の一部を率いてムキアヌスさえも出し抜いて進軍したアントニウス・プリムスによってヴィテリウス軍は粉砕され、味方を失ったヴィテリウスは皇帝から退位するものの、あっけなく殺害されてしまうのです。

その直後に軍勢を率いてローマへ到着したムキアヌスは、ヴィテリウスと正反対の敗者への寛容な処置で混乱を収拾してゆきます。

さらに内乱によって被害を被った人々への損害賠償、ローマ帝国軍の再編成までもこなし、帝国の混乱に乗じて属州から独立し、ガリア帝国を名乗ったキヴィリスを中心とした反乱へ対しても、優秀な司令官であるケリアリスを任命し、結果見事に鎮圧に成功します。

東ではユダヤ戦記が続行中でしたが、ヴェスパシアヌスはそれを長男のティトゥスに任せ、自身はエジプトのアレキサンドリアで情報収集に専念すればよい状態でした。

時間をおいて新皇帝としてヴェスパシアヌスがローマへ入った時には、反乱も内乱の混乱もすべてが治まった状態だったのです。

つまり実績だけを考えれば、ヴェスパシアヌスよりもムキアヌスの方が皇帝として相応しい活躍を示したことになります。

そして差し迫った危機が去ったあとの再建であれば、「健全な常識人」であったヴェスパシアヌスは最適な人選だったのです。

一説にはヴェスパシアヌスとムキアヌスはライバル関係ゆえに仲が悪かったというものがありますが、ムキアヌスの行動からはそんなことを微塵も感じさせない誠実な協力者であり続けました。

たとえば早々にヴェスパシアヌスが後継者に長男のティトゥスを指名した時も、ムキアヌスはその根回しに協力し、ティトゥスが成長してヴェスパシアヌスの右腕となりえる能力を備えてきたことを認めてからは静かに歴史上からフェードアウトしています。

権力や名声を求めずにヴェスパシアヌスの治世を支えたムキアヌスの名前は覚えておいてもよいかも知れません。

ヴェスパシアヌスは混乱の去ったローマ帝国の財政再建、そして公共事業で実績を積んでゆきます。

たとえばローマに現代でも残る遺跡で1,2を争う有名なコロッセウム(円形競技場)を完成させたのはヴェスパシアヌスであり、この5万人を収容できたと言われる建造物の設計思想は現代のサッカースタジアムや野球場にも受け継がれているのです。

ローマに再び平和(パックス)ももたらし、長男のティトゥスが後継者になることを早い段階で公表していたヴェスパシアヌスは、10年間の治世の後に、思い残すこともなく享年70歳で世を去ります。

ローマ人の物語〈21〉危機と克服〈上〉



13年に及ぶ皇帝ネロの統治が失敗に終わり、ローマ帝国は1年間にわたる内乱時代へ突入します。

ネロの自死の翌年つまり紀元69年には、1年間で3人もの皇帝(ガルバ、オトー、ヴィテリウス)が次々と現れては消えてゆくのです。

ほぼ同時代に生きた歴史家タキトゥス「すんでのことで帝国の最後の1年になるところだった」と評したほどです。

ローマ帝国皇帝は現代の総理大臣や大統領よりもはるかに強力な権力を持っていたことを考えると、3人もの(ネロを含めれば4人)の皇帝が次々と実質的に殺害されるという事態は、ローマ帝国自体が崩壊し分裂する危機を迎えたことを意味します。

初代皇帝アウグストゥスが登場してから100年以上も平和を享受してきたローマ帝国でしたが、それは血筋による皇帝の権力と権威が順調に受け継がれていた時代でもあったのです。

しかし血筋だけの継承では正統性は保てても、皇帝の統治能力の保証まではしてくれません。

つまり失政や悪政を重ねた皇帝には退場してもらい、実力によって皇帝の座を勝ち取る時代が到来したのです。

ただしローマ帝国にとって災難だったのは、ローマ皇帝の座を勝ち取った人物たちの支持が限定的かつ一時的なものであったこと、つまりその地位に就くやいなや皇帝としての統治能力不足が露呈してしまったことです。

それでも1年間に登場した3人の皇帝は決して無能ではなく、それどころか軍の司令官として、または属州の統治者として相当に優秀な人物でしたが、広大なローマ帝国の混乱を収拾する次期最高権力者としての力量までは備えていなかったのです。

まずはじめに登場したガルバは72歳という高齢のせいか、皇帝としての政策は消極的なものばかりであり、能力ではなくライバルを排除する保身人事を行ったことが致命的でした。
結果として、もっとも身近な近衛軍団のクーデータによりあっけなく殺害されてしまいます。


続いて皇帝に就任したオトーは年齢は30代で活気のある才気溢れる人物でした。
しかし一方では独断的な傾向もあり、それがよりによって軍団の経験が無かった戦略と戦術の大事な場面において現れてしまい、優秀な指揮官を部下に持ちつつもそれを活用することも知らぬまま戦闘に敗れ、自ら死を選ぶ結果となります。


最後に3人目として登場したヴィテリウスはローマ最強をうたわれた「ライン軍団」という軍事力を背景に持っていましたが、敗者への過酷な処罰という致命的な誤りを犯します。
内乱の敗者は異国人ではなく同じローマ市民たちであり、ローマ帝国の最高権力者となる上で支持基盤となる同国民からの恨みを買うほど愚かな行為はなく、これが後にそのまま自らの身に振りかかるのです。


そうした状況の中でもローマ帝国の命運は尽きることはありませんでした。

ローマ帝国にはまだまだ底力が残ってことを証明するかのように、国家の危機にあって新たな実力者が登場するのです。

その人物こそ東方でユダヤ戦役を遂行している司令官であり、のちに9人目の皇帝となるヴェスパシアヌスです。

ローマ人の物語〈20〉悪名高き皇帝たち(4)

ローマ人の物語〈20〉悪名高き皇帝たち(4) (新潮文庫)

クラウディウスを毒殺したアグリッピーナは、予定通り息子のネロをローマ皇帝の地位に就けることに成功します。

カリグラは25歳での皇帝就任でしたが、ネロに至っては16歳で皇帝となるのです。

後世からは"暴君ネロ"として有名になりますが、果たして本当にそうだったのかを著者はネロの治世を詳細に掘り下げることで真相に迫ってゆきます。

16歳の少年がローマ帝国の最高権力を手に入れたところで果たしてその責務を果たせるのか誰もが疑問を抱くに違いありません。

幾分かの若さゆえの軽率な行動はあったものの、全体として見ればネロの内政や外政はまずまずの成果を上げることになります。

それはネロ自身は少年の頃から英才教育を受けており、教養や知識の水準であれば同年代の少年たちと比較しても高かったこと、そしてネロの家庭教師でもあり元老議員でもあった当時の一流の知識人セネカがブレーンとしてネロを補佐していたからです。

さらに近衛軍団の長官であるルフスも忠実な武人であることも、ネロの地位を安泰なものにしていました。

たとえば西の大国パルティア王国との軍事・外交に渡る問題は、有能なコルブロ将軍の適切な処置の成果もあり、ネロの達成した偉業として讃えられます。

一方でネロは少年から青年に成長する過程で、そしてローマ皇帝として並ぶもののない権力を手に入れたこともあり、皇帝の母としてネロへ干渉するアグリッピーナへ反抗するようになります。

一般の家庭であれば息子による母親への反抗期で済まされますが、これは皇帝とその母親という権力を持った者同士の争へと発展し、ネロは母親を遠ざけるだけには留まらず殺害してしまうという悲劇的な結末を迎えます。

ネロが25歳の時にはルフスが病死し、セネカが老齢を理由に引退するに及んで彼の歯車がさらに狂い始めるです。

本質的に感受性の強いナイーブな性格であり、また世間からの賞賛を集めたいという衝動もあってか、皇帝ネロは突如として吟遊詩人としてデビューすることになります。

しかし竪琴をかき鳴らしながら劇場へ詰めかけた民衆の前で歌う皇帝の姿は、好奇心を集めることは出来ても、尊敬を得ることは無かったのです。

それでも吟遊詩人に熱中するだけであれば後世から"暴君"と呼ばれることはありませんでした。

著者はそれを後世のローマ皇帝と比較してもその規模は小さかったにも関わらず、ネロがローマ皇帝としてはじめてキリスト教弾圧を行い、加えてキリスト教が後世に絶大な影響力を及ぼしたことを理由に上げています。

民衆の目線を気にしつつも皇帝の暗殺未遂事件が相次いだこともあり、ネロは疑心暗鬼に苛まれるようになります。

その延長線上として皇帝権力の濫用により、前線の司令官を無実の罪で処刑するという行為に及んだ時点で、ガリア人の反乱、そしてイベリア半島(現スペイン・ポルトガル)の司令官が決起してローマへ反旗を翻すことになります。

やがて民衆からも元老院からも見放されたネロは、自殺することによって13年に及んだ自らの治世に幕を閉じるのです。

本書で紹介されている決起したガリア人ヴィンデックスによる激は、ネロが晩年にどのように見られていたかを分かり易く伝えてくれます。

「ネロは帝国を私物化し、帝国の最高責任者とは思えない蛮行の数々に酔いしれている。母を殺し、帝国の有能な人材までも国家反逆の罪をかぶせて殺した。そのうえ、歌手に身をやつし、下手な竪琴と歌を披露しては嬉しがっている。帝国ローマの指導者にはふさわしくないこのような人物は、一刻も早く退位させるべきであり、それによって、われわれガリア人を、そしてローマ人を、いや帝国全体をも救うべきである」

ネロの死によってローマは再び内乱の時代を迎えることになるのです。。

ローマ人の物語〈19〉悪名高き皇帝たち(3)

ローマ人の物語〈19〉悪名高き皇帝たち(3) (新潮文庫)

若き皇帝として圧倒的な支持の元に即位したカリグラですが、財政とは呼べない放漫な消費グセ、自己中心的な政策により市民や元老院たちの支持を急速に失い、わずか4年足らずで暗殺されるという結果に終わります。

この非常事態の中で思わぬ形で次期皇帝の座が巡ってきたのが、4代目の皇帝となるクラウディウスです。

初代皇帝アウグストゥスが自らの血統を伝承することを何よりも重んじてきた伝統が、クラウディウスを皇帝に即位させたと言えます。

クラウディウスはカリグラの叔父であり、皇帝就任時には50歳に達していました。

皇帝に就任するまでは体に不自由があることもあり、世間の脚光を浴びることもなく歴史研究家として活動してきた人物です。

皮肉なことにクラウディウスが皇帝として最初に着手したのは甥のカリグラによって破綻しかけていた財政再建、そしてほころびが出てしまった外政の立て直しです。

クラウディウスの長所は何と言っても歴史研究家として古今の偉大な人物の業績に精通していたことです。

それに加えて研究家としての性格からか、真面目で誠実な性格だったことも挙げられます。

これは皇帝としての責務をまっとうながらも、人気取りだけを目的とした政策や自らの蓄財には無関心という姿勢になって現れます。

現代の政治家であれば普通ですが、皇帝としての膨大な業務を効率的に処理するための秘書を設置したのもクラウディウスが初めてでした。

ただしこの制度は秘書たちが解放奴隷(文字通り元奴隷)という身分であり、貴族である元老議員でさえも彼らに頭を下げざるを得ない状況に陥ったこと、また秘書官たちがクラウディウスの目を盗んで私腹を肥やすことに熱心であり、虎の威を借る狐のように権威を振りかざしたことから随分と不評だったようです。

これもやはり研究家として人生の大半を過ごしてきたクラウディウスが、自らの職務には熱心でも、自分以外の人間へ対しては無関心だったという、彼の性格がマイナス方面に作用した結果でもありました。

そのマイナス面は家族へ対しても同様であり、三番目の妻メッサリーナの自由奔放な言動はクラウディウスの評判を落とし、四番目の妻アグリッピーナは自らの息子を次期皇帝に就けるために手段を選ばない女性でした。

結局このアグリッピーナがクラウディウスにとって致命的な存在となり、彼女の仕込んだ毒キノコによって暗殺されるという結末に終わるのです。

クラウディウスにとって気の毒なのは、妻の尻に敷かれ挙句の果てに殺されてしまうという結果が人々からの同情とはならず、軽蔑という結果で終わることです。

公私ともに皇帝としての権威を振りかざすことを嫌ったクラウディウスでしたが、それが逆に人々への威厳さえも失わせてしまったという例であり、この辺りにトップに立つ人間の難しさを感じずにはいられず、現代のリーダーたちも学ぶべき点があるように思えます。

それでも自らの責務に忠実であったクラウディウスは財政再建、外交修復を成し遂げ、ローマ帝国中を張り巡らす郵便制度の確立、クラウディウス港の建設をはじめとした公共事業を成功させ、ローマ帝国は相変わらず平和と繁栄を謳歌し続けたのです。

ローマ人の物語〈18〉悪名高き皇帝たち(2)

ローマ人の物語〈18〉悪名高き皇帝たち(2) (新潮文庫)

ティベリウスは50代半ばを過ぎてローマ皇帝となりますが、アウグストゥスに負けず長命だったため、その治世は20年間にも及びます。

本書の前半では、ティベリウス治世の後半10年間に触れられています。

ティベリウスはその10年間を帝国の中心であるローマを離れ、ナポリから30km離れたカプリ島の別荘を中心にローマ帝国を統治することになります。

ローマの元老院に半ば失望し、そして家庭内での不和に耐えられなくなったからと言われていますが、内向的で1人で熟考するタイプのティベリウスは、ローマの喧騒を嫌い景色が良く温暖なカプア島へ逃避することで精神的なバランスを保とうとしたのかも知れません。

しかも民衆たちの前に姿を現さないどころか、相手が執政官や元老議員であろうとも滅多に会わず、家族の葬儀にさえローマに戻らないという徹底したものでした。

それでもティベリウスの元へあらゆる情報が正確かつ迅速に届けられる通信網を張り巡らせ、彼の手によるローマ帝国の統治は殆ど完全に行われたのです。

よく現場は大事だと言われますが、若い頃から最前線でローマ軍を指揮してきた経験、壮年時代にアウグストゥスの右腕として活躍した経験、皇帝として10年間のローマ統治の経験を積み重ねた60代半ばに達したティベリウスは、ローマ中でもっとも熟練した指導者でもあったのです。

コロッセウムの崩壊事故、ローマの中心で起こった火災、金融危機、東方パルティア王国の不穏な動きに至るまで、すべてティベリウスは遠隔からの指示により的確かつ迅速に解決しています。

それでも民衆の前に姿を現さず娯楽も提供しないティベリウスは、市民からは不人気であり続けたのです。

民衆に喜ばれる、例えば減税や盛大な催し物など人気取りの政策は殆ど行わず、国内外の安全保障や公共インフラの修復、財政の健全化といった地道で根気が求められる政策をやり続けたティベリウスは、現代であっても評価されるべき政治家に違いありません。

著者はティベリウスを次のように評価しています。

ティベリウスは何一つ新しい政治をやらなかったとして批判する研究者はいるが、新しい政治をやらなかったことが重要なのである。アウグストゥスが見事なまでに構築した帝政も、後を継いだ者のやり方しだいでは、一時期の改革で終わったにちがいないからだ。アウグストゥスの後を継いだティベリウスが、それを堅固にすることのみに専念したからこそ、帝政ローマは、次に誰が継ごうと盤石たりえたのである。

本巻の後半では、この盤石の度合いを検査するかのような行為を次々と行う若き皇帝が登場します。

それはティベリウスの後を継ぎ第三代皇帝となったカリグラです。

25歳という若さで皇帝となりますが、人気の無かったティベリウスの反動と悲劇の英雄スパルタクスの息子という血筋もあり、民衆や元老議員たちの圧倒的な支持がありました。

加えてカリグラはティベリウスとは正反対の人気取り政策、つまり減税、剣闘士大会、戦車競技、演劇など民衆の喜ぶイベントを次々と催します。

また自らを神格化することを求め、ゼウスやポセイドンのコスプレまでする徹底ぶりです。

当然の帰結としてティベリウスが蓄えた国庫はあっという間に底をつき、しかも先を見据えない減税の影響もあって、あっという間に金策に走らなければならない(=増税しなければいけない)結果となるのです。

神格化されたカリグラはやがて増長して傲慢さを隠せなくなり、近隣同盟国との外交にも悪影響をもたらします。

大国ローマ帝国の最高権力者としての毎日を謳歌していたカリグラですが、その治世は3年10ヶ月で呆気なく終わりを迎えます。

それはもっとも信頼していた近衛軍団の大隊長(カシウス・ケレアとコルネリウス・サビヌス)によって暗殺されてしまうからです。
そして、その頃にはとっくに人々の熱狂的な支持も冷めていたのです。

若くオシャレで演説も得意で、さらに頭も悪くなかったカリグラは、俳優であれば絶大な人気を誇り続けたかも知れませんが、ローマ皇帝に必要な政治家としてのバランス感覚、将来を見通す力が致命的なまでに欠如していたのです。

ローマ人の物語〈17〉悪名高き皇帝たち(1)

ローマ人の物語〈17〉悪名高き皇帝たち(1) (新潮文庫)

副題にある「悪名高き皇帝たち」について、著者は次のように語っています。

彼ら皇帝たちとは同時代人のタキトゥスを始めとするローマ時代の有識者たちと、評価基準ならばその延長線上に位置する近代現代の西欧の歴史家たちの「採点」の借用であって、これには必ずしも同意しない私にすれば、反語的なタイトルなのである。
平たく言えば、悪帝と断罪されてきたけどホント?というわけですね。

著者はこの根拠を、彼らが皇帝を努めていた期間においてローマ帝国は、安全保障の面でも経済的にも平和と繁栄を謳歌し続けたことを根拠に挙げています。

本巻では、アウグストゥスによって後継者に指名された第二代皇帝ティベリウスに触れられています。

ティベリウスは、実力的にも後継者の序列としても皇帝にもっとも相応しい人物であり、しかもバトンタッチを受けた時点で56歳という年齢も人間としての成熟度を重視するローマ人にとって安心できる年齢でした。

1点だけ難があるとすれば、ティベリウスは内向的で学者肌の性格であり、世間からの人気取りには興味を示さない性格だったのです。

カエサルは性格含めて存在そのものが陽気であり、自然と群衆の中心にいるような人物でした。

アウグストゥスにはアントニウスという強力なライバルが存在していたこともあり、性格はティベリウスに似ていたものの、必要に迫られて剣闘士大会の主催、公共工事、そしてロマ市民への一時金の振る舞いなど、人気取りのための政策には熱心でした。

本書のティベリウスは、実力は充分でもまったく出世欲も名誉欲も無い社員が先代の養子という理由だけで望んでもいない社長に指名されてしまった姿を連想させます。

しかもそれはローマ帝国は世界を席巻する大企業でもあったのです。

ティベリウスは「誠心誠意」を絵に書いたような性格であったため、元老院と協調しながら政策を勧めようとしますが、共和政ローマ崩壊の本質であり、カエサル、アウグストゥスによってさらに弱体化してしまった質の低下した元老院に合理的で本質的な問題解決の能力は残されていませんでした。

それでもティベリウスには、人材を見抜く力があったため属州の統治は平和であり続け、アウグストゥスが築いた帝政ローマの地盤をさらに強固にしてゆきます。

また2人の息子(正確には甥であり養子)のドゥルーススゲルマニクスはいずれも軍事の才能に恵まれ、ローマ兵士たちが起こしたストライキを鎮め、ゲルマン人のとの戦いを有利に進める活躍を見せます。

とくにゲルマニクスは先帝アウグストゥスに期待をかけられ、むしろティベリウスはゲルマニクスへ次期皇帝をバトンタッチするまでの中継役と見られており、ティベリウス自身もそれを認めていたような感さえありました。

しかし運命は非常であり、ドゥルーススはゲルマニア遠征先での事故によって、ゲルマニクスは小アジアで病気によって亡くなってしまうのです。

さらにゲルマニクスの未亡人となったアグリッピーナとは険悪な状態となり、ローマ帝国の頂点に立つティベリウスは元から民衆からの人気はありませんでしたが、家庭内でも孤立を深めてゆくのです。

それでもティベリウスは悲哀を他人に見せることなく、ローマ帝国を統治するという重責を一時も忘れることは無かったのです。

ローマ人の物語〈16〉パクス・ロマーナ(下)

ローマ人の物語〈16〉パクス・ロマーナ(下) (新潮文庫)

本巻では、アウグストゥスの40年以上に及ぶ治世の後期(紀元前5年~紀元後14年)に触れられています。

年齢でいえば58歳~77歳の時期にあたるため、成熟した老皇帝の時期といえるでしょう。

著者は、アウグストゥスは若い頃から頑強な肉体とは無縁な病弱な体質にも関わらず、60代に入っても政治家に必要な次の要素をすべて兼ね備えていたと絶賛しています。

第一に、自らの能力の限界を知ることもふくめて、見たいと欲しない現実までも見すえる冷徹な認識力
第二に、一日一日の労苦のつみ重ねこそ成功の最大要因と信じて、その労をいとわない持続力
第三に、適度の楽観性
第四は、いかなることでも極端にとらえないバランス感覚

つまり肉体的には虚弱でも、その欠点を補って余りある知性と精神力を持っていたのです。

これまでスキピオスッラカエサルポンペイウスのような屈強な肉体とすぐれた軍事的才能をもった人物がローマの英雄であり、知識人のカトーキケロが英雄になれなかったことを考えると、安定期にそして帝政に入ったローマに"新しい形の英雄"が出現したのです。

そんなアウグストゥスにも唯一思い通りにならない事がありました。

それは身内の問題です。

直径の孫アグリッパ・ポストゥムスの凶行、孫女ユリアの姦通罪といった家族の不祥事、そして養子ティベリウスとのすれ違いです。

ティベリウスは、ゲルマン討伐などで軍事的才能を発揮しますが、性格は内向的で学者肌という、名誉や富に強い執着心を持っていませんでした。

アウグストゥスとは本質的に似た性格であったと思いますが、アウグストゥス自身が自らと反対の活発で外交的な人物を好んだことから、この2人は性格の面でそりが合わないという理由も大きかったようです。

しかしアウグストゥスにとって幸いだったのは、最晩年になりティベリウスと和解し彼へローマ帝国を心置きなく託せたのです。

ローマ帝国へパクス(平和)をもたらした初代皇帝アウグストゥスは、性格通り律儀に遺言も自らの墓も万全に準備を整えた上で静かに息を引き取るです。

ローマ人の物語〈15〉パクス・ロマーナ(中)

ローマ人の物語〈15〉パクス・ロマーナ(中) (新潮文庫)

カエサルは55歳で暗殺されましたが、彼が活躍し始めたのは40歳を過ぎてからです。

しかもガリア戦記で8年間を費やし、その後の内戦でローマを平定するのに5年もの年月を要しています。

それでもカエサルは帝政ローマへの青写真となる多くの改革を手掛けましたが、アウグストゥスは18歳でカエサルの後を継ぎ、アントニウスとの戦いを制した時点でも33歳でした。

アウグストゥスの享年は77歳のため、実に40年以上に渡ってカエサルの後を継いで帝政ローマの基礎を築き上げる時間があったのです。

分かり易い例でいえば、カエサルはカリスマ性を持った創業者です。
彼は波瀾万丈の人生の中で起業を行い、会社の基礎やビジョンを築き上げます。

アウグストゥスは2代目社長として初代社長のビジョンを受け継ぎ、会社のさらなる飛躍を目指します。
設備投資や福利厚生、企業のルール作りにじっくりと取り組み、財政の健全化など効率化を図ることで持続性のある組織作りに腰を据えて取り組むことができたのです。

例えば軍事を担当するアグリッパはローマ帝国の領土を広げるための戦いではなく、その国境をより確かなものにするための戦いが主な役割となりました。さらにはローマ兵士を動員した公共工事にも熱心であり、首都ローマ以外の属州へのインフラ整備にも熱心に取り組みました。

カエサルやアウグストゥスが確立した方針は、ローマ帝国は領土を闇雲に広げることで統治力が弱まる弊害を早くも見抜き、防衛ラインを確立した上で平和と繁栄をもたらすといったものでした。

たとえばマケドニア帝国モンゴル帝国がひたすら領土拡大(他国への侵略)を繰り返した挙句、短い期間で国の分裂と崩壊につながりますが、この2人はそれをまるで経験してきたかのように知っていたのです。

本書はアウグストゥスの統治中期(紀元前18年~前6年)、年齢では45~57歳の頃にスポットを当てています。

カエサルのような波瀾万丈な人生とは違い、一見すると政治と政策に専念するアウグストゥスの毎日は地味に見えます。

しかしその業績が実感を伴ってローマへ平和をもたらしたことを市民たちや元老議員さえも認めざるを得えませんでした。

本巻にはアントニウスに侮られた頃の青年オクタヴィアヌスの面影はなく、ローマ帝国の最高権力者としての風格を完全に身につけたアウグストゥスが描かれているのです。

ローマ人の物語〈14〉パクス・ロマーナ(上)

ローマ人の物語〈14〉パクス・ロマーナ(上) (新潮文庫)

タイトルにあるパクス・ロマーナとは、ローマ帝国の支配地域内における平和を意味します。

マリウススッラカエサルポンペイウスオクタヴィアヌスアントニウスといったローマ国内の主導権を巡っての内乱がようやく終わりを迎え、平和な時代を作り上げるのがオクタヴィアヌスに課せられた使命となります。

これは共和政ローマが帝政ローマに移行することをも意味していました。

オクタヴィアヌスは神聖を意味する"アウグストゥス"という尊称を得て、ローマの最高権力者として君臨します。

アウグストゥスには、ローマの将来を見通す思慮深さや先見性、そしてそれを実現するための忍耐や継続といった才能を備えていました。

一方でカエサルは、彼にはローマ軍総司令官としての才能は無いと見抜いており、そのためオアウグストゥスの少年期にアグリッパという軍事の才能に恵まれた同世代の少年を彼の元に置くのです。

さらに外交担当として優れた能力を持ったマエケナスが、早くから腹心としてアウグストゥスを支えてきました。

つまりマエケナスが武力を用いないローマの覇権拡大を外交により実現し、武力を行使する場合でも軍事の専門家であるアグリッパに一任することで、アウグストゥス自身は内政に専念することが出来たのです。

まるでマエケナス、アグリッパが"地ならし"をした土地を、アウグストゥスが"種まき"をするかのようにして、ローマを中心とした"平和"が外側に向かって浸透してゆくかのようなイメージです。

カエサルはすべてを自分一人で決定できる天才でしたが、アウグストゥスは腹心たちと役割を分担することで広大なローマ帝国を統治してゆくのです。

具体的には、軍備削減や国勢調査、また属州の再編成や国税庁の創設、公共事業など、ローマ帝国に必要なインフラを次々と整えていきます。

かつてのように敵国との戦争で新たな領土を獲得した将軍が讃えられた時代は過ぎ去り、隣国との和平によって国境を堅固なものとしてローマ国内へ平和をもたらす者が讃えられる時代が到来したのです。

ローマ人の物語〈13〉ユリウス・カエサル―ルビコン以後(下)

ローマ人の物語〈13〉ユリウス・カエサル―ルビコン以後(下) (新潮文庫)

ユリウス・カエサルは軍の総司令官として、また国家の元首としても非凡な才能を発揮しました。

この"非凡な才能"とは単に"優秀"というレベルをはるかに越えて、他の誰にも真似できないカエサル自身の独創性に支えられていたことが、「ローマが生んだ唯一の創造的天才」と呼ばれる所以になります。

そんなカエサルにとって唯一の弱点とも言えなくないのが、自身の生命に対しての危機意識が希薄だったのでははないでしょうか。

ただそれさえもカエサルの哲学と評してもよい"寛容(クレメンティア)"の裏返しの結果であり、単純な"欠点"とは決めつけられないものでした。

しかし結果としてカエサルは、紀元前44年3月15日カシウスを首謀者として彼に担がれたマルクス・ブルータスらによって元老院会議場で暗殺されてしまうのです。

この事件の真相は単純であり、帝政を目指すカエサルに対してブルータスを中心とした共和政を信奉する過激な保守派がテロ行為に走った結果です。

カエサルの死により「帝政」への移行は失敗に終わり、再び「共和政」によりローマが運営されるかと思わましたが、実際にそうはなりませんでした。

それはカシウスやブルータスたちが、カエサルを暗殺した後のビジョンを何も持っていなかったこともありますが、カエサル軍の幕僚として活躍したアントニウス、そしてカエサルが遺言状の中で後継者として指名していた18歳の少年の存在があったからです。

その少年こそ後に初代ローマ皇帝となるオクタヴィアヌスです。

裕福な名門の家に生まれた訳でもなく、ましてカエサルと血縁関係にあった訳でもありませんでした。

早くして父を亡くしたあとに母と一緒に少年期をカエサルの実家で過ごした程度の縁しかなく当時は無名の存在であり、この後継者指名に誰よりも驚いたのはオクタヴィアヌス自身であったに違いありません。

カエサルの死と共にその遺産を受け継ぎ養子になったオクタヴィアヌス少年でしたが、カエサルの後を狙うアントニウスは歴戦の武将であり、執政官も務めた経験も持っていました。

年齢に倍もの開きがある両者を比べると、その実力は歴然としていたように見えますが、オクタヴィアヌスを後継者にしたのはカエサルの慧眼だったのです。

もしオクタヴィアヌスがカエサルのように快活で開放的な性格だとしたらアントニウスに警戒されたかもしれませが、若い時から物静かに熟考するタイプだったオクタヴィアヌスの性格も幸いしたように思えます。

「オクタヴィアヌスの力だって?亡きカエサルの名を背にしているだけさ」

とアントニウスに侮られながらもオクタヴィアヌスは、静かにそして着実に力を蓄えていきます。

一方アントニウスは、エジプトの女王クレオパトラと恋に落ち、強大なローマの東を領有しつつも好機を逃すどころか失策まで犯す始末です。

アクティウムの海戦によりアントニウス、クレオパトラ連合軍はオクタヴアヌスの前に敗れ去りますが、すでに戦う前から勝負は着いていたようなものです。

アントニウスを倒し、ようやく事実上のカエサルの後継者となったオクタヴィアヌスがローマに凱旋したとき、少年は33歳になっていました。

ローマ人の物語〈12〉ユリウス・カエサル―ルビコン以後(中)

ローマ人の物語〈12〉ユリウス・カエサル―ルビコン以後(中) (新潮文庫)

ファルサルスの会戦ポンペイウスに勝利したカエサルは内乱の勝利者となり、共和政ローマにおける最高権力者となります。

当時の一流の知識人キケロはカエサルの友人でありながら、その政治的信条はカエサルとまったく逆であり、そのため内乱ではポンペイウス側に走った1人です。

カエサルが勝利したことによって、その報復を恐れて極度に神経質になっていたキケロでしたが、凱旋したカエサルはキケロを見つけるや抱擁し、親しい言葉をかけられるのです。つまり報復に至ってはまっくの杞憂に終わるのです。

知識では同格の2人であってもカエサルの器の大きさを伝えるエピソードですが、カエサルはキケロに限らずポンペイウス側に回ったローマ人をすべて許し、元の地位を保証さえしたのです。

スッラのように勝利者になった後に「処罰者名簿」を作成し、多くのローマ人の粛清を行ったのに比べて対照的であったのは、前回紹介した通りです。

内乱に決着がついた後もカエサルは、スペイン、アフリカ、エジプト、小アジアと遠征を続けますが、「来た、見た、勝った」に代表されるようにポンペイウス亡き後のカエサルにとって脅威になる敵はどこにも存在しませんでした。

そしてローマに凱旋したカエサルは独裁官として本格的に国家改造に取り組みます。

カエサルは軍の総司令官としても一流でしたが、政治家としても非凡な才能もっており、彼が"天才"と評される所以です。

本書で触れられているカエサルの改革は以下にように及びます。

  • 暦の改定
  • 通貨改革
  • 政治改革(元老院/市民集会/護民官/終身独裁官)
  • 金融改革
  • 行政改革
  • 属州統治
  • 司法改革
  • 社会改革(福祉政策/失業者対策・植民地政策/組合対策/治安対策/交通渋滞対策/清掃問題/贅沢禁止法)
  • 首都再開発

こうした政策をわずか数年の間に、しかも各地の戦闘を指揮しながら進めるという離れ業をやってのけるのです。

しかもカエサル1人の意志からこれらの改革が成されてゆくということは、少数寡頭の共和政ではなく、絶対的な権力を1人に集中させる帝政への布石となり、のちの時代には「カエサル」という単語そのものが皇帝を意味するようになるのです。

一方で長年に渡りローマの政体であった共和政を信奉する保守派にとってカエサルは憎むべき相手であり、またカエサル自身が"寛容(クレメンティア)"を体現する人物として不満分子を詮索することもなく、身の回りの警護にすら殆ど気を使わなかったことが天才に悲劇をもたらすことになるのです。

ローマ人の物語〈11〉ユリウス・カエサル―ルビコン以後(上)

ローマ人の物語〈11〉ユリウス・カエサル―ルビコン以後(上) (新潮文庫)

これまでユリウス・カエサルの幼年期からガリア戦役までを紹介してきましたが、いよいよ本巻から共和政ローマを敵に回しての内乱が始まります。

今までのカエサルの戦争相手は外敵であったガリア人ゲルマン人でしたが、今回は内乱ゆえに同胞のローマ人同士が剣を交えることになるのです。

それは機動力に優れた騎馬隊で相手を包囲し主力の重装歩兵で敵を粉砕するが定石であったローマ軍の戦法、そして装備や規律に至るまでもまったく同じ兵士たちが敵味方に分かれて戦い、同時に肉親が敵味方に分かれて戦場で対峙するということを意味していました。

しかも総司令官はガリア戦役で武功を挙げたカエサル、一方はオリエント平定や海賊殲滅作戦で英雄としての名声を得ているポンペイウスという当代きっての名将同士が激突するのです。

序盤はガリアにしか地盤を持たないカエサルが少数精鋭で電光石火の進撃を見せ、最小限の労力でイタリア本国を集中に収めます。

ポンペイウスは主要な元老議員たちとイタリアを引き払いますが、それでも地中海沿岸地域に地盤を持つポンペイウスは兵力でも経済力でもカエサルを圧倒していました。

一方カエサルにとって優位な点は、直前までガリア戦役に参加していた熟練の兵士と百人隊長に代表される"質"にありました。

量によって包囲を狙うポンペイウス、質によって各個撃破を狙うカエサルの戦いは壮大な戦略によって繰り広げられ、読者は2人の戦いの行方に目が離せない歴史小説の醍醐味を味わうことができます。

最終的にギリシアで行われたファルサルスの会戦で雌雄を決することになる2人の戦いですが、この会戦の勝利者には、アレクサンダー大王が勝利したイッソスの戦いハンニバルが勝利したカンネの会戦スキピオが勝利したザマの会戦に連なる古代の英雄たちと肩を並べられる栄誉が待っているのです。

カエサルやポンペイウスの意図や戦術については本書で丁寧に言及されているため割愛しますが、個人的に感心したのは、戦略や戦術以前にカエサルがこの内乱で一貫して発揮した寛容(クレメンティア)に代表されるその方針です。

マリウススッラは粛清によって反対派を徹底的に根絶やしにする手段を選びましたが、カエサルは正反対のことをしたのです。

カエサルは友人のキケロへの手紙に次のように書いています。

わたしが自由にした人々が再び剣を向けることになるとしても、そのようなことには心をわずらわせたくない。何ものにもましてわたしが自分自身に課しているのは、自らの考えに忠実に生きることである。だから、他の人々も、そうあって当然と思っている

たとえばカエサルは、自らの右腕ともいえるラビニエスがポンペイウスへ帰順することさえ無条件に許しています。

戦況の不利、有利に関わらず一貫して寛容な精神を発揮したカエサルは、寛容の神として神格化されるまでに徹底したものだったのです。