本と戯れる日々


レビュー本が1000冊を突破しました。
引き続きジャンルを問わず読んだ本をマイペースで紹介してゆきます。

死者の書・身毒丸



民俗学の分野を切り開いた柳田國男の弟子の中でもっとも有名なのが、本書の著者である折口信夫(おりくちしのぶ)です。

折口氏は民俗学者であると同時に、文学や詩人・歌人としても活躍しており、柳田氏とは違った角度から民俗学に取り組み、「折口学」として一派を形成するまでに至ります。

大まかにいえば、柳田氏が今に伝わる伝承などを細やかに収集し、比較検討する現場重視型の研究家であったのに対し、折口氏はその幅広い見識で仮説を打ちたてて、その裏付けを証明しようとした理論派の研究家であるといえます。

私自身は生々しい民間伝承がそのまま収録されている柳田氏の著書の方が面白く読めますが、舌鋒鋭い柳田氏の著書も捨てがたいものがあります。

本書には折口氏が発表した代表的な文学作品である「死者の書」、「身毒丸」が収められています。

つまり折口氏の文学者としての側面をクローズアップした1冊であり、近代日本文学の金字塔と評価する声もある「死者の書」を中心に取り上げていきます。

物語は奈良時代の平城京が舞台になっています。

あらすじそのものはシンプルに構成されており、主人公である藤原南家の郎女(いらつめ)が、二上山に葬られた大津皇子の霊魂に誘われ館を抜け出し、女人禁制の当麻寺に入り込み、そこで鎮魂のための蓮糸で織った曼荼羅を完成させるといったものです。

本作品は綿密に構成されたストーリーからなる"小説らしい小説"というタイプではなく、作品全体から漂う古代日本の雰囲気を感じながら読む作品であるといえます。

まず作品中で使われている仮名遣いが古く、また漢字のヨミも古風であることです。
読者によっては明らかに読みづらいため、ストーリーや情景が頭に入ってこないという人も出てくるような好き嫌いが分かれる部分だといえます。

しかしこれは、作品の雰囲気を演出する上で欠かせない要素になっています。

たとえば郎女に何者かが憑依したかのように家を彷徨い出た場面の一部は以下のように描写されています。

姫は、何処をどう歩いたか、覚えがない。唯家を出て、西へゝと辿って来た。降り募るあらしが、姫の衣を濡らした。姫は、誰にも教はらずに、裾を脛(ハギ)まであげた。風は、姫の髪を吹き乱した。姫は、いつとなく、髻(モトゞリ)をとり束ねて、襟から着物の中に、含(クゝ)み入れた。夜中になって、風雨が止み、星空が出た。

短く簡潔な文章でありながら、古代の風情を保ちつつ、その情景が浮かんでくるような表現にまとまっています。


次に物語の中に時間軸を取り入れ、その奥行きを演出している点が挙げられます。

あらすじがシンプルであることは先ほど述べましたが、約100年前の飛鳥時代、時には神話の時代を行き来することで、時間的な奥行きを持たせています。

古代日本の人々は時間的な概念がゆるく、語部(かたりべ)が語る伝説が人々にとって、現代に生きる我々よりも身近に実感できる時代だったことが作品の中から漂ってきます。

つまりストーリーそのものよりも洗練された表現、そして神秘的な古代日本の雰囲気や情景を楽しめる作品であり、折口氏の国学者、民俗学者としてのバックボーンを存分に発揮されています。

ストーリー重視の現代小説に食傷気味でいつもと違う小説を読んでみたい方は、本書を手にとってみては如何でしょうか。

「尖閣問題」とは何か



国際政治論、外交史の専門家である豊下楢彦氏が「尖閣問題」を解説しつつ、その裏にある真実を浮き彫りにし、打開する道筋を探ってゆく1冊です。

外務省がインターネットなどを通じて啓蒙活動を続けていますが、尖閣諸島は"日本固有の領土"であり、その領有権についても正統なものである。つまり尖閣諸島には"領土問題は存在しない"というのが日本政府の公式な見解です。

なぜ"日本固有の領土"であるかについては、メディアでも多く取り上げられており、日本政府も特設ページで詳しく解説しているため、ここでは置いておくとして、"領土問題は存在しない"については、多くの日本人が疑問を抱いているのではないでしょうか。

なぜなら隣国である中国も1992年以降、尖閣諸島を"中国固有の領土"であると主張しており、それは宣言のみに留まらず、近年はその強大な軍事力を背景に尖閣諸島周辺の日本の領海に海洋巡視船や漁船が頻繁に侵入するといった実力行使に出ています。

とくに2013年には中国海軍の巡視船が、射撃用レーダーを自衛隊の艦船へ照射するという一触即発の事態まで起こりました。

今年に入って米軍事外交誌が尖閣諸島を巡る日中軍事衝突の可能性を示唆するなど、日本国民として不安を持たない方が不思議な状態です。

また忘れてはならないのが、台湾も日本に植民地化される以前から尖閣諸島周辺で漁を営んでおり、同じく領有権を主張していることです。

こうした外交的・軍事的緊張だけが高まり、解決の糸口が見えない要因が「米国ファクター」、つまり日本の同盟国であるアメリカにあると著者は指摘しています。

まず本書で紹介されている尖閣諸島の概要を簡単に紹介すると以下の通りになります。

尖閣諸島は、魚釣島、久場島、大正島、北小島、南小島という大小五つの島と三つの岩礁からなる、総面積で約六平方キロメートルの島々である。
最も大きい魚釣島を起点にすると、沖縄本島まで約四二〇キロメートル、石垣島まで約一七〇キロメートル、台湾まで約一七〇キロメートル、中国大陸まで三三〇キロメートルに一位置する。

そのうち久場島大正島は「射爆撃場」として米海軍に貸し出されています。
つまりこの両島は、米軍の許可なしには日本人が立ち入るこのできない米軍の排他的な管理区域になっているのです。

にも関わらず米国は、ニクソン政権時の1971年から一貫して尖閣諸島の領有権についていずれの国も支持しない「中立の立場」を取り続けているのです。

日本にとって最大の同盟国である米国のこの態度は、中国・台湾への「政治的配慮」が重要だとしても、日本を侮辱するものだと著者は断言しています。

しかも日本政府は、唯一無二の同盟国であるはずの米国の無責任な態度を責めるどころか、この2島の返還を求めることさえしていないのです。

さらに驚くべきことに、30年以上に渡ってこの島が訓練に使用された実績がなく、その必要性さえ疑われる状態にも関わらずです。

著者はこうした異様な状態を政界もメディアも正面から取り上げないことの危機感を訴えると同時に、米国のオフショア・バランシング戦略に基づいたジャパンハンドラーであるとことを指摘しています。

オフショア・バランシング戦略については、防衛省のホームページでも解説されていますが、簡単に説明すると米国は(ユーラシア)大陸における闘争に直接関与することは極力回避し、これを同じ地域の他の大国によって抑止させることで米国の負担を軽減し、関係諸国で負担を均等化するといったものです。

聞こえはよいですが、実際には米国にとって遠い海の向こうに現れた強大な中国という勢力に対し、同じく海の向こうにある日本という別の勢力を擁して支援を与え、日中間で緊張を高めることで、米国自身は安全を確保するといった戦略にあると著者は指摘しています。

これは著者に指摘されるまでもなく。過去のフセイン(イラン)ビンラディン(アルカイダ)と米国の関係を連想させるものがあります。

ジャパンハンドラーについては言うまでもなく、米国が主導権をもって日本政府を操っていることを指します。

本書では北方領土竹島にも尖閣諸島と共通する問題が潜んでいると指摘し、そこから日本のとるべき新しい戦略的、外交的方針を示唆するまでに及びます。

冷静に考えれば日本は、中国(尖閣諸島)、韓国(竹島)、ロシア(北方領土)と隣接する3国と領土に関する問題を抱えており、そのすべてにおいて好転の兆しが見えないという尋常でない状況です。

にも関わらず、日本は遠く離れた米国との間に安保関連法案の成立などによって同盟関係をますます強化しようとしています。

本書の冒頭に書かれていますが、領土問題となると人の住めないようような岩礁であっても、両国の世論はいとも簡単に沸騰します。
この「領土ナショナリズム」は、国内矛盾を外部に転換しようとする「扇動型政治家」にとって格好のターゲットになる危険性があり、中国だけでなく、日本国内にもこうした風潮が明確に現れ始めています。

著者である豊下氏の考えに賛同する、しないは別としても、メディアや国民が見失いがちな角度から「尖閣問題」に迫った本書を少しでも多くの人に読んで考えて欲しいと思います。

僕がアップルで学んだこと



ウォルター・アイザックソン氏のスティーブ・ジョブズの伝記を読んで間もないということもあり、ついタイトルに惹かれて手にとった1冊です。

本書の出版が2012年4月であることを考えると、スティーブ死去の話題に乗じて出版された本の1冊だと思われますが、昨今の出版不況を考えると頭から否定する気にはなれなく、むしろ出版社のしたたかさを感じます。

著者である松井博氏の経歴には、1992年にアップルへ入社し、米国アップル本社のシニアマネージャーとして2009年まで勤務したとあります。

つまりアップルの業績がどん底にある時期から同社を追放されたスティーブが不死鳥のごとくCEOに復帰し、次々と新製品を発表して時価総額世界一の企業にまで成長してゆく過程を体験した貴重な人物です。

本書の構成は次のようになっています。

  • 第1章 腐ったリンゴはどのように復活したのか
  • 第2章 アップルの成功を支える方程式
  • 第3章 最良の職場を創る
  • 第4章 社内政治と賢く付き合う
  • 第5章 上司を味方につける
  • 第6章 己を磨く

大きな流れとしては、前半で著者がアップルで経験したこと、後半ではその経験を踏まえてビジネスマンへ向けた啓蒙的な内容になっています。

ここでは特に印象に残った部分のみをピックアップしてみようと思います。

まずアップルは、その製品自体の「美しさ」を世界的に評価されています。
それも"複雑な造形美"ではなく、"シンプルで直感的な美"といったポリシーを貫き続けています。

とくに"シンプル"に徹する志向は、世界的なグローバル企業に成長した今も組織作りにも適用されています。

守るべき社内ルールは最低限に抑えられ、組織階層は出来る限りフラットであるため、規模の大きな組織にしては驚くほど機敏に動くことが出来ます。

その機敏性を利用してやるべきことにフォーカスを絞り、その集中力によって世界が驚くような製品が次々と生まれてくるのです。
また特定の事業に集中するためには、「やること」を決めるのと同じくらいの重要度で「やらないこと」を決める必要があるという主張には説得力があります。

そのため自然と社員に与えられる裁量と責任は大きくなり、社員同士の競争を促進し、それが賞与にもダイレクトに反映される文化であるというのは併せて知っておく必要があります。

とくにアップルがライバルとしていた追い続けていたソニーをあっという間に抜き去った最大の要因はここにあると思います。


もう1つ「社内政治と賢く付き合う」と断言する著者の主張は珍しいといえるでしょう。

どちらかといえば、率直な意見を言い合えるオープンな職場を作り、社内政治を生み出さない企業風土を作るのが重要だと説くビジネス書が多いのではないでしょうか。

しかし競争の激しいアップル社内において社内政治は必要悪であり、そこから逃げてしまうと、自分ばかりか部下たちの成果さえも横取りされかねないといいます。

自分の部署の上手なアピールの仕方はもちろん、仁義の切り方など普通のビジネス書には書かれないような内容が紹介されています。

良くも悪くも多くの特徴を持った個性的な企業であり、「世界最強」のアップルの内部にこうした文化があるというのは知っておいて損はありません。

海賊とよばれた男(下)



出光興産の創業者・出光佐三をモデルとした、国岡鐵造国岡商店の成長を描いた長編小説「海賊とよばれた男」の下巻をレビューしてゆきます。

戦前に海外進出を果たし大きく成長を遂げた国岡商店は、その海外進出が仇となって敗戦によってすべてを失うことになります。

企業としては大きな負債を抱え、創業者である鐵造自身も終戦時には60歳を迎えていました。

戦後はあらゆる物資が不足し石油も例外ではなく、販売できる商品すら仕入れることが出来ない状況の中では会社を清算するのが普通ですが、作品の冒頭で「ひとりの馘首もならん」と鐵造が厳命した通り、赤字に苦しみつつも1人の従業員さえも解雇することはありませんでした。

ここで上巻~下巻と読み進めてゆくと、本作品がまるでマンガのストーリーのようであることに気付きます。

それは主人公である国岡鐵造をはじめとした国岡商店の従業員たちは、多くの困難を乗り越えて成長してゆきますが、その度に強大な敵が次々と登場するからです。

その中で最大の敵となるのがセブン・シスターズと呼ばれる7社の国際石油資本です。

世界の石油生産を独占していたセブン・シスターズは、GHQ、日本政府、アメリカ政府やイギリス政府へ対しても強い影響力を持っていました。

日本人による民族資本企業であることに誇りを持っていた国岡商店は、彼ら外国資本を受け入れず日本国内の石油シェアを広げていったため、さまざまな妨害を受けることになるのです。

いくら国岡商店が大企業とはいえ、彼ら全員を敵に回すとなると原油を入手できる術がありません。

そこで鐵造は、国内最大の石油タンカーを建造し、当時正式な国交のなかったイラン国営石油会社から単独で原油を輸入することを決断するのです。

この部分はストーリー全体を通じてのクライマックスとなるため詳しくは説明しませんが、絶体絶命に陥った主人公が起死回生の必殺技を放つのに似ています。

しかしこれは行く手を遮る敵を倒すといった単純な動機からではありません。

国際石油資本が結託し、産業にとって血液ともいえる石油を通じて世界中を支配下に置こうとする野望を挫くという決意が根底に流れているのです。

作品中にある鐵造の「俯仰天地に愧じず」というセリフ、つまり現代風にいえば「正義は勝つ」という信念を持って事に臨み続ける姿が、自社の利益だけを追求し、都合の悪い真実を隠し続けようとする現代の大企業に対するアンチテーゼとなり、多くの読者に受け入れられた作品となったように思えます。

海賊とよばれた男(上)



今や国民的人気作家となった百田尚樹氏の作品です。

200万部以上を売り上げ、2013年の本屋大賞(書店員による投票で決められる文学賞)を受賞した同氏の代表作品といえる1冊です。

明治18年生まれの主人公・国岡鐵造が創業した国岡商店が、戦争や外国資本の大企業(石油メジャー)の妨害といった荒波を乗り越えて大企業に成長してゆく過程を描いた長編小説です。

国岡鐵造は架空の人物ですが、出光興産を創業した出光佐三をモデルにしていることは広く知られており、城山三郎氏に代表される経済小説のように、企業とその創業者の歴史を追ってゆく手法がとられています。

出光」といえばガソリンスタンドが真っ先に思い浮かびますが、出光興産はガソリン販売だけの企業ではなく、石油精製から化学製品の製造、資源開発までその事業は広範囲に及び、2014年時点で4.5兆円にも及ぶ売上を誇る日本有数の巨大企業です。

この出光興産を一代で築き上げた出光佐三は、まさしく立志伝中の人物であるといえます。

本作品の構成は以下のようになっています。

  • 第一章 朱夏 昭和20年~昭和22年
  • 第二章 青春 明治18年~昭和20年
  • 第三章 白秋 昭和22年~昭和28年
  • 第四章 玄冬 昭和28年~昭和49年
  • 終章

上巻では一章・二章が収められていますが年代を見てもらえれば分かる通り、物語は終戦直後の日本から始まります。

国岡商店は戦前から海外進出していたこともあり、敗戦によって壊滅的な打撃を受けました。

にもかかわらず鐵造は、重役たちの人員整理の意見を退けて「ひとりの馘首もならん」と厳命します。

そこには「店員は家族と同然である」という信念があり、就業規則も出勤簿もないという独自の社風がありました。

万が一の時には「ぼくは店員たちとともに乞食をする」とさえ言い放つ鐵造には、明治生まれの頑固なまでに信義を重んじる精神を持っていました。

そもそも国岡商店は、その成り立ちからして異様でした。

神戸高商(現・神戸大学)を卒業した鐵造は、同級生が銀行や商社へ就職する中で従業員がわずか3人の酒井商会に入社します。

そこで商売のイロハを学んだ鐵造は、日田重太郎という資産家から6000円もの大金を借りて独立します。

日田は資産家ではありましたが、「国岡はいずれ立派なことを為す男だ」と見込んで、私財を投げうち利子も返済の必要もないと前置きして鐵造へ大金を渡すのです。

当時は国内で車が普及しておらず、鉄道や船さえも石炭を燃料としていた時代であり、その中で鐵造はいち早く"石油"の持つ可能性に着目します。

しかし時代の流れを先読みし過ぎたため需要が供給に追いつかず、また古くからの縄張り意識の中で国岡商店は苦戦を続けます。

そこで鐵造は土地で販売することをやめ、伝馬船に軽油を積んで海上で販売する手法を思いつきます。

門司や下関の漁船相手に関門海峡で急速に勢力を伸ばす国岡商店の伝馬船は、「海賊」としてライバル商店に怖れられ、その由来が本書のタイトルになっています。

やがて国内での成長に限界を感じた鐵造は、海外へ活路を開くべく満州上海、そして東南アジアにまで進出してゆくのです。

江戸時代生まれの岩崎弥太郎渋沢栄一といった実業家が国内産業を興した人物ならば、国岡鐵造(出光佐三)は国内企業が海外進出するきっかけを作った実業家の1人といえます。

埼玉化する日本



2014年の新語・流行語大賞に、“マイルドヤンキー”という言葉がノミネートされました。

これは地方に住む若者の消費文化を表した造語であり、上京志向を持たず、生まれ育った土地で学生時代からの親友と家族を大事にして暮らす新保守層を指しているようです。

実際にマイルドヤンキー論をテーマにした書籍もそれなりに出版されており、特にマーケティング業界の界隈において"マイルドヤンキー"が定着しつつあるようです。

関連書籍を読んでいるわけではありませんが、何となく言わんとしていることは分かりますし、本書はこうした文脈の延長線上に執筆された本です。

ただし著者は「マイルドヤンキー論」に理解を示しつつも、一定の距離を置き、大型ショッピングモールが点在する埼玉県をモデルケースとした新しい消費の行方を模索しています。

著者の中沢明子氏は東京生まれ東京育ちであり、自らを"消費バカ"と認めるように、最先端のファッションとグルメにアンテナを張り続けてきました。

しかし埼玉で出会ったショッピングモールの便利さ楽しさに衝撃を受け、埼玉県へ移住までした著者はこれからの消費を表す指標として、感度の高い・低いをキーワードにした消費に着目するようになります。

分かり易く表現すれば"ユニクロ"のような地方でも購入できる大量生産される商品は感度が低く、高品質・高価格で銀座や青山でなければ入手できないような小ロットの最先端で高価な商品を感度が高いと分類することができます。

本書では、日常生活の消費活動を賄うことが出来るショッピングモールが近くにあり、月に数回は少しだけ遠出して東京で最新の消費活動を楽しめる"埼玉"という地域をポジティブな意味で使用しています。

つまり都会から"ダサイタマ"と軽蔑されていた地域に特徴ある巨大ショッピングモールが次々とオープンし、東京とほど近い距離感もあって、今や消費者にとって理想的な場所になりつつあるということです。

著者独自の視点で東京近郊ショッピングモールの特徴、そして採点を行い、さらにエキナカといったJR駅と直結した商業施設の新しい可能性、地域に根付いたチェーン店の解説、埼玉県川越市を例にした町おこしの事例という感じで話題がどんどん広がってゆきます。

そして本書の後半で、それらの試みをシャッター商店街が増え続ける地方都市再生のヒントとして示してゆくのです。

著者の中沢氏は、マーケティングの専門家ではなく、まして経営者でもありません。
ファッション、グルメに興味を持つ1人の消費者という視点から本書を執筆しているだけあって、難しいマーケティング用語は殆ど登場せず、かわりにショップやブランドの実名が次々と登場します。

最新ファンションやグルメに疎い私には馴染みのない名称が登場することもありますが、具体的かつ分かり易く解説しようとする著者の姿勢には共感できます。

マーケティングや実際に商売をされている人に限らず、ごく普通の消費者にとっても新しい視点でこれからの商店街やショッピングモールの将来を考えさせてくれる1冊になっています。

スティーブ・ジョブズ 2



引き続きウォルター・アイザックソン氏によるアップル創業者スティーブ・ジョブズ伝記の下巻のレビューです。

自らの言動が災いして自らが創業したアップルを追い出されたスティーブ・ジョブズでしたが、すぐにネクストというコンピュータ会社を設立し、ジョージ・ルーカスからピクサーというアニメーション会社を買収します。

いずれの会社も順風満帆とはいえない状態でしたが、ジョブズのいなくなったアップル社もまた低迷期に入ります。

やがてピクサーにはジョン・ラセターという天才的なアニメータ作家の活躍もあり、「トイ・ストーリー」をヒットさせたことにより、株式公開を行い安定した成長を期待できる状態になりました。

そしてジョブズがアップルにアドバイザーとして復帰するやいなや当時のCEOであったギル・アメリオを追い出し、アップルの最高責任者へ返り咲きます。

もちろんジョブズにかぎって過去の苦い経験によって性格が丸くなることなど決してなく、最前線で陣頭指揮を取りながら新製品の開発に携わります。

その結果は火を見るより明らかで、ジョブズの要求や罵倒に耐えられなくなった部下たちは次々と辞めてゆき(あるいはクビにされ)ます。

ジョブズにとって完璧な製品を作り上げることのみが最優先事項であり、彼の「現実歪曲フィールド」によって困難と思われていた製品が完成するのです。

彼は完璧な作品を求めるアーティストのような激しい気性を持ち、目的のためなら業界の常識やルールなど簡単に無視し、他人の立場になって気持を理解するつもりなどまったくありませんでした。

社員の雇用を守り、その幸福を実現するつもりなどなく、アップリには一流の能力を持った人間のみが残るべきであり、B級の能力を持った人間を組織から排除することが、よい製品を作るためには必要だという考えを明確に持っていました。

私個人はアップル製品のファンではなく、同社のとるクローズド戦略よりもグーグルやマイクロソフト社のオープン戦略の方が好みですが、それでも本書を読み進めるにしたがい経営者として欠点だらけのジョブズの魅力に引きこまれてゆきます。

ジョブズが陣頭指揮を取る新製品開発の現場は戦場さながらの緊張感と厳しさがありましたが、彼は自らに対しても妥協を許さない姿勢で臨み、社長室にふんぞり返って指示をする経営者ではありませんでした。

アップルのような世界的な大企業において、新製品開発の細かい部分にまで関わる最高責任者は前例がありません。

誰よりも熱い情熱とビジョンを持ち、部下たちはその力に牽引されるかのように達成困難と思えるような、自分自身が驚くほどの成果を生み出すのです。

ジョブズのこの姿勢は、死に至る病魔(がん)に侵されたあとも変わることはありませんでした。

30年に渡って失わなかった常に前に進み続ける情熱、類まれな直感想像力を持っていたジョブズの功績を本書では次のようにまとめています。

  • アップルⅡ - ウォズニアックの回路基板をベースに、マニア以外にも買えるはじめてのパーソナルコンピュータとした。
  • マッキントッシュ - ホームコンピュータ革命を生み出し、グラフィカルユーザインターフェースを普及させた。
  • 『トイ・ストーリー』をはじめとするピクサーの人気映画 - デジタル創作物という魔法を世界に広めた。
  • アップルストア - ブランディングにおける店舗の役割を一新した。
  • iPod - 音楽の消費方法を変えた。
  • iTunesストア - 音楽業界を生まれ変わらせた。
  • iPhone - 携帯電話を音楽や写真、動画、電子メール、ウェブが楽しめる機器に変えた。
  • アップストア - 新しいコンテンツ製作産業を生み出した。
  • iPad - タブレットコンピューティングを普及させ、デジタル版の新聞、雑誌、書籍、ビデオのプラットフォームを提供した。
  • iCloud - コンピュータをコンテンツ管理の中心的存在から外し、あらゆる機器をシームレスに同期可能とした。
  • アップル - クリエイティブな形で想像力がはぐくまれ、応用され、実現される場所であり、世界一の価値を持つ会社となった。ジョブズ自身も最高・最大の作品と考えている。

PCやスマートフォン、デジタルコンテンツに至るまで、ジョブズの存在がなかったら今のインターネットは違ったもの、つまり今ほど便利でない別のものであった可能性は高いと言わざるを得ません。

氾濫している過去の経営者の金科玉条を寄せ集めたようなビジネス書よりも、ジョブズの生涯を赤裸々に描いた本書から得られるものの方が大きいように思えます。

ジョブズほどの功績を残した人間でさえ完全な人間ではなく、むしろ多くの欠点を持った人間だったのです。


本書を生み出した著者であるアイザックソン氏の丁寧な取材、そして作家としての真摯な姿勢を感じることができ、他の作品も読んでみようという気にさせてくれます。

スティーブ・ジョブズ 1



言わずと知れたアップルの創業者であり、2011年に亡くなったスティーブ・ジョブズの伝記です。

著者のウォルター・アイザックソンはアメリカの伝記作家として有名であり、本書はジョブズ自身が伝記の執筆を依頼したという経緯がありますが、依頼されたアイザックソンは、ジョブズが内容へ対して一切干渉しないことを条件に承諾したと言われています。

そしてアイザックソンはジョブズへの独占取材を重ね、また関係者からの多くのインタビューによって本書を完成させました。

もっともジョブズは本書の原稿を読むことのないまま亡くなってしまったという説が有力です。


アップルは時価総額世界一を誇る企業であり、同社の製品であるiPhoneの存在を知らない人は殆どいないはずです。

ほかにもMacシリーズやiPodiPadなど数々の世界的ヒット製品を世の中へ送り出し、そのスタイリッシュなデザインから多くの熱心なファンがいることでも知られています。

このアップルに加え、同じく時価総額2位のグーグル、3位のマイクロソフトによってインターネットのプラットフォームが支配されているといっても過言ではありません。

私がアップルの名前を知ったのは1990年台後半ですが、当時はWindowsがOS(オペレーションシステム)として圧倒的な強さを持っており、アップルは過去に一世を風靡したものの凋落しつつある企業といった印象でした。

したがってマイクロソフトの創業者であるビル・ゲイツの方が有名でしたが、2000年代へ入りiPod、iPhoneといった製品が日本でも大ヒットするに至ってスティーブ・ジョブズの名前は誰もが知るようになります。

日本では松下幸之助盛田昭夫、アメリカでいえばヘンリー・フォードトーマス・エジソンといった伝説の経営者に比肩する実績を残したジョブズだけに起業家、経営者として完璧な能力を兼ね備えた人間というイメージを抱きがちです。

しかし本書に書かれているジョブズは等身大の、私たちと同じく多くの欠点を持った人間であることが分かってきます。

学生時代は勤勉とは言い難い学生でしたが(実際に大学を中退している)、そればかりかマリファナやLSDといった麻薬を使用し、インドへ放浪して禅に傾倒するなど彼には多くの側面があります。

そんなジョブズを表現する代表的な言葉が「現実歪曲フィールド」です。

取材を受けたジョブズを知る人々はそれを次のように説明します。

「カリスマ的な物言い、不屈の意志、目的のためならどのような事実でも捻じ曲げる熱意が複雑に絡み合ったもの - それが現実歪曲フィールドです。」

「自己実現型の歪曲で、不可能だと認識しないから、不可能を可能にしてしまうのです」

日本で用いられる「信ずれば通ず」に近く、どちらかといえば肯定的な意味で使われますが、ジョブズのフィールドに囚われた人々にとってはそう簡単に片付けられるものではありません。

目的を達成するためなら相手が誰であれ罵倒し、脅し、それでもダメなら裏切ったりクビにすることも躊躇しないのがジョブズだからです。

彼とともに働く人々は、達成が不可能と思われるノルマを不眠不休でこなした挙句、「クソ野郎」と評価されることさえ日常茶飯事だったのです。

つまり理想を求める彼の評価は、つねに「最高」か「最低最悪」の両極端しかなく、世間的なルールに自分は従う必要がないという信念さえ抱いていたのです。

優れた経営哲学、人心掌握術を持った経営者というよりも、混乱と混沌、そこから生まれる理想と情熱に燃える人間がジョブズでした。

そんな言動が災いしたジョブズは、自らが創業したアップルを追放されるという屈辱を経験しますが、ここで終わらないのがジョブズたる所以です。

上下巻で800ページ以上にも及ぶ長編は、まさしく"怒涛"という表現がピッタリ合うようなジョブズの人生が綴られており、下巻では不死鳥のごとくアップルに復帰したジョブズが、世界を一変するような製品を次々と世に送り出すことになるのです。

真昼の悪魔



昭和55年に発表された遠藤周作氏の小説です。

本書は世界的にも文学作品で取り上げられる機会の多い"悪"をテーマにしています。

物語の主人公はある医大病院に勤務する女医ですが、彼女は日常生活に無感動であり、自らの心が乾ききっていることに気付きます。

職務上の医者としての義務は果たすものの、他人が苦しむのを見ても、またどんな罪を犯しても何とも思わないという心の空虚を抱えたまま、次々と悪に手を染めてゆくのです。。。

本書はミステリー形式で書かれており、次々と"悪"に手を染める女医の正体が最後まで謎のままで物語が進行します。

この作品で取り上げられる"悪"とは、カネ欲しさの暴力や復讐のための殺人といった人間の欲望や感情から離れたところにある、無道徳で無感動がゆえに"善悪の区別"といった概念からさえも離れた"純粋な悪"とでもいうべきものです。

本当の悪魔とは恐ろしい姿では決して現れず、目立たず知らぬ間に積もる埃(ほこり)のように人間の心に忍び寄る存在だということが、本作品に登場するカトリック教の神父によって語られます。

「悪魔は救いの手を差し伸べた神の手さえも振りほどくのか?」
「神は救いを求めない悪魔さえも包み込むのか?」

といった遠藤氏が作家生活を通じてテーマとした独自のキリスト教的視点が本作品にも織り込まれています。

自分は"悪"とは無縁だと思っている読者が大半だと思いますが、果たして本当にそうなのでしょうか?

なぜなら作品中で描写されている女医の無感動で乾ききった心は、現代人が多かれ少なかれ感じている空虚さ、そしてその救いを信仰に求めない姿を象徴しているからです。

一方で本作品にはミステリー的な要素が強く、また現代医療へ対しても鋭く批判的な視点で迫っている点など、多くの側面を持った遠藤氏の作品の中でも異彩を放つ存在といえます。

君に友だちはいらない



世界レベルで消費者と投資家が結びつく"グローバル資本主義"が台頭して久しい現在、私たちが消費する食料品や日用品が外国製であることは当たり前であり、それはテレビやスマートフォンといった家電やデジタル製品においても当然となりつつあります。

まして日本メーカーの製品であっても、実際には外国で生産されていることも珍しくありません。

このグローバル資本主義の正体は、世界中の人々が「よりよい商品を、より安く」を望んだ結果であると著者は主張しています。

しかしこの結果として、企業は効率化を図り、オートメーション化によって多くの人が機械によって仕事を奪われる、また人件費の安い新興国に仕事が移管してゆくことによって、人間(労働力)のコモディ化が進行しています。

たとえば専門的な技能を持ったエンジニアが不足する一方で、専門性が必要とされない分野ではブラック企業によって労働力が不当に安く買い叩かれ、業績が悪化するや否や簡単に解雇されてしまうのです。

著者はこのコモディ化から逃れ、人間として豊かに幸せに生きてゆくためには"仲間"をつくることだと主張しています。

この「仲間=チーム」の理想的な形として紹介しているのが、黒澤明監督の「七人の侍」です。
随分と古い例ですが、よいチームには以下のような共通点があると指摘しています。

  • 少人数である
  • メンバーが互いに補完的なスキルを有する
  • 共通の目的とその達成に責任を持つ
  • 問題解決のためのアプローチの方法を共有している
  • メンバーの相互責任がある

またチームとはミッションごとに結成されるべきであり、そのミッションが終了すれば解散するのが当たり前だとしています。

一般的な企業のように役職や年功序列によって組織される"部署"とは随分と違うことが分かります。

さらにフェイスブックをはじめとしたSNSを通じて気軽につながることのできる友だちは無意味であり、その友だちの数を競うことは弊害でさえあると断言しており、本書のタイトルの真意はここにあります。

著者の瀧本哲史氏には京都大学客員准教授という肩書がありますが、本業はエンジェル投資家です。

エンジェル投資家とは、個人的に自分の「持ち金」を、「事業アイデア」と「創業者」しかいないようなきわめて初期ステージのベンチャー企業に投資する人たちを指すようです。

そして著者は時流に合わせて変化してゆく「事業アイデア」よりも、そのチームのポテンシャルや可能性を重視する、つまり究極的には「人に投資」していると明言しています。

本書は「なぜよいチームが必要なのか?」、「よいチームとは何か?」、「よいチームはどのように結成するのか?」といった内容で構成されていますが、著者にとってはエンジェル投資家としての本業につながる本質的なテーマなのです。

本書はこれから起業を目指している人に留まらず、サラリーマンやフリーランスとして先行きに不安を感じている人にとってもこれからのワークスタイルを考える上で示唆に富む1冊になっています。

不格好経営―チームDeNAの挑戦



携帯電話に特化したオークションサイト「ビッダーズ」、「モバオク」を手掛け、SNS、そして携帯ゲームのプラットフォームとして躍進を遂げた「モバゲータウン」の運営会社であるDeNA(ディー・エヌ・エー)

同社のサービスを利用したことの無い人でも、横浜DeNAベイスターズのオーナー企業として知っている人は多いはずです。

本書はDeNAの創業者である南場智子氏が執筆していますが、ビジネス書というよりDeNAの創業物語と自伝を兼ねたノンフィクション作品と位置付けるのが相応しいでしょう。

南場氏自身もビジネス書はほとんど読まないと告白しており、成功した企業の結果論にしか過ぎない、つまり同じことをしても失敗する人がごまんといると指摘している部分は同意できます。

本書の特徴はタイトルからも分かる通り、会社が成長するまでに経験した失敗のフルコースを詳細に執筆することに重きを置いています。

人は成功よりも失敗から多くを学ぶ」という格言を持ち出すまでもなく、実際に痛い目にあわないと切実に学ぶことができない経験は私自身にも大いに当てはまります。

本書で紹介されている失敗の中には、DeNAが倒産の危機に瀕するような重大なものも含まれていますが、不眠不休も厭わず情熱とパワフルな馬力で障壁を次々と乗り越えてゆきます。

その過酷さは最近取り上げられるようになった"ブラック企業"と遜色のないものですが、"同じ目標に向かって全力を尽くし、達成したときのこの喜びと高揚感"が源泉となっている彼女たちの姿は、まさしく"ベンチャー企業"そのものなのです。

それはアスリートが過酷で苦しい練習を続け、オリンピックで金メダルを獲得した時の喜びに似ているのかも知れません。

南場氏はDeNAを立ち上げる前はマッキンゼーのコンサルタントとして働いており、当時は「自分が経営者だったらもっともうまくできるんじゃないだろうか」というおごりがありましたが、多くの失敗を通じて「コンサルティングで身につけたスキルや癖は、事業リーダーとしては役に立たないどころか邪魔になることが多い」とさえ考えるように至ったようです。

また経営を学術的に学ぶMBAについても自身の経験から、その有用性はかなり懐疑的だとも指摘しています。

ただいずれにしても本書に登場する数多くの失敗談はポジティブな雰囲気で書かれており、読者はまるでジェットコースターのような大きな起伏のある物語に一気に引きこまれてしまう面白さがあります。

それもわずか3人ではじめたベンチャー企業が10年を経ずに大企業へ成長するサクセス・ストーリーなのですから当然なのかも知れません。

あくまでも本書は経営の極意を伝えるものではなく、DeNAの場合のケーススタディに留まります。

しかし経営者やサラリーマン、学生という枠を超えて、多くの人たちを勇気づける1冊であることは間違いありません。

ガリア戦記



ガリア戦記」の著者は、歴史家モムゼンが"ローマが生んだ唯一の創造的天才"と評したユリウス・カエサルです。

以前紹介した塩野七生氏の長編大作「ローマ人の物語」でもカエサルの活躍に対してはもっとも紙面を割いて書かれており、ガリア遠征の内容についても地図を用いて分かり易く解説されています。

その解説に関しても本書「ガリア戦記」が原資料となっており、いつか読んでみたいと思っていた1冊です。

本書は学術的な傾向の強い岩波文庫から出版されいるだけあって、「ガリア戦記」をなるべく忠実に翻訳し、注釈についても最小限に抑えています。

よってカエサルや古代ローマの時代背景を知らずに本書をいきなり手に取るとやや戸惑うかも知れませんが、「ローマ人の物語」を読んだ後であればそれほど難解さを感じずに読むことが出来ると思います。

2000年以上も前に活躍した人物の著書を現代日本語で読むことができるのも、この「ガリア戦記」が後世で評価されていると共に、カエサルと同時代に生きたローマ一流の知識人・キケロさえも絶賛した名著であるためです。

なぜガリア遠征を行ったローマ軍総司令官であるカエサル自身が本書を執筆したかといえば、本国ローマ(=元老院)への戦況報告として、また遠征先における戦果をローマ市民へアピールするためのプロパガンダとしての役割を果たすためという説が有力です。

一方で本書が自画自賛、つまり自慢話に満ちた内容であったならば、これほど評価されることもなかったに違いありません。

「ガリア戦記」の特徴は、簡潔で明瞭ということに尽きます。

ローマ文化は古代ギリシアの影響を色濃く継承しており、叙事詩のように物語的な表現や、哲学書のようにロジックを駆使することも可能だったはずであり、あえていずれの方法も取らずにカエサル独自の表現方法で用いたことに価値があるのだと思います。

簡潔明瞭であるためには客観的な視点が効果的であり、カエサルは自分自身の事柄に対して"三人称"を用いることでこれを実現しています。

たとえば以下のような例です。

カエサルはこの戦争がすむとヘルウェティー族の他の部隊を追撃するためにアラル河に橋を架けて部隊を渡した。

ガリー人は偵察で事情を知ると攻囲を解き、全軍でカエサルに向かって来た。

最終的にはガリア遠征を成功させ、本国ローマで20日間にもわたり感謝祭が開催されます。これはローマ軍司令官にとって前例のない名誉ですが、当人のカエサルは驚くほど素っ気ない表現に留めています。

カエサル自身はビブラクテで冬営することにした。この年のことが手紙でローマに知れると、二十日間の感謝祭が催された。

"戦記"という名に相応しく、本書はガリアの至るところで7年間に渡り行われた戦争が書き綴られていますが、これだけの活躍をもってしてもカエサルの能力を評価するには足りません。

このガリア遠征を遂行する裏でローマの有力者でありカエサルのライバルでもあるポンペイウスクラッススと共に「三頭政治」を運営し、公共事業も数多く手がけ、のちの内乱に勝利してローマ帝国の礎を築くための政治活動までも精力的にこなしていたのです。

しかしこれは"政治工作"以外の何ものでもない、つまり元老院やローマ市民に知って欲しくない事柄だったのでカエサルはその一切を当然のように省略しています。

カエサルの偉業をすべて知りたいのなら、やはり「ローマ人の物語」を読むことをお薦めしますが、古代ローマ好きであれば一度は手にとって読んでほしい1冊です。

ゴマの来た道



著者の小林貞作氏のプロフィールには、植物細胞・遺伝学、放射線生物学とあり、ゴマの品種改良などで世界的にご活躍された研究家だったようです。

わたしたち日本人とってゴマは、料理からお菓子、またそれを原料とした植物油(ごま油)に至るまで食文化の中に深く溶け込んでいる食材です。

個人的にも未だゴマが苦手という人には出会ったことがありませんし、もちろん私にとっても欠かせない存在です。

しかしゴマという存在があまりにも日常に溶け込んでいるため、特別注目する機会もなく今まで過ごしてきましたが、本書はそのゴマの魅力を余すことなく紹介している1冊です。

ゴマの起源は古代アフリカにあり、発掘の結果から縄文晩期には関東以西で栽培されてきた可能性が高いということです。

つまり驚くべきことに日本人とゴマは、ほぼ稲作の開始と同じ時代にまで遡ることが出来るのです。

ごま油の原料となることから分かる通り、豊富で良質な植物性油脂をはじめ、タンパク質やミネラルなど栄養価の優れた植物であり、またその優れた旨味は、食べる者をゴマの虜にしてしまいます。

さらに乾燥に強いことから日照りにもよく耐え、少量で大きなエネルギーを提供してくれることから、古くから人間生存のために欠かせない植物として栽培され続けてきたのです。

そんなゴマは古代アフリカからさまざまなルートを経て、またその過程の品種改良の中でサバンナから寒冷地域にまで適応して世界中で愛されている食材となります。

本書ではゴマを利用した世界各国の食文化についても触れています。

またゴマの品種(たとえば黒ゴマと白ゴマの違いなど)や、著者自らが取り組んでいるゴマの品種改良にも言及されており、古代から現代に至るまでのゴマの遍歴がよく分かる1冊です。

本書によって普段何気なく食べているゴマに興味が湧くと共に、人類にとって大きな役割を果たしてきたゴマへ感謝せずにはいられなくなるのです。

指揮官たちの特攻



経済小説家と言われた城山三郎氏が描いた戦争ドキュメント小説です。

この作品には、それが関行男大尉と中津留達雄大尉という2人の主人公が登場します。

2人は海軍兵学校の七十期生の同期ですが、関は神風特別攻撃隊第一号、つまり日本ではじめて特攻隊として選ばれた軍人であり、中津留は1945年8月15日に行われた天皇の玉音放送後、つまり終戦を知らされないまま日本で最後に特攻した軍人となります。

特攻隊は当時のアメリカにとって、また現在の平和な日本にとって衝撃的な出来事だったため、多くの小説やドキュメント作品の題材となっています。

即席のパイロット訓練を受けた、中にはわずか17歳の少年兵が特攻隊として太平洋の海原に消えてゆく例すらありました。

タイトルに"指揮官たちの特攻"とありますが、彼ら2人のように戦闘機乗りの大尉といえば、正規の訓練を受けて第一線の操縦士として部下たちを率いて出撃したり、教官として若い操縦士へ訓練を施す立場にあります。

いわばもっとも現役で油の乗り切った熟練パイロットたちであり、"特攻"の持つ戦略的な有効性などを冷静に判断できる経験を持っている一方、上官の命令には絶対服従という軍の規律についても充分に承知していました。

よって実戦経験のない若いパイロットが特攻に赴くときの一途な祖国愛や家族愛とは違った複雑な心境がありました。

たとえば関は次のような発言を残しているそうです。

「日本もおしまいだよ。ぼくのような優秀なパイロットを殺すなんて。ぼくなら体当たりせずとも敵母艦の飛行甲鈑に五〇番(五〇〇キロ爆弾)を命中させる自身がある」

「ぼくは天皇陛下とか、日本帝国のためとかで行くんじゃない。最愛のKA(家内)のために行くんだ。命令とあれば止むを得ない。ぼくは彼女を護るために死ぬ。どうだすばらしいだろう!」

軍人としての自信とそれゆえの無念さ、さらに半ば自暴自棄から来る冗談とも取れるような発言に感じます。

中津留は関とは違って物静かな性格であったため、その種の発言が残っていません。

彼の残した手紙からでさえ、両親、そして臨月の妻の身を案じる一方で、自分が何時特攻を命じられてもおかしくない状況を知られて心労をかけてしまわないような配慮がされています。

もちろん中津留自身も心中では、自分の死によって戦況は何一つ変わらないことを充分に承知してはずであり、それどころか海軍航空隊が壊滅状態であったことから、日本が敗戦濃厚なことすらも容易に予測できた立場にいたといえます。

それでも中津留は、先輩や同僚、そして何よりも自らが手塩かけて育てた後輩たちが次々と特攻により散ってゆく毎日を見てきて、自分だけがその運命から逃れるなど考えもしなかったに違いありません。

ちなみに著者の城山氏は、当時17歳であり若くして海軍へ志願していました。

城山氏は「伏龍」と呼ばれる特攻兵器の訓練生であり、それは潜水服を着用して海底に潜み、棒付き機雷を敵艦艇の船底に突き上げて自分もろとも爆発させるという"人間機雷"というべき信じられないものでした。

こうした経験を持つ城山氏は、零戦桜花回天に代表される特攻兵器によって命を失った兵士たちの逸話を耳にしたり、遺品を見る度に胸が痛むと同時に、申し訳ないという気持を持ち続けてきたといいます。

しかしながら本作品は、戦後から60年近くが経過した著者の最晩年にあたる作品です。
おそらく城山氏にとってそれだけ重いテーマであり、それを消化するために長い年月を要したのではないでしょうか。

バナナと日本人



どこか文学的な匂いを感じるタイトルですが、まったく題名通りの内容の本です。

本書は今から30年以上も前に出版されていますが、バナナが日本人にもっとも身近な果物になったのは今から約40年ほど前のようです。

私が小さい頃からバナナはすでに一般的な存在であり、今でもスーパーで売られているバナナは、四季を通じてもっとも価格が安定し、かつ手軽に購入できる果物です。

バナナが日本で流通し始めた頃は、エクアドルそして台湾が主な輸入先でしたが、1970年台半ばからフィリピン産のバナナが急速にシェアを伸ばし、1981年には9割以上のバナナがフィリピン産に置き換わりました。

ちなみに最近の情報を知りたくて農林水産省のページを見てみましたが、2010年時点での国別輸入量においてもフィリピン産が95%を占めており、30年が経過した現在の状況もほとんど変わっていないようです。

フィリピン産バナナが日本へ大量に輸出されるようになった背景は明確で、それは日本が有望な市場になることを予測し、アメリカ資本の大企業がフィリピン(ミンダナオ島)に進出したからです。またシェアは低いながらも住友商事も同じくフィリピン進出を果たしています。

具体的な企業は以下の4社です。
誰もが知っているブランド名が含まれているのではないでしょうか。

  • ユナイテッド・ブランズ社(ブランド名:チキータ)
  • デルモンテ社(ブランド名:デルモンテ)
  • キャッスク&クック社(ブランド名:ドール)
  • 住友商事(ブランド名:バナンボ)

本書は決して日本のバナナ文化を論じた本ではなく、学者である鶴見良行氏によって執筆されていることから分かる通り、日本とフィリピンの歴史的な関わりあいから始まり、バナナ栽培の歴史、そして日本に輸出されるバナナの生産現場を具体的なデータと共に丁寧に調べ上げています。

そしてそこから見えてくる現実、すなわち日本から遠く離れたフィリピンの生産現場は、けっして明るいものではないことが分かります。

今から30年以上も前に発表されたため、そのデータをもって現状を語るのは相応しくありませんが、それでも過去のものと片付けられるほど劇的に改善されたとも思えません。

本書(バナナ)を通して、大資本の多国籍企業が途上国へ進出した際に、どんな問題が起こるのかをきわめて具体的に知ることが出来るのです。

本書のあとがきには次のように書かれています。

ダバオの生産の現場では、二つのことが起っている。その一つは、いうまでもなく、農家、労働者が搾取され、貧しくなっていることだ。もう一つは、クリスチャン・フィリピノ、モロ族、バゴボ族など、どのような集団であれ、その自立性・能動的な主体としての成長が、麻農園からバナナ農園へという外国企業の進出によってぼろぼろに傷つけられていることだ。かれらの自己主張は、さまざまな暴力装置によって、封じ込められている。
~ 中略 ~
だとすれば、つましく生きようとする日本人が、食物を作っている人びとの苦しみに対して多少なりとも思いをはせるのが、消費者としてのまっとうなあり方ではあるまいか。

この著者の言葉はとても重いと感じずにはいられません。

たとえば私たちの中には、小さい時に「ご飯粒を残すと目が潰れる」、「一粒のお米に 七人の神様がいる」、つまり食べ物を残すと罰が当たると親から言われた人も少なくないはずです。

しかし現実に目を向ければ、日本のコメ農家よりはるかに過酷な状況下で働く人々たちの存在があり、日本人の大部分がその現実を知らないのです。

ちなみにバナナのプランテーション労働者たちは、日本向けに輸出される品種のバナナが趣向に合わないため、自分たちでは消費しません。

もっとも土地すらも外国企業が所有しているのですから、彼らに生産する農作物の選択肢があるはずもありません。

本書はバナナを通して飽食の日本人、そして日本農業の未来へ警鐘を鳴らしているのではないでしょうか。

蛍の航跡: 軍医たちの黙示録



太平洋戦争、日中戦争に従軍した軍医たちの手記を小説家した軍医たちの黙示録シリーズの2冊目の作品です。

1作目の蝿の帝国は、15人の軍医の体験を書かれていましたが、今回もまったく同じスタイル(15作品)で構成されています。

「前作と代わり映えのしない続編か?」と言われるとその通りなのですが、逆に前作とまったく同じスタイルで執筆し続けた著者の帚木蓬生氏の執念、そして責任感を感じる1冊です。

箒木氏は医師という職業の傍らで作家としても活動していることで知られていますが、著者の恩人である中尾弘之氏から引き継いだ大きなダンボール箱一杯の資料が本書を執筆するきっかけになったようです。

やはり前回の感想と重複する部分がありますが、兵士たちの任務は敵を倒すことであり、軍医のそれは味方を救うという性質を持っています。

一方で、彼らにとってもっとも脅威だったのは敵の弾丸ではなく、とくに太平洋の島々で戦った南方方面で最大の敵となったのは病魔と飢餓でした。

そして補給を絶たれ食料も医薬品も尽きている状況下で、万全の治療など望むべくもなくものでした。

マラリア、デング熱、アメーバ赤痢、腸チフスなどにかかった兵士たちに薬品どころか、必要最小限の栄養さえ与えることが出来ない中で、体力を消耗しきった人間からどんどん脱落してゆくのです。

病にかかった兵士たちの予後は次のようなものだったと言われています。

<立つことのできる者、三十日。身を起こして坐れる者、三週間。寝たきり起きられぬ者、一週間。寝たきり小便する者、三日間。返事をしなくなった者、二日。まばたきしなくなった者、明日。>
それでも軍医や看護師、衛生兵たちは懸命の看病を試みますが、太平洋戦争も末期になると手の施しようのない、以下のような光景が本書の中に幾度となく登場します。
深いジャングルの山道は急坂であり、前を行く兵士の尻を目の前にして黙々と登る。あたりには戦病兵の屍体が散乱しており、強烈な屍臭がする。中にはまだ息をしている兵もいるのに、耳、鼻、口に蛆がうごめいている。患者たちにとっては、この付近の山は地獄の針の山同然だったのだ。骨と皮ばかりになった彼らはやっと麓まで辿り着き、そして最後の力をふりしぼりながらこの坂道を登る途中で力尽きていた。

ただしどの短編集もけっして凄惨なものばかりではなく、戦友との絆、戦場となった国の現地人たちの交流といった心温まるエピソードもあり、さまざまな角度から軍医たちの体験を収めた本シリーズは、一流の戦争文学であることは間違いありません。

日本人と天皇



副題に「昭和天皇までの二千年を追う」とある通り、今や日本でもっとも著名なジャーナリストの1人である田原総一朗氏が、歴代天皇を中心に約2000年に及ぶ日本の歴史を1冊の本にまとめたものです。

400ページ以上になる単行本ですが、それでも「日本書紀」に記されている神話時代から続く天皇の系譜を網羅するためには紙面が圧倒的に足りないため、「通史」というよりも「年表」と呼ぶ方が相応しいかも知れません。

太平洋戦争の終戦を迎えたとき、著者の田原氏は小学5年生だったそうです。

それまで学校の教師から、天皇は絶対的な存在、つまり現人神であり、「天皇陛下のお顔を見ると目がつぶれる」とさえ言われていたそうですが、終戦を挟んで2学期に入ると、教師たちの言葉が180度転換し、今度の戦争は正しくなかった、アメリカ、イギリスをはじめとした連合国の言っていることが本当は正しいと言われるようになりました。

わずかな時間で大人たちの言葉が白から黒に変わったという体験は、田原少年にとって大変ショックだったようで、それ以来、大人たちの言うことが信用できなくなったことを告白しています。

団塊ジュニア世代の私は、当然のように"天皇=現人神"という感覚は持ったことがなく、戦後の「日本国の象徴としての天皇」しか知りません。

熱心な皇室ファンでもない私は皇居へ一般参賀した経験もなく、天皇を間近で見てみたいという欲求さえ起こりません。

そもそも"象徴"という単語自体に形を実感できない、ぼんやりしとしたイメージしか持っていない日本人は多いのではないでしょうか。

それでも本書を読み進めてゆくと天皇の歴史を紐解くことが、そのまま日本の歴史を紐解くことに直結することを少しずつ実感してゆくことができます。

つまり天皇の歴史を知ることが、「なぜ天皇が日本国の象徴なのか?」という疑問を解決するのにもっとも近道なのです。

戦前には史実とされた「日本書紀」や「古事記」では、天皇は天照大御神の子孫として位置付けられていることは広く知られていますが、古代には"天皇"という言葉すらなく、ともかく神話と歴史が並行する混在する、史実がはっきりとしない時代が長く続き、実在がはじめて確認できるのは、5世紀後半に登場する第21代・雄略天皇からだといわれています。

「日本書紀」をはじめとした書物自体が天皇を中心とした一族によって編纂されたものである以上、天皇が正当な統治者と定義されるのは当然ですが、日本で最初に国家と呼べる程度の実力を持った一族の系譜が、そのまま現在の皇室にまで続くという考え方はかなり有力です。

古代において天皇は権威と権力を兼ね備えた強力な存在でしたが、その地位は必ずしも安泰ではなく、権謀術数により兄弟・肉親の間で多くの血が流されました。

その後、朝廷内の争いを平定し、安定した中央集権体制を築いたのが7世紀の天智・天武天皇でした。

いわば2000年の歴史の中で、この両天皇の時代に天皇の権力が絶頂期を迎えたことになりますが、藤原氏を筆頭とした貴族たちの摂政・関白政治によって、その権力が緩やかに下降してゆくことになります。

やがて10世紀に入り、下級貴族であった源氏、平氏が台頭するようになり、天皇権力の失墜は決定的になります。つまり武士の時代が幕を開けるのです。

源平両氏は天皇の地位を強奪することはしませんでしたが、摂政・関白の地位を得るだけでは満足しませんでした。

領地と配下の武士たち、いわば武力を背景にして実質的な支配力を手に入れたのです。

源頼朝は平氏との争いに勝利し、武家政権の象徴ともいえる幕府を鎌倉に開きましたが、この慣習がそれ以降、室町時代から江戸時代に至るまで続くのです。

この長い中世から近代に至るまでの間、露骨な言い方をすれば、武士(時の権力者)は都合の良い時だけ天皇の権威を利用し、とくに利用価値が無ければ織田信長のように天皇の存在をほとんど無視したり、自分に対して批判的な天皇の場合には、その首をすげ替えることさえ躊躇せず実行しました。

それは維新により明治政府を作り上げた首脳陣たちさえ例外ではなく、長く続いた武士政権を葬るために、天皇という権威を"大義名分"として利用したのです。

明治から昭和の終戦に至るまで、憲法上では天皇は国家の大権を有していましたが、実質的には近代的な議会・官僚政治、ないしは軍部による政治が続きました。

つまり憲法上では軍の統帥権をもっていた天皇が、現実にその権限を発動することは出来なかったのです。
明治天皇は日中・日露戦争に反対であり、昭和天皇も日中、太平洋戦争に反対したにも関わらず、戦争を止めることが出来なかったです。

いわば田原少年のように国民たちが現人神として崇めた天皇は、近代に入ってからも「象徴」であり続けたのです。

やがて日本がポツダム宣言を受け入れ敗戦を迎えた時にも、マッカサーは天皇を戦犯として裁くことなく、「天皇制」を維持し続ける方を選択しました。

著者はそれを次のように書いています。

占領軍は占領政策をスムーズに進めるために天皇を利用することにしたのである。
確かに、もしも天皇を裁判にかけ、天皇制をなくしていたら、日本国内は混乱し、収拾のつかない事態となっていたのではないか。その意味で、マッカーサーたちは、日本人というものを非常によく掴んでいたといえる。

これはマッカサーさえも、源頼朝や織田信長といった歴史上の権力者と同じ手段を選択したといえます。

本書を読み終えても、2000年にもわたり君臨しつづけた「天皇」の存在を明確に定義することは難しいというのが結論です。

もしかして「2000年にわたり君臨しつづけた」という事実そのものが、「象徴」たるに相応しい何よりの理由なのかもしれません。

著者の田原氏は歴史の専門家ではなく、ジャーナリストです。

ジャーナリストの本質は情報を伝達することであり、本書はかなりのボリュームであるに関わらず、一般読者が充分に理解できる分かり易い内容で書かれています。

そのため天皇を中心に据えた日本の歴史を把握し、さらにより深く理解する手がかかりとして非常に有用な1冊といえます。

震災裁判傍聴記



本書の副題には"~3.11で罪を犯したバカヤローたち~"とあり、東日本大震災につけこんだ犯罪の裁判、つまり"震災裁判"の傍聴記録をまとめた1冊です。

著者の長嶺超輝(ながみね・まさき)氏は以前から足繁く法定へ通い、数多くの裁判を傍聴してきた経験があります。

以前本ブログでも紹介した長嶺氏の著書「裁判官の爆笑お言葉集 」はベストセラーにもなっています。

本書の冒頭に以下のように書かれています。

今回の一連の法定取材では、とても厳しい表現による非難が、繰り返し聞かれました。
それは「人間として、絶対にやってはいけない罪」、あるいは「人として許されない犯行」といった、極めて強烈な非難の言葉です。
~中略~~
もちろん、窃盗や詐欺も厳しく非難されるべき犯罪ではありますが、「人間として絶対にやってはいけない」などという最大限の厳しい非難は、殺人犯の裁判ですら滅多に聞かれません。

これは多くの命が失われ、家財や家族を失った被災者たちがお互いに助け合わなければならない時に「火事場ドロボー」「人の善意につけこむ」という卑劣な犯罪行為に走ったというところに理由があることは容易に想像できます。

少々長いですが、本書で紹介されている震災裁判を紹介します。

  • CASE1:石巻ニセ医者ボランティア
  • CASE2:「被災地まで帰りたい」詐欺
  • CASE3:学校を狙う発電機窃盗団
  • CASE4:警備員による金庫荒らし
  • CASE5:飲料水買い占めパニック便乗詐欺
  • CASE6:親指一つで騙した義捐金詐欺
  • CASE7:被災地コンビニのATM窃盗
  • CASE8:放射能パニック便乗商法
  • CASE9:職を失った被災者を狙う就職あっせん詐欺
  • CASE10:被災住宅への侵入盗
  • CASE11:役所を騙す被災者偽装
  • CASE12:もう1つの「ニセ医者」事件
  • CASE13:避難所で強制わいせつ
  • CASE14:復興予算と贈収賄
  • CASE15:原発職員が犯した詐欺行為
  • CASE16:原発警戒区域内で窃盗
  • CASE17:通行書偽造によるペット救出作戦
  • CASE18:津波被災した兄弟の虚偽申請

著者が指摘しているように、本書を読む意義は大きく3つの意義があると思います。

1つめはメディアが大々的に報道したように、前代未聞の大震災であったにも関わらず、日本人の秩序を重んじる精神、高い倫理観によって被災地の混乱が最小限であったことを世界中のメディアが賞賛したというニュースの裏側にある真実を知ることです。

もちろん"まったくの嘘"ではありませんが、本書から分かる通り、確実に被災地では犯罪は発生していたのです。

日本中が重苦しい雰囲気に包まれる中では緊急性の高い情報、そして明るいニュースが優先され、被災地における犯罪が報道される機会が極めて少なかったのが事実ですが、それでも我々は"知られざる現実"を直面して後世に活かす必要があるのです。

本書で紹介されている犯罪では、当事者の他に傍聴しているのは著者1人といった裁判もあったようであり、こうした意味で本書の役割は少なくありません。


2つめは我々自身もこうした犯罪に無縁であるとは断言できないことです。

しかもそれは"被害者"としてではなく、"加害者"という意味を含んでいます。

大部分の人間は、「災害によって失われた治安のどさくさに紛れて犯罪に走るような卑劣な行為は絶対にしない」と思うでしょうし、私自身もそうでした。

たとえば私自身が被災者してすべての家財を失う境遇になった時、周りに誰もいないシチュエーションで持主不明の金庫が口を開けて横たわっていたとしたら、、、金庫でなくとも泥まみれになった現金入りの財布を目の前にしたとしたら。。。

これを自分のものにしたら立派な横領罪、場合によっては窃盗罪になりますが、本書を読み進めるにつれ、それでも自分は絶対に罪を犯さないと断言できる自信が弱くなってきたのも事実です。

つまり我々は他人の行為に対しては厳しい批判を加えがちですが、自分自身の道徳心を今一度見つめ直す必要性を問いかけてくれるのです。


最後3つめは、未曾有の自然災害である東日本大震災において、どのような犯罪が起きたのかを知ることは、自分自身や家族を守ることにもつながるという点です。

誰にとっても自然災害から無縁ではなく、本書の伝える内容は単なる裁判傍聴記ではないのです。

危険ドラッグ 半グレの闇稼業



1年前に池袋で危険ドラッグを吸った男が、車で通行人を次々とはね飛ばす痛ましい事件を起こしたのは、まだ記憶に新しいのではないでしょうか。

本書はそんな危険ドラッグの全容に迫った1冊です。
"まえがき"に書かれている以下の文からも著者が明らかにしようとした主題は非常に明確です。

筆者は危険ドラッグの実態を調査する上で、主に供給者側の理論を明らかにするように努めた。すわちどのような人が何を思って作り、何を思って売っているか、である。危険ドラッグを供給する側は加害者といってよかろう。加害の側を見ることで危険ドラッグ業界の構造がより明らかになるにちがいない。
~中略~
筆者が意図するのはシノギ構造の解明である。どの程度の経済規模か、危険ドラッグはどこからどのようにして入って来るのか。利益はどのくらいか、シノギとしての将来性はどうか、業界人はなぜこの業界に進出したのか、どのような人間が従事しているのか、などである。

著者の溝口敦氏は、ノンフィクション作家、ジャーナリストとして長年に渡りヤクザ(つまり暴力団)の取材を続けてきた実績があり、そのため過去にはかなり危険な目にも会っています。

つまり日本の裏社会にもっとも精通した作家の1人であるため、"危険ドラッグの供給者"という一般人が接触することが困難な人物へ対しても取材を可能にする人脈をもった、まさに本書を執筆するのに相応しい作家なのです。

製造から流通、人体へ与える有害性に至るまで、およそ一般市民が危険ドラッグへ対して持っておくべき知識のすべてが本書に詰まっているといっても過言ではありません。

危険ドラッグから自分の身を守る知識としてはもちろん、年頃の子どもがいる親であれば是非とも一読しておきたい1冊です。

少なくとも長々とワイドショーを見るよりも、本書を1冊読んでおく方がはるかに有益であると断言できます。

関係者への地道な直接取材を重ねなければ本書が完成することはなかったと思うと、著者の姿勢には頭が下がる思いです。

男の一生 (下)



前回に引き続き、遠藤周作氏による秀吉に仕えた武将・前野長康(通称:将右衛門)を主人にした長編戦国歴史小説のレビューです。

当然のように本作は将右衛門の生涯をなぞる形で物語が展開されてゆきますが、そこには将右衛門の妻あゆを始めとして、将右衛門が密かに憧れを抱く、または彼の運命を左右する女性の姿が現れては消えてゆきます。

まずは信長の側室となる吉乃、そして信長の妹であるお市と、彼女の娘でのちに秀吉の側室となる茶々(淀殿)、息子の妻となる於蝶、養女のお辰、女諜者として登場するお栄といった数々の女性が登場します。

彼女たちはヒロインとして物語を彩ると同時に、社会的地位の低かった当時の女性たちが弱者として運命に翻弄され続ける姿に戦場では勇敢に活躍する将右衛門が同情するシーンが何度も登場します。

そこには作品の時代背景、ジャンルを越えて常に世の中の弱者に焦点を当て続けた遠藤氏の一貫したメッセージが見て取れます。

やがて時代が流れ、信長秀吉の陣営に属した武将として長らく勝者の立場であり続けた将右衛門自身も例外ではなくなります。

その将右衛門の置かれた立場は、現在社会の中にも容易に見つけることができます。

たとえば墨俣一夜城小六(蜂須賀正勝)とともに奮戦し、秀吉を黎明期から支え続けてきた小豪族の将右衛門は、いわば高卒で会社に就職し、その会社の成長に大きく寄与してきた叩き上げの社員です。

彼の活躍は誰もが認めるものでしたが、やがて会社が大きく成長し、石田三成小西行長といった後輩の一流大学出身のエリート組に出世で追い抜かれ、社長の血縁組である加藤清正福島正則にも同様に追い抜かれ、さらにライバル会社から引き抜かれた徳川家康前田利家といった幹部にも大きく差を開けられます。

現場一筋で通してきた将右衛門は組織の経営やマネジメントといった分野に疎く、子会社(豊臣秀次)の重役として出向させられます。

すっかり定年間近となった将右衛門は、遠い昔に秀吉たちと共に不安定な創設期を過ごした日々を振り返り、その時代がもっとも自分が輝いていた時期だったことに気付くのです。

しかし子会社の経営に失敗した社長(秀次)の責任に連座させられ、最終的には親会社の命令で辞任(切腹)を強制されることになるのです。

もっとも長い期間に渡って苦楽を共にしてきた秀吉は大企業の社長として絶対的な権力を振るうようになった途端に人が変わってしまい、そんな将右衛門との絆を忘れてしまったかのような容赦のない決断を下したのです。

これを単純に人間にとっての幸福は地位や金では測れないという結論を導き出すのは安易に過ぎるように思えます。

そこには不器用で時代の流れに取り残されながらも、自らの人生を生き抜いた「男の一生」が堂々と横たわっているのです。

男の一生 (上)



遠藤周作氏による戦国歴史小説です。

主人公は秀吉にもっとも早い時期に仕えた家臣として、幾多の戦場で活躍した前野長康(通称:将右衛門)です。

とはいえ前野長康の名前と経歴を知っている人はかなりの戦国マニアといえます。

将右衛門の盟友であり同じ時期に秀吉に仕えはじめた蜂須賀正勝(通称:小六)は、その家系がのちに徳島藩として明治まで存続していたこともあり、その知名度が高いですが、有名な墨俣一夜城から小牧・長久手の戦いに至るまでの2人の経歴はほとんど重なります。

もっとも遠藤氏は歴史に埋もれた偉人から"前野長康"という人物を掘り起こして小説の題材にした訳ではありません。

遠藤氏の他の歴史小説にも言えることですが、やはりそこからは"文学的テーマ"を感じることができます。

将右衛門も小六も木曽川流域の海運によって勢力を蓄えた"川並衆"として生計を立てていましたが、その勢力は"小豪族"という程度の規模であり、代表的な戦国大名の前身"守護代"ほどの実力は備えてなく、かといって北条早雲斎藤道三、そして彼らの主人である羽柴秀吉のように裸一貫で成り上がるといった強烈な上昇志向も持ち合わせていませんでした。

つまり戦国時代に生きる小豪族の方針は、将右衛門や小六がそうであったように「強い勢力に味方する」といった現実的な路線だったのです。

そしてたまたま仕えた秀吉がのちに"天下人"になるのは、ある意味で幸運だったといえます。

それだけに将右衛門は、多くの栄枯盛衰、もっと具体的に言えば勝者の立場から敗者たちを多く見てきたのです。

まずは信長によって抹殺された弟や叔父といった一族にはじまり、織田家を凌ぐ勢力を誇った今川家、斎藤家、名門の朝倉や浅井といった大名たちの滅亡、やがて織田家自体の瓦解、柴田家といった有力ライバルの滅亡を間近で見てきた視点を将右衛門の目を通して描いてゆくのです。

この将右衛門の視点というのは絶妙な立ち位置だといえます。

秀吉自身は一途に立身出世位に邁進する性格であり、結果的に自身が歴史の一時代を築き上げるため冷静な視点が不足しています。
また小六については最後まで秀吉の忠実な家臣であり続けたため、やはり秀吉の視点に近すぎます。

本書は1959年に発見された「武功夜話(別名:前野家文書)」を呼ばれる古文書を原作に位置付けて小説家した作品です。

「武功夜話」自体の信憑性は高くありませんが、それは遠藤氏の作品の中ではそれほど大きな問題ではありません。

遠藤氏がどのようなテーマを読者に与えたかったのか、それを将右衛門の視点からじっくりと考えながら読むのが相応しい作品ではないでしょうか。

椿山課長の七日間



人間はいつしか死ななければならない。

それなりの寿命で家族に看取られながら死ぬのであれば幸せだと思いますが、中にはある日突然死ぬことになる不幸な人もいるわけであり、自分がどちらに当てはまるかはその時になってみなければ分からないのが人生です。

本書では不幸にして後者の運命を辿ることになった死者たちを主人公にした小説です。

著者の浅田次郎氏は多様な作風を持っていますが、本書は完全なコメディ小説として書かてれいます。

よって霊界の世界を大真面目に論じた作品ではなく、"あの世"には死者が講習を受けるSAC(スピリッツアライバルセンター)と呼ばれるお役所があり、そこでの講習後に「反省ボタン」を押すだけで極楽に行けるという仕組みが存在します。

主人公の椿山和昭はデパートの婦人服売り場の課長として高卒ながらも順調な出世を果たしますが、妻と小学生の息子、そして購入したばかりの一軒家(中古)のローンを残したまま、過労によって突然死を迎えます。

さらに本作品にはもう2人の主人公ともいうべき人物が登場します。

1人目は人違いで殺害された暴力団組長・武田勇。そして2人目は横断歩道で信号を無視した車にはねられ命を失った小学生・根岸雄太

彼らにはある共通点があります。

それは現世にやり残りした、いわゆる「死んでも死にきれぬ」相応の事情があり、それが認められて死後7日間という期限付きで、仮の別人の肉体で現世に戻れるという特例措置が認めれたのです。

またこの特例措置には3つの厳守事項が存在します。

  • 制限時間の厳守
  • 復讐の禁止
  • 正体の秘匿

かなりいい加減な仕組みですが、ともかく3人は姿形を変えて現世に逆送されるのです。。

ここまでは物語の序盤ですが、まるで演劇の脚本のような筋書きです。

""というテーマはシリアスに考えればどこまでも深みがあり、宗教や哲学という領域に至ってしまうと殆どの日本人が敬遠してしまうのではないでしょうか。

そこをコメディ化することによって単純化してゆくと、案外簡単に割り切れるものかも知れません。

例えば自分が死んだ後、現世に戻ろうが戻るまいが世の中は回り続けるのであり、中には自分の死を悲しんでくれる人がいるかも知れませんが、自分の死後もしばらく生き続ける人たちは意外とたくましくそれぞれの人生を過ごしてゆくのに違いありません。

それに何の悔いもなく死ぬ人など万分の一も存在せず、程度の差こそあれ、誰もが何かをやり残して死んでゆくものだと思います。

ただ本作品のようにたとえ限られた時間であっても、死後にこの世を再び訪れることが出来るならば私自身はどのように過ごすだろうか?

そんな想像をしながら本作品のようなハートウォーミングなコメディを読めるのは、人間が生きているうちの特権の1つに違いありません。

あやし うらめし あな かなし



何となくタイトルから想像できますが、"怪談"をテーマにした浅田次郎氏の短編集です。

本書に収められているのは以下の7編です。

  • 赤い絆
  • 虫篝(むしかがり)
  • 骨の来歴
  • 昔の男
  • 客人(まろうど)
  • 遠別離
  • お狐様の話

著者の浅田氏は怪談や幽霊の類を信じない現実的な性格ですが、一方でダイナミックでロマンチックな人情小説の名手として知られています。

つまり偶然と思えるような運命の必然を物語にするためには、時には"超常現象"といった演出をためらいもなく小説の中に取り込むことが出来る作家であり、これは小説家としての"現実主義"といえるかも知れません。

本書はそんな著者が手掛けた"怪談集"といえる作品であり、霊的な存在を確信している作家が執筆するよりも、より生々しい現実感を読者へ与えてくれる内容になっています。

ただし作品ごとに印象はだいぶ異なります。

赤い絆」、「お狐様」は奥多摩にある神社を舞台にしているだけに、正統派の怪談という雰囲気を漂わせていますが、「虫篝」、「昔の男」、「遠別離」については著者の得意とする人情小説の雰囲気を色濃く感じます。

骨の来歴」、「客人」については完全にモダンホラーといえる作品であり、先ほどは"怪談集"と紹介しましたが、実際には著者の多彩な試みが見て取れる短編集になっています。

もちろん読者によって好みの作品は分かれると思いますが、個人的には「赤い狐」、「お狐様」といった怪談に興味を持ちました。

ホラー作品の完成度は作家の創造力に多くの比重を置き、また浅田氏の創造力の高さは過去の作品からも実証済みです。

一方で怪談としての完成度は歴史的背景の肉付け、もっと具体的にいえば柳田国男のような民俗学的な裏付けが欠かせない要素であり、この側面から見ても完成度の高い、浅田氏の新しい一面を垣間見たような新鮮な作品だからです。

とにかく1冊で色々な怪談を楽しめる贅沢な作品であることに間違いありません。

粗にして野だが卑ではない



副題は"石田礼助の生涯"となっていますが、彼は戦前から三井物産で活躍し、戦中には同社の代表取締役社長、戦後は第5代国鉄総裁といった要職を歴任した昭和を代表する財界人です。

タイトルにある「粗にして野だが卑ではない」は人が彼を評した言葉ではなく、第五代国鉄総裁になり国会で石田自身が自己紹介に使ったセリフです。より正確には以下のようであったそうです。

「嘘は絶対につきませんが、知らぬことは知らぬと言うから、どうかご勘弁を」
「生来、粗にして野だが卑ではないつもり。ていねいな言葉を使おうと思っても、生まれつきでできない。無理に使うと、マンキーが裃(かみしも)を着たような、おかしなことになる。無礼なことがあれば、よろしくお許しねがいたい。」
「国鉄が今日のような状態になったのは、諸君たちにも責任がある」

国会議員の面々を目の前にして、自信に溢れた活気ある挨拶ですが、この時の石田は77歳でした

"マンキー"とは、"山猿"という意味ですが、石田は戦前戦中に三井物産の代表取締役を務めた経歴を持っており、引退後、国府津で半農の悠々自適の生活を送っている時に突如、国鉄総裁の人選が回ってきたのです。

当時は国鉄の効率化が急務でありながらも、国会からの干渉にも耐えねばならないという難しい立場であり、松下幸之助や王子製紙の中島慶次といった大物財界人たちも総裁への就任を断るという有様でした。

財界人としてはこの上ない経歴を持った石田でしたが、平穏な余生を捨てて「これで天国へのパスポートが与えられた」と意気揚々として総裁に就任します。

今まで商売に徹してきた人生の総決算として、「パブリック・サービス」のために残りの人生を尽くすことを決心し、実際に総裁としての給与を受け取ることも拒否します。

三井物産時代には"鬼瓦"とあだ名されたほど恐れられたボスでしたが、国会で孤軍奮闘する姿からは"頼りがいのあるじいさん"として、国鉄職員たちの支持を得ます。

本書は、そんな石田礼助の人生とエピソードをふんだんに散りばめた1冊になっています。

著者の城山三郎氏は、経済小説の開祖と言われ、財界人を題材にした小説を多く手掛けています。

そこには戦国時代の武将や明治維新の志士といった分かり易い英雄は存在しないかも知れませんが、昭和を生きた魅力あるヒーローたちを発掘して読者たちに伝えてくれるのです。

新島八重の維新



新島八重にはじめて興味を持ったのは4年ほど前です。
それは家族旅行で会津を訪れ、白虎隊士が自決した最期の場所であり、また彼らの墓(白虎隊十九士の墓)があることで有名な観光スポット、飯盛山を訪れた時です。

白虎隊の墓へ向かうために石段を登ってゆく途中で私設の資料館(白虎隊記念館)が目に入り、ついでにふらっと入ってゆくと、新島八重にまつわる展示品と彼女の略歴が紹介されている一角を見つけました。

当時は新島八重が2013年の大河ドラマに選ばれた直後ということもあり、資料館としても白虎隊に縁の深い彼女を特設ブースで紹介していたのです。

あいにく大河ドラマには興味が無いため、「八重の桜」を見ることはありませんでしたが、紹介されていた彼女の略歴でひときわ目を引くものがありました。

それは彼女が20代前半の時に、戊辰戦争における鶴ケ城籠城戦に加わり、1ヶ月間にわたり官軍相手に奮戦したというものです。

言うまでもなく鶴ケ城を本拠地とする会津藩は、佐幕(幕府側)のシンボルともいえる大藩であると同時に、その悲劇的な運命でも有名です。

彼女の旧姓は山本であり、代々会津藩砲術指南役を務めてきた家柄に生まれたのです。

いくら武士の娘といはいえ、断髪して銃を担いて入城し砲撃戦に加わるという気概は並大抵のものではなく、その男まさりの激しい気性が近代化してゆく明治の時代になっても発揮され、理解ある夫・新島襄と出会うに至って、当時の女性としては先進的な存在として後世で有名になるのです。

著者の安藤優一郎氏は学者ということもあり、本書は歴史小説としてではなく、あくまでも当時の時代背景を丁寧に解説しながら彼女の生涯を迫っています。

今では女性経営者や管理職が珍しくない時代ですが、当時は彼女の立ち振舞、発言、服装が多くの賛否両論(どちらかといえば批判の方が多かったようです)が巻き起こりますが、それを"昔の日本人の感覚"として片付けるのではなく、やはり彼女が生きた時代を知ってこそ理解力が深まります。

そこからには、"同志社大学を創立した新島襄の妻"としてではなくその前半生を"武士の世"の中で過ごし、まだまだ女性へ対する保守的な概念が強かった明治時代において自立して生きた女性・新島八重の人生がハッキリと見えてくるのです。

プロ野球の職人たち



スポーツジャーナリストの二宮清純氏が"これぞ職人"と認めるプロ野球選手をオールタイムで選び、オーダーを組む形でその"ワザ"に迫った1冊です。

オーダーがそのまま目次になっており、球団フロントやアンパイアまで対象に入れているところに著者のこだわりを感じることが出来ます。

  • 1番センター・福本豊(元阪急ブレーブス)
  • 2番セカンド・松井稼頭央(東北楽天ゴールデンイーグルス)
  • 3番レフト・若松勉(元ヤクルトスワローズ監督)
  • 4番サード・中村剛也(埼玉西武ライオンズ)
  • 5番ファースト・高井保弘(元阪急ブレーブス)
  • 6番ライト・稲葉篤紀(北海道日本ハムファイターズ)
  • 7番キャッチャー・古田敦也(元東京ヤクルトスワローズ)
  • 8番ショート・川相昌弘(元読売巨人2軍監督)
  • 9番ピッチャー・成瀬善久(元千葉ロッテマリーンズ)
  • クローザー・高津臣吾(新潟アルビレックス・ベースボール・クラブ)
  • 投手コーチ・佐藤義則(東北楽天ゴールデンイーグルス)
  • 片岡宏雄(元ヤクルトスワローズ・スカウト部長)
  • フロント・小林至(福岡ソフトバンクホークス元球団取締役)
  • アンパイア・名幸一明(プロ野球審判団)

オーダーを見れば分かると思いますが、決して"最強"を目指したオーダー編成ではなく、多分に著者の"趣向"が入った興味深いメンバーであることが分かります。

プロ野球選手」の定義は"野球で飯を食っている"、"野球で家族を養っている"というシンプルなものであり、自営業者でも会社員であっても、何らかの分野で生計を立てていれば
、その分野の"プロ"と定義することが出来ます。

しかしプロ野球は狭き門であり、プロに入ったとしても長年に渡り活躍することは困難な職業です。

元阪急の助っ人外国人スペンサーは次のように語ったといいます。

「グランドに出れば、存在するのは敵と味方だけだ。そして味方の勝利のためには、どんな犠牲も辞さないのが真のプロフェッショナルである」

より遠くに打球を飛ばすため」、「より早く投げるため」、「より確実に次の塁を目指すため」彼らは指先の隅々にまで神経を集中し、穴が空くほど戦況を観察し、持続して切磋琢磨する姿はまさに"職人"そのものであり、果たして私のようなサラリーマンはそこまで繊細で精巧な注意力を払って仕事をしているのだろうかと思うと呆然とせずにはいられません。

もちろん選手に限らず、将来性のある選手を見抜く観察力、試合を左右するジャッジをするアンパイアの判断力もアスリートとは違う性質の職人技が求めらます。

私のようにプロ野球とNHKのTV番組「プロフェッショナル」が好きな人であれば、次々と紹介されるプロ野球業界のプロフェッショナルたちに釘付けになり、あっという間に読了してしまうこと間違いありません。

箱根の坂(下)



北条早雲の生涯を描いた歴史小説「箱根の坂」もいよいよ最終巻です。

早雲は当時としては驚異的な90歳近くの長命を得ましたが、彼の足跡を辿ってみると、まるで自らの寿命を知っていたかのように物事を成し遂げてゆきます。

歴史上に登場した時から彼の足跡を年齢と共にざっくりとまとめてみると以下のようになります。

  • 義妹である北川殿の要請で駿河へ下向する(45歳
  • 今川範満を倒し、氏親を今川家当主に就けることに成功する(55歳
  • 伊豆討ち入りを決行し、伊豆を所領に加える(61歳
  • 小田原城を奪取する(63歳
  • 立河原の戦いで山内上杉家を破り相模の地盤を確かなものとする(72歳
  • 三崎城に篭もる三浦氏を滅ぼし相模一国を平定する(85歳

これだけ見ても早雲は、たとえば織田信長武田信玄のように武力を頻繁に用いて勢力を拡大するようなことはせず、慎重に時が熟するを待ち、強引に事を進めることを嫌った性格であったことが推測できます。

仮に早雲の寿命が織田信長と同じ49歳だったとしたら、彼は名は歴史の中に埋もれてしまったに違いありません。

さらに早雲は、その優れた内政手腕でも知られています。

四公六民という他国よりも2割~3割も安い税率で農民たちの生活を安定させ、一致団結した家臣団を築き上げた早雲の実績は、むしろ軍事的な才能よりも評価されてもよいかも知れません。

それを著者の司馬遼太郎氏は、あとがきで次のように言及しています。

早雲の小田原体制では、それまでの無為徒食の地頭的存在をゆるさぬもので、自営農民出身の武士も、行政職も、町民も耕作者も、みなこまごまと働いていたし、その働きが、領内の規模のなかで有機的に関連しあっていた。早雲自身、教師のようであった。
士農へ対し日常の規範を訓育しつづけていた。このことは、それまでの地頭体制下の農民にほとんど日常の規範らしいものがなかったことを私どもに想像させる。早雲的な領国体制は、十七世紀に江戸幕府体制が崩壊するまでつづくが、江戸期に善政をしたといわれる大名でも、小田原における北条氏にはおよばないという評価がある。

源平時代の源義経、明治維新で活躍した坂本龍馬はともに31歳で人生を終えていますが、彼らのように若さから来る情熱や勢いで物事を成し遂げることも大切ですが、早雲のように腰をじっくりと据え一生を使って何事かを成し遂げる姿勢は、現代人にも共感できると思います。

早雲はたとえ平凡な人生を歩んできても意志さえあるのなら、「未来は何歳になってからも変えられる」ことを証明した人物でもあるのです。


箱根の坂(中)



引き続き、後北条家の土台を築いた早雲の一生を描いた「箱根の坂」の中巻をレビューしてゆきます。

乱世の隙に乗じて大名になる気など毛頭も無かった北条早雲が皮肉にも立身出世してゆくきっかけは少々複雑ですが、順を追って説明すると次のようになります。

  • 早雲の義妹であった千萱が上京してきた駿河守護今川義忠の元へ嫁入りする。
  • やがて千萱は、義忠の嫡男となる竜王丸を出産したことで北川殿と呼ばれ今川家で重要な地位を占めるようになる。
  • しかし隣国遠江を争っていた義忠は、その最中に討ち死してしまう。
  • 嫡男である竜王丸は幼く、義忠の従兄弟であった範満により駿河の実権を奪われてしまう。
  • さらに隣国の堀越公方扇谷上杉家が介入してくるに及んで、竜王丸と北川殿の立場が危機的なものとなる。
  • 北川殿の要請により早雲が駿河へ下り、家督争いの調停に乗り出す。

ここで重要なのは、駿河へ下向した時点での早雲はこの時点で40代の半ばという当時としては初老ともいうべき年齢であり、しかも何の実力も持たない一介の浪人にしか過ぎず、唯一、北川殿の兄という立場のみが早雲を支える拠り所だったことです。

また長年に渡り繰り広げられた応仁の乱により京が荒れ果て、落ち潰れた名門のしかも傍系であった早雲が食い扶持に困っていたという経済的な問題も無視できないかも知れません。

ともかく早雲は危機的状況に立たされることによって本来持っていた政治的、また軍事的才能を存分に発揮する機会に出会ったのです。

自ら望んで殆ど空城になっていた駿府の東端にある興国寺城に入城するに及んで、小さいながらも一国一城の主となる早雲ですが、それはまるで遅すぎた青春が彼のもとにも訪れたかのようです。

前半生を過ごした京都で旧来の権力者たちの力が没落する様を身近に見てきた早雲には、新しい時代が到来する確信があったに違いありません。

箱根の坂(上)



いわゆる"日本の戦国時代"という時期には諸説あるものの、正確な年代の定義はないようです。

個人的には1495年北条早雲が小田原城を攻略したタイミングから本格的な下克上、つまり戦国時代の幕開けとするのがもっとも象徴的で分かり易いと考えています。

本書はそんな北条早雲の生涯を描いた司馬遼太郎氏の歴史小説です。

早雲の前半生は、室町幕府(将軍)や公家の権威、つまり旧来の価値観が色濃く残っていた時代であり、その後半生は人生観や宗教観が新しく切り替わりつつある時代を生きたといえます。

よって早雲の前半生は没落しつつある名門に所属しながら平穏に生きていた時期であり、彼が駿河へ下向して活動を始めるのは40代半ばという、当時では隠居して余生を送っていてもおかしくない年齢から世に出ます。

当然のように早雲の前半生には特筆すべき出来事もないのですが、司馬遼太郎氏の手にかかると抜群に面白い小説になるのです。

有力な守護代、足利将軍家に端を発する後継者争いが発展した応仁の乱、こうした支配層に業を煮やした人々が起こした国人一揆、さらに民衆たちの間で急速に広がった時宗一向宗といった新興宗教など、1つの時代が終わることを暗示するような出来事が連鎖するように次々と起きています。

このような時代の雰囲気を著者は俯瞰しながらも、序盤の展開を京都の南東の山奥にある田原荘(たはらのしょう)から出てきた農民、山中小次郎の視点を中心にストーリーを進めてゆきます。

そんな小次郎が出会った早雲(新九郎)は、そんな時代の変化を肌身で感じながらも代々の生業である鞍作りを細々と続けるしか選択肢のない冴えない中年男に過ぎませんでした。

大きな時代の境目を生きた早雲(この頃は新九郎と呼ばれていました)ですが、のちに次々と現れてくる戦国大名のような豪快な野心家とは異なる雰囲気があります。

没落しかけた、たとえ傍系ではあっても名門武家の出身であった早雲には、自らの才覚のみを頼りに裸一貫で成り上がろうとする野望はありませんでしたが、結果的に戦国大名の先駆者となる数奇な運命を辿ることになるのです。

日米同盟の難問



2012年に坂元一哉氏によって書かれた、還暦を迎えた日米同盟の課題を主題にした1冊です。

著者の坂本氏は大阪大学の教授であり、いわゆる有識者の一員として2002年の外務省主催の外交政策評価パネルの副座長として、また2006年には安倍晋三首相の私的諮問機関の有識者委員を務めた経歴があります。

現在、安保関連法案の閣議決議の是非を巡って国会が紛糾していますが、もっとも焦点となっている集団的自衛権の行使について本書では肯定的な立場をとっており、著者の集団的自衛権や憲法解釈に対する考えが自民党へ対し、ある一定の影響力を与えていると推測することが可能です。

本書は1冊を通じて著者の考えを起承転結で書いたものではなく、学会報告や国会での参考人陳述の原稿なども収められています。

著者の安保条約に関する論点は多岐に渡っていますが、そのポイントを以下に挙げてみます。

  • 政府は安保条約に関する密約(朝鮮半島有事に関する密約、核持ち込み)を公開すべき時期に来ている
  • 現在の「基地と安全保障の交換」という形での日米同盟はいびつであり、出来る限り相互防衛という本来あるべき形に近づけるべきである
  • 憲法改正を行わずとも、集団的自衛権の行使を容認する解釈は可能である
  • 昨今の国際情勢を考えると、日本の安全のために日米同盟強化が必要であり、その実現のために集団的自衛権の容認は必須条件である
  • ただし集団的自衛権の行使は慎重、かつ制限的であるべきである

おおよそ安部首相を中心とした自民党の説く安保関連法案の必要性と一致しています。

本書を読み進めると、「安保関連法案の成立=日本が戦争に巻き込まれる」という単純な理論では反論できないことが分かります。

戦争に反対するという立場は著者も一貫しており、つまり集団的自衛権を認めない憲法第九条の遵守と、集団的自衛権の行使を含めた第九条の解釈のいずれかが日本の安全保障にとってより戦争の「抑止力」となり得るかが論点になるのです。

集団的自衛権の行使を認めればアメリカと敵対する国との戦争に巻き込まれる可能性がありますし、その行使を認めなければ日本が一方的な侵略戦争の標的になったときに現行の日米同盟が充分に機能しない可能性もあるのです。

本書の内容と少し逸れますが、もっとも極論でいえば日米同盟を世界最強の軍事同盟に発展させて将来脅威となりうる国を先制して殲滅するという選択肢もあれば、一切の武力を放棄して侵略戦争の際には無条件降伏によって日本人の命を守るという選択肢もあり得るのです。

もちろん本書で著者の主張する考えは理論的であり決して荒唐無稽なものではありませんし、著者の考えに反論する識者の理論も同様です。

国際情勢含めた未来を完璧に予測することは誰にとっても不可能であり、どちらの理論も現実的である以上、やはり重要になってくるのは国民1人1人の考え、ひょっとすると個人の主義・信条、宗教観にまで関わってくる問題になるのです。

いずれにしてもその答えを出すためには、頭の中を一度リセットして両方の考えを客観的に聞いて考えるフェーズが必要なのではないでしょうか。

ただし少なくとも慎重かつ充分に民意を問わないままアメリカ議会で安保関連法案の改定を約束し、その閣議決議を目指そうとする今の自民党の姿勢には賛同できません。

藪の中



巷で騒がれている芥川賞ですが、今回は本家である芥川龍之介の作品を紹介します。

本書には芥川龍之介の代表的な短篇作品が6篇収められています。

  • 藪の中
  • 羅生門
  • 地獄変
  • 蜘蛛の糸
  • 杜子春

芥川龍之介の小説は、川端康成のような綿密に構成された物語のような小説でも、太宰治のようないわゆる私小説とも系統が違います。

本書に収められている作品は古典を題材したものでありながらも、単に現代日本語によって書き直した通り一遍の昔話としてではなく、優れた小説として再構築されている感があります。

私自身も国語で羅生門を読んだ記憶がありますが、古典を題材にとっている点で教科書にも掲載しやすい作品であり、多くの日本人に馴染みのある作家ではないでしょうか。

大家の作品だからといって、格式の高い洗練された日本語で書かれている小説だと評価するつもりはありません。

ただし情景描写が大変分かり易く、大人が読んでも、中学生が読んでも芥川龍之介の作品は印象に残りやすいのではないでしょうか。

2時間もあれば読めてしまう分量のため、本格的に読書に取り組もうといういう気概が無くとも、ちょっとした時間に楽しむ小説としては最適ではないでしょうか。

安保条約の成立



普天間基地移設問題、国会で紛糾している安全保障法案

この2つの問題に共通するキーワードは"アメリカ"であり、この問題の源流を遡ると、1951年に締結された日米安全保障条約(通称:安保条約)に辿り着くことが分かります。

本書は今から約20年前の1996年に出版されていますが、当時の外務省から公開された文書、アメリカの公開文書、そして当事者たちの証言を整理してその真相に迫った1冊です。

安保条約の締結までに幾つかの草案が作成され、また水面下で数多くの交渉を経て締結されたことが分かります。
細やかな経緯については本書を読んでもらうとして、ここでは幾つかのポイントを紹介したいと想います。

まず1点目に安保条約を結ぶにあたり、必ずしも戦勝国のアメリカの立場が強く、そして敗戦国である日本の立場が弱かったわけではないという点です。
ソ連を筆頭とする共産主義陣営との対立、そして当時勃発した朝鮮戦争においても日本の戦略的地位の重要性は高まり、アメリカの安全や権益の維持にとっても日米安保条約締結は不可欠な要素でした。

マッカーサーが示唆したように、日本にはいずれの陣営にも属さない"中立国"の立場を目指すといった選択肢もあったのです。

しかし日本はこのカードを有効に活用するとが出来ず、日本からの原案が「日本は米国軍隊の駐在に同意する」であったにも関わらず、アメリカの「米国軍隊の駐在を日本は要請し、合衆国は受託する」といったアメリカの理論にすり替わり、相互平等の防衛条約とはならなかった点です。

この基本理念が、安保タダ乗り論米地位協定の根本的な問題となっています。

著者は「日本が米国軍に駐屯してもらいたい」という関係だけでなく、むしろ「米国が日本に駐兵したいこともまた真理」という「五分五分の理論」を明確にした上で交渉で望むべきであったと主張しています。


次に日米安保条約によって在日米国軍隊による日本防衛の確実性が担保されていない点です。
日本側は、日本の防衛がアメリカにとっての国益にも叶うという目的で安保条約の締結を目指しましたが、実際には極東条項に代表されるように、"日本と極東の平和に寄与する"というものに置き換えられた点です。

しかも極東の解釈は中国全土、ソ連も含む広大なものであり、明らかにアメリカにとっての戦略上の都合であることは明らかです。

これは米国軍隊は日本から借用している基地を"日本の防衛"に直接関係のない軍事行動にも自由に使用できることを意味しており、アメリカが第三国と交戦した場合、日本が標的にされる危険性を持っています。

予想通りというべきか、今やこの地域は全世界的に及び、のちのベトナム戦争、まだ記憶に新しいアフガニスタン、イラクとの戦争の出撃基地として日本国内のアメリが軍基地が利用されてゆくことになりました。

自衛隊の海外派兵問題も、こうした拡大解釈され続けた安保条約に起因している部分が少なくありません。


最後に断片的に残された、あるいは公開されている記録を辿ってゆくと、日本は安保条約の締結にあたり二重外交を行ったという仮説を立てている点です。

もちろん外交の主体は当時の首相である吉田茂ですが、もう1つの交渉の軸として昭和天皇の影響力に言及しています。

戦後の新憲法において天皇は政治に関与しない「象徴天皇」となりますが、連合軍最高司令官マッカーサー、そしてアメリカの外交責任者であるダレスと接触していたのは事実です。

当時国内外で脅威になりつつあった共産主義、そして共産主義国家が国内に成立したときに決して存続することの許されない天皇制という不安要素を前に、危機感を募らせた昭和天皇が吉田茂を叱責し、安保条約締結を急がせたというものです。

戦前から官僚、また政治家として活動していた吉田茂にとって、たとえ戦後であっても昭和天皇の影響力は少なくないと考えるのは不思議ではなく、実際に吉田は戦後も天皇へ対し自らを「臣茂」と称するほどだったのです。


外見からは戦後70年が平和に経過したように見えても、先の大戦の影響は色濃く現在でも残り続け、歴史は連続していることを痛感します。

またその"連続性"を知らなければ、現在起きている問題も正しく議論できないのではないでしょうか。

ニホンミツバチが日本の農業を救う



長年に渡りニホンミツバチを養蜂し、その生態の研究を続けてきた元高校教師でもある久志冨士夫氏による著書です。

はるか昔から日本の自然と共生してきた野生昆虫であるニホンミツバチの名前を知っていても、その生態に詳しい人は少ないのではないでしょうか。

例えば普段人間たちが食用にしているハチミツは大部分が輸入品、もしくは外国から持ち込まれたセイヨウミツバチを日本の養蜂家が飼育して採取したものであり、アフリカを起源とするセイヨウミツバは日本の自然環境下において人間の保護なしには生存できない種類のハチです。

もちろんニホンミツバチの巣からもハチミツを採取することは可能であり、しかも美味らしいのですが、そのハチミツが広く流通されていないのは、その生産効率がセイヨウミツバチの8分の1程度であり、何よりもニホンミツバチへ対する理解不足から正当な評価をされていないことに起因すると著者は主張しています。

かくいう私も本書を読むまでは、ニホンミツバチとセイヨウミツバチの見分け方さえ知りませんでした。

生息数が減少したとはいえ、未だ日本各地に生息しているニホンミツバチは身近な存在であり、古くから人間と共存してきた友人でもあるのです。

そのニホンミツバチの持つ驚異的な能力、生態には驚くばかりであり、例えばセイヨウミツバチはオオスズメバチへ対して何の防御手段も持たない無力な存在ですが、ニホンミツバチは蜂球と呼ばれる群れでスズメバチを取り込み熱殺するという対抗手段を持っています。

また農作物や雑木林の受粉にも大きな役割を果たしており、ニホンミツバチは人間にとって有益ではあっても決して恐れる存在ではありません。

ちなみに、その殺傷能力で恐れられているススメバチでさえも他の昆虫を捕食することで、増え過ぎた害虫を駆除してくれるという点で有益といえます。

本書では人間に馴れることが出来るニホンミツバチに留まらず、危険なオオスズメバチとの付き合い方、またニホンミツバチをオオスズメバチから保護する巣箱の作り方まで広範囲に紹介しています。

加えてニホンミツバチはセイヨウミツバチとは違い、巣からの採蜜でさえも防護服なしで行えるほどの穏やかな性格を持っています。

一方で近場の山へ行っても人工的な杉をはじめとした針葉樹が目立ち、ニホンミツバチの食料となる広葉樹が少ない人工的な自然が多いことに悲しみを覚えます。

つまり「ニホンミツバチの生息が難しい環境」=「日本本来の自然ではない」ことを意味するからです。

ニホンミツバチは人間が住み着くはるか古来より日本中の山々の樹木を豊かにし、人間が農作物の栽培を開始した後にもその受粉を助け、さらには美味しいハチミツさえも提供してきたのです。

本書の後半ではそんなニホンミツバチが絶滅してしまった長崎県の多くの離島で、ニホンミツバチ復活プロジェクトに取り組む著者の活動記録が紹介されています。

普段ほとんどの人が見向きもしないニホンミツバチの驚くべき生態系を知ると、思わず野外でその姿を探さずにはいられなくなります。

ローマ人の物語〈43〉ローマ世界の終焉〈下〉



約4ヶ月に渡ってブログで紹介し続けた「ローマ人の物語」もいよいよ今回で最終回です。

残念ながらローマ帝国は前回で滅亡していますが、本巻ではローマ帝国の中枢だったイタリア半島を巡る蛮族たちにの統治時代、そしてその奪還を試みる東ローマ帝国(ビザンチン帝国)との抗争が中心に紹介されています。

蛮族の混成軍を率いたオドアケル、続いて東ゴート族を率いたテオドリックによって約半世紀に渡ってイタリア半島は蛮族の支配を受けることになります。

そして意外なことに、西ローマ帝国が蛮族との戦いに明け暮れた時代よりも平和を取り戻すことになるのです。

"蛮族"と表現すれば当然のように"野蛮"というイメージに結びつきますが、敵対関係とはいえ長年に渡りローマ人を見てきたオドアケルやテオドリックは、もはや未開の蛮族などではなく、内政に精通したローマの旧支配者階級(旧元老院階級)の人材を活用することで安定した治世を実現するのです。

つまり「パクス・ロマーナ(ローマによる平和)」から「パクス・バルバリカ(蛮族による平和)」の時代へと移り変わったのです。

しかし皮肉なことに、この束の間の平和を壊すのは元同胞たちであった東ローマ帝国なのです。

すっかりオリエンタル地方特有の絶対君主制が根付いた東ローマ帝国のユスティニアヌス大帝は「ローマ法大全」を編纂させたことで歴史上有名ですが、カトリック教徒を蛮族の支配から解放するという大義名分の元、滅亡した西ローマ帝国の旧領を回復するという事業にも熱心に取り組んだ人物でした。

軍事の経験が一切なく、自ら戦場へ赴くなど微塵も考えなかったユスティニアヌス帝は、ベリサリウス将軍へ軍勢を預けて遠征を実行します。

一方でかろうじて安全保障を保っている東ローマ帝国には大軍を編成できるほどの国力を持っていませんでしたが、このベリサリウスが司令官として抜群に有能だったことから、少数の軍勢で目を見張る活躍を見せます。

相手の数に劣る軍勢で敵軍を破る指揮官ならばアレキサンダー大王ユリウス・カエサルはじめ6世紀の時点でも数々の先達がいましたが、彼らとベリサリウスが決定的に違うのは、前者が指揮官として優れていただけでなく、将来への大きなビジョンと野望を持っていたのに対し、ベリサリウスは皇帝の命令に忠実な根っからの軍人に徹したことです。

そしてイタリア半島を巡る18年間に及ぶ戦役が開始され、ローマを含めたイタリアは徹底的に破壊され続けます。

人口は激減し、土地は荒廃し、生き残った住民たちも重税によって苦しみ続けるのです。

結果として東ローマ帝国の国力も疲弊し、やがてマホメットによって開かれたイスラム教が拡大し、のちにイスラム国家の台頭に伴い中世が幕を開けるのです。

もはや古代ローマ人といえる人物は皆無であり、「ローマ人の物語」は終焉を迎えます。


本書「ローマ人の物語」を分類するのであれば歴史小説になりますが、基本的には史実にのみ基づいて一人称ではなく、ローマ史を俯瞰的に描いています。

文献が少ない出来事については著者の想像や推測で補うことはしても、はっきりとそれを読者へ伝える方法をとっています。

しかしそれだけであれば本書は「ローマ通史の教科書」ということになりますが、やはり歴史小説と断言できるのは、著者の主観、そして何よりも古代ローマ人への想いが作品の隅々にまで散りばめられているからです。

1200年以にも及ぶ期間、そして数々の登場人物を考えれば文庫本にして全43冊という分量となるのは当然であり、著者の塩野七生氏がラテン語、イタリア語に精通して長年に渡りイタリアを拠点に活動し続けた作家ということを考慮に入れても、やはり日本人が本書のような作品を完成することができたのは快挙ではないでしょうか。

ローマ人の物語〈42〉ローマ世界の終焉〈中〉



紀元410年8月24日、実に800年ぶりにローマは敵の手によって落ちることになります。

歴史上「ローマ劫掠(ごうりゃく)」と呼ばれるこの事件は、アラリックに率いられた西ゴート族の侵略によって引き起こされました。

アラリックと戦えば必ず勝利してきたスティリコ将軍はローマ皇帝自らが側近に惑わされ処刑していたのですから、ある意味では自業自得といえます。

当然のように蛮族たちの手によってローマからは財宝や人質が持ちだされました。

しかしこの事件でさえも、これからローマ帝国を襲う数々の悲劇の前触れでしかなかったのです。

テオドシウス帝が後継者となる2人の息子が共同統治するために分けた西ローマ帝国と東ローマ帝国でしたが、相次ぐ蛮族の侵入、ササン朝ペルシア、そして国内の内乱によりお互いが助け合う余裕など微塵もなく、この東西に分かれた帝国は完全に分裂してゆきます。

とくに古代ローマ人発祥の地であり、長らく「世界の首都(カプト・ムンディ)」であったローマを擁する西ローマ帝国の惨状は酷いものでした。

ジブラルタル海峡を渡って侵入してきたヴァンダル族によって北アフリカをなす術なく手放し、東ローマ帝国でさえもフン族による侵略の前に無条件降伏のような講和を結ぶしかない有様でした。

アエティウスのようなつかの間の平和をもたらす将軍も登場しますが、もはや安全保障のための最低限の軍事力さえなく、蛮族から侵入され、恫喝される度に金品によって和平を結ぶということを繰り返すのです。

しかも領土と共に著しく縮小した財政も"火の車"であるため、住民たちは重税によって苦しむという悪循環に陥っていました。

組織が慢性的に疲弊したローマ帝国に優秀な指導者が現れることなく、逆に蛮族側にその指導者が現れるに及んで、もはや手の施しようがない時代が到来します。

アッティラ
率いるフン族、ゲンセリック率いるヴァンダル族のイタリア侵略によってイタリア半島の蹂躙を許し、とうとう運命の紀元476年、出身部族さえも定かでない蛮族の混成軍を率いてローマへ入城したオドアケルによって西ローマ帝国は滅亡を迎えるのです。

その呆気ない帝国の最後を著者は次のように表現しています。

ローマ帝国は、こうして滅亡した。蛮族でも攻めて来て激しい攻防戦でもくり広げた末の、壮絶な死ではない。炎上もなければ阿鼻叫喚もなく、ゆえに誰一人、それに気づいた人もいないうちに消え失せたのである。少年皇帝が退位した後にオドアケルが代わって帝位に就いたのでもなく、またオドアケルが他の誰かを帝位に就かせたのでもなかった。ただ単に、誰一人皇帝にならなかった、だけであったのだ。半世紀前の紀元四一〇年の「ローマ劫掠」当時には帝国中であがった悲嘆の声も、四七六年にはまったくあがらなかった。

つまり軍勢を率いたオドアケルに対しローマには抵抗する戦力も気力も無く、無条件に城門を開いたのです。

都市国家として生まれてから1200年以上にも渡って存在してきた国家が、たとえば大阪夏の陣のような見せ場が一切ないまま終わりを迎えるのですから、ここまで長い間ローマ興亡史を見てきた読者も呆気にとられます。

ただ数々の戦いに勝利して広大な版図を築き、何よりも多くの民族と共生してきたローマが1度や2度の戦いに敗れて滅亡するにはあまりにも巨大であり過ぎ、それ故にローマ帝国の最後としては相応しいのかも知れません。

ローマ人の物語〈41〉ローマ世界の終焉〈上〉



いよいよ「ローマ人の物語」も最終章へ突入します。

もはや共和政ローマ時代のように破竹の勢いで快進撃を続けることも、初期から中期帝国時代のパクス・ロマーナ(ローマによる平和)がもたらす繁栄が二度と戻らないことを、5世紀に生きた当時のローマ人たちも感じていたに違いない時代が到来するのです。

それも度重なる蛮族の侵入を防ぐどころか、蹂躙されるがまままの状態に陥ったのですから当然であるといえます。

この帝国末期の状況を著者は次のように分析しています。

人間ならば誕生から死までという、一民族の興亡を書き終えて痛感したのは、亡国の悲劇とは、人材の欠乏から来るのではなく、人材を活用するメカニズムが機能しなくなるがゆえに起こる悲劇、ということである。

つまりローマ人の能力が衰えたり、侵入してくる蛮族たちが急激に強くなったわけではないのです。

しかも本書で触れられているのは近代日本や江戸幕府さえも遠く及ばない、本巻の時点でも1100年以上にも渡って繁栄した古代ローマ人たちの国家であることを考えると、どんな国であっても人間の寿命と同じようにいつかは"死(滅亡)"を迎える運命にあると感じずにはいられません。

共和政時代であれば執政官独裁官、そして時には護民官を中心に、帝政時代であれば皇帝を中心としてローマ史を綴ることが出来ましたが、ローマ帝国の末期に登場する皇帝たちは、巨大化した宮廷の奥で政治に無関心になってゆきます。

そしてテオドシウスが後継者に指名した2人の息子(アルカディウスホノリウス)はその典型例となる人物でした。

そのテオドシウスが息子たち、そして帝国の行く末に不安を感じ、軍総司令官(事実上の後見人)として指名したのが、のちに「最後のローマ人」として称えられることになるスティリコ将軍でした。

しかもスティリコは、父親がローマ人が蛮族とみなしたヴァンダル族であり、母親がローマ人という「半蛮族」ともいうべき出自だったのです。

ただしこの「半蛮族」と呼ばれたスティリコは2人の皇帝の後見人として獅子奮迅の働きを見せます。

まずは族長アラリックに率いられ侵入してきた西ゴート族を撃退し、続いて北アフリカで起こった反乱を鎮圧、その後はラダガイゾ率いる東ゴート族を中心とした40万人ものゲルマン人がイタリア半島へ押し寄せてきますが、わずか3万人の急造ローマ軍で彼らを撃破するという離れ業をやってのけます。

これだけの活躍をしてさえ、繰り返される蛮族たちの侵入からローマ帝国を防衛することが困難だと判断したスティリコは、カエサルが征服して以降450年に渡ってローマの一部であり続けた広大な北部・中部ガリア地方を放棄することを決意するのです。

さらに加えて、かつての宿敵だった西ゴート族のアラリックと同盟を結び、西ローマ帝国防衛の一端を担わせるという大胆な戦略を実行します。

これは蛮族を使って蛮族を撃退する苦肉の策であり、実質的には西ローマ帝国がアラリックへ用心棒代を支払うことで成り立っていました。

厳しくはあっても公正であったスティリコは兵士たちからの信頼も厚く、彼の存在が無ければ間違いなくこの時期にローマ帝国は滅亡を迎えていたに違いありません。

人気と実力を兼ね備えたスティリコでしたが、その気になれば容易に掴み取れる皇帝の地位を決して狙うことはありませんでした。

先帝テオドシウスの遺言を忠実に守り抜き、何一つ判断も行動もしない皇帝を見捨てることは無かったのです。

一方で風雨に晒されることのない宮廷の奥で側近たちの言葉を信じたホノリウスは、スティリコを処刑してしまうのです。

半ば覚悟しての死を迎えたスティリコでしたが、この事件は著者の「人材を活用するメカニズムが機能しなくなるがゆえに起こる悲劇」そのものであり、ローマ帝国は自らの剣で深い傷を負っておきながら、その痛みさえ感じることの出来ない状態になってゆくのです。

ローマ人の物語〈40〉キリストの勝利〈下〉



キリスト教化されるローマ帝国の流れに逆らうように多くの改革を実行したユリアヌスでしたが、わずか2年という短い期間で彼の統治は終わりを迎えます。

続いてヨヴィアヌスが後継者として皇帝になりますが、彼の在位も7ヶ月間という短いものであり、しかもその政策のことごとくが先帝ユリアヌスの政策を廃案にするもので、ローマ帝国内には再びキリスト教が力を取り戻します。

続いて登場したヴァレンティニアヌスはもはや恒例となりつつあったように、実弟のヴァレンスともに帝国を東西に分けて共同統治することになります。

ただしローマ帝国がキリスト教を優遇しようがしまいが、また帝国を分割統治しようがしまいが、蛮族たちの侵入が途絶えることはありませんでした。

ヴァレンティニアヌスの10年間の治世は蛮族相手に戦いに明け暮れる日々で過ぎ、そして弟のヴァレンスは侵入してきたゴート族との「ハドリアノポリスの戦闘」で戦死という結末を迎えることになります。

この皇帝自らが総司令官としてローマ軍を率い、不意打ちではなく正面から蛮族と激突した戦闘で大敗を喫すという結果は、ローマ帝国が強大な時代であれば考えられないことでした。

やがて帝国の西方をグラティアヌスが、東方をテオドシウスが統治する時代が到来しますが、この2人はユリアヌスによって一時的に停滞していたキリスト教の浸透をさらに加速する政策を打ち出します。

まずはグラティアヌスが打ち出した政策ですが、次のようにローマで長年に渡り信仰されてきた宗教を排除するものでした。

  • 皇帝が兼任することが伝統であった最高神祇官への就任を拒否
  • ローマの宗教活動を担っていた女祭司への援助打ち切り
  • 元老院会議場の正面に安置されてきた「勝利の女神」像を撤去
  • 結果としてフォロ・ロマーノの神殿の中で1135年に保護されてきた「聖なる火」が消える

次にテオドシウスの政策ですが、コンスタンティヌス帝がキリスト教を公認した「ミラノ勅令」を更に推し進め、キリスト教以外の宗教を"邪教"として禁止したのです。

これ以降、キリスト教のみがローマ帝国唯一の公認宗教となり、まさに本巻の副題である"キリストの勝利"という結果をもたらすのです。

しかしこのキリストの勝利にもっとも貢献したのはグラティアヌスでもテオドシウスでもなく、彼ら以上に本書で言及されているミラノ司教アンブロシウスです。

特にテオドシウス帝はグラティアヌス帝の死以降、軍事上でも内政上でももっとも権力を持った事実上の専制君主となりますが、彼は若い頃に洗礼を受けキリスト教に帰依しています。

キリスト教徒としての規範を示すのは司教たちの仕事であり、当然のようにその正悪を判断するのも司教であるアンブロシウスであったのです。

しかも後世から"教会の父"と呼ばれるくらいキリスト教の組織化に長けたアンブロシウスは、宗教家としては必要以上に政治的人間であり、まるで皇帝を裏から糸であやつるように影響を与え続けたのです。

そして実際にアンブロシウスの機嫌を損ね、テオドシウス帝が人々の見守る中で膝を屈してアンブロシウスに許しを請う出来事が現実化したのです。

テオドシウスが熱心なキリスト教徒であったことも確かですが、もし皇帝自身が国教であるキリスト教を破門されることがあれば政治的にも致命的な失策となります。

やがて395年にテオドシウス帝の死によっていよいよローマ帝国は最後の1世紀を迎えることになりますが、それより一足先に本巻ではキリスト教によってローマ・ギリシア文明が終わりを告げることになるのです。

たとえアンブロシウスの操り人形という結果にしろ、キリスト教以外を禁止してその布教に貢献したテオドシウスは、コンスタンティヌス以来の"大帝(マーニュアス)"の尊称を得ることになります。

歴史上最初に"大帝"の称号を得たのはマケドニアのアレキサンダー大王でしたが、彼は東征によって広大なオリエント地方を征服することでヘレニズム文化を生み出した功績を残しました。

皮肉なことに同じ"大帝"であるテオドシウスは、領土の拡大どころか進行するローマ帝国の衰退をくい止めることさえ出来なかったのです。

ローマ人の物語〈39〉キリストの勝利〈中〉



父親である大帝コンスタンティヌスの後を継いでローマ皇帝となったコンスタンティウスでしたが、彼は兄弟による帝国統治の分担という遺言に反し、兄弟や親族を次々と倒して唯一の"正帝"の座に就きます。

有力な親族が次々といなくなったため、いわば消去法で"副帝"の地位に就いたユリアヌスにとってコンスタンティウスは、父親を殺害し、さらに兄をも抹殺した張本人でもあったのです。

ユリアヌスは哲学に傾倒していたためか、聡明で冷静な思考力の持主であったために、副帝という権力を手中にした喜びよりも、次は自分が父や兄のような運命を辿ることになるという危機感の方が圧倒的に優っていたのです。

そもそもユリアヌスは権力や裕福な暮らしに興味はなく、ギリシア哲学の偉人のように素朴に人生を送りたかったに違いありません。

そんなユリアヌスは、叔父のコンスタンティウスの命令によりガリアにおける蛮族たちの戦いの最前線に送り込まれることになるのです。

しかも当時のガリアには蛮族の侵入行為が日常化し、ローマ帝国の防衛線(リメス)は崩壊状態にあり、兵士の数や物資も足りず、士気は低く、コンスタンティウスからはろくな援助も期待できないといった八方塞がりの状態でした。

学問しかしてこなかったユリアヌスがローマ帝国の副帝になるどころか、ある日を境にそんな蛮族との戦いを指揮する総司令官を務めることになるのですから、これは悲劇を通り越して喜劇に近いかも知れません。

一方で幼少の頃より数多く読んできた書物の中には、歴史書も含まれていました。

その中でもとりわけ有名な「ガリア戦記」も読んでいたユリアヌスにとって実戦での経験は無くとも、もはや伝説と化したユリウス・カエサルの成し遂げた偉業であれば知識として持っていたのです。

ともかくカエサルのように戦場の最前線で兵士たちを鼓舞し、がむしゃらに先頭を指揮するユリアヌスは局地的な蛮族との戦闘に勝利すると同時に、配下の指揮官や兵士たちの信頼をも勝ちとってゆくのです。

そして大挙して押し寄せたアレマンノ族との大規模な「ストラスブールの会戦」に勝利することによって配下の兵士から英雄として讃えられるに至るのです。

しかしユリアヌスが英雄という評判を得れば得るほど、正帝のコンスタンティウスは脅威を感じることになるのです。

つまりコンスタンティウスにとって、副帝ユリアヌスは"そこそこ有能で恭順な駒"であれば充分であり、自分の名声や権威を脅かすほどの存在になることを望んでいなかったのです。

そんな中、ササン朝ペルシアとの戦いに備え正帝からの有無を言わせない支援要請に憤慨した配下の兵士たちによってユリアヌスはコンスタンティウスへ対して反旗を翻すことを決意するのです。

ローマ帝国正帝の地位を巡って雌雄を決するために軍を進めるユリアヌスでしたが、幸運にもコンスタンティウス病死の知らせを進軍中に受け取ることになります。

自動的に唯一のローマ皇帝となるユリアヌスでしたが、そこで初めてユリアヌスらしい政策を打ち出します。

最初に大帝コンスタンティヌスの「ミラノ勅令」によって公認され、その後は皇帝によって優遇され続けたキリスト教の特別扱いを廃止し、長く信仰され続けてきた多神教であるギリシア・ローマ宗教を復活させたのです。

また巨大な官僚組織をスリム化し、大規模なスリム化に取り掛かります。

皇帝の権力が絶対君主並みに強化されると共に皇帝の側近たちの数も増えた結果、巨大な宮廷組織が形成されつつあったのです。

皇帝の権威を誇示するかのような組織も、多くのことを1人で、もしくは少数の側近たちと決定してきたユリアヌスにとっては無駄にしか思えなかったのです。

それはまるで五賢帝時代の栄光を取り戻すための懐古運動のようでしたが、数年で頓挫することになります。

原因はすっかりローマ帝国の宿敵となりつつあるササン朝ペルシアへの遠征においてユリアヌスが戦死するためです。

もしユリアヌスの治世が数十年に渡っていたら、終焉の足音が聞こえつつあったローマ帝国の運命がどのように変わったのか興味のあるとことです。

ローマ人の物語〈38〉キリストの勝利〈上〉



紀元337年に大帝コンスタンティヌスが62歳で病没しますが、彼は遺言で3人の息子、そして2人の甥へローマ帝国皇帝としての権力を分割して与える後継人事を発表済みでした。

これは先帝ディオクレティアヌスが考案した、4人の皇帝によりローマ帝国を治めた"四頭政治(テトラルキア)"の踏襲に近いものでしたが、何よりもコンスタンティヌス自身がライバル皇帝たちを次々と倒し唯一無二の皇帝となった、つまりディオクレティアヌスの体制を壊した張本人であったことを考えると、その真意がどこにあったのでしょうか。

ディオクレティアヌスの"四頭政治(テトラルキア)"は、まったく血縁関係の無い4人が皇帝として即位しましたが、ひょっとするとコンスタンティヌスは、濃い血縁で結ばれた5人の権力者が手を取り合い、団結してローマ帝国を治めることを期待したのかもしれません。

ただし権力と財力をめぐっての嫉妬や独占欲は、赤の他人よりも血縁関係にあるライバル同士の方が、より苛烈な争いに発展する傾向があります。

そしてその杞憂は、コンスタンティヌスの死後直後から現実のものとなります。

まず帝都コンスタンティノープルで行われたコンスタンティヌスの葬儀の直後に、そこに滞在していた次男コンスタンティウス以外の親族たちが何者かによって暗殺されるのです。

長男コンスタンティヌス二世、三男コンスタンスはまだ首都に到着さえもしていませんでしたが、早くも権力を分割されていた先帝2人の甥が殺害された親族たちに含まれていたのです。

どう考えても眉唾ものですが、この殺害に次男コンスタンティウスが関与していないこと、あくまでも暗殺者が独断で行ったことだけが正式に発表されます。

その後も長男コンスタンティヌスⅡ世は自滅という形で、そして三男コンスタンスは次男コンスタンティウスと10年間の共同統治という期間を経たのちに、不満を募らせた配下の兵士の手によって暗殺されることになります。

複数の皇帝が乱立し内乱を繰り広げるのも、配下の兵士によって皇帝の命が奪われる光景も残念ながらローマ帝国末期においては特筆すべき出来事ではありません。

そして三男コンスタンスの後に、兵士たちによって擁立された皇帝マグネンティウスとの激戦に勝利し、コンスタンティウスはただ1人のローマ皇帝となるのです。

しかし当時は蛮族が広大なローマ帝国の東西南北いずれから攻めてきても不思議でない時期であり、東の国境には強大なササン朝ペルシアが虎視眈々と勢力拡大を狙っていました。

ローマ皇帝にとって第一にくる責務は当然のように安全保障ですが、ローマ皇帝1人ではとてもすべての前線に駆けつけることが困難な状況下にありました。

しかも皮肉なことに、本来ならはその役割を分担してくれる兄弟、ライバル皇帝たちを全員倒してしまたったのはコンスタンティウス自身であったのです。

そこで帝国の辺境・カッパドキアで幽閉生活を送っていた、それもコンスタンティウス自身が殺害に関与したことが濃厚な親族の遺児を引っ張りだして副帝に任命するのです。

まず遺児の中では年長のガルスが副帝となりますが、彼は父親を殺されて幼少時代からの長い幽閉生活が影響したのか、それとも副帝に任命されて環境が一変したからなのか、ともかく初めから正常な精神状態ではありませんでした。

結果として副帝として叔父であるコンスタンティウス帝の側近たちとの折り合いがつかず、それを知ったコンスタンティウスによって簡単に抹殺されてしまうのです。

そしてあまりにも安直ですが、今度は遺児の年少の方であったユリアヌスを代わりの副帝に指名することになるのです。

自らの権力に脅かす危険性のある存在であれば兄弟であろうが躊躇なく始末してしまうコンスタンティウスですが、これは彼の冷酷な性格から来るのと同時に、本質的に臆病な人物であったと著者は評しています。

副帝に任命された時点でまだ24歳のユリアヌスは、学問その中でもとりわけ哲学に傾倒していた文学青年に過ぎませんでしたが、同時に聡明だったユリアヌスは自らの置かれた危険な立場をはっきりと理解していたに違いありません。

そんなユリアヌスの数奇な運命が次巻で紹介されることになります。

ローマ人の物語〈37〉最後の努力〈下〉



本巻では引き続き、"四頭政治(テトラルキア)"を構成していたライバル皇帝たちを次々と葬り、唯一の皇帝となったコンスタンティヌスの治世を追っています。

前巻ではローマ帝国内におけるすべての宗教を信仰する自由を保証した「ミラノ勅令」について触れましたが、コンスタンティヌスは皇帝としての権力や財力を利用して、その中でもとくにキリスト教を積極的に支援しました。

その歴史的意義を著者は分かり易く次のように表現しています。

コンスタンティヌスが、ローマ史に留まらず世界史のうえでも偉人の一人とされてきた理由は、何と言おうが彼が、キリスト教の振興に大いなる貢献をしたからである。

また彼の名が一躍有名になるもう1つの事業が、ローマ帝国の新都建設です。

今までの首都ローマに代わり、それまで歴史的に重要でなかった地方都市であるビザンティウムへ首都を新たに建設したのです。

そして町の名前を自らの名前を冠したコンスタンティノポリス(英語ではコンスタンティノープル)と改名し、今でもトルコの首都として有名なイスタンブールの実質的な建設者となったのです。

そして帝政初期から中期にかけて皇帝へ対しても強権を発動できた元老院を完全に形骸化させたのもコンスタンティヌスです。

すでに元老院が実質的な権力が奪われて久しいですが、新都建設を機にそれを徹底して政策化したのです。

共和政ローマの頃よりローマ軍の司令官は、行政官としてのキャリアも充分に積んだ人物が就くことが慣例でしたが、元老議員が軍団司令官に就くことを禁止した法律の制定により、すべて生え抜きの軍人のみで占められるようになります。

軍の指揮官にはもちろん経験豊かなことが求められますが、オールマイティな人物が司令官として戦略レベルで視野の広い判断を下す、やはり真っ先に思い出すのがカエサルですが、彼のような文武両道の人物が生まれる土壌を国家システムとして完全に閉ざしたことを意味します。

要はすべての権力を皇帝1人へ集中させたのがコンスタンティヌス帝であり、この政策や政体が中世ヨーロッパの君主制の幕開けとなってゆくのです。

最後にもう1つコンスタンティヌス帝の治世で世界史に残る出来事といえば「ニケーア会議」が挙げられます。

この会議によってキリスト教のドグマ(教理)において三位一体派(神・精霊・キリストが一体であるとする主張する教団)の正統性が皇帝によって支持され、反対の立場をとるアリウス派が権力の中枢から遠ざけされたということです。

この"三位一体派"は後に"カトリック派"と呼ばれることになり、中世から近代史にいたるまでカトリックがもっとも伝統的で正統な教派とされる源流を生み出したのです。

それでも蛮族侵入に代表される安全保障の危機、貧富の格差拡大に象徴される経済力の衰退は相変わらず進行し続け、コンスタンティヌス帝が存命中にローマ帝国の繁栄へ対して貢献した実績よりも、のちの時代へ与えた影響力の方がはるかに大きいという不思議な人物でもあるのです。

ローマ人の物語〈36〉最後の努力〈中〉



前巻に登場した2人の皇帝、ディオクレティアヌスマクシミアヌスの2人は同時に退位、つまり引退という形で政治の表舞台から姿を消します。

それでも4人の皇帝によりローマを治める"四頭政治(テトラルキア)"は後継者を指名することで継続することになります。

そしてディオクレティアヌスの治世のような安定した時代が続くと思われましたが、結果としては最悪の方向へ進むことになります。

つまり4人の皇帝が自らの担当地域を縄張り化(私領化)し、お互いに権力争いを繰り広げる内乱へと突入するのです。

4人の皇帝が次々と入れ替わり、さらにトーナメント方式のように勝利した皇帝が敗れた皇帝の領地を併合するという事態へ発展してゆきます。

ディオクレティアヌス時代の四頭政治は、あくまでも彼を頂点とした"1+3"の4人体制であり、また他の3人の皇帝もディオクレティアヌスの実力を認めていたからこそ維持できていたのです。

引退したディオクレティアヌスも現状を打開しようと口を挟みますが、一度権力を手放してしまった以上、再びそれが自らの手に帰ってくることはなく、"元皇帝の肩書を持った老人"にしか過ぎない存在となるのです。

そして内乱という権力抗争で生き残った人物こそが、のちに"大帝"と呼ばれることになるコンスタンティヌスです。

本巻ではこのコンスタンティヌスが権力抗争で唯一の勝利者となる過程に詳細に触れられています。

もっとも統治能力に秀でたコンスタンティヌスが皇帝の座の収まること自体、ローマ帝国にとってけっして悪いことではありません。
しかし内乱によって失われた優秀な指揮官や兵士は、蛮族襲来の危機に晒されているローマ帝国にとってかけがえの無い財産であったことも事実なのです。


また権力抗争の過程でリキニウスと2人の統治時代を迎えていたときに発令した紀元313年の「ミラノ勅令」にもページを割いて解説されています。

紀元1世紀にローマ帝国内で活動したイエス・キリストの時代から、キリスト教の置かれている状況について「ローマ人の物語」シリーズでは要所要所で触れられてきました。

まずキリスト教が誕生してから約200年は信者の絶対数が少なかったことから、小規模な弾圧を受けることはあっても基本的にはマイナーな宗教としての位置付けで終始します。

"五賢帝時代"から"危機の3世紀"を経て4世紀に入ると、キリスト教が急速な広がりを見せますが、ローマ人の大多数が信じる多神教との価値観の相違、つまり皇帝の権威を認めず、神の権威のみを認めるキリスト教徒たちは大規模な弾圧に遭遇することになります。

ローマ人古来の宗教はギリシア神話の神々を取り入れた多神教であり、経典も専属の司祭といった階級も存在しませんでした。

宗教上もっとも権威を持った人物はカエサル以降、皇帝が最高神祇官として兼任するのが恒例となっており、司祭も兼業という形で市民の中から選出されるという"ゆるい宗教"でした。

実に30万もの神々が役割ごとに守護神として存在していたと言われており、最高神ユピテル(ギリシア神話のデウス)から夫婦げんかを仲裁する神までが存在していました。

これは現代の西欧人よりも、八百万の神々が存在する神道、さらに仏教をも同時に受け入れる日本人の方が、古代ローマ人の感覚を理解できると思います。

ともかく「ミラノ勅令」によって弾圧を受けていたキリスト教含めて、ローマ帝国内における信仰の自由を保証したのです。

しかもその後、コンスタンティヌスは積極的にキリスト教の保護を進め、キリスト教を特別に優遇する政策を推し進めます。

コンスタンティヌスが"大帝"と呼ばれるのは、のちにヨーロッパにおいて絶対的地位を築き上げたキリスト教徒たちによる尊称であり、彼の存在なくして、世界三大宗教の1つとして数えられるキリスト教の地現在の地位はあり得なかったことを考えると当然といえます。

そんな世界史の中でも重要な位置付けとされるコンスタンティヌス帝ですが、神の国を説くキリスト教が公認されても、彼が治める現実世界のローマ帝国には問題が山積みだったのです。。

ローマ人の物語〈35〉最後の努力〈上〉



本巻ではディオクレティアヌス帝の統治時代に触れられています。

危機の3世紀」では数年、時には数ヶ月単位で次々と皇帝が入れ替わりましたが、このディオクレティアヌスの治世は20年以上に渡ることになります。

すでにローマの覇権を拡大させる時代はおろか、安全を維持する時代さえも過ぎ去り、ディオクレティアヌスの最優先課題は、帝国の衰退を食い止めることでした。

これは破産しかけた会社の再建が急務であるのと同じ状況でした。

3世紀の皇帝たちは1人体制で蛮族や敵国の侵略を食い止めるために奔走してきましたが、ディオクレティアヌスは友人であり優れたローマの将軍であったマクシミアヌスをもう1人の皇帝とすることで役割と責任を分担します。

1人の皇帝が各地の戦場へ赴くのではとても時間が足りず、さらに自らがカエサルのような天才型の人間でないことを自覚していたディオクレティアヌスは、地域ごとに責任者(皇帝)を置くという効率的な方法によって防衛線(リメス)の維持を試みたのです。

結果としてこの方針は功を奏し、在位8年にしてローマ帝国の国境にはひとまずの平和が訪れることになります。

そしてディオクレティアヌスは、その体制をさらに一段と推し進めます。

ローマ帝国を東西に分け、そこにそれぞれ正帝副帝を置くことで帝国の領土を4人の皇帝で統治する体制を実現します。

これを"四頭政治(テトラルキア)"といい、各皇帝は自らが担当する地域にける軍の最高責任者でありましたが、抑えておくべきポイントは以下の通りです。

  • ローマ帝国を4分割したわけではなく、あくまでも1つの帝国として国体を維持したこと
  • 4人の皇帝の中でディオクレティアヌスが明確にもっとも強大な権力を有していたこと

分かり易く言えば、4人の皇帝の実力が拮抗していたわけではなく、実質的にディオクレティアヌス自身が他の3人の皇帝を指名したのです。

もちろんこれはディオクレティアヌスが謙虚だった故に権力を割譲したのではなく、危機的状況下にあって広大なローマ帝国を効率よく治めるために生み出したアイデアでした。

結果として四頭政治(テトラルキア)は、ローマ帝国に一時的な安定をもたらしましたが、これは増強した軍事力に依存した安定でもあったのです。

具体的には、外敵との絶え間ない争い、そして兵士たちの質の低下を補うために帝国全土の兵士の人数を30万人から、一気に2倍の60万人に増やします。

これは必然的に軍事費の増大となって現れますが、この軍事費についても増税という単純な方法で補います。

一昔前であれば、たとえ皇帝であっても増税政策を打ち出せば、元老院、そしてローマ市民たちの反発によってその地位を失いかねない事態になることは珍しくありませんでした。

しかし3世紀末から4世紀初頭にかけて皇帝となったディオクレティアヌスは、軍団の絶対的な支持を背景にした武力と、皇帝を頂点とした巨大な官僚組織をつくり上げることで、その反発を簡単に抑えこむ実力を持っていました。

この末端まで組織された官僚体制は、当時のローマ人が「税金を納める人の数よりも、税金を集める人のほうが多くなった」と皮肉るほどでした。

そしてディオクレティアヌスは、自らが目指した政策をひと通りやり終えると、同僚の皇帝であるマクシミアヌスと共に引退してしまうのです。

終身制が普通であったローマ皇帝にとって引退自体が異例のことでしたが、この潔い勇退が必ずしも良い結果とならないのも衰退するローマ帝国を暗示していたように思えてなりません。


さすがに4世紀のローマ史ともなると、口から泡を飛ばして元老議員と議論する皇帝クラウディウスのような、民衆たちと一緒に公衆浴場(テルマエ)へ通う皇帝ハドリアヌスのような民衆にとって身近な皇帝が2度と現れることが無いことに寂しさを覚えてしまいます。

ローマ人の物語〈34〉迷走する帝国〈下〉



前巻は次々と皇帝が現れては消えていった時代でしたが、この流れは3世紀後半に突入しても変わりません。

とくに皇帝ヴァレリアヌスが敵の捕虜になるという事態はローマ帝国にとって前代未聞の大失態であり、この事件をローマ帝国の衰退と受け取った近隣の国や蛮族たちが次々と侵入してくる危機を迎えます。

著者の塩野氏は国の統治者として何よりも優先すべき項目は、安全保障だと主張しています。

ローマ人は辺境であろうと町を建設し、インフラを整備した民族でしたが、蛮族や敵国の侵入により辺境に近い町から人が逃げ出し、その結果として農地が荒れ地へと変わり、経済の衰退や文化の後退を招いてゆきました。

つまり安全保障が確立しなければ、経済の繁栄どころか食糧の供給にさえ支障をきたすことになるのです。

現代においても難民の多くが戦争や内乱によって生み出されている現実を見ると、当然の帰結と言えます。

当時のローマ帝国はあらゆる面で統治能力を失いつつあり、それはすぐに目に見える形になって現れます。

まずはローマ帝国の西方、つまりイベリア半島やガリア地方含めた広範囲の地域がガリア帝国としてローマ帝国から分離独立し、続いて東方でもカッパドキアからエジプトに渡る地域が、パルミラ王国として離れることで、ローマ帝国が実質的に三分割されるという出来事が起きます。

こうした背景の中で本巻で登場する皇帝たちを追ってゆきます。


皇帝ガリエヌス(253-268)
ヴァレリアヌスの死と共に相次いだ外敵の侵入、帝国の3分割という危機的な状況下で皇帝に就任する。彼は起死回生のバクチには挑まず、状況の悪化を防ぐための現状維持を再優先事項とする。つまり分離したガリア帝国とパルミラ王国は放っておき、残った領土を蛮族の侵入から守ることに専念し、ローマ軍の伝統的な主力である重装歩兵を騎兵に置き換えるなどの改革を遂行する。
蛮族の侵攻を食い止めることには成功するも、その保守的な姿勢に腹を立てた兵士たちに殺害される。


皇帝クラウディウス・ゴティクス(268-270)
大挙して押し寄せてきたゴート族を騎兵団を率いて撃破するも、疫病によって倒れる。
短いとはいえ、戦死でも謀殺でもなく"病死"という形で治世を終えた久しぶりの皇帝となる。


皇帝アウレリアヌス(270-275)
危機の3世紀に登場した皇帝の中では抜群の実績を残す。
侵入してきたヴァンダル族を撃破し、続いてローマ帝国から独立した状態にあったパルミラ王国を武力によって再び併合し、ガリア帝国は政治的交渉によってローマ帝国へ"復帰"という形で再興させる。防衛上の理由からダキア地方からは撤退するも、ほぼ旧来通りのローマ帝国の版図を回復することに成功する。しかし凱旋から間もなく秘書のエロスによって殺害される。


皇帝タキトゥス(275-276)
「同時代史」で有名な歴史家タキトゥスの子孫。皇帝に就任した年齢が75歳ということもあり、わずか8ヶ月で病死する。


皇帝プロブス(276-282)
大波のように次々と押し寄せる蛮族たちを迎え撃つ日々を送る。またゲルマン人の住む土地へ積極的に攻めこむ方針をとり、捕虜となった蛮族たちをローマ帝国の住民とする同化政策を打ち出す。しかし一部の暴走した兵士たちによって殺害される。


皇帝カルス(282-283)
ローマ帝国の東方を脅かし続けたササン朝ペルシアへの遠征を敢行する。順調にペルシア軍を撃破して進軍するも宿営中に雷によって落命することになる。


皇帝ヌメリアヌス(282-283)
皇帝カリヌス(283-284)
先帝カルスの長男と次男であるが、いずれも兵士たちの信望を得ることは出来なかった。
この時代に軍団からの支持を失った皇帝は、兵士たちによって殺害される道しか残っていない。


やはりこの時代で特筆すべき皇帝は、アウレリアヌスになるでしょう。

戦闘に強い(=戦術に優れた)軍人皇帝ならば危機の時代にも度々登場してきましたが、外交含めた戦略の立案、そしてその実行に際して優先順位を誤らなかった皇帝は久しぶりに登場したのです。

カエサルアウグストゥスの時代から名目上は元老院とローマ市民から承認されることではじめてローマ皇帝と認められるのが慣例でしたが、アウレリアヌスは皇帝としての強権をためらわずに発動し、実力に訴えるタイプの"絶対君主"に近い皇帝として君臨しました。

このスタイルは、すぐ後の時代に登場するディオクレティアヌスコンスタンティヌスといった皇帝たちに受け継がれてゆくのです。