歩兵の本領
浅田次郎氏による1970年頃の自衛隊を題材とした小説です。
当時の日本は経済成長の真っ最中であり、一方で大学生を中心とした学生運動が盛んに行われていた時期でもありました。
若者たちが就職に困らない時代であったこともあり、給料が安くて厳しい規則に縛られる自衛隊に入るのは、やくざ者や借金で首が回らなくなった者など一癖も二癖もある人物が入る場所と相場が決まっていたようです。
そんな彼らの日々をストーリーテラーとして抜群の技量のある浅田氏が活き活きと描いています。
それもそのはず浅田氏は、若い頃に実際に自衛隊員であった時期があり、当時の自衛隊の組織や、そこで勤務する隊員たちの心理を肌で感じていた経験があるからです。
それだけに本作品は説得力を伴うものに仕上がっています。
巨大な組織の自衛隊には、様々な立場の立場がいます。
それは分かりやすい"階級"によるものだけではなく、どのくらい長く自衛隊に所属しているか、いわゆる飯(メンコ)の数という2つの尺度があり、特に後者は共同生活を営む若い隊員にとって大きな意味を持ちます。
さらには1970年頃は旧帝国軍人の生き残りがベテラン隊員として健在だった時代もあり、実際に戦争を経験した彼らがたとえ下士官であっても、幹部から一目置かれていました。
世界的にもトップクラスの軍備を保持しながら"軍隊"として認められない自衛隊という存在は、実際の戦闘行為に及ぶ可能性は低いですが、それを想定した厳しい訓練を日々積んでいます。
昨今は災害や領土問題などでスポットが当たる頻度が増えているものの、その曖昧な定義ゆえに世間からは肩身の狭い存在であることは現代においても変わりません。
しかしながら合法的に強力な武力を保持するという点においては、実質的な軍隊であると定義することが可能です。
武器の性能や名称に興味はありませんが、ここ数年は軍隊の組織へ対し個人的な興味を持っています。
それは学校や自治体、そして会社というあらゆる組織において、軍隊はもっとも合理的で強固な団結力を求められる存在であり、ゆえに個性の尊重をもっとも犠牲にしなければいけない組織です。
いわば現在の教育や常識とかけ離れた価値観を強要される組織は、他に"やくざ"や"刑務所"といった日常とかけ離れたものしか思い浮かばず、しかもそれが国家にとって絶対不可欠であるという事実が実に興味深いからです。
自衛隊を実際にルポした作品も存在しますが、小説でありながら本書はそれに劣らないリアリティを感じさせる完成度を持った稀有な作品であるといえます。
ゲゲゲの女房
本書は漫画家"水木しげる"の妻、布枝さんの自伝です。
水木しげるファンとして以前から気になっていた1冊ですが、ようやく読む機会が巡ってきました。
水木しげるは出兵したラバウルで片腕を失う大怪我を負って帰還します。
その後は職業を転々とし、やがて売れない漫画家として赤貧の生活を送るようになっていましたが、その真っ最中に2人は結婚することになります。
夫39歳と妻29歳という当時から見れば晩婚夫婦の誕生でした。
布枝さんは控えめで大人しく、昭和のよき妻といった印象です。
結婚と同時に島根県安来市から上京するも売れない漫画家(当時は貸本作家)に嫁いだ宿命というべきか、とにかく貧乏な生活を余儀なくされます。
しかし生まれた子どもに飲ませるミルク代もない日々の中で、不思議と希望を失わない芯の強さがありました。
売れなくとも全身全霊をかけて絵を書き続ける夫に連れ添う布枝さんは、決して自分の感情を殺して追従しているのではなく、夫の成功を疑いもなく確信しているからなのです。
水木しげる氏の自伝は何作品か読んでいますが、どれも妻(布枝さん)へ対して深く言及したものはありませんでした。
一方で、本作品は(私は読んでいませんが)映画やドラマ化されるなど、様々なメディアに取り上げら話題となりましたが、内容は思ったより普通だったというのが個人的な印象です。
つまり規格外の水木しげる氏とは対照的に、妻の布枝さんは常識と良識を併せ持った女性だったかでしょう。
とはいえ本作品が決して"つまらない"ということではありません。
亭主関白が当たり前だった時代において"内助の功"という言葉は普通でしたが、現在では殆ど使われなくなりました。
だからこそ、それを体現した布枝さんへ脚光が当たったのだと思いますし、何よりも布枝さんの深い愛情が世代を超えて多くの人に共感されたのではないでしょうか。
甲子園球場物語
大正13年(1924)に建設された歴史と権威を誇る甲子園球場。
本書はひたすら甲子園球場から定点観測を行うように、その歴史を振り返った1冊です。
スポーツとしての野球そのものは明治初期に日本に伝来していましたが、日露戦争・第一次世界大戦を経て自他共に認める先進国入りを果たした時代を背景に、野球発祥の地アメリカで完成した世界一のヤンキースのスタジアムに負けない球場を建設すべく、阪神電鉄の手によって甲子園球場が建設されました。
徹夜組が出るほどの盛況ぶり、そして"タイ・カッブ"や"ベーブ・ルース"たちをはじめとした大リーガーの来日、昭和9年にはプロ野球が誕生し、日本の野球熱は甲子園を中心に高まりつつありました。
しかし近づく軍靴の音と共に、甲子園球場も暗い時代に入ってゆきます。
太平洋戦争の開戦以降も、国家統制を進める東條内閣の圧力下でギリギリまで野球を開催し続けようとする関係者たちの努力は涙ぐましいものがありますが、内野を覆う屋根(大鉄傘)を軍部へ供出させられるなど、甲子園球場にとって暗黒の時代が訪れます。
そして何よりも悲しむべき事は、若い球児たちが遠い異国の地で散っていったことではないでしょうか。
終戦と共に甲子園は進駐軍に接収されることになりますが、GHQのバックアップもあり何よりも早く復興したスポーツも野球でした。終戦の翌年(昭和22年)には早くも春のセンバツ大会が再開され、終戦の物資の不足している時代にも関わらず、甲子園球場には多くの人びとが訪れました。
その後の日本の復興・成長と共に華やかな歴史を彩った甲子園球場は、近代日本の栄枯盛衰を見続けてきた存在であるといえます。
また本書では意外と知られていない甲子園の歴史にも触れられています。
- かつて三塁側アルプススタンド下には温水プール、一塁側には体育館があった
- 大正13年から現代まで売店のNo1人気メニューは"カレーライス"である。
- 甲子園での最長試合は延長27回(昭和8年の中京商VS明石中)
- 甲子園でスキージャンプ大会が開催されたこともあった。
高校野球ファンや阪神ファンでなくとも楽しめること間違いなしの1冊です。
天地明察 (下)
引き続き、貞享暦(大和暦)を生み出した渋川春海を主人公とした「天地明察」下巻のレビューです。
春海が改暦を実現するまで日本は862年に唐からもたらされた宣明暦を800年以上に渡り使い続けており、その精度の低さから当時は2日もの時差が発生し、様々な弊害が生まれてきました。
しかし一言で改暦といっても"暦"は時間を支配することを意味し、人々の日常生活のみならず、政治・宗教的な行事にも深く根ざしているため、政治力学の観点からも多くの困難を伴います。
多くの挫折を味わい、地道な測定調査、そして政治的な工作をも駆使して改暦を実現した"渋川春海"には多くの協力者が現れ、ついには日本に初めての国産暦が制定するに至ります。
長年の慣習を打ち破ったその功績が、その後江戸時代において何度か行われる改暦の先鞭を付けた点でも注目されるべき出来事です。
つまり本作品のテーマはズバリ"改革"です。
当初は良くとも、時代の移り変わりと共に弊害となる伝統や制度が出てくるのは仕方ありません。
しかし長い年月にわたって続けられた物事は様々な権威や既得権益によって何重にも保護されていることも珍しくなく、それを改めることには多くの人々の努力や情熱といったエネルギーが必要です。
戦後続いた日本の政治や行政制度にも同じことが言え、それを打破するための改革が決して夢物語ではないことを、本作品に出てくる人物たちが示してくれているのではないでしょうか。
天地明察 (上)
著者の冲方丁氏は元々SF作家としてデビューして活躍を続けていましたが、2009年に初めて発表した歴史小説が本作にあたります。
今年は本書を原作とした映画が公開され、話題を集めている作品です(見ていませんが。。)。
主人公は江戸前期に貞享暦(大和暦)を編み出した渋川春海(しぶかわ・はるみ)です。
春海は将軍家に囲碁を以って仕える碁衆の安井算哲の長子として生まれますが、数学・暦法に興味を持ち、やがて保科正之や徳川光圀などのバックアップをはじめ、多くの協力者の支えもあって改暦を実現するに至ります。
江戸前期とはいえ世の中は「島原の乱」を最後に平和な時期を迎えており、人々にとって戦国の動乱は遥か過去のものになっていました。
つまり一国一城の主を夢見て立身出世を目指す武将の時代は終わり、本書の主人公である春海のような学問や技術、そして文化面で活躍する人たちの時代が到来しました。
戦国武将たちのような派手さはありませんが、自らの信じる学問や研究に生涯を捧げる人びとの姿を作者の視点でしっかりと捉えており、完成度の高い作品に仕上がっています。
「のぼうの城」の主人公"成田長親"もそうですが、最近はマイナーな歴史的人物にスポットを当てる作品が注目を浴びています。
たしかに歴史的な偉業を成した人物については、過去に著名な小説家たちが長編大作を発表しています。
加えて知名度の低い人物に関しては残されている歴史的資料も少ないことから、作者が創作自由度の高い作品を書けるメリットもあります。
よって今後もこうした傾向は続くのではないかと思われます。
終りのない惨劇
東日本大震災においてもっとも甚大な被害をもたらしたのが津波でした。
しかし津波の被害は復旧の兆しが見えてきましたが、福島第一原発による放射能汚染は未だに収束の気配を見せていません。
本書は1986年に発生したチェルノブイリ事故による放射能汚染が未だに多くの人を苦しめている現状と問題点を世間に明らかにする目的で書かれたものです。
国連の下部組織であるIAEA(国際原子力機関)。
日本においても震災支援のためにIAEAは調査や助言を行なっています。
しかしながらIAEAは原子力の安全管理を司る一面とは別に、原子力の商用利用を推進するといった別の顔を持っており、核保有五大国(アメリカ、ロシア、イギリス、フランス、中国)の影響を大きく受けています。
つまり国連の常任理事国とまったく同じメンバーであり、IAEAはそれらの国を中心としたロビー活動により絶大な権力を持った組織であることを意味しています。
IAEAがチェルノブイリ事故で認めている被害は、放射線の過剰被曝による死者が54人、重い被曝を受けた者が2000人、放射能の影響による甲状腺癌の(主に子どもたちの)症例が4000人という数字がすべてです。
しかしながら本当にそれがすべてなのでしょうか?
チェルノブイリ事故によりもっとも甚大な被害を受けた人口1000万人のベラルーシにおいては、少なく見積もっても国土の20%/が汚染されており、もっとも激しい汚染地域においてもやむを得ない事情で未だに多くの人々が生活しています。
そしてウクライナやロシアにおいても甚大な被害が生じています。
放射能に汚染された地域に住む人々の間では、心臓病、糖尿病、様々な癌の発生率が上昇傾向にあり、もっとも深刻なものに放射能による遺伝子の損傷、つまり生まれながらに重度な障害をもつ畸形児の増加などが挙げられます。
民間の医師や慈善団体による調査によれば、死者は述べ100万人に達すると言われています。
更に今日現在においても後遺症で苦しむ人々は200万人との報告がありあります。
IAEAによれば、自らの統計を上回る死者はすべて"自然死"で片付けられています。
しかし正確な数字は誰にも分かりません。
それは放射能による人体への影響については研究段階であること、国際的に保健分野でもっとも強力な組織であるWHO(世界保健機関)がIAEAとの合意書により、IAEAの発表を追随するに過ぎない機関に成り下がっている現状があります。
その結果としてIAEAが公式発表する数字を覆す医師たちが活動資金を絶たれ、IAEAの方針に賛同する医師たちによって彼らの発表が作り上げられている状態に陥っています。
一方でこの被害を補償しようとすれば、先進国家の国家予算に匹敵する金額が必要になり、原子力を推進する国々(そして原子力発電を売る側の企業)にとって都合が悪いことが容易に想像が付きます。
本書でたびたび写真などで触れられている重度の障害を持った子どもたちの姿は心が痛むものであり、本書を通じて書かれている内容は決して明るいものでもありません。
それでも真実を知ろうとする姿勢は必要です。
決して経済(商業)を軽視する訳ではありませんが、チェルノブイリ事故は行き過ぎた資本主義やグローバル経済が、時には人命をも軽視しかねないといった最悪のケースを示しています。
そして、この悲劇が今まさに日本で繰り返しかねない現実を描いているという点です。
原子力の継続、または廃止といった議論は、解散総選挙でも各政党の大きなテーマとして政治的にも取り上げられていることもあり、是非この機会に読んでみては如何でしょうか。
陸軍士官学校の人間学
アサヒビール名誉顧問"中條高徳氏"による1冊です。
戦後GHQの方針によりビール市場において圧倒的なシェアを持っていた大日本麦酒は、1949年にアサヒビールとサッポロビールに分割されます。
更にはキリンビールの躍進、サントリーの参入によりアサヒビールはシェアを更に下げ、1980年にはシェアが10%以下になる危機的な状況に陥ります。
しかしラガービール(簡単にいえば熱処理したビール)が主力の業界へ対し、アサヒビールが乾坤一擲の生ビールを市場へ投入します(もっとも有名なのがスーパードライです)。
味は良いが、高いろ過技術、そして難しい品質管理が要求される生ビールに社運を賭けたアサヒビールは、やがてビール業界トップに返り咲きます。
当時は寡占化が進んだ市場において、「シェア10%以下の企業が逆転できる見込みは"0(ゼロ)である」というのがマーケーティングの常識であり、ハーバード大学においても1980年当時の日本のビール業界がケース・スタディとして用いられるほどの状況でした。
この逆境を跳ね返すアサヒビールの中心で活躍した著者が、その経営の秘訣を明かしています。
それはタイトルから想像が付く通り、その真髄を"兵法"にあると説明しています。
著者は太平洋戦争中に陸軍士官学校へ入学し、そこで終戦を迎えています。
陸士学校は当時の最高峰の秀才を集めた青年将校を育成するエリート学校でした。
その学校でテキストとして使用された「統帥網領(とうすいこうりょう)」、「作戦要務令」、そして兵法の古典である「孫氏」を主に引用して本書は進められていきます。
兵法は国家の非常時、つまり国家存亡の危機を生き抜くために編み出された知識や知恵の結集であり、それは企業においても当てはまるという考えは受け入れ易く、著者の丁寧な解説もあり兵法に興味の無い人でも容易に理解することができる内容になっています。
現代は兵器や情報手段の発達により、高度で精密な戦略が組み立てられる時代になっています。
しかしながらそれを用いるのが人間である以上、本能に根ざす感情を巧みに利用する兵法は現代においても有効と言えます。
一方で本書書かれている内容とは対照的に、太平洋戦争における作戦は酷かったと言わざるを得ません。
どの兵法書でも重要視されている兵站(補給)は徹底的に軽視され、戦力を劣勢を挽回すべく計画された奇襲作戦はどれも稚拙なものが目立ちました。
つまり兵法は学ぶことではなく、実践にこそ意義があるものと言えます。
アマゾン契約と電子書籍の課題
前回に引き続き、電子書籍をテーマにした本です。
本書は世界最大の本屋であり、日本でも「kindle」を発表し、電子書籍戦争の大本命と目される"アマゾン"と各出版者との契約に焦点を絞った本です。
著者は弁護士であり、出版者の権利を守るという視点に立ってアマゾンが各出版者へ提示した契約書の問題点を細かく分析しています。
少々専門的になってしまうため本ブログで紹介することは避けますが、前半はアマゾンが各出版者へ提示した契約書に潜む問題点の指摘、後半は電子書籍における「出版者~著作権者(作者)との契約書」、そして「出版者~(アマゾンなどの)電子書籍販売サイトとの契約書」のひな形が掲載されています。
本書で指摘されている問題点は消費者(電子書籍の購入者)としては気付きにくい新たな視点を与えてくれます。
少なくとも出版業界に携わる人にとっては必読しておきたい1冊です。
出版大崩壊
最近のもっともホットなWebの話題といえば、"電子書籍"です。
アマゾン「kindle」、アップル「iPad」、グーグル「nexus」、楽天「kobo」・・・・その他にも電子書籍をサポートした多くのデバイスが発表されています。
紙媒体がデジタル化され場所や時間を選ばずに安価に書籍が入手できる時代の到来は、”便利”そのものであり、単純に喜ぶべきものであると考えているのは私だけではないはずです。
本書は出版社に30年以上にわたり勤め続けた山田順氏によって書かれた本です。
著者は電子書籍に限りない可能性を感じ、長年務めた出版社を飛び出しましたが、やがてその未来が限りなく暗いことに気付き、その理由を1冊の本にしたという内容です。
書籍のデジタル化に伴い出版業界に携わる人々(編集、製紙、印刷、製本、流通、小売)が大きな打撃(=失業)し、個人が作者として電子書籍を出版できるといった仕組み(=セルフパブリッシング)が確立してゆくことは容易に想像できます。
Web上の情報は"無料"であるという文化がデジタルの宿命とも言える不正コピーの横行を招き、そして手軽な個人出版による書籍の氾濫により良質な作品が洪水の中に飲み込まれてゆくという本書の内容は、私にとって説得力のあるものでした。
これはインターネットに慣れ親しんだ若い世代になればなるほど顕著になってゆきます。
例えば新聞のような時事的な内容を扱ったWeb上のニュース、youtubeの中にある高品質な動画へ対してさえ料金を支払うという発想は薄く、たとえ支払ったとしても少額(=少なくとも紙面やDVDへ対して支払う金額より圧倒的に安い)であることが条件になります。
その結果として今までプロフェッショナルとして活躍してきた実力ある作家たちがアマチュア作家と同じ条件で競争せざるを得ない状況となり、コンテンツの品質が限りなく低下してゆくというものです。
私のように"読書"を趣味とする人間にとって読みたい作品が存在しない時代の到来は、デジタル化以前の問題です。
書籍や音楽のデジタル配信の世界に共通するのは、グーグルやアップル、アマゾンといったプラットを提供する企業のみが圧倒的な利益を得れる仕組みが主流になりつつあり、それはDeNAやGREEといったソーシャルゲームの分野にも完全に浸透しています。
そして何故かコンテンツを流通する仕組みを持ったこれらの企業がどれも30%のマージンを設定しているのも不思議ですが、彼らが驚異的な収益を上げているのも事実です。
もっと大きな視点から見ると、情報の共有化、そして共有化された情報は"無料"が当たり前といったインターネットの文化が曲がり角に差し掛かっていると感じます。
絶対やってはいけない! 負ける面接100
人材コンサルタントである著者が、面接時に絶対にやってはいけないことを100項目に渡って紹介した1冊です。
私自身は人事担当ではありませんが、中途採用の面接担当を述べ約20名ほど経験しています。
そして年内に会社で2名程度の採用を考えていることもあり、興味本位で手軽に読める本書を手にとってみました。
もちろん本書は"面接を受ける側の視点"で書かれたものですが、面接のノウハウを殆ど勉強したことのない立場として、少しでも参考になればと考えていました。
そして結論だけを先に書いてしまえば、本書は殆ど役に立ちそうもありませんでした。
理由は主に新卒者向けに書かれていること。更にはその中でも最も入門書的な位置付けにあったため、社会人をある程度経験した立場から見ると、どれも当たり前のことが書かれていたからです。
本書で紹介されている面接でNGとされている項目をほんの一部紹介してみます。
- 汗をだらだら流しながら、遅刻してくるヤツ
- ネトゲ廃人を自慢するヤツ
- 自己紹介の時に、出身大学と名前しか言わないヤツ
- 志望動機が「安定」というヤツ
- 「世界平和」目指すことが大きすぎるヤツ
- 椅子にふんぞりかえって座るヤツ
社会人に限らず就職活動について調べて学生であれば、どれも面接時において得策ではないことが一目で分かるレベルです。
一方でこれから就職活動を始めようとする学生にとっては、曖昧になっている面接時の禁止事項を手っ取り早く学べる本でもあり、これは新卒当時にいい加減な就職活動を行った過去の私自身にも当てはまります。。
活字に馴染んでいない学生でも気軽に読める文体で書かれていることもあり、一番最初に手に取る面接の参考書としては悪くないと思います。
転職を考えている人は経験やスキルが重視されるため、本書は面接時のタブーを再確認するためにさらりと目を通す程度で充分だと思われます。
これからの「正義」の話をしよう
ハーバード大学の政治哲学の講義を1冊の本にしたものです。
つまり著者のマイケル・サンデルは同大学の教授でもあります。
日本でもベストセラーになりましたが、それは哲学という"専門的"、"難解"といったイメージを払拭することに成功したからではないでしょうか。
しかもそれが世界でも屈指の名門校"ハーバード大学"で講義された内容とあれば尚更です。
本書のテーマはタイトルにもある通り、ズバリ"正義"です。
言うまでもなく抽象的な言葉ですが、本書では"正義"そのものを定義付け、そして"正義"を体現する政治(国)を論じる壮大なテーマです。
よく宗教と哲学の違いについて論じられることがあります。
宗教はそれを信じる者にとって"真理ありき"なのに対し、哲学は(心理的なものを含め)世の中の様々な事象を解析して"真理の原則"を見出そうとするものです。
ただし高名な哲学者が敬虔な信者であるケースも多く、両者の区別を簡単に切り離すことが出来ないのも事実です。
本書の特徴は哲学を考えるにあって具体的なケースを挙げてゆく点です。
それは実際の出来事であったり、問題を分り易く整理するために架空の出来事であったりしますが、読者が"正義"というテーマと向き合い考えさせられる内容になっています。
例えば本書では下記のケースを挙げています。
・暴走する路面電車(ケース1)
あなたがブレーキの壊れた疾走する暴走電車の運転士だったとしよう。
前方に5人の作業員が工具を手に線路へ立っている。一方で右側へと逸れる待避線が目に入るが、そこにも1人の作業員がいる。もし路面電車を待避線へ向ければ1人の作業員は死ぬが、5人の作業員は助かる。。。。
・暴走する路面電車(ケース2)
今度はあなたは運転士ではなく傍観者で、線路を見下ろす橋の上に立っている(今回は回待避はない)。
同じく路線上をブレーキの壊れた路面電車が暴走してくる。
前方には5人の作業員がいて大惨事は免れない状況だ。
しかしふと隣を見ると、この出来事にまったく気付いていないとても太った男がいる。あなたはその男を橋から突き落として、疾走してくる電車の行く手を阻むことができる(あなたは自分で飛び降りることも考えるが、小柄過ぎて電車を止められないことが分かっているとする)。その男は死ぬだろう。だが5人の作業員は助かる。。。
これは架空の例ですが、多くの命を救うことが正義だとすれば、<ケース1>では待避線に電車を侵入させる、<ケース2>では男を橋から突き落とすのが正義ということになります。
しかし<ケース2>では、殆どの人が道徳的な疑問を抱き、躊躇するのではないでしょうか?
そしてその理由は何でしょうか・・・?
「人によって考え方が違うのは当然であり、世の中に絶対的な正義など存在しない」
こう発言する人の気持ちも分かりますが、果たしてその人は"正義"について真剣に考えたことがあるのでしょうか?
生まれた家庭環境、地域、国、人種、性別の違い。
そして信じる宗教、学歴、経験してきたことの違いなど・・・・。
本書はこうした多く違いを目の前にしてさえも、これらを超越して皆が同意できる"正義"を探求する価値があると示唆しています。
本書は分量が相当あり、1つ1つの文章を骨格のように組み上げて精巧な建物を完成させるような構成になっています。よって体系的に本書の内容を理解するためには、大学の講義のようにノートを取りながら読む必要があるかも知れません。
交渉術
本ブログでも何度か紹介している元外務省官僚の佐藤優(さとう・まさる)氏による著書です。
本書は交渉の要点を記載していますが、体系的にノウハウを解説するものではありません。
著者が外務省の情報分析官として、具体的に経験したことを中心に書かれています。
交渉の本質は、お互いの利益(または不利益)を天秤にかけて行われるものです。
しかし人間同士が行うものである以上、その人格を無視して無機質に理論だけで成り立つものではありません。
簡単な例を挙げると、協力者へ対して見返り(賄賂)を渡すことで交渉を有利に進めることができますが、人間的な信頼関係が築かれていない場合、肝心な場面で裏切られる可能性があります。
一見"当たり前"ですが、国家間の交渉(つまり外交)はもっともレベルの高い複雑な交渉の場であり、こうした本質的な部分が非常に見えにくい状態になることがあります。
著者が直接関わったロシアとの外交を中心に書かれていますが、首脳レベルの交渉となれば、歴史的背景、文化や思想の違い、国民の支持、側近や反対勢力の考え、そして首相自身の考えが複雑に絡み合った結果が相手の発言や要求として反映されることになります。
佐藤氏は外務省勤務時代に、ロシアから日本への北方領土(クリル諸島)返還を目的とした交渉に携わってきましたが、彼が関わった歴代の日本首相(橋本龍太郎、小渕恵三、森喜朗の3人)、そしてロシア側のエリツィン、プーチンといった国家を背負うべき立場の人たちを間近に見てきた人物鑑定眼には驚かされます。
文庫本で500ページに及ぶ分量でありながら内容は濃密であり、このブログだけで本書の魅力を伝えるのは不十分ですが、政治や外交、そして本書の題名にもなっている交渉に興味のある方なら是非読んでもらいたい1冊です。
すでに佐藤氏の著書を読んでいる人にとっては、過去の著書で何度か登場した場面がありますが、あくまでも交渉を主眼においた視点で書かれているため、個人的には改めて新鮮な印象を持って読むことができました。
ちなみに文庫本には"おまけ"として、東日本大震災で著者が発信した国民や政治家に向けてのメッセージが収録されており、外交の一線で活躍した佐藤氏の危機管理の考え方がよく分かる内容となっています。
「へんな会社」のつくり方
「人力検索はてな」、「はてなダイアリー」で有名な"株式会社はてな"の創業者である近藤淳也氏の著書です。
本書の内容の大半は、2005年7月から11月までにCNETで著者が執筆したブログを加筆修正したものなので、元々のブログ読者にとっては目新しい内容は殆どありません。
私自身が"はてな"を知ったのは今から6~7年前であり、著者のブログをタイムリーに読んでいた1人です。
そのブログをはじめて読んだときのショックは今でも鮮明に覚えており、さらに近藤氏が私自身と同じ年代であることに大いに刺激を受け、当時の"はてな"のサービスを片っ端から利用してみた経験があります。
懐かしさもあってふと本書を手にとってみましたが、感想だけを書くと、あの時のショックは微塵も感じずに淡々と最後まで読み終えてしまいました。
これは著者の考えが薄っぺらなものだったわけではなく、ここ数年のインターネットの進化が凄まじく、その殆どが当たり前のように世の中に浸透してしているという現実でした。
逆に言えば、近藤氏の先見の明の"正しさ"を証明していると評価することができます。
そこで2005年当時の私が、どの部分に刺激を受けたのかを本書の中から列挙してみたいと思います。
- 毎朝の会議を立って行う。しかも途中の入退席は自由。
- ブログで人材採用。
- 50%の完成度でサービスをリリースする。
- プロセスを公開する。
今では当時は斬新だったこれらの内容を、部分的に取り入れているインターネット企業が大半です。
しかし当時の自分の置かれた環境ではどれも"目から鱗"の制度でした。
より多くの便利なサービスやツールが登場してきていることもあり、工夫次第でもっと面白い試みが生まれてくるはずです。
鎮守の森は泣いている
タイトルから「伐採されてゆく神社の境内の老木を守ろう」という内容を想像してしまいましたが、内容は全く異なります。
神道、仏教、民俗学に精通した著者が、日本人の精神を探求・解説してゆく論文風のエッセーです。
個人的にも神社を参拝、観光する機会がありますが、これは多くの日本人にも当てはまります。
一方で、現代において天皇を現人神として崇拝することに強い抵抗を覚える日本人も多いと思います。
なぜ同じ神道でこうした矛盾した現象が生ずるのか?
本書の前半では、こうした内容を分り易く体系的に著者の学説を交えて解説しています。
これを分り易く解説すると、太古から地域に密着して自然・氏神を崇拝する要素を残したものを"古神道"とし、天照大御神を最高神として天皇を現人神として祭る神教を"国家神道(または神社神道)"として系統を分けることが出来るからです。
ちなみに天皇を現人神(つまり神の末裔)として位置付けるのは、何も戦前(明治以降)に始まったことではなく、奈良時代以前(おそらく天皇制が誕生した頃)より延々と受け継がれてきた系統です。
いずれの考えが正統な神道かという議論が現在も専門家の間で繰り広げられているようであり、個人的には永遠に結論の出ない不毛な論争のようにも思えます。。
キリスト教やイスラム教のように唯一神の元に経典が存在する場合には解釈の相違はあっても、最終的な信仰対象に違いは生じません。
一方で神道は典型的な多神教であり、唯一と断言できる経典もありません。
そのため神道は"宗教"というよりも"死生観"のようなものであり、日本人の習慣や文化に溶け込んだものであるといえます。
こうした日本人の考えは、本来ブッダのみの教えを尊いと考える(原始)仏教さえも神道とミックスさせて多神教化し、生活の一部として同化させてしまいます。
もっとも本書は宗教の優劣を論じる内容ではなく、神道や仏教の考えがどのように日本人の考えに根付いたかをテーマにしています。
本書の後半では一転して、多岐に渡って著者のエッセーが綴られています。
その中で個人的に興味を引いたテーマを紹介してみます。
- 日本の知識人が最後にたどりつく「日本の心」
- 「戦後」の底流に流れる内村鑑三の無教会主義
- 会津武士道と『葉隠』武士道の違い
- マタギの文化から生まれた切腹の作法
- 日本神話と最先端科学の起用な対応
本書は有識者である著者(山折哲雄氏)の主張する学説、そして主観が多く入り交じっているため、中にはユニークな理論も散見できますが、こうした玉石混交の本は楽しく読めます。
個人的には神道の一部分のみを都合よく解釈して、パワースポットや御利益だけを目的に神社巡りを行う現代の傾向には違和感を感じますが、そうした懐の深さも神道の魅力の1つだと変な納得をしてしまいます。
小説 二宮金次郎
二宮金次郎といえば、薪を背負いながら読書をしている像が全国の学校に残っていますが、その具体的な功績はそれほど知られていません。
これは戦前、戦中の政府が"二宮金次郎"を勤勉さ融和精神の象徴として戦争協力(挙国一致)のために政治的に利用したこともあり、戦後の教育では、意識的に重要視されなかったという見方もできます(戦後には、二宮金次郎の像を撤去した学校もあったようです)。
小田原藩領内の農民として生まれた金次郎は、少年時代に両親を相次いで亡くし、更には酒匂川の氾濫で自らの農地を失うに至って困窮した生活を余儀なくされます。
しかし持ち前の勤労精神で生家を復活させ、武家奉公先では家老・服部家の財政を建て直します。
その手腕を藩主の大久保忠真に見込まれ、荒廃した下野国桜町(分家・宇津家の知行地)の復興を全面的に任され、見事に成功させます。
金次郎と同じように米沢藩の財政危機を建て直した上杉鷹山の規模と比べると、金次郎の実績は小さいかもしれませんが、鷹山がはじめから藩主の立場から改革できたことを考えると、武士をはじめとした反対勢力の抵抗の中で、農民(百姓)出身である金次郎が残した功績は決して劣るものではないでしょう。
本作はあくまで小説であるため脚色されている部分もありますが、金次郎が直面した様々な困難に思いが馳せられており、著者の童門冬二氏が二宮金次郎の生き方に強い共感を持っているとが分かります。
戦国武将や幕末の志士のように華々しい活躍をした人物を題材とした歴史小説もよいですが、生涯を土と共に暮らし、農民の復興に捧げた"二宮金次郎"の精神は、東日本大震災復興に直面している現在において、もう一度積極的な評価を行う時期に来ている気がします。
成功はゴミ箱の中に レイ・クロック自伝
本書は1976年に出版されたレイ・クロック自伝を再版したものです。
レイ・クロックといえばマクドナルドの実質的な創業者として有名ですが、その生涯は波瀾万丈で多岐に渡っているため、その略歴を本書より抜粋します。
レイ・A・クロック(1902 - 1984)
アメリカ・イリノイ州オークパーク生まれ。高校中退後、ペーパーカップのセールスマン、ピアノマン、マルチミキサーのセールスマンとして働く。1954年、マクドナルド兄弟と出会い、マクドナルドのフランチャイズ権を獲得、全米展開に成功。1984年には世界8000店舗へと拡大した(現在マクドナルドは世界119カ国に約30000店を展開)。後年にレイ・クロック財団を設立。さらにメジャーリーグのサンディエゴ・パドレス獲得など精力的に活動を行った。本書原題"GRINDING OUT"はいまも多くのアメリカの学生に読まれ続けている。
アメリカン・ドリームを実現した立志伝中の人物ですが、特筆すべきは52歳という年齢から事業をスタートさせ、レストラン業界において前人未到の大成功と業界のスタンダードを築き上げたという部分です。
ユニクロの柳井正、ソフトバンクの孫正義という日本を代表する起業家が尊敬する人物でもあり、巻末には2人のスペシャル対談が収められています。
波瀾万丈、多岐に渡る活躍は孫正義と重なる部分があり、その前例のないチェーン展開(事業拡大)の手法はユニクロの柳井正と共通する部分があります。
私が本書で印象に残った言葉は次のものです。
やり遂げろ-この世界で継続ほど価値のあるものはない。
才能は違う-才能があっても失敗している人はたくさんいる。
天才も違う-恵まれなかった天才はことわざになるほどこの世にいる。
教育も違う-世界には教育を受けた落伍者があふれている。
信念と継続だけが全能である。
シンプルな言葉ですが、実践することの大切さを説いています。
自伝としても楽しく読める本ですが、これから成功を目指す人へ勇気を与えてくれる1冊です。
ハッピー・リタイアメント
浅田次郎氏が2009年に発表した作品です。
定年を間近に控えた財務省と自衛隊のノンキャリア組の2人。
そんな2人が"天下り"先の機関である、JAMS(全国中小企業振興会)へ赴任するところから物語が始まります。
そこは年代物の立派なオフィスですが、実際には仕事らしい仕事はなく、昨日まで現場の一線で働いてきた2人は戸惑いを隠せません。やがて"立花葵"という美人秘書が2人へ"大仕事"を打診するところから、リタイア後の未来が大きく変わろうとしてゆきます。。。
「天下り」というと批判的な意味合いで使われますが、本書ではそれを社会的問題として真正面から取り組むといった深刻な内容ではありません。
あくまでも「天下り」をテーマに、浅田次郎らしい軽快な切り口でエンターテイメント小説として仕上げた作品です。
また「天下り」自体は、主に官僚組織を対象にすることが多いですが、普通に民間企業でも子会社への出向という形で見受けられます。
個人的には、終身雇用や年功序列といった制度が崩壊している時代に直面し、定年も当分先の話のため、世代的に「天下り」という単語になかなか実感が湧きません。
「天下り」は別としても、どこかの会社で定年を数年後に迎える時がやって来たとき、自らの立っているポジションを鑑みて、はじめて"リタイヤ"という言葉が現実味を帯びてくるのだと思います。
本作の内容は半分がコメディでありながらも、ついそんな事を考えながら読み進めました。
もっとも"生涯現役"を宣言して働く人も最近は増えているので、"リタイヤしない"という選択肢もあるのかも知れません。
ともかく主人公たちが身を持って「天下り」をナビゲートしてくれるかのような視点での描写は、浅田氏の安定した力量を感じます。
直江兼続 下―北の王国
上杉景勝と直江兼次。
この作品を読んで印象に残ったのは、この2人の絆にスポットを当てていることです。
景勝は寡黙で感情を表に出さない人物であったと言われています。
一方で兼続は幼年期から景勝と共に過ごし、若干24歳にして上杉家の筆頭家老となり、外交、内政を一手に引き受けています。
さらに秀吉の兼続への待遇は、兼続の主人としての景勝が嫉妬や疑惑を抱かない方が無理といえるほどの寵愛ぶりです。
客観的に見ると景勝の個性が薄いように見えますが、景勝自身は暗愚でも優柔不断でもなく、上杉謙信以来の戦国大名としての質実剛健を受け継いだ人物だったと思います。
歴戦の強者が顔を並べる上杉家臣団において、若い兼続の活躍を面白く思わない連中がいるのは当然だと思いますが、景勝の兼続へ対する信頼は最後まで揺らぐことはありませんでした。
読み進めるうちに"直江兼続"が主人公の小説でありながら、個人的には"上杉景勝"の方へ関心が移ってゆきました。
"上杉謙信"という半ば神格化された先代の跡を継ぐ景勝のプレッシャーは並大抵のものではなく、武田信玄の後継者であった勝頼、同じく北条氏康の後継者であった氏政が滅んでしまった事実を考えると、戦国時代を生き抜いた景勝は決して凡庸ではありませんでした。
秀吉の時代に越後から会津120万石へ増封されますが、最終的には家康と敵対したために米沢30万石へ減封となる経緯だけを見れば、歴史的には敗者と見なされるかもしれません。
しかし家康が台頭をはじめた途端、ゴマをすったり、日和見的な態度で終始する大名が多い中で、景勝・兼続の毅然とした態度は戦国時代の中でも異彩を放っており、彼らの気骨が本作品のテーマになっています。
直江兼続 上―北の王国
童門冬二氏が直江兼続を描いた歴史小説です。
他の作品にも言えることですが、童門氏の描く歴史小説は現代風に分り易く書かれており、特にこれから歴史小説を読んでみようという人には最適な作家です。
"直江兼続"については2009年の大河ドラマ「天地人」の主人公となったこともあり、戦国時代の中でも知名度や人気の高い武将であるといえます。
私自身は(戦国時代に限らずですが)歴史好きであるにも関わらず、これまで直江兼続を主人公とした歴史小説は読んだことはありませんでした。
直江兼続はその歴史的な功績や評価が難しい部類の人物です。
その一方で歴史小説では、"義"や"友愛"といった彼の一面的な部分が拡大解釈されて描かれるであろうことが容易に想像できてしまい、積極的に読む気になれませんでした。
しかし"義"や"友愛"といった要素を一切省いて考えてみても、兼続を評価できる点が幾つかあります。それを大きく整理すると、以下の4点になります。
- 陪臣の身でありながら秀吉から異例ともいえる30万石を与えられている。もちろん秀吉が兼続を個人的に気に入っていた要素も大きいが、こうした秀吉の抜擢人事は武将の能力に対してもきちんと評価されている傾向がある。
- 徳川家康を挟撃することを目的とした石田三成との連携は戦略的に優れており、その決断と実行力は評価できる。結果として三成へ対して関ヶ原の戦いのための必要十分な準備期間を与えた。さらに補足すれば関ヶ原の戦い自体の勝敗については、兼続にその責任はない。
- 御館の乱から最終的に米沢30万石へ減移封されるまでの間、上杉家は(他家と比べれば)団結して一貫した行動をとっており、実務の最高責任者であった兼続の統率力は評価できる。
- 内政面において開墾や治水、商業開発に力を注ぎ、その手腕は評価できる
一方で局地的な戦場の指揮において抜群の実績はありませんが、彼が宿老ともいえる地位にあったことを考えると、他の武将へ任せてもよい部分であり、必須能力ではありません。
つまり稀代の名将ではありませんが、紛れもなく優秀な武将という評価です。
今回はレビューとはまったく関係のない内容でしたが、それは次回に書きたいと思います。
ムーンシェイ・サーガ〈6〉暗黒(ダークウェル)の解放
前回予告した通り、今回は主人公トリスタンたち一行に立ち塞がる悪のキャラクターたちを紹介したいと思います。
多くのファンタジー小説と同様に、「フォーゴトン・レルム」では善の神々と表裏一体を成すように悪の神々が存在し、重要な役割を果たします。
つまり"善"が存在する以上は"悪"も必ず存在し、それも単純に邪悪で強力であればよいというわけでなく、綿密なバックボーンを持たせなくては奥深い世界観は作り出せません。
- バール
- カズゴロス
- トラハーン
- エリアン
- ラリック
- ホバース
- シンダー
- シャントゥ
- サラ バール神に仕える半魚人族サヒュアジンの女司祭長。 残虐な性格で、強力な魔法を操る。
かつて主人公トリスタンたちと共に戦った仲間が敵となり、またその逆のパターンもありますが、長編だけあってここで紹介したのは登場人物のほんの一部でしかありません。
最後に蛇足かも知れませんが、「ムーンシェイ・サーガ」はカバーのイラストも秀逸です。
すでに絶版となっているせいかAmazonのイメージを掲載できないのが残念ですが、幸いにも中古本としては比較的容易に入手できそうです。
少なくとも読者の想像力を豊かにしてくれる作品であることは間違いありません。
ムーンシェイ・サーガ〈5〉猫の爪・豹の牙
ムーンシェイ・サーガ〈5〉猫の爪・豹の牙 (富士見文庫―富士見ドラゴン・ノベルズ)
これまでは「ムーンシェイ・サーガ」の特徴や世界観などを中心に書いてきましたが、今回は主人公トリスタンたちと共に冒険をするキャラクターたちの一部を紹介してみようと思います。
ファンタジー小説の魅力は、人間に限らず様々な種族やモンスターが登場するところです。
また彼らの持つ能力も多様であり、登場人物の紹介を見るだけでも楽しむことができます。
- トリスタン
- ロビン
- ダリス
- ポールド
- ケレン
- カンサス
- フィネレン
- ニュート
- ヤジリクリック
- ダヴィシュ
- ヤク
- ブリジッド
ここで紹介した以外にも多くのキャラクターが登場しますが、トリスタンたちに負けないくらい個性的な悪の陣営のキャラクターたちを紹介したいと思います。
ムーンシェイ・サーガ〈4〉死せる王妃の預言
魔獣カズゴロスがトリスタンたち一行によって倒され、コーウェル王国に平和が戻ってきたと思われましたが、更に強大な危機が世界に迫りつつありました。
その正体は暗黒神バールであり、苦戦して倒した魔獣カズゴロスは彼の手下の1人でしかありませんでした。
舞台となる「フォーゴトン・レルム」には多くの神々が存在しますが、いずれも大きく3つの属性(秩序・中立・混沌)に分類されます。
バールはもちろん混沌を好みますが、彼が滅ぼそうとする地母神は当然のように秩序を重んじる神です。
「フォーゴトン・レルム」において神々は強大な存在ですが、決して不死身の存在でなく滅んでしまうこともあります。
これは作品中で作られた設定ではなく、厳密に設計された「フォーゴトン・レルム」全体のルールに忠実であるに過ぎません。
神々は通常、直接的な力を行使することが出来ないため、自らが創造した生物や、忠誠を誓っている信者たちを通して間接的に力を発揮します。
そしてその他にも特定の神を信仰せずに、自らの才覚で剣や魔法といったスキルを持った人々も存在します。
こうしたファンタジー世界における定番ともいえる世界観は、その後の多くの(ゲームや小説などの)作品に影響を及ぼしており、D&Dというゲームのために厳密に設定された「フォーゴトン・レルム」の功績は極めて大きいのではないでしょうか。
ムーンシェイ・サーガ〈3〉七人の黒魔術師
ムーンシェイ・サーガ〈3〉七人の黒魔術師 (富士見文庫―富士見ドラゴン・ノベルズ)
引き続きネタバレに気を付けながら本作品の大筋を紹介してゆきたいと思います。
物語は邪悪で強力な怪物(カズゴロス)が長い眠りから目覚めるところからはじまります。
カズゴロスの標的は"コーウェル王国"が信仰する地母神を滅ぼすことであり、主人公トリスタンはその国の王子として登場します。
そして長年に渡りコーウェル王国の宿敵だったノースメンの王に扮したカズゴロス率いる軍勢とコーウェル王国が存亡を賭けた戦いを繰り広げてゆくことになります。
若くて勇敢な王子が主人公というありがちな設定ですが、良く言えばファンタジー小説の王道であり、ダイナミックに物語を展開するという点では、非常にやりやすい設定です。
実際「ムーンシェイ・サーガ」は長編にも関わらず常に早いテンポで物語が展開してゆきます。
長編小説では、物語の進行が停滞してしまう(中だるみ)が出てしまう作品がありますが、少なくとも「ムーンシェイサーガ」においては無縁です。
著者の"ダグラス・ナイルズ"は本職がゲームデザイナーであり、小説家としては本作が処女作でありながら、これだけの長編小説を手掛けた事実には驚きます。
繊細なストーリー構成にやや欠ける部分がありますが、物語の本筋を大胆に展開するといった手法は、小説へ対する先入観が無いこと、それにゲームデザイナーとしての経験がうまく生かされているのではないでしょうか。
ムーンシェイ・サーガ〈2〉竪琴と一角獣
ムーンシェイ・サーガ〈2〉竪琴と一角獣 (富士見文庫―富士見ドラゴン・ノベルズ)
前回紹介した通り「ムーンシェイ・サーガ」は"フォーゴトン・レルム"という架空の世界を舞台にした小説です。
とはいっても様々なゲーム・小説の舞台になっている世界だけに、長編小説にも関わらず本作品で描かれる舞台は、"フォーゴトン・レルム"のほんの一部でしかありません。
舞台は"フォーゴトン・レルム"の西に浮かぶ”ムーンシェイ諸島”で繰り広げられます。
単行本で全6巻に及ぶ長編であり当然のように物語に一貫性がありますが、ちょうど2巻ずつで大きく場面が区切られています。
つまり6巻で3シリーズ分の物語を読め、何となく得した気分になれます。
そして本作の特徴は何といっても、強力な武器や魔法が惜しげもなく登場する迫力の戦闘シーンです。
RPGにおいても白熱する戦闘やそこに登場する魔法や武器が大切な要素となりますが、これが小説においても意識的に描かれているといえます。
一言で表せばダイナミックで派手なファンタジー小説といえるでしょう。
ムーンシェイ・サーガ〈1〉魔獣よみがえる
ムーンシェイ・サーガ〈1〉魔獣よみがえる (富士見文庫―富士見ドラゴン・ノベルズ)
テーブルトークRPG(TRPG)としてアメリカでもっとも人気を博したダンジョンズ&ドラゴン(D&D)の舞台となる架空の世界(フォーゴトン・レルム)を舞台に書かれたものです。
つまり本作品は完全にゲームデザイナーによって書かれた小説です。
ここは読書ブログなのでTRPGやD&Dについては深く追求しませんが、日本でもゲームの企画が発展して小説化された例は数多くあり、「ムーンシェイ・サーガ」はその草分け的な存在といえます。
1つの架空の世界を舞台としてゲーム、小説、そしてアニメと展開してゆく手法は今でこそ珍しくはありませんが、この"フォーゴトン・レルム"ほど壮大で緻密な世界設定を行なっている作品は他に類を見ないものです。
そして本作「ムーンシェイ・サーガ」は、ファン以外の人でも充分に楽しめるエンターテイメント性を持っています。
それは「D&D」ファンを楽しませることは当たり前ですが、よりファンの裾野を広げるため(=新たなファンを獲得するため)にも力を入れて書かれているからです。
「D&D」はRPGにおいて不滅の金字塔を築いたタイトルです。
その世界を舞台にした作品の中でももっとも有名な「ムーンシェイ・サーガ」はRPGファンとしては絶対外せない作品であり、ファンタジー小説ファンとしても抑えておきたい作品です。
デッドライン仕事術
女性向け下着メーカーであるトリンプ・インターナショナル・ジャパンの元代表取締役副社長であり、同社を19期連続増収・増益に導いた吉越浩一郎氏による著書です。
副題に~すべての仕事に「締切日」をいれよ~とある通り、彼のマネジメントの最大の特徴は、時間に重点を置いたものです。
過去にも著者は同様の本を執筆していますが、本書ではその内容がより研磨されており、新書という分量でありながらも余すことなくその手法を伝えてくれます。
まず本書の序盤で、日本の会社における"残業"の恒常化を指摘しています。
更には"残業"をしても消化される仕事の分量が増える訳ではないとし、むしろ非効率なものと切り捨てています。
もちろん普通は「より長い労働時間=より多くの成果」という考えが普通ですが、それは幻想に過ぎず、むしろ効率性が本質(仕事の品質・量)を左右するとしています。
本書で特筆すべきは、効率を上げるための最大のポイントは「決断までの所要時間を短くする」ことだと説いています。
何かを決断するときに、色々と議論を重ねている時間は一見すると有意義な気がしますが、実際には何の進展も無いまま過ぎ去っていく無駄な時間であると断言しています。
同時に"根回し"と言われる水面下での調整についても無用であるとし、責任を伴う決断はあくまでもトップダウンで素早く下されるべきだとしています。
大きく複雑な問題へ対しては、「エメンタールチーズ化」というユニークに表現を用いていますが、要するに問題を小さな破片に分解してしまい、その積み重ねで簡単に処理できるとしています。
つまり小さな決断と実行そのものが個々のタスクであり、そのタスクの期限を厳密に定めることがデッドライン仕事術に極意であるといえます。
私自身の解釈は、ビジネスの場はチャンスやピンチが瞬く間に訪れる戦場のようなものであり、その現場の責任者たちが素早く決断しなければ生き残ることが覚束ない厳しい環境であるということです。
裁判官の爆笑お言葉集
裁判官は"法の番人"であり、一切の私情を挟まず冷静に法の執行を司るべき存在です。
しかしながら人を裁くという行為は、裁く側も人間である以上、その重責は決して軽いものではなく、本書では時に裁判官が心情を暴露た数々のエピソードが100以上も収められています。
そんなエピソードを少し紹介したいと思います。
- 「控訴し、別の裁判所の判断を仰ぐことを勧める。」
- 「今、ちょうど桜がよく咲いています。これから先、どうなるかわかりませんが、せめて今日一日ぐらいは平穏な気持ちで、桜を楽しまれれはどうでしょうか。」
- 「母親の愛情は、海よりも深いといいます。この言葉を噛み締めてください。」
このような形で本書で紹介されている言葉は比較的深刻なものが多く、タイトルの「爆笑お言葉集」には違和感を覚えますが、裁判官をユニークな視点で描いた興味深い1冊でした。
ダーク・ソード〈6〉暗黒の剣の勝利
「熱砂の大陸」に引き続き、ワイス&ヒックマンの「ダークソード」をレビューしてきましたが、今回で最終巻となります。
彼らの作品は少年時代にも読んでいますが、大人になって読み返してみると、やはり"重いテーマ"であることに気が付きます。
さらに当時は"本作品の良さ"をイマイチ理解できなかったことも否めません。
本作品はファンタジー小説とはいっても、現実の煩わしさを忘れさせてくれる遠い異世界で繰り広げられる"おとぎ話"ではなく、その世界の中で悩み、苦しみ、そして困難に立ち向かっていく人たちの成長を描いているものであり、内面的葛藤においては現実世界と大差の無いことに気付かされます。
我々は(物語に登場する主人公も)この世界に生まれたからには、"死"によってしか逃れる術はありません。
更にいえば生きることの苦悩、そして喜びはどの世界にもあり、そして我々の現実社会とは違うパラレルワールドの物語を目にすることで、人の生きる営みを俯瞰しやすくなるという点にファンタジー小説の意義があると思います。
それでも陳腐な世界(=辻褄の合わない世界設定)で展開する物語であれば、興ざめしてしまいますが、2人の描く作品は細部に渡って設計されており、ひとつの世界として完結しているレベルの高さが魅力であるともいえます。
2人の代表作は何といっても「ドラゴンランス・シリーズ」ですが、外伝などを含めると相当長いシリーズですので、いつか読み返す機会がありましたら本ブログでレビューを書いてみたいと思います。
最後に本ブログで紹介した2人の作品のレビューをまとめてみました。
・熱砂の大陸
熱砂の大陸〈巻1〉放浪神の御心
熱砂の大陸〈巻2〉謀略の古代都市
熱砂の大陸〈巻3〉闇の聖戦士
熱砂の大陸〈巻4〉神々の帰還
熱砂の大陸〈巻5〉異教徒(カフイル)の魔法
熱砂の大陸〈巻6〉使徒の薔薇
・ダークソード
ダーク・ソード〈1〉暗き予言の始まり
ダーク・ソード〈2〉暗黒の剣の誕生
ダーク・ソード〈3〉暗黒の王子
ダーク・ソード〈4〉光と闇の都市
ダーク・ソード〈5〉死者たちの挑戦
ダーク・ソード〈6〉暗黒の剣の勝利
ダーク・ソード〈5〉死者たちの挑戦
魔法がすべてを支配する世界の中で、唯一人何の魔力も持たずに生まれた主人公"ジョーラム"。
彼はやがて禁断のテクノロジーによって「ダークソード」と呼ばれる、すべての魔力を吸収してしまう最強の武器を手に、仲間たちと共に自らの存在を世間に認めさせるべく旅に出ます。
ここまではあらすじとして前回説明した通りですが、後半に入り今までの世界観をひっくり返すかのような急展開を見せます。
例えばSF小説などでは、今まで物語が展開されてきた世界観を一気に変える手法は一般的ですが、世界観を大事にするファンタジー小説は稀であるといえます。
これは本作品が発表されたアメリカにおいても賛否両論ありましたが、確かに読者が戸惑いかねない、大胆な展開であるといえます。
ある意味では、物語の前半で繰り広げられた正統派ファンタジーを逸脱するような展開ですが、様々なジャンルの本を読んでいる読者であれば、それほど抵抗なく受け入れられるかも知れません。
長編小説ですが、後半になって物語のスピードが一気に加速するという意味ではスリリング感があります。
ダーク・ソード〈4〉光と闇の都市
引き続き、なるべくネタばらしを避けつつレビューを続けてゆきたいと思います。
主人公のジョーラムは魔力を全く持たない<死者>として生まれ、育ての母が世間の目を隠すように育ててきましたが、やがて母の死と同時に彼の正体が知られることになります。
本来であれば死を免れないジョーラムでしたが、世間から密かに隠れて暮らしている<死の神秘>を伝える<車輪の一族>の村に命からがら逃げ込みます。
<死の神秘>とは魔法が生命そのものであり、魔力を持たないものを<死>と定義する世界において一切魔力を使わず、テクノロジーによって物体を加工する神秘であり、"科学"と定義することができます。この神秘は過去に大きな災いをもたらしたことから禁忌とされています。
ジョーラムはそこでダークストーンに出会い、自らの手でダークソードを鍛えて創り出します。
このダークソードはあらゆる魔力を吸収する力を持っており、どんな強力な魔力もあっという間に無力化してしまうものです。
もっとも優れた魔法戦士(カーン・ドゥーク)ですら例外ではなく、むしろ強力な魔力を持つ者ほどダークソードは脅威になります。
いわば魔法がすべての作用を司る世界において、ダークソードは最も強力な反作用であり、この剣を手にしたジョーラムは"世界共通の敵"となり得る存在です。
しかし、やがてジョーラムの悲しい生い立ちのすべてを知ることになる触媒師の"サリオン"、ジョーラムの幼馴染の"モシア"、そして正体不明のトリックスターの"シムキン"が彼らと行動を共にすることになります。
果たして禁断のダークソードを手にしたジョーラムがこの世界で何を成し遂げるのか?
ジョーラムの正体を知り、ダークソードを追いかける世界の権力者たちの追跡がジョーラムたち一行を追跡します。
以上が物語の大筋ですが、決して一方が"悪"で一方が"善"という単純な構図ではありません。
いわば世界の秩序を保とうとする体制側と、(本人に自覚があるかないかは別として)その秩序を破壊しかねない力を手に入れたジョーラムが、この世界における生存権を賭けた戦いの物語であるともいえます。
ダーク・ソード〈3〉暗黒の王子
魔法が全てを支配する世界(シムハラハン)では、数百年に渡って魔法を基にした秩序が確立しており、その精密さは我々が暮らす現代社会と遜色ありません。
しかし一方では制度が形骸化し、貧しい暮らしを余儀なくされている階級の人間たちほど不満を募らせつつあります。
そんな息苦しい世の中で何者にも束縛されず、気ままに好き勝手に暮らす人物が登場します。
それは"シムキン"という名の若者であり、多くの人々と交流があるにも関わらず、その真の正体は誰も知りません。
シムキンは本作における"トリックスター"であり、様々な場面で遭遇する行き詰まり・停滞、(時には)ピンチを打開するジョーカー(道化師)として登場します。
"シムキン"は魔法の世界においてさえ特別な能力を持っていますが、その掴みどころの無さから時には敵か味方さえも分からない行動を取ります。
神話にも登場するトリックスターはファンタジー小説においても相性が良く、頻繁に用いられる手法ですが、それだけに物語全体のバランスや整合性を保つのが難しく、作者の力量が試されるところでもあります。
本作に登場するトリックスター"シムキン"は相当に癖のあるキャラクターであり、彼が秩序で固められた世界にどのような影響を及ぼすのか?
彼が登場する場面から目が離せません。
ダーク・ソード〈2〉暗黒の剣の誕生
前回紹介した通り、本作品の舞台(シムハラハン)は、魔法がすべてを支配する世界設定がされています。
「魔法使い」=「黒い帽子とローブを着た人」のような想像をしていますが、この世界に生まれる人間は、誰しも何らかの魔法的な特性を持っています。例えば田舎に住んでいる農夫すらも何らかの魔法の力を兼ね備えています(ただ1人主人公のジョーラムを除けば。。。)。
著者は魔法に特性を付与することで、画一的になりかねない世界設定をバラエティに富んだものにしています。本作シムハラハンの世界には9種の神秘が存在し、すなわちこの9つが特性として存在します。
簡単に本書に登場する9種の神秘を紹介したいと思いますが、9つのうち実際には過去に起こった忌まわしい<鉄の戦争>によって2つの神秘が失われており、1つの神秘は禁制となっています。
- 時間の神秘 未来を予言する能力。過去に失われた。
- 霊の神秘 死者と会話する能力。過去に失われた。
- 空気の神秘 シムハラハン各地に存在する魔法的な<通廊>(瞬間移動できる通路)を保守するカン・ハナールと、都市の空気や(農業のために)天候を管理するシフ・ハナールのいずれかになる。
- 火の神秘 戦いに特化した魔法を身に付け戦士となる宿命を持つ。最も優れたエリートたちはカーン・ドゥークと呼ばれ特殊な任務に付くことになる。
- 大地の神秘 最も一般的な神秘であり農耕民が大部分である。そのうえに職人階級がおり様々な分野に分かれる。もっとも優れた者はアルバナーラとして人民を統治する立場になる。
- 水の神秘 精霊術師(ドルイド)となり、動植物の成長と繁殖に携わる。もっとも尊敬を受ける精霊術師は治療師(ヒーラー)として、人間を癒す術を身につける。
- 影の神秘 幻術師(イリュージョニスト)として芸術家として活躍する。
- 生命の神秘 最も生まれる数が少ない神秘。自身の行使できる魔力は少ないが、触媒師として魔力の仲介役を務める。 体内に魔力を蓄え増幅させ、その魔力<生命>を魔法使いたちに転送することで行使することができる。 つまり強力な魔法使いも触媒師なしでは行使することが出来ず、最も重宝される存在ともいえる。 多くがシムハラハンにおける唯一神(アルミン神)に仕える聖職者となる。
- 死の神秘 完全に失われてはいないが、シムハラハンにおいては禁制となっている神秘。この神秘が過去に<鉄の戦争>を引き起こした元凶だと考えられており、妖術師(ソーサラー)として処刑(黄泉の国へ送られる)され途絶えてしまった神秘であり、唯一<生命>とは無縁である。 またの名をテクノロジーという。
これだけの種類があると読者が混乱しそうですが、本作は長編小説であるためストーリーの中で自然に覚えることができます。
ワイス&ヒックマンの綿密な世界設定が存分に発揮された作品であり、読者を夢中にさせてくれること間違いありません。
ダーク・ソード〈1〉暗き予言の始まり
マーガレット ワイス トレイシー ヒックマン 鎌田 三平
『熱砂の大陸』に引き続き、ワイス&ヒックマンによる長編ファンタジー小説です。
(ちなみに本作『ダークソード』は、『熱砂の大陸』より以前に発表された作品です。)
物語は魔法がすべてを支配するシムハラハンという世界で繰り広げられます。
舞台は中世ヨーロッパをモチーフとしており、ファンタジー小説でもっとも馴染みの深いものですが、多くのファンタジー小説にとって魔法はある程度"特別な存在"であるのに対し、本作品における魔法は、"生命"そのものであり、空中飛行や空間瞬間移動、物質の生成といった魔法さえも一般的なものとして登場します。
つまりシムハラハンにとって"魔法こそが唯一の力"であり、この世界に生を受けた人間であれば、魔法に精通した生命体として存在します。逆に魔力を持たない人間は即ち"死者"と同義であり、存在するこすら許されていません。
その世界において魔力を持たない主人公"ジョーラム"が誕生するところから物語が始まり、彼は<死者>として闇に葬られる運命にありました。。。
"魔法"というファンタジーに欠かかせない要素を全面に押し出し、大胆な世界設定で挑む意欲的な作品です。
熱砂の大陸〈巻6〉使徒の薔薇
長編「熱砂の大陸」もいよいよ最終巻です。
ビジネス書や歴史小説等とは違い、ファンタジー小説はストーリーそのものを純粋に楽しむことが王道であり、極力ネタバレを避けるため、なるべく世界設定などを中心に紹介するに留めたいと思います。
ファンタジー小説は一般的に少年層へ向けたものが一般的ですが、著者のマーガレット・ワイス、そしてトレイシー・ヒックマンの描く作品は大人向けに書かれています。
主人公たちが背負う多くの責任、そして身近に死を連想させる危機、そして時には男女の関係含めた苦難を抱えながら成長する姿は、幻想と現実の世界の境目を超えた"生きることの困難、そして喜び"の縮図であるといえます。
そしてその実感は、人生経験を積みつつある"大人"になってこそより強くなってゆき、作品に共感できる部分が多くなってゆく気がします。
私自身は2人の作品を思春期時代に読んでいますが、当時は何となく暗い物語だという印象がありました。しかし時が経ち成人して社会人となってから読み返してみると、まったく違った感想を抱くことに気付きます。
残念なのは本シリーズが絶版だということですが、間違いなくファンタジー小説の名作として位置づけられるものであり、今でも中古本として入手するのはそれほど困難ではないこと、そして今後ますます電子書籍が普及する中で是非もう一度スポットが当たって欲しいと思わずにはいられないシリーズです。
熱砂の大陸〈巻5〉異教徒(カフイル)の魔法
物語がいよいよ佳境に差し掛かります。
クアル神の企みを阻止すべくアクラン神が孤軍奮闘を続けますが、やがて他の神々もクアル神の野望に気付き始めます。
しかしクアル神を信仰する人間たちの築いた帝国の力は強大となり、アクラン神を信仰する砂漠の民たちを粉々に打ち砕きます。他の神々も強大な力を身につけたクアル神へ対し対抗する術がありません。
果たして世界はスル(真実)が定めたように、二十神が均等を保った世界を維持できるのか?それともクアル神が唯一絶対の神となるのか?
クアル神へ立ち向かうために善の神の1人であるプロメンサス神、そして悪の神であるザークリン神の信徒が、主人公たち一行に加わることになります。
一見するとまるでRPGでいうところのパーティーの結成ですが、本作ではそんな呑気な設定ではなく、残酷な経緯によって旅を共にすることになります。
ザークリン神の聖戦士であるアウダは、プロメンサス神を信仰する信徒たちを(異教徒という理由だけで)皆殺しにし、唯一生き残った魔法士のマシュウは奴隷として売り飛ばさられるところをかろうじてカールダンに救われた経緯があります。
また主人公たち(カールダンとゾーラ)はクアル神信徒たちの軍勢に壊滅的な打撃を受けた直後にアウダによって捕らえられ、カールダンは人間改造(いわるゆる拷問)により改宗を強要され、ゾーラに至っては(クアル神によって弱体化した)ザークリン神復活のための生贄にされるといった有様です。
アウダの行動はザークリン神の信徒としては当然であり、力を合わせてクアル神を打倒するという目的は微塵もありません。
名作といわれるファンタジー小説は空想上の世界といえども、どこか現実世界を反映した風刺的、更にいえば教訓めいた要素があるものです。
それはあたかも実際に宗教や価値観の異なる人たちが協力し合うのが如何に難しいかを示唆しているようであり、読者としても暗澹たる気持ちになってしまいます。
果たして主人公たち一行に"絆"が生まれる時が来るのか?
ついに物語は最終巻に突入してゆきます。
熱砂の大陸〈巻4〉神々の帰還
最初に触れましたが、本作品には神々が信徒の人間を間接的に助けるために"精霊"といわれる存在を創り出します。
今回は本作品における”精霊”の役割に触れてみたいと思います。
精霊たちは不老不死の存在であり、人間を遥かに凌駕する強力な力を持っています。
しかし、たとえば敵対する神の信徒であろうとも精霊が直接的に人間を殺傷することは禁じられており、絶妙なパワーバランスを保っています。
そんな精霊たちは極めて人間的な性格を持ち、人間と長く暮らす精霊の中には(不老不死にも関わらず)飢えや痛みを感じるものさえいます。
精霊は神々から力の一部を直接分け与えられた存在であり、その力は精霊たち創造した神の実力如何によって個体差があります。
また神自身は力の源を信徒である人間たちの信仰から得ていることから、この3者は食物連鎖のような関係にあることに気付きます。
本作人の主人公はあくまで人間ですが、精霊たちが活躍するサイドストーリーも極めて細かく作られており、作品全体のバランスを壊さないように繊細な配慮がされています。
熱砂の大陸〈巻3〉闇の聖戦士
世界設定では二十神(善の5神、悪の5神、中立の10神)から世界が構成されていますが、長編作品にも関わらず、本書に登場するのは半分の10神くらいです。
しかも中心的な活躍を見せるのは、アクラン神とクアル神の2人だけであり、半数近くの神が名前さえ紹介されずに物語が完結してしまいます。
もちろん著者は本作品を描く前の綿密な構成を怠っていないでしょうから、二十神すべての特徴や役割を与えていると思われます(ちなみに著者の1人トレイシー・ヒックマンはゲームデザイナーとしても活躍しています)。
日本人作家であれば(傾向的に)余すことなく全ての神を登場させるところですが、あくまでも物語の本筋をダイナミックに展開するために、本作品の世界観に奥行きを持たせる役割に留まっています。
これは本作品に登場する"魔法"についても同じことが言え、ある神の信徒は女性しか魔法を操れないという制約があり、またある神の信徒は男女関係なく魔法を操れるものの前もって"文字(呪文書)"として用意しておく必要がある、更には、その辺りの制約が曖昧(=具体的に触れられずに)で魔法を操る神の信徒がいたりと、几帳面な性格の読者にとってはスッキリしないと感じる部分があるかも知れません。
つまり細部まで世界を表現したい日本人作家と、細かいところを大胆に省くアメリカ人作家の違いを感じずにはいられません。
もちろん一方が正解ということはありませんが、長編小説の手法として興味深い部分です。
熱砂の大陸〈巻2〉謀略の古代都市
前回は、本書(熱砂の大陸)の世界観を中心に紹介しましたが、今回は物語の冒頭部分に触れてゆきます。
世界を支配する二十神の1人である"クアル神"が、他の神々を征服し、唯一神となる野望を抱くところから物語ははじまります。
その計画は綿密なものであり、宿敵同士にある善と悪の神を巧みに操り、お互いが破滅するように仕向けてゆきます。
一方では右腕ともいうべき"大精霊カウグ"を通じて人間界へ積極的に関与し、自らを信仰する人間たちが武力により大帝国を築く手助けを行なっていきます。
これにも理由があり、神々にとって人間たちの"信仰"が力の源であり、信仰する人間が少なくなるにつれ力が弱まり、誰からも信仰されなくなると最後には消滅してしまいます。
つまりクアル神信者が築いた帝国が他の神を信仰する民族を征服し、その民を改宗させることでクアル神の力が益々強大になることが可能になります。
他の神々たちは水面下で進められるクアル神の計画に気付きませんが、その野望を唯一見抜いていた神がいます。
それが主人公たち砂漠の遊牧民が信仰する"放浪の神アクラン"です。
通常アクラン神は、自らの精霊(魔人(ジン)と呼ばれる)に全てを任せ、人間界に関与することは殆どありません。
更には、同じアクラン神を信仰する砂漠の民たちは幾つかの部族に別れ、お互いに犬猿の仲という有様です。
さきほど"主人公たち"と表現したのは、アカール族の王子"カールダン"と、フラナ族の王女"ゾーラ"という男女それぞれの主人公が登場するからです。
2人は宿敵同士の部族であるにも関わらず、アクラン神の命令により結婚することを義務付けられます。
果たしてアクラン神の真の意図はどこにあるのか?
一見すると、壮大な神々の戦いに翻弄される(巻き込まれる)人間たちの運命を描いているように思えますが、あくまでも主体は人間であり、神さえも結果を予測できない数々の困難に立ち向かう主人公たちの姿こそが本作品の醍醐味です。
絶体絶命のピンチのなかで、時に主人公たちはアクラン神への信仰を見失しかねないほどの葛藤を体験してゆきます。
この"絶体絶命のピンチ"というキーワードは本作に限った話ではなく、2人の代表作である「ドラゴンランス戦記」でも多い場面ですが、とにかく読者にとっては目を離すことが出来ない場面の連続です。
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