本と戯れる日々


レビュー本が1000冊を突破しました。
引き続きジャンルを問わず読んだ本をマイペースで紹介してゆきます。

人斬り剣奥儀


津本陽氏といえば剣豪小説を得意とした作家ですが、その剣豪小説の短編が10作品も収められている贅沢な1冊です。

  • 小太刀勢源
  • 松柏折る
  • 身の位
  • 肩の砕き
  • 抜き、即、斬
  • 念流手の内
  • 天に消えた星
  • 抜刀隊
  • 剣光三国峠
  • ボンベン小僧

いずれも凄まじい剣の遣い手たちが主人公になっていますが、富田勢源柳生連也(厳包)白井亨など知る人ぞ知る剣の達人もいれば、無名の若い剣士が主人公になっている作品もあります。

また時代背景も戦国から幕末、明治とかなり幅広くなっており、一口に剣豪小説と言ってもバラエティに富んだ飽きの来ない作品構成になっています。

津本陽氏の特徴は、命を賭けた対決を表現する迫真の表現力と著者自身が剣道と居合の有段者ということもあり、各流派の特徴や剣技を細やかに解説してくれる点にあります。

荒唐無稽でエンターテイメント性のある剣豪小説も楽しめるかも知れませんが、個人的にはやはり地に足の着いたリアリティのある津本作品が好みです。

全編に渡って漂う緊張感が読者を引き込み、一旦読み始めると手放せなくなること間違いなしです。

新陰流小笠原長治


歴史小説好きの私にとって小笠原長治の名前は知っていても、戦国時代の剣豪といった程度の印象しか持っていませんでした。

何と言っても戦国時代の主役は武将たちであり、上泉伊勢守塚原卜伝柳生宗厳・宗矩宮本武蔵といった有名どころの剣豪でなければ具体的なイメージが沸いてきません。

しかし津本陽氏は、本作品の主人公・小笠原長治をはじめ一般的に知られていない剣豪を題材にした作品が多く、私にとって新たな発見で喜ばせてくれるのです。

簡単に説明すると小笠原長治は、剣聖と呼ばれた上泉伊勢守の孫弟子であたる人物で、戦国後期から江戸時代初期に活躍した剣豪です。
ほぼ同世代には示現流の開祖となった東郷重位がおり、彼も津本陽氏によって「薩南示現流」という作品で主人公として描かれています。

小笠原家は武田家につらなる名族でしたが、今川、武田、徳川、そして北条といった勢力に翻弄され、長治も幼少の頃より戦国の厳しさ身をもって経験しながら育ちます。

最後に仕えることになった北条家が秀吉の小田原征伐によって滅亡した時点で長治は二十歳の青年でした。

幼い頃より権謀術数を目の当たりにし、自らが生まれ育った小笠原家が戦乱に翻弄されるのを体験し、戦国武将としてではなく一介の武芸者としてひたすら剣の道を極める道を選びます。

長治が同時代に活躍した剣豪たちと違うのは、未知なる強敵を求めて琉球、そして(大陸)へと渡り、双節棍(ヌンチャク)や矛といった、日本には無い武器の達人たちと渡り合ったことです。

異国の地で腕試しというエピソードは大山倍達を主人公にした「空手バカ一代」にも通ずるものがあり、小笠原長治がその先駆けだったと考えると、時代を超えた男のロマンを感じてしまうのです。

漂流


船乗りが突然の嵐に襲われ漂流し、やがて無人島に辿り着く。。

生き延びるためにはそこで飲水や食料を探し出す必要があり、雨風を凌ぐための住居を確保しなければなりません。
やがて無人島での生活が安定してくると、故郷に帰るために島から脱出する方法を試行錯誤してゆくことになります。

これを十五少年漂流記風に描けば冒険小説ということになりますが、本書は江戸時代に無人島へ漂流することになり、そこで13年間もの時間を過ごし奇跡的に帰還した土佐(高知県)の船乗り長平の史実に基づいた小説です。

長平が漂着した島は現在の伊豆諸島南部に位置し、現在も無人島でありつづける鳥島です。

周囲6.5km、草木はまばらで水源もない苛酷な環境下にある島でしたが、温暖な気候でアホウドリの繁殖地であるという幸運にも恵まれました。

実際に長平たちが無人島で生き延びた具体的な方法については本作品の醍醐味でもあり、ここで詳細を紹介することは控えますが、某テレビ番組の無人島サバイバル生活を見ているようなエンターテイメント性があります。

しかし忘れてはならないのは、長平たちは文字通りのサバイバルを体験したのであり、仲間たちの死、故郷に戻れる保証がない絶望と隣合わせの精神状態といった切迫感と悲壮感が読者にも伝わってきます。

著者が江戸時代の漂流者の記録に興味を持ったきっかけは、終戦後に南の島々から突然のように姿を現し帰国した日本兵へ対する驚きであると述べています。

世間からまったく隔離され、家族あるいは恋人に2度と会えない不安、そして彼らにとっても自分がすでに過去の人(故人)となっている風景を想像すると絶望的な気持ちになるのも分かります。

運良く故郷へ帰還して歓喜の再会を果たす者もいれば、妻が未亡人として再婚し家族離散という悲哀を味わう者もいるのです。

いずれにしても極限状態を経験した長平の壮絶な人生が読者に感動を与えるとともに、日々何気なく過ごしている私たちがいかに快適な暮らしに恵まれているかを実感させてくれるのです。

三陸海岸大津波


本書は昭和40年代前半に吉村昭氏が三陸沿岸を訪れ、津波の資料を集め体験談を取材した内容をまとめたものであり、過去3回の津波災害の記録が収められています。

  • 明治二十九年の津波
  • 昭和八年の津波
  • チリ地震津波(昭和三十九年)

吉村氏は三陸海岸が好きで取材前にも何度か訪れていますが、その理由を次のように表現しています。

私を魅する原因は、三陸地方の海が人間の生活と密接な関係をもって存在しているように思えるからである。
~ 中略 ~
三陸沿岸の海は土地の人々のためにある。海は生活の場であり、人々は海と真剣に向かい合っている。

つまり埋め立てられた都会の海、もしくは観光地として景色が良いだけの海にはない魅力を感じているのと同時に、それは表裏一体であることを鋭く指摘しています。

海は、人々に多くの恵みをあたえてくれると同時に、人々の生命をおびやかす苛酷な試練をも課す。海は大自然の常として、人間を豊かにする反面、容赦なく死をも強いる。

三陸地方では津波を「よだ」と呼んでいましたが、太古よりここに住む人々は「よだ」によって多くの犠牲を払ってきました。
それは古老の伝承や教訓となって脈々と子孫に受け継がれ、生活の知恵として根付いてゆきましたが、それでも明治29年の津波では2万6千名以上もの死者を出す大災害となりました

本書に収められている津波の体験談、とくに一瞬にして家族を失った当時の小学生が残した作文には時代を超えて訴えるものがあります。

吉村氏が取材した時点(昭和40年代)で明治29年津波の体験談を聞くことができたのは高齢者の2人のみで、まさにギリギリのタイミングだったといえます。
本書の最後にそのうちの1人である星野氏が語った言葉が印象深く残っていると著者は綴っています。

「津波は、時世が変わってもなくならない、必ず今後も襲ってくる。しかし、今の人たちは色々な方法で十分警戒しているから、死ぬ人はめったにいないと思う」

吉村氏はこれを生涯において3度の大津波というすさまじい体験をし、津波と戦いながら生きてきた人の重みある言葉と受け取っていますが、本書が発表されて40年後に再び東日本大震災による津波で大きな被害を受けることを知っている私(読者)は複雑な気持ちになると同時に、世代を超えて災害の教訓を未来に伝えることの難しさを実感せずにはいられないのです。

過去の教訓から決意を新たにするという意味でも本書の果たす役割は小さくないはずであり、少しでも多くの人に読んでもらいたい1冊です。

羆嵐


1915年(大正4年)、北海道苫前郡内の開拓村で獣害史最大の惨劇が発生します。
それはヒグマが人を襲い、7名が死亡、3名が重傷を負ったという悲惨な出来事であり「三毛別羆事件」として知られています。

しかも襲われた人間は山菜を取りに行った途中でも登山の最中でもなく、人間の暮らす集落に姿を現し家の壁を突き破って襲撃するという驚くべきものでした。

人間を獲物として認識したヒグマは火を恐れることもなく、焚火によって身を守ろうとした人びとを次々と襲撃してゆきます。
そしてついに開拓民たちは村を放棄し避難することを選択します。

やがて警察や青年団によって200名もの討伐隊が組織され、さらに軍隊にまで出動が要請されるという事態に発展します。

しかし余りにも巨大で兇暴なヒグマを目の前に人びとは震え上がり、統制は乱れがちになります。
その中でヒグマ退治に立ち上がったのが、半世紀にもわたり熊撃ちを続けてきたある1人の初老のマタギだったのでした。

本書はこの三毛別羆事件を題材にした小説です。

故人の遺族を考慮して名前を変えている部分はあるものの、事件の発生前からその後の顛末に至るまでが詳細に描かれています。

第三者の立場で淡々と出来事を描いてゆく吉村昭氏のスタイルはこうした題材にもっともマッチしているといえます。

今から100年前の事件ですが、手付かずの自然が開発されてゆくにつれ、人間と野生動物がうまく共存できなかった故の悲劇を見ることもできるのです。

落日の宴 勘定奉行川路聖謨(下)


これまで多くの歴史小説を読んできましたが、ここ2年ほど吉村昭氏の小説を手にとる機会が増えています。

吉村氏の小説は、彼自身の主観が直接的に表現されることが少なく、また登場人物の抱く思考や感情が描写される機会も少ないため、読者を熱狂させる劇場型の歴史小説ではありません。

それよりも主人公たちの辿った足取りやそこで起きた出来事をなるべく細かく忠実に描くことに力を注いでいる感想を持ちます。

作品によっては退屈と感じる場面にも遭遇しますが、そうした何気ないエピソードの積み重ねが歴史を作り上げているという事実に気付いてからは、逆に楽しく読むことが出来るようになりました。

本書の主人公・川路聖謨(かわじ としあきら)は、幕末にロシア使節プチャーチンと緊迫したハードな交渉を重ねてゆきます。

やがてそれは日本の将来に重大な影響をもたらすものの、実際には地道で遅々として進まない交渉を継続した結果であり、ある日突然飛躍的に成し遂げたものではありませんでした。

プチャーチンと共にこの交渉の中心であり続けた川路を主人公にして劇的な物語を描こうとしても難しいでしょう。

しかし地道でありながらも誠実さを持って確かな足取りを一歩ずつ残して交渉を進めてきたという意味では、記録型の歴史小説を得意とする著者の作風にぴったりの人物であるといえます。

川路は、自分を抜擢し重宝した阿部正弘が病死し、続いて老中首座に就いた堀田正睦が失脚したのちに井伊直弼が大老として実験を握ってからは、幕府の中枢から遠ざけられ高齢で身体が不自由だったこともあり、晩年は不遇の時代を過ごすことになります。

しかし吉村氏は、川路のそんな時代をも淡々と描き続け、倒幕軍が江戸に到着すると聞くやピストルで自らの命を絶つ場面まで筆を置くことはありませんでした。

そこには西郷隆盛や坂本龍馬、土方歳三の最期のように強烈な印象はありませんが、自らのすべてを幕府に捧げ続け、そして力尽きた1人の老人の静かな死は何とも言えない余韻を読者に残すのです。

落日の宴 勘定奉行川路聖謨(上)


幕末・明治維新といえば志士、そして新選組をはじめとした幕府側の剣士などに注目が集まりますが、彼らが後世に残る活躍をするきっかけとなったとなったのが黒船来航であり、その結果として巻き起こった開国論攘夷論のせめぎ合いであるといえます。

結果的に江戸幕府は倒れることになりますが、幕府の指導者たちははじめから無策であった訳ではありません。
むしろアメリカやそれに続いて来航したロシアとの交渉に際しては、教養と学問を身に付けた有能な幕臣が外国との交渉を粘り強く進めたことは案外知られていません。

その代表格といえるのが本書の主人公・川路聖謨(かわじ としあきら)であり、彼はロシア使節のプチャーチンと開国、そして領土問題の交渉において大きな成果を収めました。

プチャーチンが長崎を訪れた1853年時点で川路はすでに勘定奉行に就任していましたが、元々は小普請組の小吏という低い身分であり、豊富な知識と冷静な判断力を閣老たちに評価され実力で勝ち取った昇進でした。

またその背景には安政の改革を実行した老中首座・阿部正弘が身分にとらわれず能力第一主義で有能な人材を抜擢したという幸運もありました。

川路は当時すでに50歳を過ぎていましたが、ロシアと交渉するために文字通り日本中を奔走する日々を送ります。

吉村昭氏らしく、一刻を争うような事態へ対して慌ただしく対処してゆく川路の足取りや交渉内容が仔細漏らさず描かれているという印象を受けます。

川路は一流の剣客ではなく、神算鬼謀の軍師といった人物でもありませんでした。
そして何よりも新しい時代を作り上げるという変革を望むタイプではなく、幕府の有能な忠臣といった人物像がもっとも当てはまります。

外国語には堪能でなかったものの、外国事情に通じ、巧妙な駆け引きと聡明な判断力を駆使しながら海千山千のプチャーチン相手に一歩も引かない交渉を進めます。

その中でも作者が特筆した点が、川路の根底にある揺るぎない誠実さであり、プチャーチンは川路を手強い交渉相手と認めながらも、ヨーロッパにも珍しいほどの優れた人物として激賞しています。

それは鎖国政策を続けてきた日本に優れた国際感覚を持った人物がいたことを意味し、それを世間に広く知ってもらうために作者は筆を取ったのではないでしょうか。

山怪 弐 山人が語る不思議な話


多くの子どもがそうだったように、私も妖怪や心霊現象といった恐ろしくも不思議なエピソードが大好きな1人でした。

かつては心霊研究家や霊能者がテレビに出演することは普通でしたし、当時は彼らの能力を疑うことなく食い入るように見ていました。
さらに水木しげる氏の「ゲゲゲの鬼太郎」に代表される漫画やアニメも何度見返したか分かりません。

小学生高学年にもなるとこうした不思議な世界は徐々に頭の片隅に追いやられるようになりましたが、成人したのちに柳田國男の著書を読み、また日本各地の文化を知るようになると依然として例えば沖縄のユタ、東北地方のイタコ拝み屋(祈祷師)といった人びとが今も活動していることを知り、忘れ去ったはずの不思議な世界に再び興味を惹かれるのです。

本書は日本各地の山間地域で今も現在進行系で生まれつつある不思議な体験をひたすら収録した田中康弘氏「山怪」の第2弾です。

構成は前作とまったく同じで、第1弾に収まりきれなかった、もしくは取材によって新たに追加されたエピソードが収録されています。

あえて言えば狐憑き蛇の憑依、もしくは犬神憑きといった話は前作に無かった類のエピソードかも知れませんが、いずれにせよ山村に住む人々、猟師や林業従事者、修験道の行者など"山"との関わりが深い人たちの体験談であることに違いはありません。

本書の面白い点の1つは、しばしば不思議な現象を迷信や錯覚としてまったく信じない人びとの話も収録している部分です。

著者は取材の過程では決してその考えを否定しませんが、一方で彼らに共通するものを冷静に観察しているのです。

時々あれは何だったのかと思い出し、それを他人に話したりする。そして最後に、"あれは錯覚だったのだ"と再確認しようとする。
一生のうちに何度もこの作業を繰り返すことこそ、怪異を認めている証拠ではないだろうか。中には完全に記憶から消し去る人もいる。しかしそれがふとした弾みで口から飛び出す場合もあり、そんな時は当の本人が一番驚いているのである。

さらには、まったく違うベクトルで怪異を受け止める人もいます。

八甲田山麓のある宿泊施設で明治時代の陸軍歩兵の霊(もちろん八甲田雪中行軍遭難事件の犠牲者と思われる)が真夜中に館内を歩き回るのをほとんどの従業員が目撃しているものの、怪談話にもなっていないというエピソードです。

「最初は驚くんだけどねえ、すぐ慣れるみたいだよ。何かする訳じゃないし、怖いと感じもしないらしいね。ただ歩いているだけだから」

他にも日常風景や自然現象と同じように怪異を受け止める人びと、つまり怪異が生活の奥深くに根付いてる地域も存在しているのです。

しかし私たちに彼らを時代遅れの迷信深い人と批判する資格はありません。

なぜならお盆には亡くなった先祖が家に帰ってくる、四十九日の法要が終るまでは死者は成仏しないという風習を迷信と放言する人は少ないはずだからです。

人知を超えた存在、科学では説明しきれない事象、それは日本の山に今も息づいているのです。

山怪 山人が語る不思議な話


日本の山には何かがいる。
生物なのか非生物なのか、固体なのか気体なのか、見えるのか見えないのか。
まったくもってはっきりとはしないが、何かがいる。
その何かは、古今東西さまざまな形で現れ、老若男女を脅かす。
誰もが存在を認めているが、それが何かは誰にも分からない。
敢えてその名を問われれば、山怪と答えるしかないのである。

本書の冒頭はこのようはじまりますが、内容はホラー小説でもなければ心霊現象を取り扱ったものでもなく、日本各地の山間部で暮らす人びとの不思議な体験や言い伝えをひたすら収録しています。

著者の田中康弘氏は長年にわたり山関係、狩猟関係の現場を渡り歩いたノンフィクション作家ですが、本来こうした不思議な体験談は取材過程のサイドストーリー、もしくは副産物に過ぎませんでした。

元々は囲炉裏で語られたきたようなこのような民話は、現代では全滅しているといっても過言ではありません。

電気が日本の隅々にまで行き渡り、テレビやインターネットが普及して久しいですが、もはやとうに年寄りの昔話は子どもたちにとって娯楽ではなくなっているのです。

そもそも何十年にもわたり核家族化と過疎化が同時進行している状況下で、老人たちが昔話を語る相手さえいないというのが現実です。

著者はこうした小さな逸話が絶滅の危機に瀕していることに気付き、本格的に収集をはじめたのです。

この視点はまさに慧眼というべきものでしょう。

かつて柳田國男によって明治43年に発表された「遠野物語」もまったく同じ視点で発表された本ですが、100年以上前の時点で柳田氏は多くの民話が明治近代化とともに失われつつあるという危機感を抱いていました。

はたして21世紀の現時点でめぼしい逸話が収集できるのか個人的には疑問でしたが、著者はそれを見事にやってのけます。

むしろ21世紀に入ってからも山では新しい逸話が生まれ続けていることに驚きを覚えます。

収録されているエピソードのほとんどは狐火を見た話、大蛇を目撃した話、山に轟く謎の音など、実際の体験談であるが故に起承転結がなくとりとめのない小さな素朴な逸話ばかりですが、だからこそ私自身は食い入るように読み続けてしまうのです。

まずは現在も数少ないマタギ文化が残っている、またマタギ発祥の地といわれる秋田県阿仁地区のエピソードから不思議で魅力的な世界がはじまります.....。

赤と黒 (下)


上巻のレビューでは、本作品を恋愛小説、社会風刺小説、そして主人公ジュリヤンの立身出世の物語という3つの要素が含まれていると紹介しました。

実際にどの要素が印象に残るかは、読者によって異なると思いますが、私自身は立身出世の物語として印象が強く残りました。

恋愛小説をまったく読まない訳ではありませんが、美青年と貴婦人、または美少女の恋愛という構図は、当時の読者層(おもに女性)には喜ばれたかも知れませんが、私自身はどうも感情移入も共感も難しい設定です。

社会風刺小説という点では申し分のない内容ですが、著者のスタンダールは当時の支配階級である貴族や聖職者へ対して容赦ない非難を浴びせています。
その舌鋒の鋭さは、反社会的とさえいえます。

またスタンダールはそれなりの野心を持っていましたが、現実には恋愛や出世、そして作家活動さえもうまく行かず、存命中はほとんど顧みられなかった人物であり、その鬱憤を作品中に書き連ねたという側面があることも否めません。

その点でジュリヤンが野心を抱き貴族や聖職者たちへ近づき立身出世を図るという構図は、スタンダール自身の心情と重なる部分があり、(多かれ少なかれどの小説にも言えることですが)赤裸々な私小説としての要素が垣間見れます。

ジュリヤンは聖書やラテン語に通じた才能豊かな美青年でしたが、貴族階級を心底憎み軽蔑していたため、決して彼らと同化することはありませんでした。

これは彼自身の立身出世を考えれば矛盾する理屈であると同時に、その烈しい感情がその聡明な頭脳さえも支配したということです。

文学作品にしばしば登場する青年は、自己を確立しきれていない矛盾と混沌を抱えた存在であり、それ故に強烈なエネルギーを周囲に放つことで魅力的な主人公になりえるのです。

たとえば大江健三郎氏の「遅れてきた青年」は本書より130年後に発表された作品ですが、野望と混沌としたエネルギーを秘めていたという点で両主人公に驚くほど共通点があります。

本作品はフランス革命、ナポレオンの台頭を経て王政復古の時代に書かれた作品ですが、王党派を批判し先鋭化した自由思想の持ち主であったスタンダールが、あと20年早く生まれて青年として革命に立ち会ったならばまったく別の作品を書いたのではないでしょうか。

赤と黒 (上)


日本のみならず世界的に大きな影響を与えたフランス文学
そのフランス文学の中でも最高傑作の1つに挙げられるのが1830年に発表された本書スタンダールの「赤と黒」です。

文庫本にしても800ページにも及ぶ長編ですが、この作品には多くの要素が含まれています。

まず挙げられるのが、美しき青年ジュリヤンレーナル夫人、そしてラ・モール嬢との愛を描いた恋愛小説としての要素、そして彼女たちをとりまく貴族階層や聖職者たちの暮らしや処世術を社会風刺小説として描いた側面、さらに製材屋の息子として生まれたジュリヤンが、野心を心に秘めながらフランスの片田舎からパリへと上京し権謀術数の中で立身出世してゆく小説として読むことができます。

多く要素を詰め込むことで作品全体の焦点がぼやけてしまい、印象に残らない小説になってしまう危険性がありますが、この「赤と黒」はどの要素も高いレベルで完成されています。

身分が低く何の後ろ盾も持たないジュリヤンは、地方の有力者であるレーナル夫人の3人の子どもたちの家庭教師として住み込むことになりますが、そこから身分の違いという理由以前に不倫という禁断の恋愛に発展してゆき、続いてラ・モール伯爵の秘書として有能な活躍するジュリアンと彼の愛娘との恋は、父親が有力貴族との政略結婚を望んでいる中での裏切り行為になってしまうというジレンマを抱えています。

そこで描かれる葛藤や恋の駆け引きは、当時の主な読者層であるご婦人方でなくともドキドキハラハラなくしては読めなかったでしょう。

この小説が執筆・発表された時期は1814年~1830年の王政復古の時期にあたり、ここで描かれる有力者へ対する痛烈な社会風刺は、もはや風刺のレベルに留まらずスタンダール自身の政治的主張までもが垣間見れる過激な内容になっています。

立身出世を企む主人公ジュリヤンは、貴族や高位にある聖職者へ憧れを抱くのではなく、徹底的に彼らを軽蔑し嫌悪しながらも利用しようとするのです。

フランスにおける絶対君主制の崩壊、フランス革命、それに続くナポレオンの台頭と失脚の末に訪れた王政復古は、世界史の中でもっとも受験生を悩ませる複雑な時期でもあり、当時の社会的、政治的な停滞を小説を通じて鋭く観察している点は、本書が不朽の名作と評される大きな要素となっているはずです。

私自身が文学史に詳しい訳ではありませんが、ともかく18世紀前半に書かれた小説が、21世紀の読者を楽しませてくれるという点だけでも読む価値があります。

聞き出す力


プロインタビュアーを自称する吉田豪氏が「週刊漫画ゴラク」で連載したコラムを書籍化した1冊です。

プレゼンテーションを指南する書籍が多い中で、聞く側をテーマにした阿川佐和子氏の「聞く力」がベストセラーとなりましたが、本書はそのブームに便乗したことを著者はあっさりと認めています。

吉田氏の単行本を読むのは今回がはじめてですが、ずいぶん前に購読していたプロレス雑誌で彼の記事はかなり読んだ記憶があります。

当時はプロレスラーや格闘家のインタビューがメインでしたが、その内容はいつも個性的でした。

それは試合の内容を細かく言及してゆくよりも、試合以外の話題を掘り下げる傾向があり、そこからは意外性のある(もしくはいかにもその人らしい)エピソードが飛び出してきます。

いずれにせよ面白い記事だったことは間違いありませんでしたが、出版不況により雑誌が次々と休刊してゆく過程で、元々実力のあった吉田氏がプロインタビュアーへ転身して活躍していることにそれほど違和感はありませんでした。

肝心の本書の内容ですが、やはり予想通りというべきかインタビューのテクニックに関することは読んでいてもあまり頭に入ってきません。

たとえばインタビュー前に入念に下調べをするという点は、プロとしての真摯な姿勢を感じるものの、それほど目新しさは感じさせません。

それよりも折に触れて明かされる過去のエピソードの方が圧倒的に面白いのです。

大物俳優からアイドル、スポーツ選手、政治家に至るまでさまざまなジャンルの有名人にインタビューを試みています。

例えば吉田氏が長渕剛のインタビューのためにスタジオを訪れてみたら、彼は本格的な機器を現場に持ち込んでのハードなトレーニング中であり、インタビュー内容も「殺すぞ!」とか「死ぬ気」を連呼する物騒な内容になった挙句、原稿チェックで発言内容が大幅に修正されていたなど、数々のエピソードが収録されています。

つまり本書は上手なインタビュー(聞き手)の指南書としてだけでなく、こうした楽しいエピソードを期待して読むだけでも充分に価値があるのです。

下天を謀る〈下〉


藤堂高虎の生涯を描いた歴史小説「下天を謀る」の下巻レビューです。

人生に8度も主君を変えたといわれるだけあって、高虎の実像は分かりにくい側面があります。

傍目からは、常に強い方へ鞍替えを続けた世渡り上手という見方ができますが、それだけの男であれば家康から絶大な信頼を得て32万石もの大名にまで出世はできません。

たとえ有能であっても、いつ裏切るか分からない武将を側に置いておくほど家康は甘い男ではないからです。

本作品で高虎の運命を変えた人物として登場するのが、牢人暮らしをしていた高虎を見い出して召し抱えた羽柴秀長です。

秀長は秀吉の弟として軍事のみならず内政にも手腕を発揮した温厚な人物として知られますが、武力一辺倒だった高虎を文武両道の武将として成長させてくれた恩人になったのです。

秀吉政権下で朝鮮出兵(文禄・慶長の役)へ反対していた秀長でしたが、その直前に病死するという不幸に見舞われます。

さらにその後を継いだ養子の秀保も早世してしまい、秀長の家系(大和豊臣家)はあっけなく断絶してしまいます。

高虎は豊臣家直系の大名として取り立てられますが、亡き主人・秀長と行動を共にしていた千利休豊臣秀次らが次々と切腹を命じられるに至り、豊臣政権へ対して高虎自身の心も離れてゆきます。

これが秀吉の死後、豊臣家で重宝されている大名(徳川家から見た外様大名)にも関わらず、いち早く家康へ味方することになるのです。

高虎が損得勘定だけの人間でなかったことは、関ヶ原の戦い大阪の陣でも激闘を繰り広げ、体中隙間がないほど戦場傷に覆われていたというエピソードからも分かります。

戦場での功名を追いかけてきた高虎が、どういう遍歴を辿って天下を宰領を補佐するまでに至ったのか。
長編小説ということもあり実績だけではなく、その内面的な変化についても細かく描写されています。

藤堂高虎の新しい人物像を開拓したスケールの大きな歴史小説として、戦国時代ファンなら是非抑えておきたい作品です。

下天を謀る〈上〉


最近紹介する機会の多い安部龍太郎氏の歴史小説ですが、今回の主人公は藤堂高虎です。

浅井長政にはじまり徳川家康に仕えるまで実に8度も主君を変えたといわれ、のちに32万3,000石の大大名となった戦国武将です。

儒教に影響された江戸時代の武士道は主君へ忠義を貫き通すことを美徳としていましたが、戦国時代は主君を見限って他家に仕えることは必ずしも悪いことではありませんでした。

現代でいえばキャリアアップのために転職をするようなものであり、実際に高虎も主君を変えるたびに出世してゆきました。

彼のキャリアを見てゆく上で比較として分かりやすいのが石田三成です。

二人とも同じ近江の出身であり、浅井家の滅亡後ほぼ同じ時期に三成は秀吉に見出され、そして高虎は秀吉の弟である秀長に仕えることになります。

同じ豊臣家(羽柴家)の家臣として、三成は文官タイプ、高虎は武将タイプとして順調に頭角を現してゆきます。

そして秀吉の死後、高虎はいち早く豊臣家を見限り徳川家康に急接近しますが、三成は徳川家と敵対し関ヶ原の戦いで敗れて滅びることになります。

藤堂高虎の身の丈は六尺三寸(約190cm)あったといわれ、その体躯から分かる通り猛将として敵将を討ち取り手柄を挙げてきました。

ただし歳を重ねるにつれ築城の名人として、また内政や外交の面でも手腕を発揮して文武両道の武将として家康から重宝されました。

高虎は家康の最期にあっても外様大名で唯一枕元に侍ることを許され、その死後も2代将軍秀忠、3代将軍家光の世話役を勤めるなど、三河以来の家臣以上に信頼されていたのです。

本作品は上下巻合わせて1000ページ近くに及ぶ大長編歴史小説です。
多くの武将が現れては消えていった戦国時代を最後まで生き抜き、太平の世を見届けた藤堂高虎の生涯を思う存分味わうことができます。

満潮の時刻


本作品は遠藤周作氏の没後5年を経過して書籍化された作品ですが、遺稿ではなく、かなり以前に執筆した作品が偶然このタイミングで書籍化されたものです。

家庭を持ち四十代の働き盛りの明石が、突然の喀血により結核に侵されていることを知る。
長期の入院治療を余儀なくされた主人公は、そこにいる病人たち、その生命の終焉と出会うことによって、心の中に確実な変化が起きていることを感じてゆく...。

これは物語の導入部でありながら、全体のあらすじでもありますが、遠藤周作ファンであれば著者自身の体験を小説化した作品だと分かるはずです。

遠藤周作には「海と毒薬」、「沈黙」、「深い河」といったやや難解で深刻なテーマを扱った日本を代表する文学作品を発表する一方で、狐狸庵山人としてユーモア溢れる軽快なエッセーを書くこともでも知られれています。

さらに歴史小説にも精力的に取り組むなど著者の活動範囲はかなり広いのですが、その中でも本書は読みやすい現代小説に位置付けられます。

人間誰しも(子どもであっても)"死"というものを漠然と考えるときがありますが、本作品の主人公のように(当時はまだ致命的な病気であった)結核に侵され、実際に死の淵をさまよって初めて真剣に考えはじめるのではないでしょうか。

これは普段は健康を意識しなくとも、風邪で寝込んだ時に健康の大切さを知るのに似ているかも知れません。

ともかく著者も病魔に侵され"死"を身近に感じることで体験したことがあったです。
それは"世の中を達観する"ことであったり、まして"悟りを開く"ことではなく、今まで何気なく見ていたものが、違う意味を持って見えてくるという類のものです。

作品でその象徴となるのが、病院の屋上から眺めた乳白色の空の中で煙突から真っ直ぐにのぼる煙であったり、人もまばらな長崎の古い洋館に展示されていたすり減った銅板の踏み絵であったりします。

つまり本作品にも著者が作家として終生追い続けたキリスト教文学の要素をはっきり見ることができます。

さらに加えるならば、著者はのちに自らの体験などから医療問題を言及するようになりますが、この作品でも鋭い視点から観察が行われています。

著者の死によって充分な見直しが行われないまま書籍化された作品でありながらも、遠藤周作らしさが凝縮されている1冊です。

外交ドキュメント 歴史認識


テレビや新聞、インターネットからは日本と近隣国、その中でも特に中国、韓国との関係は最悪ではなくとも、あまり良い状態ではないことは伝わってきます。

特に外交の場合、今日の状況を知るだけでは充分ではなく、過去から続く両国関係の延長線上に今があると認識しなければ正確な状況を把握することは難しいでしょう。

一方でメディア場合、こうした過去の問題に触れてはいても、時間や紙面の都合から抜粋されたものになりがちであり、その情報量は充分ではありません。

はじめで触れられている通り、本書は外交史の専門家である服部龍二氏が、日本と中韓との間で行われてきた外交の過程を問題別、時間軸に新書という形でコンパクトにまとめて解説したものであり、こうした情報を得るための手段として極めて優れています。

本書の主たる目的は批評や提言ではなく、日本外交の視点から政策過程を分析することにある。諸外国の関係悪化だけでなく、修復の局面にも紙幅を割く。筆者が断を下すというよりも読者のために材料を整理して提供したい。何度でも再燃しうる歴史問題を論じるうえで、そのことは基礎的な作業になるだろう。『外交ドキュメント 歴史認識』と題したゆえんである。

中韓との外交関係は歴史問題、つまり日本との歴史認識の相違が主な焦点となる場面が多いのです。

一口に歴史問題と言っても細かい視点まで入れるとキリがありません。
中でも本書が主に取り上げているのは以下の点です。

  • 歴史教科書問題
  • 靖国神社公式参拝
  • 従軍慰安婦問題
  • 村山談話

本書では終戦後の東京裁判、そして中韓との国交正常化に至るまでの過程は概要のみにとどめ、1980年代以降の外交政策ヘ対して具体的な言及を行っています。

つまり現在から遡って30~40年間の外交過程が対象となりますが、まず本書から分かることは、日中韓いずれも一貫した外交政策を取り続けた国は存在しないという点です。

それは国内外の政治や経済状況など、複雑なパワーバランスを反映した結果であり、歴史認識に両者が歩み寄るときもあれば、片方、または両者が離れてしまう局面が何度も登場します。

分かり易い例を挙げれば、積極的な外交政策で知られる中曽根首相と改革派で親日家といわれた胡耀邦総書記との良好な関係は、日中関係がもっとも歩み寄った時期でもありましたが、保守派の反発によって胡耀邦が失脚し、江沢民が総書記に就任したのちに日中関係は急速に悪化してゆきます。

韓国ではもっと頻繁に同じ現象が起きており、日本においても歴代首相が下す靖国神社公式参拝の判断如何で中韓の態度が大きく左右します。

ある歴史問題を切り取り、舌鋒鋭い論客やジャーナリストが論じる本やコラムは読者にとって刺激的に映るでしょう。
しかし同時に読者が充分に"考える"ことをせずに、安易にそうした論調へ流れてしまうといった危険性もはらんでいます。

さらにメディアはこうした意見を保守反日、または右翼左翼といったレッテルに二分したがる傾向にあり、議論の視点を狭めてしまうという点で好ましくありません。

読者への判断材料を提供するために書かれた本書ですが、終章でわずかに著者の外交へ対する提言が垣間見れます。

外交とは、関係各国の利害を調整する行為である。相手国がある以上、外交に完全な勝利を求めるのは難しいし、危険でもある。一国が完勝しようとすれば、相手国に鬱積した感情を残すことになり、長期的には和解を遠ざけかねない。

誰が首相が就任しても、どんな政党が政権を運営しても外交問題が一気に解決するこはないでしょう。

どんな局面にあっても地道で粘り強い信頼関係の構築を続けることこそが、唯一の打開策であることを歴史は教えているのです。

ヒロシマ・ノート


大江健三郎氏が1963年から65年にかけて広島を訪れた時の体験を綴った随筆です。

1945年8月6日...。
この広島において人類に初めて原子爆弾が投下された日は、日本のみならず人類史においても特筆すべき出来事でした。

ある作家はこの歴史的な出来事を小説として発表しましたが、大江健三郎氏は「ヒロシマ・ノート」という形で後世に残すことを選択したのです。

すさまじい威力を持った原爆が一瞬で広島の町を壊滅させ、約14万人もの生命を奪ったことは周知の事実ですが、こうして文章に書いてみると余りにもあっけない表現です。

また同時に原爆によって形成されたキノコ雲を遠くから眺めているような、傍観者の表現のようにも感じます。

しかしそのキノコ雲の下で唐突に原爆の直撃に会った人びとにとっては、どんな地獄絵図でも表現不可能な、著者によれば"人間の悲惨の極み"ともいうべき状況が繰り広げられていました。

著者が見聞し本書に収録した原爆にまつわる数々の出来事は、どれも悪夢を超えた悲惨なものですが、それでも広島で起きた惨劇の氷山の一角にしか過ぎません。


1963年に広島に降り立った著者は、第九回原水爆禁止世界大会に立ち合います。
そこには政治的な思惑が入り乱れ、遅々として大会が進行しない状況が繰り広げれ、著者はそこに呆然と立ち尽くし虚しさを覚えます。

そんな中で著者は、原爆投下1週間前に赴任し原爆投下直後から現在に至るまで精力的に原爆症治療にあたる広島日赤病院の重藤医院長、そして大会に際して原爆病院の患者代表として挨拶をした宮本氏の2人に出会うことによって、そこに"真の広島の人たち"の姿を見出し、その魅力に引き寄せられてゆきます。

残念なことに宮本氏は数ヶ月後に原爆症によって亡くなることになりますが、大江氏はこの"真の広島の人たち"を"正統的な人間"とも表現しています。

広島の現実を正面からうけとめ、絶望しすぎず、希望をもちすぎることもない、そのような実際的な人間のイメージがうかびあがってくるように思える。
~中略~
まったく勝算のない、最悪の状況に立ち向かいうる存在とは、やはり、このような正統的な人間よりほかはない。

逆に言えば狂気、あるいは絶望の果の自殺や精神的異常から自分自身を救い出すため、広島の人びとが他にとり得る方法が残っていなかったことを意味しています。


本書に度々登場する"人間の惨劇の極み"は、読者にたびたびショックを与えますが、当事者でない私たちが抱いたその印象は時間の経過とともに薄らいでゆきます。
またすでに被爆者の体験談を聞くことが難しいに時代に入っており、それもやがて不可能になるでしょう。

原爆が起こした最悪の惨劇は、本書に限らず多くの人たちによって発掘され、資料や手記といった形で残っています。

われわれに出来ることは、折に触れて繰り返しそうした記録を読むことで、二度と同じ過ちを繰り返していけないと新たに胸に刻むことなのです。

その峰の彼方


今から10年以上前になりますが、新田次郎氏の山岳小説を夢中になって読んでいた時期がありました。

そんな私にとって本書の作者である笹本稜平氏は、現役作家における山岳小説の第一人者でもあります。

ただし新田氏がノンフィクション小説を得意としていた一方で、笹本氏は山を舞台にした多様なフィクション小説を得意としている点で特徴が異なります。

その中でも「その峰の彼方」は、正統派かつ本格的な山岳小説といえるでしょう。

舞台はアメリカのアラスカ州にそびえる北米最高峰・マッキンリー、近年では先住民の呼び名である"デナリ"が正式名称となっているようです。

実績を残しつつも日本の山岳界に窮屈さと閉鎖感を感じていた主人公・津田は、デナリの魅力に取り憑かれ、アメリカ国籍を取得してデナリの麓にある小さな町・タルキートナでツアー会社を営んでいました。

そんなある日、学生時代からの友人である吉沢の元へ津田が厳冬のデナリで遭難に合ったとの連絡が入ります。

吉沢は急遽日本からアラスカへ飛び、地元のレンジャーたちと津田を救出すべくデナリへと向かうのでした。


ここまでは長い物語の導入部ですが、本作品には山岳小説にある幾つもの要素が取り入れられています。

まず何と言っても外せないのがデナリを舞台としている点です。

デナリはエベレストよりも2700メートル低い山ですが、登山に要する高低差はエベレストに勝り、加えて北極圏に近い高緯度にあるため冷え込みが強く、気圧が低い(空気が薄い)といった厳しい自然条件下にあります。また一方では、独立峰に近い山容と巨大な氷河を兼ね添えた雄大な山でもあります。

つまり山岳小説には欠かせないデナリの美しさと厳しさが物語の中で何度も描写されてゆきます。

そこへ誰も成し遂げていないカシンリッジ・ルート冬期単独登攀を目指した津田の挑戦は、冒険小説としての魅力を充分に備えています。

また遭難し行方不明となった津田を捜索する吉沢たち一行の苦闘は、山岳救助の緊迫感に溢れています。

タルキートナには津田の生還を信じる、出産を控えた妻の祥子、先住民のリーダーであり津田のメンターでもあるワイズマン、津田が登山前に構想してた新しいビジネスのパートナーであり山岳部の先輩でもある高井の姿があります。

他にも挙げればキリがありませんが、ともかく多くの要素を取り入れた本作品からは、著者のかける意欲が伝わってきます。

そして作品自体はかなりの長編になっていますが、何と言ってもクライマックスは津田自身に迫る生命の危機とともに訪れる内面的な経験ではないでしょうか。

作品ではそれをオカルト的な超常現象やサードマンのような心理的作用ではなく、人知を超えた大自然の意志という形で描いています。

ただし作品中でその正体が明らかにされている訳ではなく、その解釈はそれぞれの読者に委ねられています。

ぜひ読み応えのある山岳小説にチャレンジしてみは如何でしょうか。

続・暴力団


前作「暴力団は2011年出版でしたが、2012年には立て続けに「続・暴力団」が出版されました。

前回は暴力団の組織構成、資金調達の仕組みなど基本的な知識を中心に紹介していましたが、今回は現在進行系、つまり最新の暴力団情報を中心に取り上げています。

本書はその中でも全国的に施行された暴力団排除条例(暴排条例)をクローズアップしています。
この条例は、一般人と暴力団の接点を断ち切る、すなわち彼らの資金調達源(シノギ)を閉ざすことで暴力団組織を弱体化させることを目的としたものです。

この条例が登場する以前から暴力団は斜陽産業であり、全国のいたる所で苦境に立たされた暴力団は変質しつつあります。

私たちから見ると暴力団の衰退は好ましい状況のように思えますが、著者(溝口敦氏)は次のように警告します。

今日の暴力団は昨日の暴力団とは違います。昨日の暴力団と思って関係すると大けがを負います。ひと言でいえば、暴力団の一部は兇暴で秘密主義のマフィアに近づいています。
損か得かで動き、近隣住民との関係など、どうでもよくなりました。

つまり追い詰められた暴力団は、生き残るためになりふり構わず犯罪に走る傾向が出てきているのです。

また暴走族に代表される不良少年たちは、警察からの監視や伝統的な習慣の厳しい暴力団に所属せず、関東連合OBに代表される"半グレ集団"を形成し、暴力団と協調、対立を繰り返しながら独自の勢力を築いています。

ちなみに会社間で取り交わされる契約書にも2012年頃から暴排条例に関する一文が入るようになり、私自身も身近に感じていますが、著者はこの条例のポイントを暴力団ではなく、地域の住民を直接的な対象としている点だと指摘しています。

つまり条例では警察が主体となって暴力団を排除するのではなく、住民たちの責務として暴力団を排除しなければならないのです。

その結果として暴力団との関係を絶とうとして恐喝され、最悪の結果として殺害されてしまう事件、逆にその関係を断ち切れず、芸能界から引退せざるを得なかったケースについても具体例を挙げて紹介しています。

極端な例ですが、昭和の名作「男はつらいよ」の主人公・寅さんを現在の法令や条例で定義すると、「テキ屋の渡世人=暴力団の構成員」という図式が成り立ち、一昔前に見られた住民と暴力団の交流は完全に暴排条例ではアウトということになります。

暴力団と一般市民との関係が変わりつつあると同時に、警察との関係も変化が見られます。

暴力団は警察の間には、お互い情報交換し合う癒着の習慣がありましたが、従来の関係性は崩れ、暴力団はメリットのなくなった警察へ情報を提供しなくなり、その結果として検挙率も低下しています。

それどころか従来の暴力団では暗黙のルールで禁じられていた、警察官をターゲットにした殺傷事件さえ起こすようになりました。

そして前作でも紹介されていた「暴力団に出会ってしまったらどうすればよいか?」については、より突っ込んだ内容で言及しています。

本書で具体的に挙げられている有名芸能人やスポーツ選手と暴力団の関係だけでなく、一般市民がふとしたきっかけで暴力団を出会う確率もゼロではありません。

そうした場合の対処法については、著者自身の経験を踏まえながら解説しています。

暴力団を漠然と""として捉えるだけでは不十分であり、現時点における暴力団の実態、そして今後彼らがどのように変質してゆく可能性があるのかという点は、一般市民にとってもいざという時のために知っておきたいところです。

暴力団


暴力団」。

あるいは「ヤクザ」、「極道」、「任侠」...呼び方によってイメージも異なりますが、その実態を知る人は少ないのではないでしょうか。

著者の溝口敦氏は元警察官でもヤクザでもなく、半世紀近くにわたり暴力団を取材し続けたノンフィクション作家です。

組織の垣根を超えて多くの暴力団を取材し続けた裏世界に精通した作家であり、過去には山口組に関する著書を巡って脅しを受け、左背中を刺され重傷を負った経験を持っています。

本書は暴力団同士の抗争に深く迫ったノンフィクションではなく、今日現在で23団体指定暴力団)、1万8100人の構成員を抱える暴力団の実態を分かり易く解説した1冊です。

まずは山口組に代表される広域団体の仕組み、直系組長(直参)、若頭舎弟といった独自の業界用語の解説にはじまり出世の仕組みなど、馴染みのない人にとって業界独自のルールは新鮮に映ることでしょう。

また企業でいえば売上を得る事業を「シノギ」と呼びますが、伝統的な資金獲得手段として覚せい剤恐喝賭博ノミ行為を挙げています。

さらに昔と違い暴力団系の建設会社が公共事業の下請けに入ることが難しい現在では、解体業産廃処理によっても資金を得ているようです。

続けて入れ墨指詰め(エンコ詰め)といった伝統的な習慣、最近では非課税である新興宗教団体をケースなど今の暴力団を知ることができます。


ここまで解説してき暴力団は日本独自の存在ですが、続いて海外のマフィア(犯罪組織)との特徴を比較する試みもされています。

やはり際立つ違いは、諸外国では組織犯罪集団そのものを違法としているケースが殆どなの対し、日本では暴力団対策法組織犯罪処罰法という法律はあるものの、暴力団の存在そのものは認めている点です。

分かり易いい例を挙げれば、暴力団が繁華街などに看板を掲げて事務所を構えることは容認されており、存在が違法とされている諸外国ではそれだけで摘発対象となる点は大きく異なります。

暴力団とかかわり合いを持たずに人生を過ごすに越したことはありませんが、もし思いがけず出会ったらどうしたよいか?

そうした場合の対処法に関しても、経験・知識豊富な著者がアドバイスを送っています。

身近に暮らしながも目に見えにくい暴力団に対する基礎知識を与えてくれる本書は、ある種のサバイバル指南といえるかも知れません。

文明に抗した弥生の人びと


最近、私の中ではちょっとした考古学・古代史ブームが来ています。

具体的には1万年にも渡る縄文時代、そして1000年あまりの弥生時代、それに続く古墳時代から天皇を中心とした中央集権体制が整う8世紀中盤くらいまでの時代です。

本書は2017年7月に発刊された駒沢大学文学部准教授を勤める寺前直人氏が、弥生時代の実像に言及した1冊です。

弥生時代といえば薄手で堅い弥生式土器、そして何よりも大陸から伝わった稲作、つまり農耕社会が本格的に成立した時代です。
その他にも青銅器鉄器が用いられるようになった点も特徴です。

その結果として水田稲作が安定的な食糧供給、つまり人口増加をもたらすと同時に、「持つ者と持たざる者」という社会的・経済的格差を生み出したというのが大まかなイメージです。

しかし実際には、弥生時代の解釈を巡って専門家たち同士の間でも議論が行われている状態であり、先ほどの解釈が必ずしも正しいと立証されていないのが最先端の考古学らしいです。

その代表例を挙げると、弥生時代の母体として縄文時代があるという連続性を重視する見方と、(稲作や青銅器の伝播をはじめとした)大陸からの影響が縄文文化を一気に駆逐してしまった、つまり縄文~弥生時代間は断絶しているという見方があります。

著者の寺前直人氏は大枠では前者の説を支持する立場をとっていますが、一例の発見のみを挙げてそれを立証することは難しく、水田や土器、土偶などさまざまな角度からそれらを検証する必要があります。

具体的に着目した点は目次からも大まかに掴むことができます。

  • 弥生文化を疑う
  • 弥生文化像をもとめて
    • 弥生文化の発見
    • 二つの弥生文化像
    • 農耕社会の定着
  • 水田登場前史
    • 縄文時代とは?
    • 縄文時代の儀礼とその背景
    • 土偶と石棒
  • 水田をいとなむ社会のはじまり
    • 農耕社会の登場
    • 水田稲作とともにもたらされた道具と技術
    • 狩猟採集の技の継続と発展
    • 水田稲作を開始した社会の人間関係
    • 財産と生命を守る施設
  • 東から西へ
    • 水田稲作開始期の土偶の起源
    • 弥生時代の石棒
  • 多様な金属器社会
    • 金属社会と権力
    • 青銅製武器の祭器化をめぐって
    • 銅鐸と社会
    • 石器をつかい続けた社会
  • 文明と野生の対峙としての弥生時代

特筆すべきは、青銅器をはじめとした石器よりも便利な金属が大陸より伝播したのちも、弥生人はあえて不便な石器を使い続けた形跡があるという説です。

その結論に至るまでの考古学的な発見、および論証については本書を読んでからのお楽しみですが、いずれにせよ読者の知らなかった新しい弥生時代のイメージを与えてくれることは間違いありません。

ぼんやりの時間


忙しい日々を過ごしている社会人や学生、あるいは主婦は多いのではないでしょうか。

近代化と都市化が人びとに便利な暮らし提供するようにしました。
そして人間社会は効率化を追い求め、やがて人間の心を破壊してゆくと著者の辰濃和男氏は警告しています。

仕事や家事、あるいは勉学に追われるというのは昔から変わらないのかも知れませんが、世の中の流れは最近になってますます高速化しています。

代表例としてインターネットの普及が挙げられます。
今さらインターネットの便利さを説明する必要もありませんが、一方で電車に載っている時間や食事の時間、歩いて移動している時間さえもゲームやSNSに没頭する人びとを生み出しました。

本人たちにすればそれは"息抜き"の時間と主張するかも知れませんが、著者の主張する"ぼんやりの時間"とは「何もしない・何も考えない時間」のことを指します。

瞑想とも少し違い、たとえば土手にごろりと寝転がって景色や空をぼんやりと眺めて1日中過ごすというような行為です。

とは言いえ生活のために長時間労働が必要な人も多いはずであり、著者自身も長い間、新聞社で昼夜関係なく働いていた経験を持っています。

1日のうち、1ヶ月のうち数度はたとえ短くともぼんやりする時間をとることは決して無駄ではなく、むしろ生きる糧になるはずだと読者に呼びかけています。

第1章では、騒がしい世間に流されず"ぼんやりの時間"の大切さを体現した偉人たちを紹介しています。紹介されている人たちはざっと以下の通りです。

  • 哲学者・串田孫一
  • 詩人・岸田衿子
  • 作家・池波正太郎
  • 詩人・高木護
  • 作家・H・Dソロー
  • 作家・深沢七郎
  • 僧侶・山田無文

中には長い間を放浪の旅で過ごした人、文明に背を向けて自給自足で暮らした人など少し極端な例もありますが、著者に言わせればかれらは"ぼんやりの達人"と言えるでしょう。

第2章では、読者にとっても現実的なぼんやりな過ごし方を紹介しています。
散歩や温泉、または静かで心安らぐ自分の居場所を見つけるなど、比較的容易な方法を例を交えながら解説してくれます。

最後の第3章では「ぼんやりと」と響き合う一文字として、""、""、""、""、""について考察しています。
全編に渡って共通することでもありますが、著者は"ぼんやり"を科学的にではなく、哲学的な視点で考察しているのが特徴であり、心を破壊しようとする巨大な近代へ対抗し、よりよい人生を送るために"ぼんやりする権利"の大切さを説いています。

自分の生き方を見つめ直すためにも、忙しく毎日を過ごしている人にほど手にとって欲しい1冊です。

読書力


以前、「読む筋トレ」を読書を指南する本(実際には筋トレを指南する本だった)と勘違いして手にとったことを書きましたが、今回の「読書力」は正真正銘の読書指南本です。

もちろん私自身は人に読書を勧めたいと思っていますが、教育学者である著者の齋藤孝氏のトーンはさらに強い口調です。

読書はしてもしなくてもいいものではなく、ぜひとも習慣化すべき「技」だと考えている。
~ 中略 ~
読書力がありさえすればなんとかなる。数多くの学生たちを見てきて、しばしば切実にそう思う。

このように今の若者の間で廃れてしまった読書の習慣を復活させるための啓蒙書というのが本書の立ち位置になっています。

なぜならば著者自身、そして教育者としての経験から読書は「自分をつくる最良の方法だから」を理由として挙げています。

そして資源を持たない日本にとって読書力の低下は、国そのものの地盤沈下に直結するとも断言しています。

スマホなどを使ってのSNSやゲームの利用時間で日本は世界のトップレベルだと思いますが、それが国の経済や文化の発展、さらには国民の幸せに直結するとは思えず、むしろ悪い方へ向いつつあるのではないかという疑問があります。

もちろんインターネットによる恩恵も多く、良い面・悪い面の双方を持っていることは確かです。

私自身も本から多大な影響を受けていることは間違いなく、著者の主張するように学校教育の場に読書を習慣化するプログラムを組み込むという点はまったく賛成です。

現状はせいぜい夏休みや冬休みの宿題として読書感想文がある程度であり、著者は読書力を培うためには「文庫百冊・新書五十冊を読んだ」を4~5年以内で達成することをラインとして挙げていることからも分かる通り、まったく不十分な状態です。

一方でいきなり読書を習慣化するのも経験の少ない人にとっては敷居が高く、著者はスポーツの上達方法に例えて具体例をステップごとに分けて解説してくれています。

さらに読書の内容をより自身へ定着させるための方法として、本へのラインの引き方、読書会の進め方などを紹介しており、すでに読書が習慣化している人にとっても有意義なアドバイスになるはずです。

最後に名著百選ではないと断わった上で、著者の経験を踏まえながらおすすめの文庫本100タイトルを簡単な解説とともに掲載しており、読書習慣のあるなしに関わらず参考になるのではないでしょうか。

本書は岩波新書ということもあり、読書習慣のない人がいきなり手に取る確率は低いように思えます。

少なくとも大学生、または教育に携わる人たち、あるいは私のように読書を定期的に続けている人向けに執筆されており、そうした人を通じて読書習慣を周りの若者たちへ広げてほしいという願望が込められているのではないでしょうか。

即物的な効果を期待して本を読むのは好きではありませんが、読書が人生を豊かにしてくれるのもまた事実です。

このブログは自分の読んだ本の備忘録としての意味合いが強いですが、それに加えてわずかながらも世の中へ読書の啓蒙ができればそれに越したことはありません。

縄文時代: その枠組・文化・社会をどう捉えるか?


本書は、国立歴史民俗博物館が編集した第99回歴博フォーラム(2015年開催)「縄文時代: その枠組・文化・社会をどう捉えるか?」の記録集です。

つまり縄文時代を解説した書籍ではなく、パネリストたちが最新の研究成果について講演を行った内容が収録されています。

私の持つ縄文時代とは、竪穴式住居に住み縄文土器土偶を制作し、狩猟漁猟採集によって食料を自給していた素朴ながらも平等な社会というかなり単純なイメージを持っていました。

一口に縄文時代といっても1万年以上も続いた時代であり、本書の中でも指摘されている通り、そうしたイメージは21世紀の平成時代と8世紀の平安時代を同じに見てしまう危険性があります。

そして実際の縄文時代は、その日暮らしをしていた貧しい人々ではなく、優れた技術と文化を持ち、少なくとも複雑な社会的を構成する過程にあった多様な時代であったことが判明しています。

第99回歴博フォーラムで登壇した10人の講演内容は以下の通りです(カッコ内は登壇者)。

  • 縄文時代はどのように語られてきたのか(山田 康弘)
  • 縄文文化における北の範囲(福田 正宏)
  • 縄文文化における南の範囲(伊藤慎二)
  • 東日本の縄文文化(菅野 智則)
  • 中部日本の縄文文化(長田 友也)
  • 西日本の縄文社会の特色とその背景(瀬口 眞司)
  • 環状集落にみる社会複雑化(谷口 康浩)
  • 縄文社会の複雑化と民族誌(高橋 龍三郎)
  • 縄文社会をどう考えるべきか(阿部 芳郎)
  • 総括-弥生文化から縄文文化を考える(設楽 博己)

一括りに縄文式と言われますが、実際にはお互いの地域が影響しあって多様な土器が生まれたこと、東日本と西日本では地域間の交流がありながらもその生活様式が異なること、また中央に墓(または儀式の場)を配置した大規模な環状集落が営まれていたことなどが紹介されています。

本書には発表で実際に使用された写真や図なども掲載されており、一般読者にも充分に伝わる内容になっています。

また各自の講演テーマも相互に関係し合っているため、一貫性を持って読むことができます。

つまり第一線で活躍する研究者による最先端の研究成果を誰でも読める形にした本書は、贅沢な1冊なのです。

出雲国誕生


7世紀はじめに推古天皇のもと聖徳太子らが中心となり、中国の文化や制度が積極的に取り入れられました。

これは国を治めるためにで実施されている律令制を日本に導入しようとする試みでした。

政争によりその試みは道半ばで挫折しますが、それは一時的なものに過ぎず、聖徳太子の死後も律令制国家への体制構築は着々と進みんでゆきました。

そして701年、天武天皇を中心として大宝律令が発布されます。

これは日本ではじめて全国区の法と制度が確立したことを意味し、中央には平城京が建設され、地方へ国司が派遣されました。

ちなみに今なお続く元号制度も大宝律令により定められたものです。

一方で歴史学、考古学上においては、制度が施行された詳しい実態は解明途中という段階です。

713年、元明天皇によって60余りの諸国に、地名の由来や特産物、古老が語る伝承などを報告する風土記を中央政府へ提出するよう命じますが、今ではその殆どが失われ、出雲国、常陸国、播磨国、豊後国、肥前国が残るに過ぎません。

中でも写本ではあるものの、ほぼ完全な形で伝わるのは「出雲国風土記」だけであり、この記録の研究と現地で行われた発掘調査を元に、古代の地方都市成立の実態を解明しようと試みたのが本書です。

地方の中心都市には政治の中心となる国府が置かれ、その周辺には国分寺・国分尼寺軍団工房などが設置され、真っすぐで幅の広い街道が整備されました。

こうした施設の発掘調査は出雲(島根県松江市)だけでなく、風土記が失われた日本各地でも同様に行われており、本書ではこうした研究成果も併せて紹介しています。

著者の大橋泰夫氏は島根大学の教授として現地の発掘調査にも関わっており、本書ではこれら施設の構造から配置関係、また利用の実態などを丁寧に解説しています。

それだけに専門的な内容が多いと思われますが、これを読者が丁寧に読み込んでゆくことで教科書だけでは分からない古代国家の姿がリアルに浮かび上がってくるのです。

人生、負け勝ち


2003年から2008年までの6年間、女子バレー日本代表を率いた柳本晶一氏の自叙伝です。

テレビでもお馴染みとなった顔で、覚えている人も多いのではないしょうか。

現役時代に実績を残した選手が監督になることが多いですが、柳本氏自身も男子バレー日本代表の経験があり、事業団バレーでも何度も優秀経験があります。

引退後も順風満帆に見えた柳本氏でしたが、10年間にわたり監督を勤めた日新製鋼の男子バレー部はあえなく廃部、その後、東洋紡の女子バレーを監督して立て直すもまたしても活動休止。

1人で全国行脚を行って選手の引取先を探し終えた頃には「燃え尽き症候群」に陥っていたと告白しています。

そんな失意の日々を過ごす中、低迷する女子バレー日本代表を立て直すべく柳本氏に白羽の矢が立つのです。

当然ながら監督はコートでプレーすることはできません。
ただしコートで戦う選手たちは監督が選び、その戦術に従って戦います。

つまり監督とは企業の経営者(管理職)に通じるものがあるのです。

とくに男性でありながら女性だけの集団を指導する難しさ、そして何よりもスポーツという勝負の厳しい世界で実績を残し続けなければなりません。

期待の若手選手を抜擢してチームを活性化させてゆく一方、実績のあるベテラン選手を起用することで得られる安定感も必要です。

さらにメンバーの個性を理解し、チームを引っ張るキャプテンの人選も誤ってはなりません。

柳本氏の自叙伝を読んでいると目標や戦術を定める一方で、チームを1つにまとめ上げるマネジメントにもっとも気を使っていたことが分かります。

選手間に生まれる嫉妬、自信を失った選手、中には強烈な個性でチーム内で浮いてしまう選手もいます。

柳本氏は感情を一切入れず、実力だけで選手を評価し、必要な選手には土下座をしてでも来てもらうと言い切っています。

またメンバーを固定せず選手間の競争意識を煽り、ギリギリまでレギュラーチームを作らないのも柳本流です。

もちろん企業組織とトップアスリートの集団ではマネジメント方法が違ってくると思いますが、のちに「再建屋」と呼ばれることになる柳本氏の手法は、低迷する組織を立て直すためのヒントが詰まっていると言えます。

スポーツジャーナリストの松瀬学氏は柳本監督を次のように評しています。

名将とそうでない者とは「負けて学べるか」が隔てる。柳本監督は、負けの中から勝利の芽を見つけてきた。
「負けて勝つ」、愉快な口癖である。

柳本氏自信が経験してきた何度もの挫折が血肉となって生かされているのです。

管見妄語 始末に困る人


本書は藤原正彦氏が週刊新潮に連載したエッセー「管見妄語」を文庫本化したものです。

"管見"とは視野の狭いこと、"妄語"とは嘘つきという意味ですが、数学者、教授として豊富な海外留学の経験もある著者の謙遜であることは言うまでもありません。

個人的には読んでいない藤原正彦氏のエッセーを見かけると、何も考えずに手に入れるほどファンなのです。

エッセーとは自身の経験や心情を吐露しなければ成り立たない分野ですが、本書も例外ではありません。

一世代以上は年齢が離れているにも関わらず、藤原氏の言葉は私に新しい視点を与え、納得のできる主張をしっかり伝え、また楽しませてくれます。

ともかく私にとって藤原氏に比肩できるエッセイストは中々いません。

週刊誌へ掲載されていたこともあり、エッセーの話題は新鮮な時事を扱ったものが多くあります。

何より収録されているエッセーは東日本大震災を挟んで連載されていたこともあり、未曾有の災害が発生した当時の著者の考えをよく知ることができます。

ニュースから流れる被災地の状況を気の毒に思い、著者自身何をやっても気の晴れない日々が続いたこと告白しています。

一連の著作の中で"惻隠の情"、つまり弱者や敗者を憐れむ心を日本人の美徳と主張してきた著者ですが、多くのイベントや番組などが自粛モードに入る中、あえて涙を振り払い庶民は全力で消費活動を活発にしようと呼びかけています。

「浮かれている場合か」、「不謹慎だ」という言葉がある中、本書はイギリス留学中に学んだユーモアの大切さを読者たちに伝えてくれます。

イギリスではユーモアは何よりも大切にされ、それは世の中の不条理を吹き飛ばす批判精神であり、前を向いて楽しく生きてゆくための欠かせない要素と考えられています。

著者のユーモアに読者は勇気づけられ、明日を元気に生きてゆくための心のビタミンを得ることができるのです。

京都ぎらい


日本の伝統的な文化が息づく千年の都・京都

連日観光客で賑わう京都ですが、そんな伝統ゆえの"敷居の高さ"が存在することは関東に住む私からもなんとなく分かります。

本書は京都で生まれ育った井上章一氏が、"いやらしさ"を通じて京都の文化論を語るという変わった切り口をとっています。

著者は嵐山で有名な京都右京区の嵯峨で生まれ育ちましたが、洛中に住む人から見ると、洛外の田舎者という軽蔑の目で見られるという経験をしています。

つまり同じ京都市に住んでいても、歴然とした一種の"中華思想"、"エリート意識"が存在するのです。

本書の中では明確な線引きがされている訳ではありませんが、確実に洛中といわれる範囲は上京区、中京区、下京区くらいであり、右京区、左京区、山科区、伏見区あたりは確実に洛外というレッテルが貼られるそうです。

似たようなものに東京23区内にも高級住宅地に住む金持ちとしてのステータス、下町に住む江戸っ子としてのステータスらしきものは存在しますが、もともと東京には地方出身者が多いこともあり、千年もの伝統に裏打ちされた京都ほど重苦しい雰囲気はありません。

著者は洛中人をつけあがらせる要因の1つに、東京を中心としたテレビや雑誌のメディアが事あるごとに洛中の神社仏閣や老舗料亭などを持ち上げる特集がいけないと指摘しています。

たしかに東京に住む人が京都へのあこがれを抱く感覚は理解できますが、面白いことに京都の隣に位置する大阪には、そうした京都を持ち上げる傾向が見られないことです。

さらに本書では、京都の持つ坊さんや舞妓さんの文化、有力寺院の持つ大きな実力、そして伝統行事を通した著者の歴史観まで幅広く取り扱ってゆきます。

繰り返しになりますが、京都の魅力を紹介する本は数多く存在しますが、本書は京都のいやらしさを紹介しています。

ただしいずれの本も論じているのは、いずれも京都の伝統や歴史、文化であり、視点を変えるユニークさが本書をベストセラーに押し上げたのです。

等伯 下


狩野派は室町時代の足利家に仕えてきた経歴を持ち、戦国時代に入ったのちも織田・豊富・徳川に仕え、明治時代へ至るという日本史上最大の画派です。

すでに狩野永徳の代には画壇で絶対的な発言力を持ち、彼は生まれながらにして狩野派の伝統や技法を一身に受け継ぐ運命にあった御曹司として育てられました。

一方で地方(能登)で名声を得ているに過ぎない絵仏師の長谷川等伯は、武士の四男として生まれ養子となったのちに絵を学び始めました。

この対照的な2人が、権力の中心地である京を舞台に天下一の絵師をめぐって対決するというストーリーが本作品の主軸を構成します。

これを圧倒的に逆境の立場にいる等伯側に立って描くという構図は歴史小説として大変分かりやすいのですが、同時にそれだけでは薄っぺらい凡作になってしまう危険性があります。

にも関わらず読者を熱中させる重厚な歴史小説として完成されているのは、よく練られた著者(安部龍太郎氏)のサイドストーリーによるところが大きいのです。

これは詳細な経歴が明らかではない等伯がどのような遍歴を辿り、どのように成長したのかという歴史の空白を埋める作家としての想像力と表現力が優れているからに他なりません。

幾度となく等伯の目の前に現れ、武士として主家の復興に協力するよう促す長兄・武之丞

等伯を懸命に支える妻の静子、そして静子と死に別れたのちに再婚相手となる清子、父を凌ぐ才能を持った息子・久蔵たちとの家族の物語。

利休宗園といった精神面で等伯を支えた人物たち。

こうした数々のストーリーが張り巡らされ、作品を読み応えのある重厚な歴史小説に仕立ててゆきます。

それは狩野派へ対抗するために豪華絢爛な絵を描き続けてきた等伯が、のちに彼の代表作となる「松林図屏風」という素朴な水墨画を完成させるところでクライマックスを迎えます。

絵師として野望を抱き、四苦八苦の末にやがて境地へ辿り着くまでの物語は、読者の共感と感動を呼ぶに違いありません。

等伯 上


バサラ将軍」に続き安部龍太郎氏の作品となりますが、本書もやはりタイトルに惹かれて手に取った1冊です。

内容はタイトルから推測できる通り、狩野永徳と並び安土桃山時代を代表する絵師であった長谷川等伯を主人公にした長編歴史小説です。

武将や剣豪でなくとも千利休に代表される茶人、または商人や学者を主人公にした歴史小説は数多く出版されていますが、絵師を主人公にした歴史小説は読んだことがありません。

等伯(信春)は能登国の七尾城に拠点を持っていた畠山氏に仕える奥村家の四男(末っ子)として生まれましたが、長谷川家の養子となり、そこで絵仏師としての修行に打ち込むことになります。

かつて越中守護として力を奮った畠山氏も戦国時代の下克上には逆らえず、重臣であった七人衆に権力を握られ七尾を追い出される形で没落してゆきました。

とくに七尾は一向一揆の勢力が強かったこともあり政治的に安定せず、その後も上杉謙信織田信長柴田勝家前田利家と次々と支配者が変わってゆくことになります。

本来であれば養子となった等伯が主家(畠山家)へ尽くす義理はありませんが、武家の出自という宿命から逃れることはできず自身や家族にまで危険が及ぶようになります。

それと同時に早くも20代で越中や能登近辺で名の知れた絵師となった等伯ですが、その心中には文化の中心である都に上り、天下一の絵師になるという野心を抱いていたのです。

時は戦国。
京都を中心とした地域は、戦国の風雲児と名を馳せつつある織田信長が七面六臂の活躍をしていましたが、同時に戦争も絶えない状況でした。

それでも自らの野望を叶えるため戦乱の真っ只中に足を踏み入れる等伯でしたが、彼が天下一の絵師となるためには対決を避けれない人物がいました。

それは当時すでに一大流派を築き上げ、多くの弟子たちの頂点に君臨する狩野派の棟梁、つまり狩野永徳であり、弟子すら持たず裸一貫で京へ辿り着いた等伯にとってあまりにも巨大な敵でした。

絵師としての一世一代の戦いが幕を切って落とされます。

バサラ将軍


安部龍太郎氏の作品に興味があったこと、私の好きな太平記を題材にしている小説ということもあり迷わず手にとった1冊です。

単行本には6篇の短編小説が収められています。
カッコ内には個人的な備忘録として各作品の主人公となる登場人物を付け足してみました。

  • 兄の横顔(足利直義)
  • 師直の恋(高師直)
  • 狼藉なり(高師直)
  • 智謀の淵(竹沢右京亮)
  • バサラ将軍(足利義満)
  • アーリアが来た(源太)

本書の作品はいずれも安倍氏にとって初期の短編作品であり、作家としての原点を見い出すことのできる作品になっています。

太平記(南北朝時代)は争乱と権謀術数に満ちた世界でしたが、同時に"バサラ"という言葉に代表されるように個性的な武将が多く登場した時代でもありました。

彼らの強烈な個性を短編小説という限られた紙面へ思い切る書きつけるような勢いを感じる作品ばかりです。

中でも「智謀の淵」は、人形浄瑠璃や歌舞伎の演目となった「神霊矢口渡」を題材に独自のストーリーで仕立てた異色の作品で印象に残ります。

一度は義貞によって隆盛を極めた新田家を再興すべく、南朝方として果敢に抵抗を続ける新田義興、そして義興を滅ぼすために手段を選ばない北朝方の有力者・畠山国清

出世を目論む竹沢右京亮は、国清の指示によって旧主である義興に近づき、多摩川の矢口の渡で義興をだまし討ちによって殺害します。

一族郎党のためとはいえ、かつての主をだまし討ちした後味の悪さは拭い去り難く、さらに右京亮の手柄のおこぼれに預かろうと江戸高良、冬長、そして小俣次郎が言葉巧みに近づいてきます。

しかも一世一代の任務を果たしたにも関わらず、肝心の国清から右京亮へ対しての恩賞は約束通りではなく、すべてが思い通りに運ばない中で右京亮は家臣である源兵衛の忠告にも関わらず、やがて自暴自棄になり破滅の道へと進み始めるのです。

これは右京亮に限った話ではなく、足利一族として絶大な権力を持っていた足利直義や高師直でさえも例外ではなく、浮き沈みの烈しい戦乱を行きてゆく男たちの刹那的があるゆえの激しい生き様が作品の中に生々と息づいていつのです。

考古学の散歩道


今日も日本各地で遺跡の発掘や調査が行わています。

その作業は大変地道なものであり、大発見でもなければニュースでその成果が報じられる機会はなかなかありません。

一般人が普段接する機会の少ない考古学の現場や発見を肩の凝らない文章で広く世の中へ紹介するために出版されたのが本書であり、当時一線で活躍していた考古学者の田中琢氏、佐原真一氏の両名がエッセーという形で執筆しています。

よって本書で取り扱うテーマは、考古学に関心が無い人でも興味を引きやすい内容になっています。

たとえば現代の日本の人口は約1億2500万人ですが、前期旧石器時代(今から50万年前)にはじめて日本列島で人が生活しはじめた頃の人口は1万5000人程度に過ぎず、縄文時代に入ると15~25万人に増え、前4世紀頃より大陸(朝鮮半島)から移住してくる人びとが爆発的に増え、「古事記」や「日本書紀」が成立する8世紀の奈良時代の人口は、600~700万人と推算されるそうです。

私自身は8世紀の人口は予想よりも多いという印象を持ちましたが、こうした計算は遺跡の分布状況や面積から人口密度を算定して行われるそうです。

また縄文人はおしゃれで、イアリングや指輪、ネックレス、ブレスレットといった装身具を身に付け、西日本では女性が、東日本では男性の方が装身具を身に付けていた割合が高かったそうです。

この時代の装身具は地球上のほとんどの地域でほぼ同一歩調をとっていますが、日本では7世紀後半になると状況が一変し、世界的に見ても異常な装身具欠如の時代が始まり、それが1000年以上も継続するのです。

つまり私たちにもお馴染みのキモノで自分を飾る時代が長く続き、装身具は頭上の笄(こうがい)や櫛などに限られるのです。

多くのピアスや指輪を装着した若者を見て顔をしかめる人は多いかも知れませんが、考古学の視点から見るとキモノの文化はたかが千数百年に過ぎず、耳たぶに大きな穴を開け耳飾りをした縄文人の文化が1万年以上も続いたことを考えると、案外、日本人の抱く伝統の感覚はいい加減なものかも知れません。

何しろ私の何百代も前の祖父がアクセサリーを全身にまとい、顔に入れ墨までしている姿を想像すると思わず微笑まずにはいられません。

ここで紹介したのは本書のほんの触りですが、他にも食文化や太古の自然、考古学や文化財保護の歴史など話題は多岐に渡っています。

読み物として楽しめることはもちろんのこと、考古学の新たな可能性をも感じさせる1冊になっています。

神武天皇―日本の建国


現在(平成)の今上天皇は第125代を数えますが、その源流を遡ると初代天皇とされる神武天皇へ辿り着きます。

建国記念の日(2月11日)は神武天皇が即位したとされる日であり、明治時代から戦中までは紀元節と呼ばれていました。

どの国でも神話と歴史の境目は曖昧ですが、日本においてはこの神武天皇以前を神代とし、神武天皇以降から歴史が始まるという考え方があります。

しかし神武天皇の伝承は「古事記」、「日本書紀」(記紀)以外には残っておらず、現時点では歴史上実在したことを立証されていない伝説の人物でもあります。

その伝承もかいつまんで説明すると、東征(東方遷都?)を行い、奈良盆地付近で長髄彦(ナガスネヒコ)を滅ぼし天皇に即位したというものです。

一方ではじめて日本に誕生した古代国家が天皇を中心とした大和朝廷だったという点は、ほぼ疑いのない事実であり、史学者である植村清ニ氏がその成立過程に迫ったのが本書です。

まず神武天皇の伝承を伝える記紀へ詳細な検証を加え、たとえば神武天皇自身が詠んだとされる歌については、万葉集の時代とそう隔たらない比較的後の時代に制作されたものが付け加えられたと推測しています。

結論的に史学者として記紀に記述されている物語をそのまま受け入れるのは難しいという立場です。

加えて当時の史料が比較的残っている中国の歴史書へ対しても検証も行っています。
そこでは後漢書・東夷伝(いわゆる魏志倭人伝)などの内容を検証した結果として、邪馬台国畿内説(卑弥呼の邪馬台国と大和朝廷と同一とする説)の考えは受け入れられないという著者の考えを示しています。

つまり著者は邪馬台国九州説を唱えますが、古墳や青銅器といった考古学上の成果を併せて分析し、邪馬台国等の北九州を中心にした勢力が神武天皇の東征につながる前身であった可能性なら大いに有り得るとします。

いずれにせよ現存する史料や発掘された遺跡だけでは決定打に至らず、著者は本書を執筆した理由をあとがきで次のように述べています。

本文に書いたように、神武天皇の物語は、記紀の伝承であって、問題はあくまでもその批判にある。しかしその批判の上に立って、古代国家の成立の歴史を組み立てることになると、考古学や中国の史料の研究を総合して極東の大勢から観察することが必要になってくる。

ちなみに本書の初版が発表されたのは今から60年前であり、現時点でも神武天皇の実在は証明されていませんが、今後の研究や発掘によって新しい発見が生まれる可能性は残されています。

本書の内容はやや専門的で難解ですが、謎に満ちた古代ロマンはいつの時代も人びとの心を掴んで離さないものです。
是非ともチャレンジしてみてはどうでしょうか?

新訂 海舟座談


津本陽氏の長編小説をはじめ、本ブログでもたびたび取り上げてきた勝海舟

明治維新における彼の功績は改めて説明するまでもありません。

明治政府成立後も要職に就かなかったわけではありませんが、いずれも短期間で辞めてしまい、半ば隠居生活に入っていました。

ただ明治時代がはじまった時点で勝は40代半ばを過ぎており、当時の一般的な基準から見ても決して早すぎる隠居生活ではありませんでした。

本書は晩年の勝海舟に惚れ込み、教育者、実業家であった巌本善治(いわもとよしはる)が、週に一回、または二回の頻度で晩年の勝の元へ訪れ、昼間聞いた座談を、自宅に帰ってノートにそっくり書き留めるという作業を続けた記録が出版されたものです。

その原型は勝没後の明治32年に出版された「海舟余波」ですが、そこへ生前の勝と交流のあった人たちの回顧録を収録したものを付録として加えたものが、昭和5年に岩波書店から出版された本書「海舟座談」です。

タイトルから分かる通り、海舟の元へ足しげく通った巌本は、インタビューでもテーマを決めた対談ではなく、座談という何気ない会話を記録したものだけに、話題は幅広く多岐に渡っています。

座談は日付ごとに掲載されているため、小説のように一気に読んでしまうよりも5分、10分とちょっとした時間に少しずつ読み進んでゆく方法をお勧めします。
(私は他の本と併読しながら、この方法で本書を読み終えるまで2ヶ月くらいかかりました。)

当時の国際情勢、財政、また維新の頃の回顧録から人物評に至るまで、座談の内容は都度変わってきますが、勝家の資産運用の話、明治以降の徳川家や旧幕臣たちへの資金援助の話題が出てくることもあります。

ほかにも、のちに勝海舟の歴史小説に取り入れられたような逸話が座談の中から出てきたりする部分も本書を読む楽しみになります。

最後の座談は勝が亡くなる5日前に行われましたが、高齢ではあるものの勝自身はそれほど深刻な状況と受け止めていなかった様子までもが伝わってきます。

巌本「まだいけませんか?」
勝 「どうも痛くってネ、通じがとまったら、またいけなくなりましたよ。」
勝 「どうです。世間は騒々しいかネ。静かですか。戸川(残花、旧幕臣)はどうしてます?」

歴史上の偉人である勝海舟の晩年の声が生き生きと収録されている本書は、史料としても価値を持っている1冊なのです。

冬を待つ城


安部龍太郎氏による九戸政実(くのへまさざね)を主人公とした長編歴史小説です。

歴史人気のおかげで陸奥の戦国大名である南部氏、そしてその一族で随一の猛将である九戸政実の名前もだいぶ知られるようになりました。

本ブログでも紹介した高橋克彦氏の歴史長編小説「天を衝く」でも九戸政実は主人公でしたが、なぜ広い陸奥の片隅に生まれた武将に人気が出たのでしょうか?

その理由を簡単に説明すれば、北条氏を滅ぼし天下人となった秀吉に最後まで反抗し続けた気骨のある武将だからです。

五千の兵で立て篭もった政実の居城・九戸城(現在の岩手県二戸市)には、秀吉軍六万五千が迫ります。

その顔ぶれも蒲生氏郷井浅野長政井伊直政堀尾吉晴といった一流武将たちであり、そこへ秀吉側についた陸奥の大名たち(つまり政実以外の陸奥の大名全員)も加勢しました。

後詰には伊達、上杉、前田、石田といた大名たちが控えており、誰から見ても勝ち目のある戦いではありませんでした。

それでもなぜ九戸政実は立ち上がったのか?

一般的に南部家の後継者争いで本家筋と対立したことが要因とされていますが、今となっては本家筋の南部氏どころか天下を相手に反旗を翻すことを決意した政実の胸中は誰にも分かりません。

しかしその分からない部分を想像力で補うのが歴史小説の醍醐味であるといえます。

本書は九戸政実自身の視点ではなく、彼の実弟であり僧侶から還俗した久慈政則から兄を観察するという手法で書かれています。

政則は京都で禅僧としての修行を積んでいただけに、天下の帰趨が秀吉に帰することもよく知っていました。

そのため全力で兄の反乱を思いとどまるように奔走しますが、その言動に接し続けるに従い彼の考えも少しずつ変化してゆくのです。

小説の構成としてもよく練られており、エンターテイメントのように歴史を楽しめる1冊になっています。

これを機会に今までほとんど読んでこなかった安部龍太郎氏の作品を他にも読んでみようと思わせる作品です。

けもの道の歩き方


著者の千松信也氏は、京都で運送業をしながら猟を行うパートタイマー猟師の暮らしを営んでいます。

猟師といえば銃を担ぎ猟犬を引き連れているイメージがありますが、千松氏は銃を用いないわな猟、その中でも伝統的な"くくりわな猟"を専門にしているそうである。

ただし本書は猟の手法を解説した専門書ではなく、著者の猟師としての日常の紹介、野生動物の解説、そして自然へ対する接し方や考え方などを幅広く取り扱っており、限りなくエッセーに近い内容になっています。

最近では人里に出没するクマやイノシシ、シカ、サルなどが環境問題として取り上げられますが、この対策を単純に増えすぎた野生動物を駆除することで解決しようとするのは間違っていると指摘しています。

山林のすぐそばにまで開発された住宅地も要因になるでしょうが、最近では山間で耕作放棄された畑、管理されないまま放置された山林が動物にとって都合のよい活動エリアになってしまっているのが最大の要因であると著者は考えているようです。

昔の人は集落を囲むような大規模なシシ垣を築いて野生動物から田畑を守ってきた歴史があり、そもそも昔からこうした生き物は日本人にとって身近な存在であり、本来の生息数へ回復傾向にあるに過ぎないという見方もできるようです。

ただしシカなどの天敵であり、かつて日本の山林において食物連鎖の頂点に君臨していたオオカミが明治時代に全滅したため、古来から続く日本本来の生態系が壊れてしまっていることも事実なのです。

さらに近年では猟師の高齢化とともに人数が減少し続けていることも見逃せません。

かといって今やジビエ(野生鳥獣の食肉)を提供する店は当たり前のように見かけ一種のブームになっていますが、ゆき過ぎた商業目的での猟が横行すればあっという間に野生動物が減ってしまう危険性もはらんでいます。

そもそも野生動物を安定的に捕獲して供給すること自体に無理があり、伝統的を無視した無茶な猟が横行すればその結果は容易に想像できます。

もちろん自然に対する考え方は、猟師、学者(研究者)、自然保護活動家、林業従事者、野生動物の駆除を担当する自治体職員など立場によって異なるのが当然であり、それは日頃自然に接する機会の少ない都市部の住人、または豊かな自然の残る地域で暮らす住人の間ですらも同じことが言えます。

日常的に自然や野生動物と接している猟師(著者)の考察は奥深く、一方で厳格になり過ぎず、肩の力を抜いて自然と向き合う姿勢には共感を覚える読者も多いのではないでしょうか。

戦国大名の兵粮事情


私と同様「戦国大名の兵粮事情」というタイトルに惹かれて本書を手に取った読者はかなりの歴史小説好き、もしくはマニアであると想像できます。

こうしたマニアックなテーマで本を世に送り出し続ける出版社(吉川弘文館)、そして著者(久保健一郎氏)には敬意を表したいと思います。

戦国時代を語る上で武将そのものにスポットライトが当たるのは当然として、戦争に勝利するための戦術や戦争の舞台として欠かせないをテーマにした本は数多く存在しますが、"兵粮"をメインテーマに取り上げている本書は希少な存在です。

本書の目次からおおよその内容が推測できます。

  • 平安末~鎌倉時代の兵粮
  • 南北朝~室町時代の兵粮
  • 調達の方法
  • 戦場への搬送
  • 備蓄と流出
  • 困窮と活況
  • さまざまな紛争・訴訟
  • 徳政をめぐって
  • 戦争状況の拡大
  • 両国危機のなかで
  • 兵粮のゆくえ-エピローグ-

まず兵粮といえば軍隊の食料という印象を受けますが、実際の意味や用途は多岐に渡ります。

広義には戦国大名が年貢として徴収した米を兵粮と呼びますが、この場合の兵粮は家臣たちへの給料、そして通貨や物資との交換のためにも用いられました。

戦時には大名の強力な権限の元に兵粮を要所へ集約し、他国へ持ち出すことを固く禁じたことが当時の文書からも分かっています。

また時には兵粮を商人に預けて利殖活動(金融業)をすることもありました。

つまり兵粮とは戦国大名にとってすべての富の源泉でもあり、この兵粮をいかに運用するかが戦争以前の死活問題と直結していたのです。

やがて江戸幕府による平和な時代が訪れることによって兵粮の意味が変質してゆくことになりますが、戦が絶えなかった戦国時代の兵粮を考察してゆくことで当時の社会全体が見えてくるのです。

活動寫眞の女



舞台は昭和四十四年の京都。

学園闘争の最中、東京から京都大学へ通うため下宿へ引っ越してきた三谷薫

京都の閉鎖的で高踏な雰囲気に馴染めずにいた三谷は、映画館で同じ京大生の清家忠昭と出会う。

やがてこの2人と三谷と同じ下宿先の京大生である結城早苗を加えた3人は、太秦の撮影所でエキストラのアルバイトに参加するが、そこで不思議な美しい大部屋女優に出会う。

のちに彼女は戦前に悲劇的な運命を辿った女優・伏見夕霞であることが判明するのですが、同時に彼女はこの時代に生存しているはずのない、つまり幽霊であることに気付くのです。。。

ノスタルジックな"活動寫眞"というタイトル、そして学生が主人公ということもあり、浅田次郎氏にしてはめずらしく序盤はまるで純文学作品のような雰囲気で始まります。

そして女優の幽霊が登場するあたりから浅田氏らしい作品へと展開してゆくのですが、そもそも"幽霊"は彼の多くの作品に多く取り入れている欠かせない要素です。

ただしいずれも作品に登場する"幽霊"は、ホラー小説(怪奇小説)のように読者の恐怖を煽るだけの単純かつ典型的な使い方は決してせず、時間や生死すらも飛び越えることの出来る便利なツールとして利用するのです。

ストーリーそのものを楽しむがこの作品の醍醐味のため、ネタばれは避けますが、ミステリアスな雰囲気を漂わせながらも本格的な青春恋愛小説に仕上がっています。

本書の舞台となる昭和40年代半ばにはテレビが全盛期に向かって上り調子である一方、日本映画は下り坂を迎え、多くの映画会社や撮影所、そして映画館が街から消えてゆく時代でもあったのです。

私自身が子どもの頃に住んでいた街には常設の映画館もなく、古き良き映画を知らないテレビ世代として育ちましたが、私のように映画好きの読者でなくとも希代のストーリーテラーである浅田氏の作品だけに充分に楽しむことができます。

最近は複数スクリーンがあるシネコン型の映画館が増えたこともあり入場者数も増えつつあるようですが、昭和時代の映画館の雰囲気はほとんど失われてしまったように思えます。

作品の舞台となった時代を知らないにも関わらず不思議と懐かしい感覚を覚え、ストーリーの中に惹き込まれてゆくのは、それだけ優れた作品の証でもあるのです。

日本的霊性


「近代日本最大の仏教学者」と評された鈴木大拙氏の代表的な著作です。

"霊性"は聞き慣れない言葉ですが、それはこの本が発表された1944年当時も同じであり、著者は本書のはじめに"精神"という言葉と対比することで、"霊性"の意味を解説しています。

それによると霊性とは宗教意識であり、精神が倫理的なのに対し、霊性はそれを超越した無分別智であり精神の奥に滞在しているはたらきだとします。

そもそも精神を超越する霊性を言葉で表現すること自体が困難なのかも知れませんが、簡単に言えば日本人特有の普遍的な宗教意識ということになります。

この霊性は民族がある程度の文化階段に進まないと覚醒されない、つまり原始民族に霊性は見られないのです。

以上を踏まえた上で、日本において霊性が覚醒したのは鎌倉時代以降であり、その最も純粋な姿が"浄土系思想"と""であるとします。

仏教は6世紀・欽明天皇の時代に渡来していますが、その時代の仏教は宗教的儀式、建築技術、芸術といった文化的な要素が主流であり、その信仰も朝廷を中心とした知識人や貴族たちの間に留まり、宗教的生命である霊性が欠如していると断言しています。

また平安時代の「万葉集」に代表される和歌からも、そこに日本的情緒の発芽はあっても原始的感情を脱していません。

霊性のはらたきには、現世の事相に対しての深い反省、そして反省が進み因果の世界から離脱して永遠常住のものを掴みたいという願い、そしてその願いを叶えてくれる救済者(本書では大悲者とう仏語で表現)が必要となるのです。

言われてみれば、仏教と並ぶキリスト教、イスラム教にも救済者が存在しています。

こうした意味で仏教と並び日本を代表する「神道」にはこの要素が弱いと著者は指摘しています。

ただし著者には宗教の優劣を論じるつもりはなく、あくまでも日本においては浄土系思想、そして禅がその霊性を覚醒させたその要素を解説していきます。

すでに仏教が生まれたインド、そして渡来元となった中国では別の宗教が主流となり、その民族の霊性を覚醒するには至りませんでしたが、なぜ日本においては仏教が民族の霊性を覚醒させたのか?

著者はそれを"たまたま"、つまり"偶然"であったとします。

長い平安時代を経て鎌倉時代に日本的霊性が生まれえる下地が整ったところに仏教が媒介として存在したのです。

偉大な学者であり宗教家、哲学者でもあった鈴木氏が生涯の研究テーマとした扱った"霊性"だけに論じられるテーマは広範囲で壮大となり、本書だけではその一端を垣間見るに過ぎないのかも知れません。

実際に日本的霊性を覚醒させた要素の1つである浄土系思想、その中でも特に法然と親鸞を中心に取り上げていますが、紙面の都合で禅についてはほとんど言及していません。

鈴木氏にはその他にも多数の著書があるため、機会があれば他の著作も読んでみるつもりです。

くちぶえ番長


小学四年生ツヨシの通う学校に突如転向してきたマコト。

マコトは転校初日にいきなり「川村真琴です。わたしの夢は、この学校の番長になることです」とあいさつします。

そう、マコトは女の子だったのです。

ほとんど人は転校生を迎えた経験が1回くらいはあると思いますが、本書は著者の重松清氏が主人公と同じ年齢のときに経験した転校生、それも1年足らずで再び転校してしまい現在に至るまで二度と再会することのなかったクラスメートとの思い出を元に書き上げた物語だと告白しています。

はじめのぎこちない関係から、少しづつ距離が近づきやがて2人が親友になってゆくまでの過程が日々の出来事とともに友情物語として綴られています。

本書に登場するエピソードは、男女問わず多かれ少なかれ誰にでも小学生時代を思い出させてくれます。

こうした小さな物語の積み重ねで大きなテーマを書き上げる重松氏の腕前は一流であり、ストーリーそのものはシンプルでありながらも約200ページの作品ということもあり、1時間半もあれば夢中になって読み終えてしまうでしょう。

束の間かもしれませんが、この作品は読者を少年少女時代に戻してくれるのです。

この地名が危ない


著者は30年以上にわたり地名を研究し続けててきた楠原佑介氏です。

まず本書に書かれている要点は以下に尽きます。

私は三十年余り前から、「歴史的伝統的地名」の保存を訴え続けてきた。本書で繰り返し指摘していることは、古い地名を分析することによって、それぞれの土地に関して、それぞれの時代の人々が後世の我々に何を伝えようとしていたのか、把握できるということである。

私自身も地区町村の合併などによって、安易に地名がひらがなやカタカナ表記に変わってゆくことに抵抗を覚えている1人です。

ただその理由は何となく伝統や歴史が失われているしまうといった漠然としたものですが、著者の指摘する理由は次のように具体的なものです。

這うようにして大地を拓き耕してきた日本列島に住む庶民=農民にとって、災害は我が身に迫る直截的な危険であるとともに、その知恵と経験と情報は子孫に必ず伝え残さなければならないメッセージでもあった。
~ 中略 ~
地名こそは、それぞれの地域に定住する人々が未来に託した土地情報であり、子々孫々にまで語り継がなければならない祈りであったように思われる。

ほとんどの土地名は漢字で表記されるため、その字義に囚われがちですが、著者が読み解く地名は私にとって新鮮なものでした。

たとえば福島第二原発が建設された楢葉町波倉の""の由来は、昔の言葉で動詞「クル」(今の言葉で「えぐる」)が名詞化したものであり、「波がえぐった土地」という津波の痕跡を示す地名となることから、建設時にその点を指摘する人がいなかったことを批判しています。

鎌倉倉敷なども同じ由来で名付けられた地名であって、倉庫や蔵屋敷には全く関係ない危険な土地であること警告しています。

また中越地震で崖崩れの起きた長岡市妙見町については、""は動詞「メゲル」(壊れる、損なうの意)から来ており、崩壊地形であると解説しています。

よって日本各地にある「妙見、明見、妙顕」の地名は本質的に危険な土地であることを示しており、北極星を神格化した仏教用語から拝借した縁起の良い漢字が当てはめられているに過ぎないのです。

新書という制限もあり、ヨミや漢字ごとに体系的な解説をしていませんが、おおまかに東日本大震災新潟県中越地震阪神・淡路大震災といった過去の大災害ごとに地名を解説しています。

もちろん本書に書かれていることをそのまま鵜呑みにすることも危険ですが、これを機会に自分が住む地名の由来を調べてみるというのも悪くありません。

私本太平記(八)


いよいよ吉川英治私本太平記」も最終巻です。

"人生の黄昏"という比喩がありますが、遠からず訪れる自分の死期を察して身の回りや心の整理整頓をはじめる時期という意味があります。

一昔前では子どもが完全に独立して定年退職した後が"人生の黄昏"という印象ですが、寿命が伸び80歳を超えても元気な老人が増えた現代ではもっと遅くなっているハズです。

葉隠に「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」という有名なフレーズがありますが、"死"とつねに隣合わせの宿命を持つ武士の日常の心構えを説いたものです。

ともかく九州から再上陸して上京する足利尊氏を迎え撃つ楠木正成は、最も早く今回の戦いに勝ち目がないことを予見していた武将です。

正成は尊氏が九州へ落ち延びた直後に後醍醐天皇へ諫言を行いましたが、時勢を見抜けない公卿たちはその意見をことごく退けます。

それでも宮方を裏切り時勢に乗ることを潔しとせず、自らの死に場所を決めた正成は、故郷の河内でつかの間の平和を堪能し、一族郎党たちへ最期の別れを告げます。
この短い期間が彼にとっての"人生の黄昏"になったのです。

父とともに戦うことを希望し駆け付けた長男・正行(まさつら)を湊川の戦いの前日に諭して郷里へ返した"桜井の別れ"の場面は有名ですが、ともかく正成は自らが思い定めた場所で華々しく散ってゆきます。

尊氏が京都を占領し、吉野へ避難した南朝の後醍醐天皇と父・親房の要請で再び陸奥から決死の強行軍で駆け付けた北畠顕家も、もはや時勢の流れは如何ともしがたく、南朝へ自分の死後を案じた意見書を書き残し戦死を遂げます。それはわずか21歳という早すぎる死でもありました。

武運拙く散っていった2人の武将だけでなく、時代の勝者となった足利尊氏にも"人生の黄昏"は確実に迫っていたのです。

まだ全国では戦乱の火が収まっていませんでしたが、尊氏は諸事を弟の直義(ただよし)に任せ早くも半ば隠遁生活に入ってしまいます。

しかし直義と足利家の宰領を勤めてきた高師直(こうのもろなお)・師泰(もろやす)兄弟との抗争が始まり、高兄弟が殺害されるという結果で終わります。

のちに尊氏、直義の間も政治的な意見の衝突から関係が悪化し、最終的に直義が殺害されて兄弟抗争が決着します。

さらには庶子の直冬も、父へ対して反旗を翻して頑強な抵抗を続けます。

身内同士の抗争に明け暮れて気付けばかつての宿敵であり尊敬もしていた後醍醐天皇はすでに亡く、彼の右腕として神算鬼謀の限りを尽くした北畠親房もこの世にはいませんでした。

そして尊氏自身も戦乱が収まった平和な時代を見ることなく、病に倒れ世を去ることになります。

結局南北朝の戦乱が収まるのは、尊氏の死後30年以上も待たねばなりませんでした。

本作品でたびたび登場した足利一族に連なる琵琶法師・覚一は作品の最後でこの時代を以下のように評しています。

「これまでの歴代にも現れなかった烈しい御気性の天皇(後醍醐天皇)と、めったにこの国の人傑にも出ぬようなお人(足利尊氏)とが、同時代に出て、しかも相反する理想をどちらも押し通そうとなされたもの。宿命の大乱と申すしかありませぬ。」

平和的な結末ではなく、勝者敗者もない"人生の黄昏"が凝縮された悲哀あふれる最終巻となりましたが、それが時代の息吹を感じる歴史小説の結末として相応しいのかも知れません。

私本太平記(七)


朝敵追討将軍として鎌倉へ迫る新田貞義足利尊氏箱根・竹ノ下の戦いで散々に撃破します。

貞義側には戦争馴れしていない公卿将軍がいたこと、さらに大友将監塩冶高貞、そして婆沙羅大名こと佐々木道誉が次々と尊氏方へ裏切ったことが決定打になりました。

後醍醐天皇の宣旨があったのは貞義でしたが、武士の棟梁として人気のあったのは尊氏の方でした。

尊氏は勢いそのままに京都まで攻め上り、体勢を立て直した貞義、そして楠木正成を相手に有利に戦いを進めますが、宮方へ思いがけない援軍が現れます。

それが陸奥から騎兵七千騎を率いて上京してきた北畠顕家です。

南北朝時代を通じて軍事の天才といえば、千早城で千人余の軍勢で幕府軍数万を相手に戦い抜いた楠木正成とこの北畠顕家が挙げられます。

彼は弱冠16歳の公卿の身でありながら陸奥に下向し、またたく間に東北地方の戦乱を平定した実績があります。

この時は1日30~40キロの行軍ペースで上京し、苦戦する宮方の援軍に駆け付けるや否や足利尊氏を撃破し九州へ追いやった時には弱冠18歳でしかありませんでした。

それと比べると足利尊氏の戦は勝ったり負けたりの繰り返しでしたが、この時は決着がつく前に早くも諦めてしまったような感がありました。

わずか五百騎を従えて九州へ落ち延びた尊氏でしたが、ここでも足利尊氏の元へ少弐頼尚をはじめとして宗像氏大友氏島津氏大隅氏らが駆け参じます。

菊池武敏をはじめとした九州の宮方の大軍と少数で決戦に挑みますが、竹の下の戦いが再現されたかのように松浦党、相良党、龍造寺党が次々と尊氏側へ寝返り、多々良浜の戦いで大勝します。

尊氏にあって天才と言われた楠木正成、北畠顕家になかったもの、それは武士たちからの人望であったといえます。

この人望の正体は、武士の棟梁の証である八幡太郎義家の直系という血筋でした。

しかし尊氏同様にライバルの新田貞義も足利家と祖先が共通した源氏嫡男直系の家柄でしたが、何が決定的に違ったのでしょうか?

勝ったり負けたりという意味では武将としての才能はそれほど大差がなかったように見えます。

尊氏が九州目指して落ち延びた時に貞義はただちに追撃を行いませんでした。

これは後醍醐天皇から賜った絶世の美女・勾当内侍を溺愛していたという説、単純に体調を崩していたという説などがありますが、ともかく貞義が優柔不断であったと評することもできますが、尊氏も弟の直義(ただよし)に迫られて重い腰を上げる場面が多く、即断即決するタイプではありませんでした。

では何か決定打だったかといえば、尊氏は後醍醐天皇に反旗を翻すことを決断し、貞義は(尊氏と対抗する都合上)天皇側に味方したということに尽きると思います。

建武の新政の一環として行われた報奨は武士たちの不興を買いましたが、武士の頭領たる尊氏はそんな武士たちの不満を吸収して着実に自分の陣営へ引入れていったのです。

これは後世において織田信長が戦において武田信玄や上杉謙信に戦では勝てなくとも、政略によって台頭したのに似ています。

真の力を蓄えているのは天皇や公卿ではなく、土地に根ざして実質的に支配力を強めている武士階級であることをいち早く見抜いていたのです。

ともかく九州に落ち延びた尊氏は、わずか50日足らずで九州を平定し大軍を率いて再び京都へ迫ります。

南北朝時代のクライマックスは、戦国時代や明治維新よりも目まぐるしいのです。

私本太平記(六)


頼みとする側近たちが次々と処刑され、自身も隠岐島へ流刑されるといった数々の困難を乗り越え、念願だった鎌倉幕府打倒を実現させた後醍醐天皇

確固たる信念と旺盛な行動力で政権を手にした後醍醐天皇は、新たな時代の建設に挑みます。

これが日本史上でも有名な建武の新政ですが、その実態は平氏源氏と続いた武家政権を否定した復古主義であると同時に急激な改革でもありました。

結果として身内への贔屓をはじめとした恩賞の不公平、経済的な失策が続き、その権威と信頼は短時間で失墜してゆくことになります。

名目上はともかく実際に鎌倉幕府と戦った主な勢力は武士であり、彼らの不満は水面下で膨らみつつありました。

後醍醐天皇の抱く高い理想は時代を変えるための求心力としては役立ちましたが、いざ政権を手にしてみると現実を見るバランス感覚を欠いていました。

この理想と現実の間に存在する真空地帯をうまく利用したのが足利尊氏でした。

尊氏の""は、後醍醐天皇の本名である尊治(たかはる)から賜ったことからも分かる通り、当初2人の関係は良好なものでした。

しかし結果的に尊氏は、鎌倉の北条氏に続いて後醍醐天皇へ対しても反旗を翻すことになります。

この出来事を以って尊氏の本質を裏切り者と判断するのは簡単ですが、吉川英治氏は彼の心の苦悩の深さを克明に描き出します。

北条氏への反抗は以前から尊氏の心に秘した決意から来るものでしたが、後醍醐天皇へ矛先を向ける際には、宮方への忠誠と武士の頭領としての責務の間で苦悩することになります。

今回に限らず「私本太平記」の足利尊氏は、大きな決断を迫られるたびに迷う、ともすれば優柔不断な武将のように見えますが、そこには彼自身の持つ"優しさ"が根底に横たわっています。

後世の水戸学をはじめとした皇国史観では尊氏を狡猾で用心深い野心家と断じていますが、その源流は後醍醐天皇の右腕として活躍した北畠親房である以上、首尾一貫した批判は仕方ないといえるでしょう。

乱世を生き残るためには手段を選ばない、つねに合理的で冷静な判断を下し続ける人物として尊氏を描かず、1人の苦悩する人間として尊氏が登場するところが本作品の特徴であるといえるでしょう。

しかし尊氏がいくら苦悩しようが、現実に迫るのは後醍醐天皇から朝敵追討大将軍に任じられ鎌倉へ迫る新田義貞であり、彼はついに昨日までの同盟者と決戦することを決意します。

大きな決断のために時間を要しても、一旦決めたからには徹底的に私情を捨て去ることの出来るのも尊氏の性格であったのです。

かつての同志が不倶戴天の敵となった瞬間でしたが、もはやそこには善悪を超越した乱世における武門の常があるのみでした。

私本太平記(五)


楠木正成の千早城籠城戦、足利尊氏の六波羅探題攻め、そして新田義貞の鎌倉攻め、この3つ出来事がほぼ同時に起きたことが短時間で鎌倉幕府が滅亡した要因です。

その中でも特筆すべきは、やはり鎌倉幕府を直接攻め滅ぼしたのは新田義貞です。

足利氏、新田氏はいずれも源氏の嫡流、つまり武士の頭領ともいうべき家柄で領地も隣同士でしたが、ライバル意識のためか両家の関係は必ずしも良好ではありませんでした。

それでも強大な鎌倉幕府を打倒するために両家は手を組むことを決意し、呼応して関西、そして関東で同時に挙兵するに至ります。

もちろんその背景には、鎌倉幕府の支配力や影響力が低下しているという冷静な状況分析が根底にありました。

しかし驚くべきごとに、衰えたりとはいえ数万の軍勢を擁する鎌倉へ攻め上るために新田ノ庄(現在の群馬県太田市を中心とした周辺地域)で旗揚げをした貞義には、わずか150騎が付き従うのみでした。

赤城の山を背後に鎌倉街道をひたすら南下を続ける貞義の元には、越後の新田郎党をはじめ、関東各地の郷武者たちが次々と駆け付け軍勢が膨らんでゆき、貞義や尊氏の判断は正しかったことが証明されます。

さらに広い関東平野に割拠する武者たちが集う名目として決定的になったのは、足利尊氏の嫡子・千寿王(のちの室町幕府2代将軍・義詮)が義貞と一緒に滞陣していたことです。

もちろん鎌倉への忠誠を曲げなかった武士たちもいましたが、時代の趨勢を見ることに機敏な武士たちが大半を占めていました。

あっという間に鎌倉軍と互角の軍勢を従えた貞義は、小手指、久米川、分倍河原と激戦ながらも敵を撃破してゆき、鎌倉へ刻一刻と近づいてゆくのです。

そしてついに小袋坂、化粧坂、極楽寺坂といった切通しの激戦、そして有名な稲村ヶ崎の岸壁を伝った侵入など、鎌倉攻防戦が繰り広げられます。

本作品で印象的なのは、新しい時代の到来を予感させる日の昇る勢いの新田貞義と対照的に描かれる落日の悲壮感が漂う北条高時を頂点とした鎌倉勢です。

北条高時はわずか14歳で鎌倉執権となりますが、闘犬や田楽に興ずる暗君だったという説があります。

それでも吉川英治氏はあくまでも高時に同情的であり鎌倉滅亡の日を丹念に描いています。

先程の義貞の旗揚げと快進撃の場面から一転し、高時の視点から鎌倉幕府滅亡を執筆してゆき、時代の最高権力者がすべてを失う最期の場面に遭遇するかのごとく読者は惹き込まれてしまうのです。

すべてが終わったのちに著者の視点は高時から離れ、次のような文章で淡々と締め括っています。

東勝寺の八大堂は、二日二た晩、燃えつづけた。あとには、八百七十余体の死骸があった。死なずともよい工匠たちの死体も中には見られたとか。
-- 総じて、鎌倉中での死者は、六千余にのぼったという。
また、それから二日後。
五山の一つ、円覚の一院では、高時の生母覚海尼公と、法弟の春渓尼とが、五月の朝のほととぎすをよそに、姿を並べて自害していた。

私本太平記(四)


私本太平記」もいよいよ中盤に入りますが、この四巻、そして続く五巻は南北朝における最大のクライマックスが訪れます。

歴史の魅力の1つに、百年以上も天下泰平の時代が続くこともあれば、たった1年で世の中が激変してしまう時があることです。

そしてこの南北朝時代においても、これだけの出来事が1年の間に起こります。

  • 後醍醐天皇の隠岐遠流そして脱出(帰還)
  • 楠木正成と幕府軍による千早城攻防
  • 足利尊氏の幕府離反そして六波羅探題を壊滅させた京都占領
  • 新田義貞の鎌倉攻めと北条氏滅亡

小説中でも時系列が前後してしまう慌ただしい展開ですが、要は強大な力を持っていたはずの鎌倉幕府がたった1年で滅亡してしまったということに尽きます。

その背景にあるのは、時代の帰趨に敏感な武士たちが雪崩式に強者側へ旗色を転じたということになるでしょう。

この時代に江戸時代に見られた朱子学(仁・義 ・礼・孝・忠)の影響を受けた武士道はまだ存在せず、自らの所領を拡大して一族繁栄のために勇敢に戦うことこそが価値観のすべてであり、忠義に殉ずる武士の方が例外的でした。

その例外的な武士の代表格として後世有名になり、神秘的な存在でさえあるのが楠木正成です。

たとえば後醍醐天皇足利尊氏新田義貞の系図は明らかであり、殆ど疑いの余地はありません。

一方の楠木正成はその系図が謎どころか出自さえ諸説ある状態であり、ともかく当時は河内・金剛山の麓における有力な勢力であったということだけが確かです。

この全国的に見ても取るに足らない千人余りの勢力が赤坂城・千早城に籠城して数万~10万の幕府軍を相手に約180日間守り抜いた功績は、鎌倉、京都の守りを手薄にし、何よりも「鎌倉幕府(北条氏)恐るるに足らず」という気運を全国の武士たちの間に広めたことだといえるでしょう。

しばしば日本の諸葛亮孔明と評される正成ですが、本書に描かれる彼の姿は必ずしも大軍師としての姿ではなく、兵士たちと共に傷つくことも厭わずに最前線で指揮を執り続ける武将として登場します。

"宮方へ殉じた忠義の武将"、"神算鬼謀の軍師"、謎が多いだけに後世の物語で着色されたイメージの強い正成ですが、少なくとも絶望的な状況下にあっても千早城に立て篭もる一千の将兵たちの心を一つにまとめることのできた優れた指揮官であったことは確かです。

私本太平記(三)


鎌倉幕府を転覆する計画が事前に発覚した「正中の変」、そして笠置山に立てこもり武力蜂起にまで発展した「元弘の乱」。

後醍醐天皇が中心となった2つの倒幕活動はいずれも失敗に終わります。

彼は決断力と行動力、そして指導者としてのカリスマ性も充分に持ち合わせていましたが、緻密な計画力には欠けている部分がありました。

また日野俊基資朝大塔宮護良親王北畠具行万里小路藤房千種忠顕といった側近たちはいずれも大胆不敵で勇敢ではあっても、いわゆる軍師タイプの人物ではありませんでした。

さすがに相手が天皇であっても2回目の反乱に鎌倉幕府は寛容ではなく、後醍醐天皇を隠岐へ遠流という処置を決断します。

そして後醍醐天皇を隠岐まで護送する任命を与えられたのが婆娑羅大名こと佐々木道誉です。

婆娑羅(ばさら)とは南北朝当時の流行語で、奇抜で派手な行動や外見を指す言葉ですが、風流や粋といった意味も含まれていました。

戦国時代の「傾奇(かぶき)者」に近いニュアンスですが、著者の吉川英治氏はこの道誉を「南北朝時代随一の怪物」と評しました。

自身は名門大名であり、側近として鎌倉幕府執権・北条高時の寵愛を受けながらも、この後醍醐天皇を護送する機会を巧みに利用して宮方の信用を得ることにも成功します。

さらに鎌倉幕府、そして後醍醐天皇を中心とした宮方(南朝)へ対して反旗を翻すことになる足利尊氏からの信頼も厚く、のちに室町幕府の重鎮として君臨することになります。

その身代わりの早さを考えると油断のならない人物として警戒されるのが当然ですが、道誉に限っていえば結果として時代の権力者いずれからも重用されました。

彼は田楽、能、詩、花道、茶道、書道、禅、闘犬といった道に精通した一流の文化人でしたが、ここで学んだ美意識やバランス感覚を政治や謀略、つまり処世術に活かしたという見方が出来るかも知れません。

勝手気ままに振る舞っているように見えながら誰よりも器用に戦乱を生き延びてゆく道誉の生涯は誰よりも幸運であったに違いなく、「私本太平記」においても道誉は常にキーマンであり続けるのです。

私本太平記(二)


執権・北条高時を頂点とする鎌倉幕府と後醍醐天皇を頂点とする宮方、そしてそれを取り巻く武士や公卿たち。

この2つの勢力の争いは権謀術数が渦巻き、のちに武力による実力行使へと発展してゆくことになります。

しかも鎌倉幕府が倒れたのちも武士と宮方の争いは果てしなく続き、戦乱の時代はじつに半世紀にもわたって続いてゆくのです。

いかに壮大なスケールであろうとも、この権力闘争を戦乱絵巻図のように淡々と小説にしただけでは読者は飽きてしまいます。

その点で吉川英治私本太平記」は、足利尊氏後醍醐天皇楠木正成といった主要登場人物のほかに、戦乱の世に翻弄され一見すると取るに足らない人物に焦点を合わせたサイドストーリーをしっかりと用意しています。

若き日の尊氏が旅先で出会った田楽一座の舞姫・藤夜叉、そして彼女との間にもうけた落とし子である不知哉丸をはじめとして、足利一族である草心尼とその息子である琵琶法師の覚一、元武士で大失恋の果に出家遁世した兼好法師、駆け落ちし大道芸人となった雨露次卯木夫妻などなど・・多彩で個性的なキャラクターが織りなすストーリーは、太平記の本筋に負けず劣らず読者を楽しませてくれるとともに、作品を奥深い魅力的なものにしています。


私本太平記第2巻では、正中の変によって倒幕計画が漏れ大打撃を受けた後醍醐天皇が、その不屈の精神で再び倒幕活動を再開します。

その中でも前回の変で危うく捕らえられるところだった日野俊基は、六波羅の放免(密偵)にマークされているにも関わらず精力的な活動を続け、その行動はもはや大胆不敵を通り越して、自らの命を微塵も惜しまない悲壮感さえ漂ってきます。

そしてまたもや後醍醐天皇の計画は側近の密告によって幕府に発覚することになります。

窮地に陥った後醍醐天皇は側近とともに京を脱出し、息子の大塔宮護良親王らとともに笠置山に立て籠もります。

しかしなおも時代の潮目はまだ訪れていませんでした。

後醍醐天皇に同調し各地から馳せ参じる武将は少なく、多勢に無勢では勝ち目はなく、ついに幕府によって囚われの身となってしまうのです。

しかし天皇が軍事力によって倒幕運動を実行するというこの元弘の乱は、本格的な戦乱時代の到来を告げるものでもあったのです。

私本太平記(一)


歴史小説の重鎮だけあって吉川英治の代表作といえば「三国志」や「宮本武蔵」、「新・平家物語」など多くの名作を挙げることができますが、個人的には数ある作品の中で本書「私本太平記」は一二を争うお気に入りです。

三国志」、「戦国時代」、「明治維新」、日本の歴史ファンとってこの3つがもっとも人気のある時代ですが、本書が扱っている南北朝時代はそれに劣らないほど魅力的な時代です。

個性の強い魅力的な武将が割拠する戦国時代の要素、そして後醍醐天皇が中心となって朝廷(宮方)の求心力を復活させるべく繰り広げられる倒幕運動には明治維新の要素があります。

本作品はそんな南北朝時代を「三国志」と同じく、通史の形式で執筆しています。

ちなみに南北朝時代の特定人物にスポットを当てた作品としては、北方謙三氏の南北朝シリーズが有名です。

そんな壮大な歴史物語の始まりは、弱冠17歳の足利高氏(のちの尊氏)が大晦日に京の居酒屋で酔い潰れて居眠りしているところから始まります。

そこでは国元の両親も健在であり、いわゆる部屋住みで人生の目的を持てず刹那的に日々を過ごしている若き日の高氏が象徴的に描かれています。

武家政権の頂点に君臨する鎌倉幕府14代執権・北条高時は政治よりも闘犬や田楽に夢中になっているものの、その脇を固める北条一族は強大であり、少なくとも表面上は天下泰平の日々が続いていました。

一方で鎌倉から遠く離れた京都では、のちに時代を激動させる中心人物が密かに倒幕のために動き出していました。

その人物こそが第96代後醍醐天皇です。

実際には側近の日野俊基日野資朝といった過激派の公卿たちが後醍醐天皇の手足となり、諸国を渡り歩き討幕運動を働きかけていました。

それは戦乱のない平和は表面上の見せかけであり、実際には重税に苦しめられる農民、公然と賄賂が横行する北条氏の治世下で怨嗟の声が日本各地に広がりつつあったことを意味していました。


明治維新において積極的に活動した志士たちは藩士や浪人であったりしましたが、この時代に活躍した元祖志士たちは天皇に直接仕える公卿だったのです。

しかもその計画の中心にあって彼らを直接指揮したのが天皇自身であったという点が後世の幕末時代とは大きく異なります。


しかし後醍醐天皇を中心とした倒幕運動が実行に移される前に、幕府の出先機関であり強力な捜査網と武力を兼ね備えた六波羅探題に察知され、後醍醐天皇は無事だったものの主だった人物が処罰される、いわゆる正中の変によって計画は一旦頓挫してしまうのです。

機はまた熟しておらず、のちに戦乱の世へ踊りだすことになる足利尊氏新田義貞、そして楠木正成といった武将たちは未だ眠りから覚めていませんでした。

兵士を追え


自衛隊の海外派遣、そして日本国憲法第9条の解釈や改正といった政治問題がマスコミに取り上げられる機会は多いですが、当事者である自衛隊員たちにスポットが当たることは滅多にありません。

自衛隊は24万人もの人間が所属する巨大な組織であり、企業でいえば国内でこれだけの従業員を抱える組織はありません。

また核兵器こそ保有していませんが、世界的に他国の軍隊と較べてもその装備は強力かつ最新鋭な部類に入ります。

著者の杉山隆男氏は、長年に渡り自衛隊の取材を続けそれを「兵士シリーズ」として発表していますが、本書はその第三弾です。

今までも過酷な訓練に励むレンジャー部隊、24時間体制で領空侵犯してくるロシアや中国の戦闘機を監視するレーダーサイト、マッハ2.5という究極の条件下で戦闘機F15を操るパイロットたちの現場を精力的に取材しています。

今回は海上自衛隊の潜水艦、そして哨戒機部隊に潜入取材を試みています。

日本が保有する16隻の潜水艦は、昼夜を問わず日本を取り囲む海の中で人目につくことなく警戒監視を続けています。

その潜水艦が何時どこを航行しているのかは秘密のベールに包まれ、乗組員の家族はもちろん、潜水艦の艦長たちでさえお互いの潜水艦がどこで任務に就いているのかを知ることはありません。唯一、潜水艦隊司令部のみがそれを把握しているのです。

隊員たちもその任務の内容を家族にさえ話すことが禁じられているため、一旦潜水艦に乗り込むと1週間か2週間、または1ヶ月以上に及ぶ航海であるのかは漠然としか知りません。

もちろん海中で電話やインターネットが通じる訳もなく、乗組員たちは鉄の密室の中で運命共同体として任務に当たるのです。

鉄の壁を隔てた外側は人間の生存を許さない深海であり、太陽の光の届かない完全な暗闇に覆われた世界です。

著者はそんな潜水艦の中に乗り込み取材を続ける中で、限られたスペースで生活する隊員、敵艦に察知されないよう物音1つ立てることの許されない厳戒態勢下での緊張感、何より1つのミスが乗組員全員の死と直結してしまう究極の環境下で任務をこなす隊員たちの日常は我々のそれと大きく異なる世界であることを実感してゆきます。

それでも任務が終わり陸上に戻った隊員たちの日常は、妻子を持つ普通の父親であったり、路上でダンスパフォーマンスに熱中する今どきの若者であったりするのです。

自衛隊という組織の巨大さを考えれば彼らの任務は決して特殊なものではなく、日本の領海、そして領空の安全を日々監視する仕事に就いている人たちなのです。

つまり我々と変わらない普通の日本人であり、それだけに彼らの日常や素顔を紹介する自衛隊ルポルタージュは多くのことを読者に教えてくれるのです。