人に強くなる極意
元外務省官僚(外交官)である佐藤優氏が、おもに対人関係をテーマに執筆したビジネス書です。
今まで佐藤氏の著書は、日本とロシアを中心とした外交や政治、国際情勢をテーマにしたものしか読んでいませんでした。
"外交"は国家間の交渉の場ですが、基本的には"対人交渉"によって行われます。
海千山千の要人たちとの折衝は、人としてのタフさが必要とされる場面であり、著者の外交の最前線での経験を元に書かれているため説得力を持っています。
一方で政治から宗教、哲学まで専門的な内容が出てきた今までの作品と違い、著者も「私の著述の中ではもっとも読みやすい記述になっているはずだ。」と紹介していることもあり、より幅広いビジネスパーソンが読める内容になっています。
目次も大変分り易く、以下のような章で構成されています。
- 第1章 怒らない
- 第2章 びびらない
- 第3章 飾らない
- 第4章 侮らない
- 第5章 断らない
- 第6章 お金に振り回されない
- 第7章 あきらめない
- 第8章 先送りしない
本書は実用的であることを意識してあるため、分り易く具体的な内容で書かれています。
しかし内容はシンプルであっても実践はそれほど簡単ではありません。
例えば本書から引用する次の一文からもそれは分かります。
結局、飾らない力を得るには、自分が何者であるかを明確にするということに尽きると思います。
人間としての根っこがどこにあるのか、国や民族、故郷や家族、信条や哲学・・・・・・。
あなたにその軸はありますが?軸がはっきりしているからこそ、虚と実のはざまでどんなに揺れ動いても、飾らない自己、飾らない関係をつくることができる。
佐藤氏に軸があったからこそ、ハードな交渉や512日間にわたる勾留で検察の執拗な追求に対して妥協しなかったのです。
やはり自分をいかに成長させるのかが重要になってくるのであり、あくまで本書はそのヒントを与えてくれるものとして読むのが正しいと思います。
2時間もあれば充分読める新書ですが、その示唆するところは非常に深い1冊です。
荻窪風土記
井伏鱒二氏が長年住み続けた"荻窪(東京都杉並区)"という土地を中心に綴った随筆です。
私自身は東京出身ではないため、荻窪にそれほど詳しいわけではありません。
それでも中央線の荻窪から阿佐ヶ谷、高円寺にかけては何度か足を運んだこともあり、まったく知らない町ではありません。
荻窪周辺はサブカルチャーなどの活動が盛んで、若者たちの活気溢れる下町というイメージがあります。
今でも"金のない書生"が住んでいそうな雰囲気があり、江戸情緒が漂う"浅草"とは違った魅力のある下町です。
その下町の起源を辿ると、大正後期から昭和初期にかけて文学を志す青年や詩人たちが荻窪周辺に住み始めたのがきっかけです。
井伏鱒二氏はその代表的な作家といえる存在であり、ほかにも横光利一、三好達治、太宰治、阿部知二など多くの作家が荻窪周辺に住んでいました。
町並みの移り変わり、近所の人びとや作家たちの交流、趣味の釣りに至るまで荻窪を中心としつつも、幅広いエピソードに触れています。
中でも興味深いのは、「関東大震災」、「二・二六事件」などについても井伏氏の体験とともに当時の東京の様子などが詳しく描写されており、ちょっとした歴史小説として読める部分です。
また昭和のはじめの荻窪には、清流や(江戸幕府によって保護されていたため)大木が生い茂る森林が残されており、その情景を懐かしむ著者の描写からは、国木田独歩の小説「武蔵野」のような情緒があります。
井伏氏は荻窪に長年住み続けたこともあり、その荻窪をテーマに書かれたエッセーは、そのまま彼自身の自伝小説ともいえます。
黒い雨
井伏鱒二氏の代表作といわれる長編小説です。
太平洋戦争末期に原爆を投下された広島を舞台にした重いテーマを扱っています。
小説でありながらも実際に被爆を経験した人の日記を元に書かれており、本作品の主人公・閑間重松(しずましげまつ)夫妻、そして姪の矢須子は実在の人物がモデルになっています。
原爆をイメージしたとき、そこには"絶望"という言葉が頭に浮かびます。
徴兵されたとはいえ兵士として戦地へ赴くからには"戦死の可能性"を自覚でき、国家や家族を守るために成人男子が果たすべき義務感をいくらかは持つことができます。
しかし原爆は何の前触のない状態で、老若男女問わずに無差別に10万人以上の命を奪いました。
しかもそれが自然災害ではなく、人災であることにやりようの無い感情が湧いてきます。
原爆の投下は間違いなく戦争を繰り返してきた人類の中でもっとも悲惨な出来事の1つであり、その直後の広島は"地獄"そのものでした。
本書は原爆が投下される前日の8月5日から終戦を迎える8月15日までの出来事を回想する形で書かれています。
実在する日記を元に書かれた作品であることを考慮に入れても、あまりにもリアルな描写に途中から小説であることをまったく忘れてしまいます。
広島を中心に広がる悲惨な光景、我が子や親を失い呆然とする人びと、重傷を負った人びとが次々と息を引き取ってゆく光景が淡々と描かれており、そんな中でも生き残った人びとが必死に今日を生きてゆこうとする意志を感じることができます。
本書には反戦の訴えや、アメリカや日本の軍部への批判、教訓めいた内容は登場しません。
当時の人びとはそうした思考を巡らす余裕などまったく無かったはずであり、何よりも本作品にそうした内容が蛇足であることは明らかです。
読者を圧倒する描写される風景そのものが、何よりも雄弁に戦争の悲惨さを訴えています。
著者の井伏氏は広島にほど近い福山市の出身ということもあり、作家としての自分がやるべき義務感として本作品を書き上げたような気がします。
はっきりいって物語の中に希望は殆ど見いだせず、人によっては読むのが辛くなるかもしれません。
けっして流行の作品を読むことを否定しませんが、このような小説こそ後世の人たちに読み継がれるべきです。
一瞬の夏 (下)
沢木耕太郎氏によるボクサー"カシアス内藤"を題材としたノンフィクション作品「一瞬の夏」の下巻をレビューします。
"カシアス内藤"というボクサーを客観的に評価すると、1度は東洋ミドル級チャンピオンになるものの、その後の戦績はパッとせず引退し、4年ものブランクを経て現役復帰するボクサーということで話題性の少ない選手でした。
名伯楽として何人もの世界チャンピオンを育て上げたエディ・タウンゼントは、自らが手がけた選手の中で"もっとも素質があったボクサー"だとカシアス内藤を評価しています。
にも関わらず彼が世界チャンピオンになれなかったのはトレーニング嫌いであり、さらに優しい性格が災いしたためといわれています。
「用心棒なら、いつでもできるから。でもボクシングは今しかできない」
1度は引退したもののボクシングに置き忘れてきたものを再び取り戻すためにカムバックする1人の男の姿は、当時作家としての方向性を模索する沢木氏自身の姿と重なる部分があったのだと思います。
ボクサーはリングで拳で殴りあう原始的な競技であり、それがゆえに多くの人を惹きつける魅力に溢れているといえます。
それでもボクシングは1人で行うことは出来ません。
家族、ジムの会長やトレーナー、マネージャーなど多くの人たちを巻き込みながらボクサーはリングに立つことになるのです。
しかもボクシングは一部の例外を除いて世界チャンピオンにならない限り、ファイトマネーだけで充分な収入を得ることが困難なスポーツだと言われます。
確固たる信念で29歳で返り咲きをしたボクサーが、時には弱音を吐きながらも再び夢に向かって突き進んでゆく。。
そこには決して綺麗ごとばかりでなく、人間の心の弱さ、欲望などが生々しく交差し、様々な障壁がカシアス内藤たちの前に立ちはだかります。
強い決意、才能や優秀なトレーナーに恵まれていたとしても、必ずしもそのボクサーが"あしたのジョー"のようなストーリーを辿れるわけではありません。
それでも1人のボクサーの残した足跡は、30年以上を経過した今でも読者の心を打つのです。
ノンフィクションの本質を考えさせられる名作です。
一瞬の夏 (上)
1970年代に活躍したボクサー"カシアス内藤"。
アメリカ黒人と日本人とのハーフであり、1971年に東洋ミドル級チャンピオンになるも連敗を続け、1974年に一旦は現役を引退します。
しかし4年もの月日を経て1978年にカシアス内藤は現役復帰を果たします。
"カシアス内藤"はもちろんリングネームですが、大スターであるモハメド・アリの本名「カシアス・クレイ」からとったものです。
同時期、同階級で活躍した有名なボクサーに輪島功一がいますが、かなりのボクシング通でなければ"カシアス内藤"の存在を知らない人が多いのではないでしょうか。
本書は日本を代表するノンフィクション作家である沢木耕太郎氏の初期の作品でありながらも、第1回新田次郎文学賞を受賞した代表的な作品です。
東洋ミドル級チャンピオンを手にしながらも一度は引退し、29歳にして現役復帰するボクサーを題材とするのはノンフィクション作品としておもしろい題材であることは間違いありません。
普通のノンフィクション作品であれば綿密な取材、そして検証・考察して作品を書き上げてゆくのが普通ですが、本作品の沢木氏の立場は、作家として範囲を完全に逸脱しています。
毎日のようにカシアス内藤の練習を見学し、著名なトレーナーのエディ・タウンゼントらの信頼を得るところまではジャーナリストとしての範囲ですが、やがて彼のマネージャーとして試合のための契約交渉、さらには契約金までも(余裕のない)自らの資金を提供するといった行動に出るようになります。
何が沢木氏をそこまで駆り立てたのか?
本書は"カシアス内藤"を取り上げると共に、自らの人生の一部をも同化させてしまった稀有なノンフィクション作品であるといえます。
心の航海図
遠藤周作氏の最晩年のエッセーです。
約300ページの文庫本の中に約100本ものエッセーが収められています。
今から20年前に発行された本ですが、晩年の遠藤氏は"医療問題"にもっとも関心を持っていました。
これは彼自身が重病で苦しんだ経験を持つことから、病人の心理的、肉体的な苦痛をよく理解しているからです。
回復の見込みのない患者の苦痛を長引かせる延命治療に批判的であり、(患者自身が希望すれば)その苦痛を和らげる治療(緩和ケア)に注力した"ホスピス"の充実化を早くから提唱してきました。
ホスピスでは肉体的なケアだけでなく精神的なケアに重点が置かれており、欧米では神父や牧師といった宗教的な指導者が精力的な活動を行っています(一方で日本の仏教僧侶たちがこうした活動を行う例は少ないようですが。。)
本書が出版されて20年経った今でも日本のホスピスは不足している状態であり、根本的な問題は解決されていません。
また救急患者を受け入れる医師や病床の不足についても本書で触れられていますが、現在でも"救急患者のたらい回し"が社会問題となっていることからも分かる通り、改善されたとは言いがたい状態です。
本書に触れられている問題提起は1つとして"解決済み"のものが1つも無く、老作家の愚痴として片付けることができない部分に暗澹たる気持ちになったりします。
もちろん他にテレビ番組やグルメなど他の話題にも触れられていますが、著者が一番真剣になるのは医療を話題に触れたときのようです。
本書は狐狸庵山人としてのエッセーとは違い、全体的に軽快さや剽軽さを抑えてシンプルに本音を書いています。
その分だけ老年となった国民的作家の偽らざる心境が生々しく綴られているようです。
ゼロ なにもない自分に小さなイチを足していく
"ホリエモン"こと堀江貴文氏による1冊です。
ライブドア(オンザエッジ)の創業者としてプロ野球球団やニッポン放送買収などで世間の注目を集め、やがて証券取引法違反により逮捕されるという彼の経歴はあまりにも有名です。
拝金主義者として軽蔑する人がいる一方で、ネットの世界では未だに絶大な支持を得ています。
堀江氏の著書を今まで数冊読んでいますが、"過激"だと感じたことはありません。
その内容は常に物事の本質をつく洞察力に優れており、社会に潜む"矛盾"を白日の下に晒すといった鋭さがあります。
その"矛盾"の中に潜む既得権益層を警戒させ、さらに彼の合理的なビジネス手法を理解できない保守的な人たちからの批判の矢面に立たされたという見方もでき、堀江氏自身もそれを自覚しているようです。
その他にも、独特の発言やスタイルに誤解を生むような要素もあったでしょう。
彼は転んでもタダで起きる人物ではありませんし、本書では刑期を終えた堀江氏が"ゼロからの再出発"をきっかけにして執筆したものです。
そして本書のテーマは「働くことの意味」です。
本書の前半では堀江氏自身の生い立ちや、親との軋轢、学生時代のエピソードなどを自らが抱えていたコンプレックスを含めてかなり本音ベースで書いている印象を受けました。
服役を終えた堀江氏は以前のように上場企業の経営者ではありませんが、早速ベンチャー企業を立ち上げ、その他にも色々な仕事を兼任し、分刻みのスケジュールで目まぐるしく日常を送っているようです。
それは決してお金のためでなく、やりたいことを全部やるためだとしています。
人生でもっとも貴重なものは「時間」であり、その時間を提供して(犠牲にして)給料をもらうような働き方自体が、そもそも「お金に縛られた生き方」というのが彼の主張です。
たしかに世間の会社員の大半が「お金に縛られた生き方」をしていることは認めざるを得ません。
「会社は潰れても人は潰れない」、「(自営業を含めるなら)日本の就業者の15人に1人は経営者」という分かり易い例を挙げて起業することのリスクの無さ、そして仕事がつまらないのは、「仕事に没頭していないから」といった、日本のビジネスマンが普段見逃しがちな視点を読者へ与えてくれます。
結論として、彼は「自分の生を充実させるために働く」としています。
人生の頂点から、一気に急降下した人生。
それでも生きている限り、人生に"0(ゼロ)""はあってもマイナスはない。
毎日小さな挑戦を繰り返して、自分へ"小さな1(イチ)"を積み重ねることがもっとも大切であり、その後の飛躍(掛け算)の結果が大きく違ってくるのです。
働くことがテーマでありながら、本書はビジネス書というよりも堀江氏の人生観を綴ったエッセーという感じです。
将来の進路に迷っている人、「働く」ことに迷いを抱いているビジネスマン、そうした人たちへ向けて分かり易く明快な言葉で書かれれいる本であるため、気軽に手にとって読んでみてはどうでしょうか。
武士道
明治時代の一流文化人であった新渡戸稲造が、外国の文化人へ向けて日本特有の精神「武士道」を解説した本です。
よって原書は英語で書かれていますが、本書は歴史研究家の奈良本辰也氏による訳本です。
西洋諸国がキリスト教に代表される"宗教"を通じて道徳を学ぶのに対し、一般的な日本人は「特定の宗教=道徳」とは考えません。
これは外国人から見れば考えられないことであり、新渡戸氏が日本人の道徳(善悪の区別)を学ぶ基準を「武士道」に置いて解説したものが本書です。
それには新渡戸氏自身が南部藩武士の子として生まれ、武士の幼少教育を受けたことも大きく影響しています。
文化人が文化人向けに執筆した明治時代の本だけあって、和訳されたものを読んでも決して易しい内容ではありません。
注釈を交えて、そして何度か読み直すことによってようやく少しずつ内容が吸収されてゆくといった種類の本だと思います。
私自身本書を何度か読み直していますが、そのたびに新しい発見があります。
世間には勉強方法を紹介したものから、ビジネスマン向けの経営や営業指南、老後のライフスタイルに至るまで、さまざまな本に溢れています。
しかし、そうした類の本の中から「人生の指針」のようなものを発見するのは困難なように思えます。
「武士道」を時代錯誤と批判することは簡単ですが、本書には日本人が先祖代々から受け継いできた「人としてよりよく生きてゆくための知恵」が詰まっており、現代においても日本人が日本人であり続けるための多くのヒントを得ることができます。
「武士道」の精神は、宗教のように聖典が存在するわけではなく、主に日常生活の中で口伝や実践という形で受け継がれたものです。
新渡戸氏はそれを「義」、「勇」、「仁」、「礼」、「誠」、「名誉」、「忠義」に分類して、豊富な古今東西の例を紐解いて武士道を体系的に解説しています。
著者の新渡氏はクリスチャンとしても知られていますが、それでもなお武士道を"人の道を照らし続ける光"として、この上なく大切な精神として位置付けています。
100年以上前に書かれながら、今なお現代に生きる日本人が読んでおくべき本の1冊ではないでしょうか。
薔薇盗人
以下6作品が収められている浅田次郎氏の短篇集です。
- あじさい心中
- 死に賃
- 奈落
- 佳人
- ひなまつり
- 薔薇盗人
私にとって浅田次郎氏の短編は、その題材を問わず決して期待を裏切らない小説です。
もちろん今回紹介する本を読み終えてもその印象は変わりませんでした。
勝手に本作品のテーマを決めさせてもらえるなら、それはズバリ"恋愛"であるといえます。
直球勝負もあれば、もの凄い変化球の恋愛小説までが揃っており、著者はまるで1つの素材から多彩な料理を作り出す凄腕の料理人といった感じです。
たとえば「あじさい心中」はタイトルから分かる通り、目的を失った行き連れ男女の心中を扱った文学らしい作品ですが、それでいながら浅田氏らしいドラマチックなストーリーに仕上がっています。
また「奈落」に至っては、恋愛と関係ないミステリアス内容で物語が進行してゆきますが、その根底(バックボーン)には、やはり男女の恋愛というテーマがしっかりと存在していることに気付かされます。
「ひなまつり」は著者のもっとも得意とする人情を交えた泣かせる恋愛小説に仕上がっていて、著者の本領が発揮されている作品です。
とにかく1冊の本でこれだけ様々なストーリーを楽しませてくれる本書は私のように浅田氏のファンでなくとも、満足できること間違いなしです。
父の威厳 数学者の意地
当ブログでお馴染みになりつつある藤原正彦氏のエッセーです。
本書における著者の一貫した主張は、
「日本人としてのアイデンティティが最も大切である」
ということです。
日本人としてのアイデンティティとは何か?
それは文学や俳句などに代表させる"情緒"と、武士道に代表される"倫理観"であると断言しています。
著者の本職は数学者ですが、そこは"理論によって構築される証明"のみが唯一絶対的な力を持つ世界であり、一見すると著者は主張と正反対の世界に身を負いているように思えます
しかし人間は生まれながらにして理論を組み立てる知識を有しているわけではありません。
逆に知識そのものに実態は無く、人間によって吸収されなくては存在意義がありません。
そのためには"核"となる人格が必要であり、これが無ければ自己を認識することさえも出来ません。
つまり機械的に知識を詰め込んだだけの人間はコンピュータと同じであり、そこから進歩の源泉となる"創造"が生まれることはありません。
機械人間を量産する先には、過度な受験戦争、そして給料の多寡によって人間的価値が評価される殺伐とした社会しか残されていません。
そのような国が世界から尊敬されることなく、日本がこの路線を突き進むつつあることに著者は強い危機感を抱いています。
マスコミは増税やTPPなどの経済問題のみを大きく取り上げ、ビジネスマンたちは目先の業績を追うことに必死になっている状況です。
確かに経済問題には自分や家族たちの生活がかかっている以上、決して軽視することはできません。
一方でマスコミが「失われつつある武士道」というテーマを真剣に論じてみたらどうでしょう?
その中で「名誉は命より大事」と書こうものなら、「時代錯誤」、「封建的な思想」、「人命軽視」などの非難の声が上がることは容易に想像できます。
そんな時代だからこそ、本書のような気骨を持った数学者が綴るエッセーを読む価値があります。
もちろんエッセーに欠かせないユーモアも含まれていて、脇目もふらず進む著者の猪突猛進ぶりなど微笑ましいエピソードも満載です。
マンボウ交友録
すっかり北杜夫氏のマンボウシリーズに魅了されてしまい、本ブログでの紹介も5作品目になります。
「マンボウ・シリーズ」という表現をしましたが、基本的に各作品は独立したエッセーなどの形式をとっているため、どの作品から読み始めても問題ありません。
シリーズの中でも有名な作品以外はあまり重版されていないようですが、図書館や古本屋へ行けば手軽に入手することができます。
本書はタイトル通り、北杜夫氏の交友録をエッセーとして作品化したものです。
10人との出会いから現在に至るまでのエピソードが紹介されていますが、もっとも注目すべきは遠藤周作氏との交友録です。
それは遠藤周作こと狐狸庵山人の「ぐうたら交友録」にも北杜夫氏が登場し、とても楽しいエピソードが紹介されています。
しかし北氏は、「ぐうたら交友録」に書かれている自らのエピソードは"作り話"や"大げさ"だと反論します。
確かに著者の弁明を読む限り、遠藤氏のエッセーの内容は誇張されている感があります。
もちろんそれが悪意を持って書かれているものではなく、遠藤氏一流のユーモアであることは読者から見ても明らかです。
つまり著者にとてって遠藤氏は面倒見のよい先輩であると同時に、色々と迷惑な存在でもあるようです。
北氏は自らも認めているように"躁鬱(そううつ)症"であり、躁の時には積極的に仕事をバリバリこなしますが、鬱のときには何事にも億劫になって家に閉じこもりがちになります。
同じような体験をしても、その時の状態によって作者の心境や行動までもが随分と違って来ることを本人は充分に自覚しており、最終章は作家「北杜夫」が、自らをニックネームである「どくとるマンボウ」に模して客観的に描くといった面白い手法をとっています。
そこで自らの弱点を次のように書いています。
北杜夫はたいそうな清純作家で、セックスはほとんど書かない。といっても彼も男性である。バーのホステス嬢とデートすることもある。
これがあんがい、ハッとするような美女で、もし北杜夫があまり人相のよくない女性と歩いていたら、それは彼の奥さんだと世人は察するべきであろう。
ただ、せっかく美女とデートしても、結局は何もしないということは彼の最大の欠点である。
もちろん海千山千の北氏のことですから、まったく鵜呑みにすることは出来ませんが、エッセーの至るとことからこうした著者の人柄が染み出しているようで、のんびりと平和な気分にさせてくれるのです。
マンボウVSブッシュマン
今までブログで紹介した北杜夫氏のマンボウシリーズには、いずれもテーマがあります。
航海記として書かれた「どくとるマンボウ航海記」、趣味である昆虫を題材にした「どくとるマンボウ昆虫記」、自らの交流をテーマにした「マンボウ交友録」です。
本書はテーマを限定せずに、(失敗談が多い)日常の出来事、母や父との思い出、大好きな阪神タイガース、世情や旅行に至るまで、幅広い内容で書かれています。
タイトルにある"ブッシュマン"とは、あまりにも機械オンチである著者へ対して、妻が呆れて揶揄した言葉であり、ついカッと逆上してしまった著者の経験から命名したタイトルです。
そして文章中では、自らがブッシュマンより国際的で文化的である人間であることを些細な出来事を例に証明してゆくのですが、これこそ北氏ならではのユーモアです。
やがて一転して、真面目なブッシュマンの歴史を紹介してゆき、またしても結論は北氏らしく結ばれます。
「マンボウvsブッシュマン」に書いたように、私はブッシュマンとその優劣を競い合って、大半負けてばかりいた。一見すると著者の謙遜のようにも見えますが、これこそが本音なのかもしれません。
これは私の知能が彼らより劣るのではなく、彼の心がおそらく私より豊かだからであろう。
それゆえ、私は自分がブッシュマンに負けたとて、けっして劣等感を抱くわけではなく、ただ彼らの人間性に惹かれるだけなのである。
戦中、戦後の食糧難の時代に多感な青年時代を過ごし、そして飽食の時代を過ごしている著者が何気なく幸せの本質を指摘しているように思えます。
軽妙なユーモアが内容の大部分を占めていますが、時折見られる皮肉の中に人生のヒントを見出せるというのも本書の優れた点です。
北杜夫氏といえば私と2世代以上離れている作家ですが、堅苦しい印象を微塵も感じさせない、身近な先輩という感情を抱かせてくれるエッセーです。
山椒魚
昭和を代表する小説家・井伏鱒二の短篇集です。
氏の作品を読んだのは今回がはじめてです。
若き日の太宰治が弟子入りしたことからも分かる通り、その文才は誰もが認めるものでした。
(ただし後に2人の仲は悪くなるようですが。。)
本書には若き頃の井伏氏の代表的な短編が8作品収録されています。
- 山椒魚
- 朽助のいる谷間
- 岬の風景
- へんろう宿
- 掛持ち
- シグレ島叙景
- 言葉について
- 寒山拾得
どれも質の高い代表的な作品ばかりです。
当然のように短編ごとに主人公が登場しますが、どれもその生い立ちに深く言及した作品はありません。
しかし「旅」を題材にした作品が多いことを考えると、旅行好きだった自分自身を投影したものであることは容易に想像できます。
綿密で微妙な"場面"と"心理"の描写がある一方で、過去や未来については、おぼろげな描写で留めているのが印象的で、一旦読みはじめると、その繊細な描写についつい引きこまれてしまう魅力があります。
最近はエッセーやドキュメンタリー、そして長編小説を中心に読んできたこともあり、文学的な短編小説に特徴の「行間を読む思考」を久しぶりに体験しました。
一方で話の起伏は殆どなく、どれも均一な印象を受けたのも事実であり、例えば弟子入りした太宰治とは明らかに異なるタイプの作家です。
初めて読んだ作家の作品ですが、他の作品も読んで紹介してゆこうと思います。
秋の夜長にじっくりと読むのに相応しい小説です。
どくとるマンボウ昆虫記
作家・北杜夫は、精神科医という顔を持っていましたが、昆虫マニアであることも広く知られています。
彼の作品の殆どに昆虫の挿話があることからも分かる通り、昆虫へ対する愛情、そして知識の深さは驚くべきものがあります。
本書では、彼が採集に夢中になったコガネムシなどの甲虫、そして蝶類にはじまり、ダニやノミや南京虫、ゴキブリに至るまで幅広く言及されています。
少年の頃の昆虫採集の思い出、昆虫マニア同士の交流、昆虫採集に夢中になっていた頃の戦争時の回想を交えて昆虫たちを紹介してゆき、たとえ昆虫に興味が無い人であっても読者を飽きさせない北氏ならではの昆虫記に仕上がっています。
わかり易い例でいえば、こんな感じです。
幼いころからその名だけは知っていた。しかし、ウスバカゲロウが薄羽蜉蝣であるとはつゆ知らなかった。てっきり薄馬鹿下郎と思いこんでいた。そいつはのろのろと飛びめぐり、障子にぶつかってばかりいたからだ。今となっても、薄馬鹿下郎のほうがどうしても私にはぴったりする。
といった具合で、羽陽曲折を経てやがてその幼虫である蟻地獄の話題に移ってゆきます。
だからといって著者が昆虫を下等な生き物であるとは露ほども思っていません。
むしろ人間が戦争(著者の経験では太平洋戦争)を引き起こして食糧難に陥っている中、昆虫たちはいつもと変わらぬ生活を送っているのであり、著者にとって人間の賢さなど甚だ心許ないものだったに違いありません。
北氏のもっとも好きな昆虫というジャンルが題材になっているだけあって、本書の完成度は折り紙付きです。
虫好きな人も虫嫌いな人も、ぜひ1度は手にとって欲しい本です。
どくとるマンボウ航海記
父親が斎藤茂吉、自身は作家と精神科医という一風変わった経歴を持つ北杜夫氏の代表的なエッセーです。
本書「どくとるマンボウ航海記」は、その後マンボウ・シリーズとして発表される一連のエッセーの記念すべき1作品目です。
著者は小説家としても有名ですが、軽快でユーモアに溢れたエッセー作品のファンも多いのではないでしょうか。
本書は昭和33年に水産庁調査漁船の船医として半年間に渡る航海記の形式で書かれています。
文部省の留学生募集に書類選考で落とされ、海外を周遊するための手段として船医へ志願することになります。
要するに確固たる義務感や目的があるわけでなく、好奇心、そして少年の無邪気な冒険心がもっとも強い航海の動機であったといえます。
そして船員の経験が無かった著者が作品中で示す好奇心は、読者の好奇心をも掻き立てずにはいられません。
著者はあとがきで、本書を次のように紹介しています。
私はこの本の中で、大切なこと、カンジンなことはすべて省略し、くだらぬこと、取るに足らないこと、書いても書かなくても変わりはないが書かない方がいくらかマシなことだけを書くことにした。
実際その通りで、寄港した国々で経験した、例えば、酒場で見た目が(著者いわく)160歳くらいの女性に誘惑されたり、物売りにボッタクられたり、執拗にサメへ砂糖水を飲ませようとしたことなど、航海記の本質とはかけ離れたエピソードに多くの紙面が割かれいます。
しかし「旅の思い出」など、往々にしてどうでもよいエピソードが印象に残るものであり、本書のスタイルにはまったくもって同感できるのです。
北氏は惜しくも2011年に亡くなっていますが、戦後の日本で懸命に文学を再興しようとする作家たちの中で、飄々とした彼のスタイルはひときわ輝いていたといえます。
東京スカイツリー物語
2012年5月に世界一の自立式電波塔として開業した東京スカイツリー。
本書はそんな東京スカイツリーのプロジェクトに関わった人びとにスポットを当てたドキュメンタリー作品です。
登場するのは、技術者、設計者、デザイナー、広告マン、そして経営者たち11人です。
1つ1つの物語がプロジェクトX風にまとめられており、NHKの同番組を好きな人であれば本書を夢中になって読んでしまうこと間違いなしです。
1人につき1章を割く形で構成されており、生い立ちから経歴、そして日々の仕事、胸に秘めた想いなどを紹介してゆきます。
著者の松瀬学氏は、ラグビーをはじめとしたスポーツ分野のルポライターとして有名ですが、本書の執筆にあたり丁寧な取材を行ったことが伝わってきます。
そしてこれだけの人たち東京スカイツリーの建設時期に同時並行で取材していたことに驚きます。
彼らに1つ共通しているのは、世界一のタワーを建設するという誰も経験したことがない仕事へチャレンジしなければいけないことです。
しかし仕事は積み重ねていくことで、経験や知識、そして何よりもプロとしての精神を培っていきます。
彼らはいずれも一流のプロであり、今後100年は東京のシンボルであり続けるであろう歴史的な事業をやり遂げます。
仕事へ情熱を失いかけている人を励まし、あるいは初心を忘れかけている人には、「プロとはなにか?」を改めて考えるきっかけを与えてくれます。
東京スカイツリーは"日本の技術力"の結集だけでなく、"モノ作りの精神"をも結集したプロジェクトなのです。
パチンコ「30兆円の闇」
どんな業界にも"矛盾"や"ルールを逸脱した行為"というものは存在します。
ましてパチンコ業界は法整備が未熟にも関わらず、あまりにも巨大な市場なため、その闇が深いものであるといえます。
本書はパチンコ業界の"闇"の部分をジャーナリスト溝口氏が丹念に取材して描き上げたノンフィクションです。
私自身、学生時代に2、3度パチンコをした経験があるものの、今はまったくパチンコ自体に興味はなく、単なる好奇心で手にとった本です。
本書が最初に出版された2005年の時点でパチンコ市場が約30兆円と紹介されています(ネットで調べてみたところ2012年度のパチンコ市場は約19兆円とのことです)。
競馬、競輪、競艇、さらに宝くじの売上を足しても10兆円に遠く及ばないことを考えると、30兆円という数字が尋常でないことが分かります。
本書ではパチンコメーカ、そしてパチンコホールが存在し、そこに客が来るという一般的なイメージを覆す業界の裏事情が書かれています。
客寄せのため違法でありながらもホールが設置するBロム、ゴト師がホールから金をせしめるために使用するCロムに代表される裏ロムの存在、日本のパチンコ業界の裏金が韓国や北朝鮮へ流れる闇ルート、政治家や警察の癒着など。。。
実際のホール経営者やパチンコの裏社会で暗躍する技術者や詐欺師への取材を通じて、少しずつ闇の中が照らされてゆくような感覚で読み進めてしまいます。
公営ギャンブルを圧倒的に上回る規模にも関わらず、パチンコはギャンブルとしではなく、風適法(遊技場営業)が適用され、警察によってコントロールされている状態です。
著者は、ここにパチンコ業界が抱える諸悪の根源があると断言しています。
のどかな郊外に突如建てられたパチンコ店は決して珍しくなく、もはや日本の風物詩のような観さえあります。
つまり日本では、人びとの暮らしているあらゆる地域にギャンブル場が存在しているのです。
ギャンブルが決して"悪"というつもりはありませんが、実態に即した法整備、そして不正を排除して健全なギャンブルとして生まれ変わらなければ、パチンコ業界に明るい未来はありません。
パチンコへの興味の有無に関わらず、日本の抱える社会問題にメスを入れた、すべての人にお薦めできる1冊です。
日本人は日本を出ると最強になる
かつて下着メーカのトリンプ・インターナショナル・ジャパンの社長として活躍し、今や多くのビジネス書を執筆している吉越浩一郎氏による1冊です。
「海外で働く」ことに興味を持っている人たちを対象に書かれたビジネス書であり、海外での勤務経験、そして妻がフランス人ということもあり、1年の半分をフランスで暮らしている著者ならではの視点で書かれています。
日本では非正規雇用社員の増加、そして政治や政策に閉塞感が漂っています。
そこで一刻も早く海外へ飛び出し、日本の常識が通用しない世界で視野を広げることを強く推奨しています。
そんな本書の目次を紹介しておきます。
- 海外でも仕事ができる10の条件
- 外国人にも負けない10の特徴
- 海外で暮らすと得られる10のメリット
- 日本にいてはもう成功できない10の理由
- 日本をもっとよくする10の提言
はっきり言って日本の閉塞感や旧弊を強調し、外国のフェアな環境や快適さを意識的に取り上げる論調になっています。
つまり日本での活躍を前提としてビジネスに励んでいる人にとって、殆ど参考にならないかも知れません。
世界での活躍を夢見る若者の背中を後押しする本である以上、こうした割り切った書き方は"あり"だと思います。
また吉越氏のビジネス本は"分かりやすさ"に定評があり、本書の善悪二元論的な執筆は意識して行われたものでしょう。
とはいえ自動車メーカ、インターネット業界をはじめ、日本にあっても世界に目を向ける必要のある業界は数多くあります。
本書を通じて、世界における日本の客観的な特徴を知ることは決して無意味ではありません。
心の砂時計
遠藤周作氏の後期のエッセー集です。
遠藤氏は小説のみならず、多くのエッセーを執筆したことで知られていますが、柿生の狐狸庵から再び都内へ移り住んだ時期の作品です。
60代半ば頃の執筆ですが、ひょうきんな狐狸庵山人の一面を覗かせる軽快な筆運びで書かれています。
人間が歳を取ると、世間へ対して悲観的な気持ちになるのは今も昔も変わりません。
それを単なる愚痴として書いてしまうと若い世代に敬遠されてしまいますが、温かい目線とユーモアを交えて書かれる内容には、世代を超えて多くの人に受け入れられるのではないでしょうか。
本書が書かれたのは1990年代初頭ですが、当時、そして現代にも共通する社会問題、単なるグルメの話題、著者の好きな超現象の話題など、その内容は心の赴くまままに多岐に渡ります。
中には池波正太郎を気取ったグルメの話題まであり、そのエピソードの幅広さは読者を飽きさせません。
全体的に晩年の頃に書かれたエッセーと比べて、深刻な題材の登場頻度は少ない印象を受けました。
一心不乱に読書するよりは、電車に揺られながら、トイレで、昼寝のお供にと日常のちょっとした時間に1話、2話ずつ読み進めるのに最適な1冊です。
祖国とは国語
藤原正彦氏のエッセー集です。
200ページ余りの文庫本にも関わらず、まったく毛色の異なった3部構成のエッセーで贅沢に楽しめる内容になっています。
それぞれ簡単にレビューしてみたいと思います。
国語教育絶対論
数学者である著者が、義務教育における国語の重要性を説いたエッセーです。
日本が世界で求心力を失いつつある最大の原因が、"国語の衰退"にあるとし、国語による自国文化、伝統、そしてそれによって培われる情緒こそが国力の源泉になると主張しています。
著者の過去の作品にも「祖国愛」というキワードは何度も登場しますが、数学者として世界を巡った経験、そして英語が堪能な著者が主張するからこそ、その内容には説得力があります。
この内容を深く掘り下げた作品に、大ベストセラーとなった「国家の品格」がありますので、興味のある方はそちらも併せて読むことをお薦めします。
いじわるにも程がある
本章では一転して軽妙なエッセーに変わります。
著者にはアメリカやイギリスに留学した経験からアメリカのジョーク、そしてイギリスのユーモアを兼ね備えたセンスがあります。
新聞や雑誌に掲載された何気ない家庭のエピソード、父親との思い出など、素顔の著者が垣間見れる気軽に読めるエッセーです。
満州再訪記
個人的に本書で一番印象に残った章です。
著者が高齢となった母親、妻子を伴って満州の新京(現・長春)を尋ねた旅行記です。
満州から逃避行の実体験を描いた戦後間もないベストセラー「流れる星は生きている」は、著者の母親・藤原てい氏の作品であり、戦後を代表する名著です。
命がけの引き上げを決行する母親の腕に抱かれていた幼い子どもが著者であり、母親に代わって息子が記した「流れる星は生きている」のエピローグです。
本章を読む前に是非「流れる星は生きている」を読むことをお薦めします。
私は著者の父親・新田次郎氏のファンですが、著者の本職は数学者であることもあり、父の影響で本を執筆している程度の認識しかありませんでした。
本書を読むと間違いなくその文才を父と、何よりも精神を継承していることを感じます。
若き数学者のアメリカ
藤原正彦氏が1972年にアメリカのミシガン大学の研究員、そしてコロラド大学の助教授として過ごした約2年のアメリカ滞在記を紀行文としてまとめた作品です。
以前紹介した「遥かなるケンブリッジ」の前作にあたる作品で、著者が野心も燃える20台後半に訪れた滞在記だけあって、どこか文章にも若々しさを感じます。
藤原氏は戦時中の満州生まれであり、彼の父親(新田次郎氏)も軍人として満州で従事していました。
アメリカへ留学した1970年初頭は沖縄返還以前であり、太平洋戦争に兵士として参加した経験を持つ人びとが多かった時代です。
幼いながも戦争体験をして、戦勝国(アメリカ)、戦敗国(日本)という意識が今よりも濃かった時代にアメリカへ向かう著者の心境は、日本人としてアメリカ人に舐められたくない、日本人数学者としてアメリカで認められたいという意識が強かったようです。
アメリカ人への対抗意識から猛烈に研究に励みますが、孤独と疲労のために体調不良とホームシックで苦しむことになります。
どんよりと曇った寒いミシガン州の天候から逃げるようにフロリダへ旅をして、そこでアメリカン人ガールフレンドと知り合うようになって、少しずつ凍えていた著者の心が温まっていきます。
やがて温和な気候のコロラド大学に助教授になり、アメリカ人の文化を理解するに従い、当初抱いていた対抗意識や劣等感が氷解してゆきます。
つまりアメリカ人として漠然として捉えていたものを、彼らとの交流を通じて少しずつ理解できるようになってゆくのです。
- アメリカは開拓により切り開かれた広大な国であり、さまざまな文化をバックボーンとした多くの人種で構成されている。つまり日本と違い多様な文化があること。
- 日本人としてのアイデンティティこそが、多様なアメリカで埋没してしまわないために必要なものであること。
- 個人主義のアメリカでは誰もが弱みを隠して強気で振る舞う必要があること。
- それでも人間の感情としての喜怒哀楽は日本人と何ら変わりないこと
このような経緯を辿るまでに先輩・同僚の教授たち、自らが受け持つ学生、同じアパートに住む住人たちや近所の子どもたちなど、読者を飽きさせない豊富なエピソードと共に紹介してゆきます。
本書に登場する人物やエピソードは、今から40年も前のアメリカの滞在記であることを忘れてしまうほど生き生きとした描写されています。
外国滞在記としては金字塔といえるほどの名著だと思います。
功名が辻〈4〉
信長、秀吉が亡くなり、家康による天下統一がいよいよ迫りつつあります。
もちろんそれは後世から見た我々の目線であり、当時は秀頼・淀君とそれを補佐する石田三成を中心とした豊臣家が健在であり、天下の行方は余談を許さないものでした。
伊右衛門の妻・千代は北政所(寧々)と親しく、また情勢を鋭く見抜く先見性を持っていたこともあり、山内家(掛川6万石)は総力を挙げて徳川家へ味方することに決めます。
多くの大名が徳川家に従い、会津(上杉景勝)討伐への遠征途中ですらも決断に迷っていた中で、伊右衛門は千代の機転により豊臣家からの誘いの手紙を封を開けずに家康へ渡します。
そして家康からの信頼を決定的にしたのが、小山軍議において伊右衛門が掛川の城を徳川家に明け渡して、全軍を率いて対西軍との先陣を願い出た場面です。
6万石の大名が3千人足らずの兵士で先陣を駆けたところで、10万人以上が激突する関ヶ原の戦いにおいて大した影響力を持ちませんが、迷っていた諸大名の決断をうながして東軍を一致団結させるきっかけを作りました。
実際、伊右衛門が関ヶ原の先陣を任されることはなく、後方で戦の経過を見守ち続けるしかありませんでした。
しかし関ヶ原で目立った戦功を立てる機会の無かった伊右衛門へ思いがけなく土佐24万石の領地が与えられることになります。
徳川家へ味方することを決めたからには、率先して徹底的に尽くすという千代の助言を伊右衛門自身が忠実に実行して勝ち得た報酬でした。
そして戦場での働きだけでなく、家康自身が伊右衛門の政治的な功績を正当に評価できる能力をもった名将でもありました。
晴れて24万石の大名になった伊右衛門が、土佐へ赴任して地元の旧長宗我部家の勢力と争いを繰り広げる晩年も興味深い部分です。
30年以上も戦場を駆け巡り出世を重ねた伊右衛門も大大名になった途端に保守的になります。
千代のアドバイスを無視して容赦のない弾圧を加える姿は、器量を超えた責任を与えられたプレッシャーに苦しむ姿でもあったのです。
やがて伊右衛門が亡くなり、千代は見性院として京都で隠居生活に入ります。
夫婦二人三脚で夢を実現したかに見えましたが、彼女にとって台所は火の車でも伊右衛門と目まぐるしく過ごした日々が一番幸せな時期だったようです。
おそらく一足先に亡くなった伊右衛門も同じ想いであったのではないでしょうか。
功名が辻〈3〉
山内一豊(通称:伊右衛門)、千代の物語も後半に入ります。
長寿という要因はと別に家康が天下を掌握する結果を招いた秀吉の失策は2つあります。
1つ目は秀吉が家康を徹底的に討伐することが出来ず「小牧・長久手の戦い」以降に徹底的な懐柔策を取り続けたこと、そしてもう1つは国力を浪費し、加藤清正・福島正則に代表される武断派と、石田三成・小西行長に代表される文治派の対立を決定的なものにした朝鮮出兵ではないでしょうか。
秀吉麾下の武将たちが消耗しつつ仲間割れしている中で、もっとも強力な大名である家康が力を蓄えることが出来たのです。
一方で秀吉が天下統一を果たし、そして亡くなるまでの間、伊右衛門・千代の回りでは一見するとたいした動きは見られません。
それも当然で、国内では戦が無くなり、伊右衛門は朝鮮出兵に加わることもありませんでした。
司馬遼太郎氏の筆も秀吉や家康を中心とした話題へ興味が行ってしまい、ほとんど活躍の場がない伊右衛門にページを割くことなく物語が進んでゆく感があります。
しかしそれは伊右衛門を疎かにしてしている訳ではありません。
伊右衛門自身が歴史の中心に立つことはありませんが、彼の仕えた主君たちがいずれも歴史の支配者であったが故に、彼の周りの出来事が日本史の中心であり続けたのです。
そして朝鮮出兵を免れた大名たちも聚楽第をはじめとした莫大な費用負担を普請に強いられ、"殺生関白"こと豊臣秀次の台頭、そして失脚を通して豊臣政権は求心力を少しずつ失ってゆきます。
功名が辻〈2〉
戦国時代は完全な男社会であり、女性が"武将"として活躍することは皆無でした。
それでも人間社会に男と女しかいないことを考えると、女性が与えた影響は文献の記録以上に大きいものだったことは確実でしょう。
本書の主人公・山内一豊(伊右衛門)の周辺でも、お市の方、北政所(寧々)、淀殿(茶々)といった時代へ大きな影響を与えた女性が存在します。
そして伊右衛門の妻・千代もその中の1人です。
いざという時のために密かに持っていた嫁入りの持参金・黄金十枚を、夫の名馬を手に入れるために使ったというエピソードは有名であり、伊右衛門が信長やその麾下の武将たちに一目置かれるきっかけを作りました。
さらに千代のもっとも優れていた能力は、"人を見ぬく力"でした。
伊右衛門が最初に仕えたのは信長でしたが、これは独身時代の話であり、単に身近にいた有力大名に仕えたというところでしょう。
そして羽柴秀吉の能力を早くから見抜き、秀吉亡き後はいち早く家康の将来性を確信して伊右衛門の方向性を決定づけたのは千代の助言によるところが大きいようです。
伊右衛門自身は正直・律儀だけが長所であり、戦場での槍働きはともかく、時代の帰趨を見ぬくような能力は持ちあわせていませんでした。
ともかく勝ち馬を見抜く能力にかけては、伊右衛門よりも千代が数段は上だったように思えますし、女性だからこそ男の本質を見抜く賢さと眼力が千代に備わっていたのかもしれません。
天下統一を果たした秀吉によって掛川6万石の大名になった伊右衛門ですが、子飼いの有能な加藤清正、福島正伸、石田三成などの若手が次々と昇進して、伊右衛門をあっという間に抜き去ってしまいます。
伊右衛門はこれを悲観して出家しようとさえしますが、この処遇は当たり前といえるでしょう。
たしかに信長時代から最前線で現場を経験してきた実績があるものの、元々が信長直属の武将です。
伊右衛門に優れた武勇や智謀が無い以上、秀吉の腹心たちが先に出世するのは当然です。
それでも彼の人生を見ていると「人間万事塞翁が馬」という諺がぴったりです。
秀吉に重宝され過ぎなかったために、彼の死後に家康へ鞍替えするのに躊躇が少なくて済んだのではないでしょうか。
戦場を30年近く駆け抜けてようやく手に入れた掛川六万石。
そんな吹けば飛んでしまうような大名に飛躍の時が近づきつつあります。
功名が辻〈1〉
土佐藩24万国の開祖となった山内一豊(通称:伊右衛門)の生涯を描いた司馬遼太郎氏の長編小説です。
信長・秀吉・家康と3人の天下人に仕え、わずか50石の貧乏侍から大名へと昇り詰めた"わらしべ長者"の物語といってもよいかも知れません。
この3人に仕えて生き延びた大名は稀であり、伊右衛門が有能であれば50万石以上の大名になっても不思議ではありません。
それが24万石であることを考えると、伊右衛門の武将としての能力は決して高くなかったことを意味しています。
しかし無能な武将であれば出世どころか、戦場で討ち死にするか、仕える主人を誤って共に破滅する道を辿ったはずです。
彼は律儀・正直者といった性格を評価されており、究極の個人主義が主流だった戦国時代に珍しい存在でした。
そして何よりも秀吉の死後、いち早く徳川家康に乗り換えたという経歴に代表される通り、「時勢を見誤まらない能力」が立身出世の最大の要因です。
伊右衛門よりも武勇・智謀に優れた数多の武将たちが次々と消えていったことを考えると、乱世を生き残る能力にかけては、石田三成、真田幸村などよりも有能だったという評価さえできます。
ただしそれさえも伊右衛門を評価する声よりも、この物語のもう1人の主人公、つまり妻の千代の内助の功であったとするのが定説です。
つまり正直・律義だけが取り柄の武将とその賢妻が二人三脚でしたたかに戦国乱世を生き抜く長編小説です。
心は孤独な数学者
数学者であり作家でもある藤原正彦氏が3人の天才数学者を題材にした伝記です。
数学が苦手な私にとっては、彼らの具体的な偉業が何なのかもよく分かりませんが、本書に登場する3人の経歴を簡単に書いてみます。
アイザック・ニュートン(1642-1727)
イギリスの数学者。
また哲学者、神学者としても知らる
有名な万有引力、そして二項定理を発見する。彼の著書「プリンキピア」は古典力学の基礎を築いたといわれる。
ウィリアム・ロウアン・ハミルトン(1805-1865)
アイルランド生まれの数学者。
10歳で10ヵ国語を習得としたといわれ、四元数と呼ばれる高次複素数を発見したことで知られる。
シェリニヴァーサ・ラマヌジャン(1887-1920)
インド生まれの数学者。
正規の大学教育を受けていなかったが、連分数や代数的級数の分野で新しい発見をする。
彼の発表したラマヌジャン予想は、その死後50年以上を経て解決がされ、また彼が残した数々の定理を多くの数学者が証明し終えたのは1997年といわれる。
3人を題材にした小説を書くために、藤原氏はイギリスやアイルランド、そしてインドにまで取材旅行を行うといった徹底ぶりです。
数学者の詳しい仕事は分かりませんが、とてつもない頭脳を持った人たちがなる職業だろうという漠然としたイメージはあります。
しかもこの3人は、その数学者たちが"天才"と認める人物なのですから、努力という次元ではどうにもならない我々とは違った思考回路を持っているとしか思えません。
しかし数学の分野で偉大な業績を挙げた彼らも、社会の中では1人の人間に過ぎません。
若くして名声を得るも、同じく名声を得ようとするライバル数学者たちと延々と論争を繰り広げ、後半生は政治の世界にも足を踏み入れてエネルギッシュな人生を送ったニュートン。
祖国アイルランドが飢饉に苦しみイギリスへ対して反乱を起こす中、ひたすら研究に没頭し、結婚が叶わなかった初恋の女性へ生涯思いを寄せ続けたハミルトン。
そして3人のうちでもっともページを割かれているラマヌジャンはイギリス植民地時代のインドの貧しい環境に生まれ、勉強する環境に恵まれなかったという経歴を持ちます。
そんな彼の書いたノートがたまたまケンブリッジ大学のハーディ講師の目にとまり、一躍注目される数学者となります。
並みの数学者が年に何個も発見できないような定理を、彼は毎朝半ダースも抱えて研究室にやってきたというエピソードがあります。
しかも彼自身は、信仰するヒンドゥー教の女神ナマギーリが夢の中で定理を授けてくれたと信じて疑いませんでした。
イギリスに渡り数学に打ち込む環境を手に入れたラマヌジャンでしたが、熱心なヒンドゥー教徒であり厳しい戒律を守っての暮らしは孤独であり、帰国して間もなく病気により若くして亡くなるという運命を辿ります。
数学者としてこの上ない名誉を得た3人ですが、彼らも普通の人と同じように人生に戸惑い悩みを抱き続けたという点は共通しており、読者としても共感を覚える部分が多かったと思います。
ちなみに本書は彼らの業績の中身よりも、その人生に重点を置いて書いてくれているので、私のような数学の素養がない人でもまったく違和感なく読むことができます。
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遥かなるケンブリッジ―一数学者のイギリス
数学者の藤原正彦氏がイギリスのケンブリッジ大学へ1年間の留学を行った体験と、そこで肌に触れたイギリス文化を鋭い観察眼で描いたエッセーです。
留学といっても藤原氏がケンブリッジ大学へ留学したのは数学者としての地位を得た中年になってからであり、妻と2人の息子を伴っての赴任という形です。
著者は私もファンである作家の新田次郎、大ベストセラーとなった「流れる星は生きている 」で有名な藤原てい夫妻の次男です。
数学者とはいえ血は争えないものらしく、藤原正彦自身もベストセラー作家として有名です。
イギリスでは"オックスブリッジ"と称され、オックスフォード大学と双璧をなす伝統と実績を持ったケンブリッジ大学。
約800年前に創立した同大学はイギリス文化を凝縮したものであり、ベーコン、クロムウェル、ダーウィン、ニュートンといった歴史的偉人が多く在籍し、世界で最多の81人ものノーベル賞受賞者を排出した大学として知られています。
晴天が少なく曇りがちの気候であるイギリス。
一見すると、陰気で社交性に乏しいイギリス人の気質に、訪れた外国人の気分が滅入ってしまう重苦しい雰囲気が漂っています。
しかしそこには伝統を重んじて最新の流行や成金主義を軽蔑する風潮、不便さに耐えてまでも古いものを尊重する自虐的とさえいえる考えは、日本人にも理解できるかも知れません。
著者も最初は排他的で頑固なイギリス人の文化に対してストレスを感じますが、イギリス人たちと交流を深めるうちに彼らが親身になって助けてくれること、そしてユーモアを尊重する人びとであることを理解してゆきます。
また「紳士の国」だけあって、フェア(公正)さを重んじる精神があり、日本の"親切"とも通じる部分があります。
弱い立場の人を援助するとき、日本人は「かわいそう」、「弱い人を助けるのは当たり前」といった道徳的なものが動機になりますが、イギリス人は「フェアであるべき」という騎士道的な精神が動機になるのではないでしょうか。
世界中にはイギリスよりも歴史のある国が数多くありますが、それでもイギリスほど伝統を重んじる国は殆どないのではないでしょうか。
17世紀から19世紀にかけて世界の7つの海を制覇した「日の沈まない国」と謳われたイギリス帝国の姿は見る影もありませんが、それでも彼らは外国から1度も征服されておらず、本当の挫折を味わっていません。
つまり成熟・洗練・老練というキーワードがピッタリときます。
藤原氏はイギリス人やその文化を自らの体験を元に鋭く観察しており、次のように評しています。
イギリスは何もかも見てしまった人びとである。
かつて来た道を、また歩こうとは思わない。
食物や衣料への出費は切り詰めているが、精神的余裕の中に、静かな喜びを見出している。
不便な田舎の家の裏庭で、樹木や草花の小さな変化に大自然を感じ、屋根裏をひっかき回して探し出した曾祖父の用いた家具に歴史を感じながら、自分を大切にした日々を送っている。
もちろん悲しみや淋しさを胸一杯に抱えてはいるが、人前ではそれをユーモアで笑い飛ばす。シェイクスピアの「片目に喜び、片目に涙」である。
外国での暮らしを題材にしたエッセーは数多くありますが、優れた視点で書かれた秀逸な1冊です。
逮捕されるまで 空白の2年7カ月の記録
殺人容疑で逃亡を計り、連日報道を賑わせた市橋達也。
タイトル通り、本書は市橋達也自身が2年7ヶ月に及ぶ逃亡生活の記録を出版したものです。
自宅のマンションから警官を振り切って逃げ、全国を徘徊、そして四国のお遍路、沖縄での無人島生活、建設会社で住み込みで働いていた経緯が淡々と書かれています。
市橋自身に自首という選択肢は無かったようであり、身元が明らかになる危険性が少しであると姿をくらますといった張り詰めた日常を過ごしてゆきます。
時には寒さや飢えに耐えるといった生活が続き、本人曰く「懺悔の気持ちを抱きながらの逃避行」だったこともあり、惨めな生活であったかも知れません。
しかし一方で両親をはじめとした家族、そして自身の過去に触れている箇所は皆無であり、犯行動機や犯行場面の描写もありません。
つまり本書がどこまで信憑性を持つかは微妙なものであり、本書に書かれている内容が事実であったとしても表面上のものであり、彼が心の中を余すこと無く暴露した本とは言い難いものです。
指名手配されていた市橋は、いつ逮捕されるかという恐怖、そして日々の糧を得るための手段を求めることに精一杯であり、それによって自らの罪悪感と向き合うことを避けていたという見方もできます。
自らの逃亡生活を描いているにも関わらず本書は主観性のない淡白なものであり、だからこそ出版という形を取れたのかも知れません。
このような"淡白さ"の中にこそ、彼が犯罪に至った本質があるように思えてなりません。
遠き落日(下)
病的な浪費癖のある野口英世ですが、彼は学問、研究においても病的なまでに熱心でした。
欠点が大きければ大きいほど、長所もまた大きいといったタイプの人間です。
アメリカ研究者時代に同僚から「24時間不眠主義者」、「人間発電機(ダイナモ)」というあだ名を付けられ、それが決して大袈裟な表現でなかったというエピソードが数多く残っています。
つまり彼の"熱心さ"は到底常人が真似できる次元ではなく、さらに地位や名誉を得てのちも日常のように続けられました。
また彼がなぜ細菌研修者としてのキャリアの大部分をアメリカで過ごしたのかといえば、学閥や年功序列といったものが幅を利かせる日本医学会の中に彼の居場所は無く、肩書や出身を問わず、"実力のみがすべての世界"でしか彼が名声を得る余地がなかったといえます。
1度の面識しかないフレスキナー教授の元へアポなしで押しかけ、研究助手として無理やり居着いてしまうといった彼の無計画さには呆れるばかりですが、そこで一歩ずつ実績を残して世界的な研究者として出世する過程も、他人を押しのけてでも自らの研究成果をアピールするという当時の日本人に殆ど見られなかった自己主張の強さが良い作用をもたらした面があります。
つまり奴隷同然の待遇から世界の国々から来賓として迎えられるほどの研究者になってゆくストーリーは、綺麗事が殆ど入り込む余地のない生々しいものであり、そこから等身大の"野口英世"が浮かび上がってきます。
もちろん美談もありますが、物語全体では偉人として幻滅するエピソードの方が多いような気がします。
結果的に大きな愛情を注いでくれた母・シカ、そして多大な援助をしてくれた人びとに充分な恩返しをする間もなく、黄熱病によって世を去ることになります。
しかし猪苗代湖近くの貧しい農家に生まれ育ち、世界へと羽ばたいた偉大な学者が存在したというのは事実であり、それは決して美しい姿ではなかったもしれませんが、人びとに鮮烈な記憶を残して去っていったということは間違いありません。
世間一般に浸透している左手にハンデを負いながらも、地道な努力によって名声を手に入れたという輪郭のぼやけた聖人君主の"野口英世"よりも、人間としてさまざまな欠点のある生々しい"野口英世"に魅力的に感じてしまうのだから不思議です。
遠き落日(上)
日本の偉人列伝の中に名を連ねる"野口英世"。
私自身も子どもの頃に家族旅行、修学旅行と2度ほど猪苗代湖の湖畔にある野口英世記念館に訪れた思い出があります。
その記念館で買ってもらった伝記を小学生の頃に読みましたが、一般的な野口英世のイメージをなぞる内容だったと記憶しています。
特に幼児の頃に囲炉裏で大やけどを負い、左手にハンデを抱えるというエピソードは、あらゆる伝記で有名なエピソードです。
また大変貧しい家庭の中で育ち、不自由な左手を馬鹿にされる英世(精作)を庇い、励ます母・シカの元で勉強に励み、やがて世界的に有名な細菌研究者として名を馳せるといったものが、多くの伝記に共通するあらすじではないでしょうか。
たしかに親であれば、子どもへ野口英世の爪の垢を煎じて飲ませたいほどの美談ですが、当時の私にとってあまりにも現実離れした内容であり、また彼の偉業の具体的な内容を理解できる知識が無かったこともあり、"何となく偉い人"という印象に留まっていました。
蛇足ながら当時の千円札は"伊藤博文"であり、なおさら"野口英世"を身近に感じる機会がありませんでした。。
本書は外科医出身であり、日本を代表する作家でもある渡辺淳一が8年におよぶ構想の末に描き上げた、野口英世の伝記小説です。
著者は野口英世の辿った足跡を追って、アメリカ、南米、そしてアフリカにまで取材に行ったという熱の入れようです。
そして偉人の伝記にありがちな虚像と実像の溝を埋めて等身大の人間・野口英世を描いたという点に本書の特徴があり、大人向けの伝記であるといえます。
英世の母・シカは朝早くから夜遅くまで身を粉にして働き、貧しい中で3人の子どもを育てますが、その原因は母子家庭であることではなく、父親が怠け者でおまけにアルコール中毒者であり、貧乏に嫌気が差して失踪してしまうことに原因がありました。
彼は行き場を失って英世が成人ののちに家に帰ってきますが、英世自身は生涯、父親として認めることはなく冷淡に遇し続けました。
そんな環境にも関わらず英世が研究者として就職できた最大の理由は、彼自身の天賦の才能によるものでした。
それは級友、恩師や友人から"金をせびる"ことであり、教科書から学校へ通うための教育費、更には遊興から女遊びまで借金で賄うという才能です。
実際には"借金"というべきものではなく、返済されることは皆無といっていいものでした。
研究者として渡米する際にも、渡航費用の一切をスポンサーたちからの資金集めで賄い、また渡米直前となってそのすべてを遊興(正確には羽目を外し過ぎた自らの送別会)で使い果たすといった逸話は、通常の人間では考えられません。
つまり彼自身の金銭感覚が皆無であり、一種の人間的欠陥といえるまでに酷いもだったということです。
それでも人のいい恩師の血脇守之助は、英世の世間体を取り繕うために家財を担保に入れてまで渡米費を作り出すといった涙ぐましい援助を行います。
また地元の旧友であり、金持ちの薬屋の息子である八子弥寿平にいたっては、家業が傾くほどの莫大な援助を英世へ行い続けました。
これだけの金をせびるという行為は、やはり通常の神経を持った人間であればとても真似できるものではありません。
勉学上の援助の枠をはるかに超えた援助にも関わらず、無限の浪費癖のある英世はいつも金に困っていました。
驚きべきことに、彼が名声と地位を得るに従って膨大な報酬を得るようになってからも状況はまったく変わりませんでした。
小・中学生向けとしてはお薦めできませんが、大人にはぜひ読んでもらいたい伝記です。
ユニクロ 世界一をつかむ経営
全国展開前の時代からユニクロを見てきた著者が、代表の柳井正氏の人間像にスポットを当てながら、その軌跡や経営手法を紹介してゆく本です。
個人的にユニクロに行く機会は余りありませんが、もはや日本中でユニクロが出店していない町は珍しいとまでいえる状況です。
私がはじめユニクロを知ったのは15年近く前の学生の頃でしたが、そのコンセプトに新鮮味を感じたことは覚えています。
やがて店舗数が爆発的に増え、いつの間にか日本でもっとも知名度の高い衣料店チェーンになっていたという印象です。
そんなユニクロがどんな経営判断をして販売戦略・商品開発、そしてマーケティングを手掛けていったかを詳細に知ることができ、ユニクロを率いる"柳井正"という経営者の考えも本書で充分に紹介されています。
おそらく本書はビジネス書に分類されるのでしょうか、個人的には"ユニクロ"という存在を知るための参考書という感想を持ちました。
パナソニックやソニーの時価総額に迫るユニクロは、完全に成功したビジネスモデルであるといえ、本書に書かれている内容は既に過去のものです。
ユニクロを題材にしたビジネス書は数多くあり、ユニクロに関する本をはじめて読む人を除いては、特に目新しい発見はないように思えます。
そんな中で本書を読んで一番印象に残ったのは、人間・柳井正です。
数々の失敗を経験しつつも、その不屈の精神力、時代の流れを読む判断、既成概念に囚われない合理的で斬新な考え方は、稀代の起業家として歴史に名を刻むでしょう。
一方で停滞するユニクロの現状を打破すべく役員全員を解任するといった荒療治を行った過去、全従業員に企業理念を徹底させるという姿勢は、妥協を決して許さない厳しい人間像をも浮かび上がらせます。
それは超大企業となったユニクロ自身にとってさえ達成が容易ではない、中・長期目標を掲げる点からも伺い知ることができます。
目標に到達するためには柳井氏以下、全社員が団結して志を共にしなければ達成は困難でしょう。
「彼の志に賛同できる者のみがユニクロに集うことができる」
今までの単なる衣料の巨大チェーン店という印象だけでなく、これが本書を読んで新たに感じたユニクロへの印象です。
しかし強力なカリスマである柳井氏も来年で65歳になるようです。
本当のユニクロにとっての正念場は、彼が引退した後にやって来るように思えてなりません。
鳥居耀蔵 -天保の改革の弾圧者
江戸時代の三大改革の1つである天保の改革。
詳しい内容はネットでも調べらるのでここでは割愛しますが、老中の水野忠邦が推進した改革として知られています。
そして本書のタイトル「鳥居耀蔵(とりい・ようぞう)」は、その忠邦の右腕として活躍した人物です。
時代劇や歴史ファンであればご存知だと思いますが、決して良い意味で活躍した人物ではありません。
甲斐守耀蔵(かいのかみ・ようぞう)を並び替えて"耀甲斐"、つまり"妖怪"とあだ名されるほど恐れられ、そして嫌われた存在であり、本書も「耀蔵=悪人」というスタンスに立って書かれています。
商人の後藤三右衛門、天文方の渋川六蔵と揃って「水野の三羽烏」として恐れられましたが、鳥居耀蔵がその筆頭格でした。
さらには忠邦の改革の旗色が悪いと見るや身を翻して反対派に回るという節操のない豹変ぶりも憎まれる原因であったといえます。
本書では忠邦により目付、そして南町奉行に抜擢されるものの、目障りな人物への罪の捏造、執拗な密偵、賄賂の受け取りなど、自分の出世欲を満たすためなら手段を選ばなかった経緯が細やかに書かれています。
ちなみに当時の北町奉行が遠山景元(遠山の金さん)であり、当然のように耀蔵にとっては邪魔な存在でした。
もともと善人が屈折して悪人になったという分かりづらいタイプではなく、時代劇に出てくる悪人像そのもので非常に分かりやすいです。
ただし凡庸な人物では、ここまで悪人として有名にはなれません。
耀蔵の計画性や実行力は人並みのものではなく、また学問もあり度胸もあったように思えます。
つまり有能だったにも関わらず、その才能の用い方を誤ってしまった典型的なタイプです。
そもそも天保の改革は幕府の放漫な財政、揺るぎつつあった統制を引き締めるために行われたのであり、その意味では他の改革と何ら変わりません。
またその過程では改革の主導者となる強力なリーダーシップを持った人物が必要であり、その権力に寄り添って手段を選ばずに昇進を遂げようとした悪人の代表格が"鳥居耀蔵"であったということです。
結果的に天保の改革の失敗は、水野忠邦自身のリーダシーップ不足や鳥居耀蔵の暗躍が最大の原因だったとは思えません。
当時は大塩平八郎の乱や蛮社の獄など、幕府権力の衰退を象徴するような事件が立て続けに発生し、天保の改革が頓挫して10数年後には黒船来航から一気に幕府の瓦解に向かってゆくことを知っている後世の視点から見れば、すでに改革に耐えうる体力が徳川幕府には無かったと見るのが正しい気がします。
改革が現状打破の性格を持っている以上、既得権益を持った人びとを排除するというのは仕方ないのかもしれません。
しかし改革自体が新しい権益を生み出すといった構図は、復興予算という名目のもと、バラマキの恩恵に預かる官僚や企業の姿と似ているかもしれません。
忠邦失脚後に鳥居耀蔵は有罪とされ、23年間にも渡って丸亀藩に預けられ幽閉されることになります。
やがて年老いて明治時代に釈放された鳥居耀蔵にとって時間は天保の改革で止まったままであり、力を失った1人の老人が江戸から東京へと変わった時代の流れに取り残される姿には、善悪を超えた悲哀を感じます。
習近平の密約
2012年3月に世界最大の人口を擁する中国の国家主席に任命された習近平。
同時に独裁政党・共産党の最高位(中国共産党中央委員会総書記)、軍の最高指導者も兼任にしており、今後の日中関係に留まらず、世界の政情においてもキーマンといえる存在です。
しかしそれは、中国において習近平がすべての権力を握っていることを意味しません。
13億人の人口を抱える中国において共産党員は約9千万人であり、人口の10分の1以下です。
また共産党には元老院ともいえる存在があり、最長老の江沢民、表舞台から去ったばかりの胡錦濤たちが隠然たる力を持っています。
むしろ現時点では共産党内部における習近平の地位が盤石であるとは言いがたく、現在進行形で共産党指導部たちの面子、そして権力闘争が継続している状況であることを本書は生々しく伝えています。
例えば、最近も報道されている元共産党幹部・薄熙来(はくきらい)の裁判報道などは、たまたま共産党内部の権力闘争やイデオロギーの対立が一部表面化したものであるといえます。
本書は薄熙来の台頭、そして失脚についてはかなりの紙面を割いて言及しており、今の中国の姿を伝える本として参考になります。
それでも国家の核心的問題、分り易くいえば共産党の一党独裁の基盤を揺るがしかねない問題については団結して一切の妥協を許さないという姿勢を崩しません。
例えば尖閣諸島における領土主張、そしてチベット自治区における独立運動への徹底した弾圧などにその例を見ることができます。
中国四千年の歴史といわれますが、数々の群雄割拠の戦乱時代、他民族による支配など多くの遍歴を経て今に至っています。
一方で中国共産党の歴史は100年に満たず、革命家であり、政治家、思想家でもあった毛沢東の影響が今も色濃く残っているのが現在の中国であり、その矛盾が少しづつ表面化しつつあります。
ニュースや新聞で報道される情報は、国内で徹底的な報道規制を布いている中国共産党の一方的な内容が中心であり、それは中国が本来持っている多面性の1つでしかないともいえます。
過去、そして現在の習近平は独断専行型ではなく、調整能力に優れたバランス型の指導者であるといえます。
しかしひょっとすると、それは権力の中枢に上り詰め、地盤を固めるための仮の姿であり、彼が将来、強力な影響力を持ったときに同じような性格であることを保証していません。
それくらい中国共産党の内部は奥深く、そしてタイトルにあるように様々な密約によって運営されている国家であることを本書は伝えています。
京都見廻組史録
幕末の京都で新撰組と並ぶ代表的な存在だった見廻組。
清河八郎を暗殺した凄腕の剣士・佐々木只三郎、近江屋事件で坂本龍馬の暗殺に関わったと告白した今井信郎が有名ですが、全体的な知名度では新撰組に劣り、幕末ファンから見ても"脇役"という存在ではないでしょうか。
実際、(書籍、映像問わず)新撰組を題材にした作品が多数あるのに対し、京都見廻組を題材にした作品は皆無といってもいい状態です。
しかし新撰組が百姓を中心とした最盛期でも百数十人の集団であったのと比較して、見廻組は旗本や御家人を中心に最盛期には500人以上の人数で構成されていました。
つまり人数数で考えると、戦闘集団としての見廻組の武力は新撰組を凌駕していたという見方ができます。
本書はタイトル通り、残された歴史文献を丁寧に調べて京都見廻組の結成から解消までを丁寧に紹介してゆく解説書です。
内容は原文が多く引用されており、専門書もしくは参考書に近く、一般読書向けではないかもしれませんが、本書ではじめて知った見廻組の知識を簡単に書いてみます。
- 京都見廻組の責任者(京都見廻役)は、小大名ないしは大身の旗本といった高い身分の者が幕府より直接任命された。
- 京都見廻役は2名からなり、それぞれ200名(合計で400名)を定員とした組士が割り振られた。
- はじめは蒔田相模守、松平因幡守(のちに出雲守)が見廻役であったが、人事異動や罷免などで何度か入れ替わっている。
- とはいえ、見廻役自らが現場に出向ことは皆無であり、日常の任務は現場の指揮官に一任されていた。
- 新撰組が積極的な探索を行ったのと比べ、見廻組士は武士階級で構成されていたこともあり、公家や大名などの要人、そして重要施設の警備を担当する機会が多かった。
- 見廻組には新撰組の局中法度のような厳しい隊規は存在せず、粛清なども殆ど行われなかった。
その他にも組士たちの給料(役料)から鳥羽・伏見の戦いにおける見廻組の損害、江戸へ退却したあとの組士たちの運命までの軌跡を個人単位で追っています。
太平の世が突如破られて、招集された侍たちの集団・京都見廻組。
彼らが残した歴史の足あとを知りたいという方には貴重な本であるといえます。
高橋是清と井上準之助 - インフレか、デフレか
明治後半から昭和初期を代表する財政家であり、政治家でもある高橋是清と井上準之助の軌跡を描いたノンフィクションです。
まずは分り易く2人の経歴をごく簡単に紹介してみます。
高橋是清
(1854 - 1936)日銀副総裁、日銀総裁、6度の大蔵大臣、そして内閣総理大臣を経験。
インフレ政策の推進者、財政の拡大方針をとったことで知られる。
井上準之助
(1869 - 1932)2度の日銀総裁、そして2度の大蔵大臣を経験。
金解禁政策(=金本位体制)を提唱、緊縮財政で知らられるデフレ政策の推進者として知られる。
経歴が似ているにも関わらず、政策の中身が対照的です。
もちろん財政政策は国際情勢や経済状況によって柔軟に行われるべきもので、一方の政策を賛美して、一方を貶めるものではありません。
日露戦争、第一次世界大戦、関東大震災、そして世界恐慌、太平洋戦争へと続く満州事変という激動の中で日本財政の中枢部にいた2人は、まるで互いを補完し合うかのように歴史の表舞台に交互に登場して活躍します。
しかし芯の部分では、2人には共通している部分があります。
それは日本を世界の列強国へ押上げるため、政治家としての責任を果たそうとする姿勢です。
本質的には2人とも戦争行為は国力を著しく消耗するものであることを承知しており、軍部の政治介入や軍備拡大には反対の立場をとっていました。
そして2人とも命を狙われていることを承知しながらも自らの信念に従い政策を実行し続け、残念なことに右翼勢力の暗殺によって命を失うことまでも共通しています。
是清は「身を鴻毛の軽きに致す」、つまり国家のために一身を捧げて命を落とすのは少しも惜しくはないと生前語ったようですが、今の日本にもそれだけの覚悟を持った政治家が活躍してくれることを願いたいものです。
清水次郎長 幕末維新と博徒の世界
日本でもっとも有名な侠客・清水次郎長。
幕末から明治前半にかけて活躍した山岡鉄舟を知っている人であれば、鉄舟を師と仰いだ侠客としても有名です。
本書はそんな清水次郎長の生い立ちから波乱に満ちた人生を終える74歳までを丁寧に網羅しています。とくに壮年期の活躍については、主に次郎長の養子である天田愚庵の著書「東海遊侠伝」を引用して紹介しています。
侠客の世界は幕府の法が及ばないアウトローな世界を中心に繰り広げられるため、歴史の表舞台で活躍した人と比べて記録自体が少ないのも事実です。
一方で、次郎長の生きた時代は幕末の動乱期とも重なり、侠客の世界に生きた次郎長も無縁ではいられませんでした。
次郎長の半生を語る上で、こうした時代背景を欠かせない要素として丁寧に解説してゆきます。
恐らく明治維新が無ければ"清水次郎長"の名前が歴史に刻まれることもなく、江戸時代に活躍した侠客の大親分の1人として記録されるに留まったでしょう。
講談での清水次郎長は義侠の代名詞であるかのように語られますが、実際に保下田久六、黒駒勝蔵たちとの抗争は血を血で洗う凄惨なものであり、殺伐としたものであったことが本書から伝わってきます。
しかし次郎長が侠客としての腕っ節、度胸、そして生き残るための知恵に優れていたことは事実です。
本書は次郎長の生涯を史学的な視点で書いているため、それほど講談めいた逸話が収められているわけではありませんが、それだけに等身大の"清水次郎長"を感じられる1冊です。
海のサムライたち
多くの海を舞台とした歴史小説を手がけている白石一郎氏のエッセーです。
突然ですが日本は四方を海に囲まれているにも関わらず、誰もが挙げるような海戦の名将は少ないのではないでしょうか。
もちろん例外はあるものの、私なりに考えただけでも以下の理由が挙げられます。
- 四方を海に囲まれているからこそ、権力の推移が外部の影響を受けない国内で行われ続けた。
- 海を超えた隣国からの武力的な脅威に晒され続けた状態ではなかった。
- 国内に充分な土地があり自給自足可能な状態であったため、海外へ進出する積極的な理由が見当たらなかった。
- 江戸時代初期に始まった鎖国制度によって、政策的に海外との通商を制限された時期が長く続いた
しかし実際には、海で活躍したサムライが皆無だった訳ではありませんし、日本と海外との交易は常に行われ続けました。
そんなサムライたちにスポットを当て続けた白石氏の歴史小説は、新しい視点を読者に与えてくれる貴重な作品です。
本作は長年に渡って海洋歴史小説を書き続けた豊富な知識と知見で書かれた歴史エッセーであり、その内容も実に興味深いものです。
実際に本書に収録されている章を紹介します。
- 藤原純友~古代の海賊王
- 村上武吉~海上王国を築いた男
- 松浦党と蒙古襲来
- 九鬼嘉隆~織田水軍の総大将
- 小西行長~海の司令官
- 三浦按針~旗本になったイギリス人
- 山田長政~タイ日本人町の風雲児
- 荒木宗太郎~王女を嫁にした朱印船主
- 鄭成功~日中混血の海上王
- 徳川水軍と鎖国制度
どの章も期待を裏切らないレベルの高いエッセーです。
もちろん歴史学者としてではなく、作家・白石一郎氏の独自の視点で書かれていますが、著者の考えがよくまとめられており、その軽快な筆運びと説得力は、司馬遼太郎のエッセーを彷彿とさせるものがあります。
歴史ファンには必読の書といえるほど、お薦めしたい1冊です。
孤舟
渡辺淳一氏が定年を迎えた1人の男をテーマに描いた小説です。
大手の広告関係会社の役員にまで出世し、定年を迎えた威一郎。
輝かしい第二の人生の幕開けのつもりだったが、家にいる時間が長くなるにつれ妻との関係は険悪になり、打ち込むほどの趣味も持たない威一郎はやがて時間を持て余すようになり、少しずつ社会と疎遠になってゆきます。
何とも気の滅入るような設定です。
40年近く勤めた会社を定年し、子どもは数年前に独立している、まさしく団塊世代へ向けて書かれた作品ではないでしょうか。
威一郎のように大手企業の役員にまで昇り詰めた人物であれば、その半生を仕事一筋に捧げたといってもよいような日々を送り、会社での実績に裏打ちされたプライドを持っているであろうことは容易に想像できます。
私の周りの団塊世代と比べると、少し一般的ではないかも知れませんが、モデルケースとしては比較的リアリティを感じさせる内容になっています。
作品自体は最初から最後まで1本の線でつながっているため、読みやすい作品です。
しかし私自身に置き換えてみると、少し感情移入(=実感)はしずらいかも知れません。
それは順調であれば約40年にも及びサラリーマン人生の半分にも到達していないこともありますが、やはり経済成長と終身雇用制度が当たり前だった時代の企業戦士"がモデルであり、私が生きている時代とのギャップが大きいのです。
サラリーマンという鎧を脱ぎ捨てた後に何か残るのか?
最近では生涯現役という団塊世代の人たちも増えていますが、一方で定年を迎えたとたんに老けこんでしまう人もいるようです。
もちろん老後も含めて人生は人それぞれですが、本作品はそうした人びとへ向けて書かれた応援歌のような気がします。
終わらざる夏 (下)
"戦争"は理不尽に人の命を奪いますが、国家間で行われるものである以上、特定の個人にすべての責任を帰すことはできません。
それだけに銃や戦闘機、戦車・・・そして最前線で死んでゆく兵士たちのみに焦点を当てても"戦争"の正体は捉えがたい、つまり小説という洗練された表現手法を介しても描ききることは不可能なもかも知れません。
実際の戦争体験談を基にしたノンフィクション、もしくは史実にベースとしながらストーリーを組み立てるフィクション小説といった読者へ伝わりやすい作品と比べると、本作品は多少分かりづらい側面があります。
それは戦火をくぐり抜けてきた歴戦の兵士をはじめ、突然赤紙で招集された新米兵士といった軍隊側から見た人たちの視点、そして残された家族たちや、空襲によって被害を受けた市民たちの視点、疎開した子どもたちや、それを引率する教師、さらには占守(シュムシュ)島を侵攻するソ連兵側からの視点といった、あらゆる角度で戦争を見つめているからです。
ひょっとすると、特定の人物(=主人公)の視点で物語が固定されていないため、ストーリーの中で次々と感情移入する対象が変わってゆくため、読んでいて疲れてしまう部類の作品なのかもしれません。
やがて1人1人の物語を支流として、占守島を舞台とした本流で合流してゆき、彼らの人生を決定付ける出来事へ繋がってゆきます。
まるで浅田次郎氏が1つ1つの物語を楽器のように巧みに指揮してゆく、オーケストラような組み立てであり、著者の意欲が伝わってきます。
「戦争は悲惨だ。よって二度と引き起こしてはいけない」という言葉を鵜呑みにするだけでは充分ではありません。
同時に「戦争を引き起こすのは人間しかいない」のであり、その戦争に携わった人びとの大多数が、現代の我々と同じ感性と持った"普通の人たち"であったことを本書は諭しているのかもしれません。
読み終わって、はじめて物語のスケールの大きさに気付かされる作品であり、人によってさまざまな余韻が残る作品です。
終わらざる夏 (中)
引き続き、太平洋戦争末期を舞台にした浅田次郎氏の「終わらざる夏」をレビューしてゆきます。
本書を読み始めてしばらくすると、典型的な浅田氏の作品とは違った手法で書かれていることに気付きます。
つまり人情小説や歴史小説、そしてエッジの効いたフィクション小説の作品のいずれにも属さないタイプの作品です。
どちらかといえば純文学、さらに細分化すれば「戦争文学」といえるかもしれません。
本書では一流のストーリーテラーといわれる浅田氏の顔は影を潜め、「国家と戦争」という形の無い巨大な化け物に翻弄される人びとの心理描写にひたすら徹してゆきます。
その中の一部ですが、登場人物を並べてみます。
- 本来ならば徴兵の対象に入るはずの無かった40代半ばの会社員・片岡直哉
- 軍医として招集された若き医師・菊池忠彦。
- 金鵄勲章を授与されるほどの軍功を立て退役していたが、再招集された鬼熊軍曹。
- 第一次大戦以来、叩き上げの大日本帝国陸軍の下士官である大屋准尉。
- 戦車隊を志願した少年兵・中村兵長。
- 参謀本部より密命を承けて占守(シュムシュ)島に派遣された若き将校・吉江少佐。
その他にも軍人・民間人に関わらず、多くの人物が登場します。
小説を読み慣れていないと、混乱してしまう程の人数ではないでしょうか。
もちろん長編小説であるため登場人物が多いのは当然ですが、ストーリーそのものは彼ら(彼女ら)の歩んできた道や心理描写を通じて、少しづつ進行してゆきます。
当然のように立場の違う人びとの戦争へ対する想いは人それぞれです。
戦争を自分の運命として受け入れる人もいれば、戦争の勝敗などどうでもよく一刻も早い終戦を望んでいる人もいます。
それでも共通するのは戦争に巻き込まれながらも家族や仲間を大切にし、決して絶望せずに生き抜こうとする姿なのです。
終わらざる夏 (上)
本作は2010年に発表された浅田次郎氏の作品です。
集英社が実施している夏の文庫本フェア(ナツイチ)で本屋に積まれていたのが目に止まって思わず手にとってしまいました。
このフェアの中でAKB48のメンバーが読書感想文を書くという企画が実施されていますが、若者の活字離れが進む中で、新しい読者層を増やそうという出版社の試みには興味を持ちました。
浅田次郎といえば短篇小説の方が好きなのですが、本作品は太平洋戦争末期を舞台にした長編小説です。
夏といえば終戦記念日(8月15日)が含まれており、この時期に戦争を題材にした作品を読むことを是非お薦めしたいところです(皮肉にもこういう視点からフェアを開催する出版社は無いようですが。。。)。
終戦は1945年に訪れますが、この年の第二次世界大戦の戦況を客観的に見ると、日本は一方的に防衛ラインを縮小し続ける絶望的な状況であり、兵力も物資も不足する中で大本営はまとまな作戦を立案できる状態ではなく、半ばやけくそともいえるような消耗を続けてゆきます。
仮に"あと10ヶ月早く降伏"という決断が取られたなら、比島(フィリピン)攻防、硫黄島の玉砕といった徴兵された軍人のみならず、沖縄の本土決戦、空襲や原爆による多数の民間人の死者を大幅に減らすことができました。
結果はご存知の通り、近代史の特徴である総力戦という例に漏れず、悲しいことに国家が徹底的に疲弊するまで戦争が遂行されることになります。
その中で終戦のわずか1週間前に行われた、ソ連の対日宣戦布告、そしてその結果として行われた満州国や樺太へ対する侵攻(そして終戦後の抑留)も戦争の傷口を広げた代表的な例であるといえます。
本ブログでもシベリア抑留と比べて、あまり知られていないカムチャッカ抑留を題材とした本を紹介していますが、本書は同じくソ連軍の侵攻を受けた千島列島の占守島(しゅむしゅとう)を題材にした作品です。
8月15日の日本の降伏の後も戦いは続行され、その後も命を失った軍人や民間人が存在したことを忘れてはなりませんし、「終戦記念日=戦争の終結」と考えるのは間違っています。
歴史的に見れば、あくまでも8月15日は日本がポツダム宣言を受け入れて無条件降伏した日でしかありませんし、本書のタイトルもそういった意図で付けられたに違いありません。
いつものように上巻では作品内容をロクにレビューできませんでしたが、次回から少しずつ紹介してゆく予定です。
ユダの覚醒(下)
シグマフォース・シリーズの三作目「ユダの覚醒」の下巻を引き続きレビューしてゆきます。
ある島で発生した奇病、その正体を知るためににピアース隊長たちは、マルコ・ポーロ「東方見聞録」の失われた章の断片を求めて世界中を飛び回ります。
一方である島で発生した奇病は、その病原菌を生物兵器として悪用しようとする"ギルド"の計画であり、同じくシグマフォースのモンク隊員が彼らを相手に奮戦します。
今回は謎解きと対象となるのが「東方見聞録」のみのため、失われた古代の科学技術や、巨大な組織であったナチスを題材とした前作品までと比べて、ミステリーの規模や奥行きが浅いといった感想を持ちました。
もっともシリーズを3作連続で読んでしまったことにより、慣れてしまった感も否めません。
しかし上巻ではじっくりと謎解きに時間かけて進んでいたストーリーですが、下巻では怒涛のように展開してゆき、テンポのよいスパイ小説のように一気に読むことが出来ました。
次作へ続くとおもわれる伏線も残されており、シリーズのファンを意識した終わり方になっています。
今アメリカでもっとも勢いのあるシリーズ作品の1つであり、またそれに相応しいエンターテイメント性を持った作品であることは間違いありません。
そして1作目のレビュー時に感じた、アメリカ人作家にしか書けない作品であるという印象は、3シリーズ目を読み終えた今でも変わっていません。
著者であるジェームズ・ロリンズの公式ページを見てみましたが、現時点でシグマフォース・シリーズは11作目まで発表されているようです。
2004年に1作目が発表されたことや、1作あたりの長さを考えると、かなりのペースで書かれています。
また翻訳出版している竹書房のホームページでは4作品目まで発売されており、8作品目までが翻訳&発売予定であると書かれています。
既にファンである読者、これから読んでみようと思っている読者にとって充実したラインナップであることも魅力の1つであるといえます。
私も時間を置いて、4作品目以降も読んでみようと思います。
ユダの覚醒(上)
シグマフォースシリーズの3作目になります。
さすがに立て続けに3作品めに突入すると、ストーリーの展開がだいたい分かってきます。
- 最初に大きな謎が読者に提示される
- その謎を解き明かすため、巨大な陰謀(平たくいえば悪事)の実行が計画される
- ピアース隊長率いるシグマフォースが出動する
- 本格的なストーリー(謎解き)に突入する
だいたいこのような流れですが、良い意味でも悪い意味でも"シグマフォースシリーズの安定感"、つまり読者の期待を裏切らない謎解きが展開されてゆく一方で、どこかマンネリ化を思わせます。
ただしシリーズの作品の質は高いレベルで維持を続けており、ピアース隊長やクロウ司令官といったレギュラー陣のほかに、1作目で活躍したモンク隊員や、ヴァチカン機密公文書館のヴェローナ館長、ギルドの謎の工作員・セイチャンといったキャラクターが再登場します。
1作目からの読者にとっては嬉しいサプライズである一方で、1タイトルでストーリーが完結するスタイルであるものの、いきなり本作品からシグマフォース・シリーズを読み始めるのはお薦め出来ません。
今回は「東方見聞録」で有名なマルコ・ポーロを題材にしていますが、作品の導入部を少し引用します。
自分の旅路に関して、マルコ・ポーロが決して語ろうとしなかった話がひとつだけある。マルコ・ポーロが多くの随行員を失い帰国したのは事実であり、この逸話も現代に伝えられているもののようです。
そのことについては、本の中でも遠回しにしか触れられていない。
マルコ・ポーロが帰国する際、フビライ・ハンは一行に十四隻の巨大は船と六百人の随行者を提供した。
しかし、二年間の航海の後にヴェネツィアに帰国した時には、二隻の船と十八人の随行者しか残っていなかった。
ほかの船と人々の運命については、今日に至るまで謎のままである。
難破したのか、嵐に遭ったのか、それとも海賊に襲われたのか?
マルコ・ポーロは決して語ろうとしなかった。
死期が迫り、もう一度だけ旅行の話をしてほしいとせがまれると、マルコ・ポーロは次のような謎めいた言葉を発したと伝えられる。
「私は自分が目にしたことの半分しか話していない」
果たして語られることなかったマルコ・ポーロが経験したものとは・・?
ナチの亡霊(下)
前回に引き続き、ジェームズ・ロリンズ氏の「ナチの亡霊」の下巻を紹介します。
前回紹介した通りナチス生き残りの科学者が戦後も量子論研究を続け、やがて現代の人類にとって脅威となるべき兵器を開発する。
本作ではその量子論を巧みに、ゲルマン的な民族主義(=アーリア人を優秀な民族とする考え)、そしてその延長線上にある超人思想(やがてアーリア人の子孫の中から新人類が誕生するという考え方)と結びつけてゆきます。
こうした民族主義的な思想に重要なのが「純血さ」や「遺伝」であり、それを再び最先端の遺伝子工学に結びつけるという著者の着眼点には脱帽させられます。
科学と歴史を融合する巧みなセンスに読者をどんどん惹きつけられてゆきます。
もちろんナチスが掲げた思想のオカルト的な部分や、量子論の考えを一般人がきちんと理解するのは到底無理ですが、ピアース隊長たちが謎を解き明かす場面に読者として立ち会うことで、その内容を分り易く伝えてくれます。
「大人の教養」といってしまうと大袈裟ですが、読者の知的好奇心を満たしてくれるかのようなストーリー展開は従来のスパイ小説には少なかった要素であり、むしろ本シリーズの本質はスパイ小説ではなく、SFや歴史ミステリーであるといえます。
一方でハードボイルド度はかなり低めで、よりエンターテイメントを意識したシリーズに仕上がっているのではないでしょうか。
ナチの亡霊(上)
シグマフォース・シリーズの1作目「マギの聖骨」に引き続き、2作目「ナチの亡霊」を続けて読みましたのでレビューします。
タイトルから分かる通り、今回は"ナチス"を題材にしています。
ナチス党首のアドルフ・ヒトラーは、歴史・科学へ強い興味を持っていましたが、その中にはいわゆる"オカルト的"なものも含まれていました。
さらにナチス親衛隊(SS)の隊長であり、ユダヤ人の大虐殺を主導したヒトラーの右腕ともいうべき存在ハインリヒ・ヒムラーに至っては、その傾向がより一層強かった人物だといわれています。
そのヒムラー指揮の元で行われていた大規模な秘密研究のテーマに量子論があり、ヒムラー亡き後も密かに続けられていた量子論研究の結果、現代に強力な兵器が生み出されるという設定で物語が始まります。
実際に20世紀初頭には、有名なアインシュタインに代表される相対性理論と双璧をなす最先端の科学理論であり、量子論はドイツの科学者が発表したものであり、研究の最先端国でもあったようです。
そして人類の重大な脅威となる兵器の開発と使用を阻止すべく、再びグレイソン・ピアース隊長が活躍します。
しかも今回はピアース隊長の上司であり、シグマの司令官でもあるペインター・クロウ長官も最前線で活躍します。
若くてピンチを瞬発力で切り抜けるピアース隊長と、豊かな経験と忍耐力でピンチを切り抜けるクロウ長官の対比は、ともすると単調になりがちな長編スパイ小説の場面描写にメリハリを与えてくれ、著者のジェームズ・ロリンズ氏の綿密な小説技法が感じられます。
また前作と同様に絶妙なブレンドで織り込まれた最新の科学技術と歴史的な事実は今回も健在です。
シリーズ2作目に突入しても読者を惹きつける魅力がある作品です。
マギの聖骨(下)
私自身はキリスト教徒ではありませんが、"聖遺物"という言葉の響きには神秘的な印象を抱きます。
本書はドイツのケルン大聖堂で聖遺物として保管されている"マギの聖骨"がテロリスト集団によって盗まれ、そして大量の殺人が行われるところからはじまります。
マギとは"東方の三博士(三賢者)"ともいわれる新約聖書に登場するキリストの誕生を祝福したといわれる伝説の人物たちです。
そしてテロリストたちが聖遺物であるマギの遺骨を強奪したのは、金のためでもなく、まして宗教的な理由からでもありませんでした。
そこには過去の人類が発見し、そして失われてしまった現代の科学でも解明することのできない脅威のテクノロジーの鍵となり得るものが隠されていたのです。。。
本書はミステリー小説でもあるため、ここで謎の正体を書くのは控えますが、登場する人物たちも魅力的です。
グレイソン・ピアース隊長率いるシグマフォースですが、同僚のモンク、そして女性隊員・キャットといったメンバーに加えて、ヴィゴーやレイチェルといったイタリアやヴァチカン市国の美術遺産の保護部隊とタッグを組んで危機を乗り切り、そして大いなる謎を1つ1つ明かしてゆく過程には目を離せません。
本書を読んで感じたのは、この作品はアメリカ人作家でなければ書けない気がします。
言い方を変えれば、"ハリウッド"という存在を抱えた国の作家でなければ書けない作品であるともいえます。
アメリカならではのエンターテイメント要素が贅沢に取り入れられており、私がすぐに思いつくだけでも、本書には下記の要素がすべて含まれています。
- TVドラマ「24」に代表される、時間と場所に制約を加えたスリリングな展開
- TVドラマ「Xファイル」を彷彿とさせる超常現象へ対する科学的考察という切り口
- 映画「ダ・ヴィンチ・コード」のように宗教の定説へ対する神秘的な異説の投げかけ
- 映画「インディ・ジョーンズ」に代表される冒険アドベンチャー
- 「007」シリーズに代表される伝統的なスパイ小説の要素
本作品がアメリカでベストセラーになったのもうなずける内容であり、近い将来にハリウッドで映画化される可能性も高いのではないでしょうか。
マギの聖骨(上)
今まで読んだことのない作家のスパイ小説を読んでみようと思い、本書を手にとってみました。
本書「マギの聖骨」は上・下巻に分かれていますが、2冊合わせてシグマフォース・シリーズ①という位置付けであり、本シリーズは4作品目までが日本語訳されて発売されているようです(各シリーズとも上下巻セットです)。
上下巻で完結するタイトルだと勘違いして購入してしまいましたが、せっかくなので3シリーズ分(合計6冊)を続けて読んでみる予定です。
作者はアメリカで1990年代後半から活躍しているジェームズ・ロリンズという新鋭の作家です。
巻頭には次のように書かれています。
小説の持つ信憑性は、話の中で提示された事実を反映するものである。「事実は小説よりも奇なり」という言葉はあるが、たとえフィクションであっても、事実を見据えた上で書かれる必要がある。本性に登場する美術品、遺跡、カタコンベ、財宝などは、すべて実在する。本性で紹介した歴史的事実も、すべて事実である。本書の中心となる科学技術も、すべて最新の研究と発見に基づいている。どうでしょう?
とても挑発的な言葉であるとともに、著者の自信が伝わってきます。
シリーズ名にもなっているシグマフォースとは、特殊部隊の経験と技能、そして科学者の頭脳を併せ持ったメンバーからなるアメリカの極秘部隊という設定です。
いわば"銃を持った科学者"であり、主人公は最前線で部隊の指揮をとるグレイソン・ピアース隊長です。
非常に刺激的な設定ですが、とりあえず今回はシリーズ全体の紹介を行う程度に留めておき、下巻のレビューで具体的に作品の話に触れてゆこうと思います。
楡家の人びと 第1部
有名な北杜夫氏の代表作。
本作品は3部作からなり、北氏自身が生まれ育った生家をモチーフにした楡家(にれけ)の壮大な年代記を描いた作品です。
舞台は明治の終わりの東京の青山脳病院(今でいう精神病院)から始まります。
青山脳病院は100人近い医師とその家族、そして300人以上の患者が入院している大きな私立病院です。
第一部はその病院を一代で築き上げ、そして北氏の祖父がモデルである楡基一郎(にれ・きいちろう)を中心に展開してゆきます。
基一郎、そして彼の3人の娘やその娘婿など、タイトル通り様々な楡家の人びとの視点を通じてストーリーが進んでゆきます。
分り易く例えるなら、アニメのサザエさんのように場面や1話ごとに主人公が交代してゆくかのような、家族ドラマのような展開と言ってもいいかもしれません。
そしてそこにはもう1つの冷静な視点、つまり著者である北氏自身の目線が加わることで、彼ら(彼女ら)の日常を鮮やかに描いています。
大病院の世帯だけあって、物語には多様で複雑な人間同士の関係が存在します。
誰もが皆、その一員として(良くも悪くも)精一杯生きてゆく姿は真剣そのものですが、そのコミュニティの中で権力者側として君臨する立場、そしてその権力に反発する者や追従する者といった、人間の悲しい性を浮き彫りにしてゆきます。
しかしながらそれは決して読者を不快にさせたりするものではなく、著者を通じて描かれる物語はユーモラスに富んだ内容であり、そうしたコミュニティの中で暮らしてゆく人びとの滑稽さを同時に描いているといえます。
かの有名な喜劇王・チャップリンが「人生は近くで見ると悲劇だが、遠くから見ると喜劇である」という言葉を残したそうですが、この作品にもそうした雰囲気が色濃く漂っています。
また北氏が自らの生家を舞台にしただけあって完全なノンフィクションではないにしろ、完全に小説とはいえない妙なリアリティ感があります。
昭和を代表する小説の1つであり、機会があれば是非読んでほしい作品です。
本音で語る沖縄史
長い縄文・弥生時代を経て大和朝廷の確立、そして貴族の時代へと移り変わり、さらに武士が台頭して幕府を開いては消えてゆく。
最後の武士政権である江戸幕府の終わりとともに近代である明治・大正・昭和へと突入してゆきます。
ひどく大雑把ですが、これが学校で学ぶ日本史の流れです。
しかし、この日本史は1つの視点にしか過ぎません。
つまり歴史が近代になってからも、教科書の日本史とは一定の距離を保ち続けた独自の歴史を持った地域がありました。
それが本書で取り上げられている沖縄地域です。
本書は仲村清司氏による沖縄の歴史教科書ともいえるものであり、先史時代から近代までを網羅した内容になっています。
人気のある戦国時代や幕末時代に相当詳しい人であっても沖縄の歴史を殆ど知らない人が多いように感じます。
それは著者自身も感じていることもあり、本書を執筆する動機にもなっています。
本書に記載されている沖縄の歴史を時代順に辿ると次のような流れになります。
- 先史時代と神話
- 三山時代
- 第一尚氏の時代
- 第二尚氏の時代
- 琉球王国絶頂期と尚真王
- 八重山征服
- 島津の琉球入り
- 江戸時代の琉球王朝
- ペリー来航
- 琉球処分
- 沖縄戦
堅苦しい表現もなく沖縄の歴史をなるべく俯瞰して見つめようとする著者の姿勢には好感が持てます。
日本人として生まれたからには、自国の歴史の一部として沖縄史を学ぶことはとても意義のあることです。
もちろん本書だけで沖縄史のすべてをカバーすることは無理ですが、おおまかな流れを知るだけでも日本の内包する歴史・文化の多様性に気付くきっかけになります。
もちろん沖縄に直接足を運んで首里城や博物館などでその歴史に触れることをお薦めしますが、そのための予習としても最適な1冊といえます。
暗殺のアルゴリズム〈下〉
引き続きロバート・ラドラムの遺作「暗殺のアルゴリズム」をレビューしてゆきます。
スパイ小説の特徴といえば緊迫の潜入作戦、そして派手なアクションシーンが挙げられますが、もう1つ欠かせないものがミステリー要素です。
スパイ小説では秘密のベールに包まれた強大な組織が主人公に立ちはだかるといった構図が多く、さらに悪役のボスは姿を隠したがるものであり、はじめは手下や殺し屋を雇って主人公を葬り去ろうとするのです。
加えて本作では、敵の勢力へ敵対する勢力までが現れる始末で、主人公ベルクナップにとって第三の勢力が敵か味方であるのかも定かではありません。
その敵の正体も今回は少し変わっています。
普通であれば、敵国の政治的指導者、味方を裏切った諜報員、大規模な武器の密売を重ねる死の商人、巨大な麻薬組織など、ひと目で"悪"と分かるような組織が敵に回るものですが、今回はそのいずれでもありません。
少しネタバレしてしまいましたが、とにかくミステリー的な要素も充分に楽しめる作品に仕上がっています。
もちろん衝撃のラストも用意されており、今までのキーパーソンが一堂に会する場クライマックは見応え充分です。
なかなかの長編作品のためハリウッド映画のように手軽に楽しめるとまでは行きませんが、完成度の高いスリリングなスパイ小説であることは間違いありません。
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