砂の女
安部公房氏の代表作の1つに挙げられるのが本書「砂の女」です。
普段は教師をしている男が趣味の昆虫採集のため、あるうらぶれた漁村を訪れます。
やがて日が暮れ、主人公は村人の紹介で女が1人で暮らす一軒家に泊まることになりますが、その家は蟻地獄のように砂に埋れた場所にあり、やがて男はその砂穴に閉じ込められたことに気付くのです。
ここまでが物語の導入部ですが、中盤まではホラー作品のような印象を受けながら読み進めました。
主人公が理不尽に砂穴の底へ閉じ込められるというシチュエーション、男と一緒に穴底で暮らす女、彼を逃がすまいと見張り続ける村人たちの不気味さ、さらには砂を人力で掻き出し続けるという不思議な風習など、どことなく作品中の雰囲気はラヴクラフトのクトゥルフ神話シリーズに似ています。
しかし作品中には異形の神々やそれを信仰する謎の宗教集団などが登場することはなく、ひたすら人間のみが描かれていることが分かってきますが、ミステリー小説とも違った作品であることもが分かってきます。
読み終わってみれば登場人物も少なく、村人たちの名前は誰1人明かされることはありません。
次に作品に登場する要素を挙げてみたいと思います。
- 砂丘に埋もれかかった周囲から孤立した部落
- 砂穴に閉じ込められた主人公(男)
- 砂穴の中にある朽ちかけた一軒家
- そこに住む30歳くらいの1人の女
- そこから自由を求めて脱出を試みる男
- 自由を求めようとせず砂穴の中で男を引き留めようとする女
- 男を逃がすまいと見張りを続ける村人たち
- ひたすら部落が埋れることを防ぐために人力で砂を掻き出し続ける日々
- やがて繰り返されるようになる男と女の砂穴での暮らし
- やがて脱出すること以外にも関心を持ち始める男
狭い砂穴に理不尽に閉じ込められ続ける主人公の立場はこの上なく不自由なものであり、まるで囚人のようです。
そもそも部落を訪れる前から教師という仕事に嫌気が差し始めていたていた彼にとっての"自由"とは何を指すのでしょう。
穴や部落から脱出できたとしても男にとって灰色の日常に戻るだけです。
本作品は1962年(昭和37年)に発表されていますが、この作品が何を風刺しているのかを考えながら読むと味わい深い文学品になってくるから不思議です。
たとえば本来は自分の意志で自由な場所へ行けるはずであるが、ひたすら自宅と職場との間を往復する不自由な毎日を繰り返すサラリーマンへの揶揄。
ひらすら手作業で砂を掻き出し続ける場面からは、思考停止して古い風習にこだわり続ける組織への批判。
さらには狭い砂穴の中での不自由な暮らしに満足している女の姿からは、どんな環境でも心の持ちようで人間は幸せを感じることができるという示唆。
ストーリー自体はシンプルながらも、色々と考えさせられる要素が幾つも見つかります。
本作品が世界20数カ国に翻訳され、海外でも高い評価を受けていることに頷けるのです。
北の海(下)
井上靖氏の自伝小説「北の海」下巻のレビューです。
主人公の洪作は受験に失敗したものの、参考書も開かず目的のないまま沼津で日々を過ごします。
たまたま四高(現在の金沢大学)の蓮実と出会い、練習量がすべてを決定する柔道(七帝柔道)という存在を知り、浪人生の身でありながらも夏休みに彼らの合宿に参加すべく単身金沢へ向かいます。
洪作には具体的な将来の夢や目標を持っていませんでしたが、ひたすら柔道に打ち込む柔道部員の姿に引き込まれ、四高への進学を決意することになります。
一方で柔道部の練習は厳しいもので、部には次のようなモットーががありました。
- 学問をやりに来たと思うなよ、柔道をやりに来たと思え
- この世に女はいないものと思え
- いっさいものは考えるな
それは半世紀以上のちに北大で同じく柔道に打ち込んだ日々を描いた増田俊也氏の「七帝柔道記」と驚くほど似ている価値観であり、伝統が受け継がれ続けてきたことが分かります。
その世界観は独特で、いわゆる「体育会系」とは違い、「バンカラ」的な要素も多分に入っている価値観で、この空気感がそのまま本作品の魅力になっています。
洪作は夏の間、ひたすら金沢で柔道に明け暮れますが、彼の身分は浪人生であり、そもそも勉強などせずに教師に「極楽とんぼ」と揶揄されるほど自由奔放に過ごしてきました。
そんな洪作が練習も規律も厳しい柔道に打ち込むことになったのは皮肉ですが、それがまた青春らしさを感じさせてくれます。
またこの作品に出てくる登場人物はいずれも個性的であり、それぞれの魅力を備えているという点も見逃せません。
大天井、鳶、杉戸といった金沢で出会った柔道部員、中学時代からの悪友である藤尾、木部、金枝、地元の柔道仲間である遠山、色々と世話を焼いてくれる宇田先生夫妻など、いずれも損得勘定抜きで洪作と付き合ってくれる人たちばかりで、心が温まるエピソード、ときには感情的になって口論や喧嘩になるシーンなど、印象に残る場面が数多く登場します。
男ばかりの汗臭い物語に終始するわけではなく、料理屋でバイトをしているれい子はマドンナ的存在であり、洪作へ密かに想いを寄せるエピソードなども登場します。
青春小説としてはほぼ完璧な構成であり、時代を超えて多くの読者を惹きつける名作であるといえます。
唯一惜しいのは、洪作が四高へ入学したあとのエピソードは小説化されていないという点だけでしょうか。
北の海(上)
本作品は井上靖氏の「しろばんば」、「夏草冬濤」に続く私小説3部作の最後にあたる長編小説です。
本ブログで過去に紹介した増田俊也氏の「七帝柔道記」がとても面白く、増田氏がかつて所属した旧七大学の柔道部員にとって本書がバイブル的な位置付けの作品であることを知ってから、いつか読んでみたい小説として頭の片隅に残っていた作品です。
「七帝柔道記」は柔道を通じて描かれた青春小説でしたが、本書を読んでみて驚くほどその内容が似ていることが分かり、本作品から大きな影響を受けていることが分かりました。
主人公の洪作は井上氏自身をモデルにしています。
洪作は沼津中学(現在の沼津東高等学校)を卒業したものの、受験に失敗してそのまま沼津で浪人生活を送っていました。
洪作は小さい頃から台湾に住んでいる親元から離れて暮らしており、浪人生であるものの勉学へ身が入らず、沼津にある下宿先の寺を拠点に気ままに暮らしていました。
かつての悪友(同級生)たちは地元を離れて東京などへ引っ越ししてしまい、1人で時間を持て余した洪作は母校の柔道部へ連日通うようになります。
そこにはかつての同級生で留年している遠山が在籍しており、洪作にとっては地元に残る唯一の友だちと言える存在でした。
本作品を読むと、「将来の夢や目標へ向かって努力するべき」という価値観が明治明治40年(1907年)生まれの著者の時代から存在することが分かりますが、これは当然の考えとして現代に至るまで脈々と受け継がれています。
一方で誰もが明確な夢や目標を持つことができるとは限りません。
洪作がまさにそういった存在であり、ふらふらと目的のない毎日を過ごし、とにかく友だちと他愛のない会話や遊ぶことが何より楽しくて、漠然とこうした日々がずっと続けばいいと考えている青年でした。
一方で将来の夢は一旦脇に置いておいて、とにかく夢中になれるものが"柔道"だったのです。
そこで四高(現在の金沢大学)柔道部員の蓮実と出会い、練習量がすべてを決定する寝技を中心とした柔道(いわゆる七帝柔道)の存在を知って、やがて惹かれてゆくのです。
本作品には洪作以外にも個性的なキャラクター(洪作の友人)たちが登場し、彼らとのやり取りを読んでゆくと青春時代を思い出すような鮮やかさがあります。
著者と私の過ごした青春時代の間には半世紀以上の隔たりがあるはずですが、ここまで共感させてくれるのは文豪としての井上氏の筆が冴え渡っているからだと言えるでしょう。
また本作品に限らず戦中小説を読んでいても実感するのは、時代が変わっても青春期にある少年・少女たちの持つ不安や希望、好奇心、そして社会へ対する反骨心は本質的に変わらないものであり、世代を超えて共感を得る"力"があるということです。
私自身のことを言えば、ひたすら部活動に打ち込んだ高校時代、さらに勉学へ身の入らない浪人・大学生活を経験したことなどが洪作の姿と重なり、ひたすら共感しながら時間を忘れて読み進めてしまう作品でした。
神田伯山対談集 訊く!
「絶滅危惧職、講談師を生きる」に続き神田伯山先生(落語の真打ちは師匠、講談師の場合は先生と呼ぶ)の著書になります。
近場で開催された伯山先生の独演会に行く機会があり、そこで物販として置かれていた本書を思わず購入してみました。
満席の会場を枕で大いに盛り上げ、本編の講談も迫力ある内容で私を含め観衆全体を引きんでゆく様子がよく伝わってきました。
私はあまり演芸のことは詳しくありませんが、寄席で観た著者の師匠である神田松鯉先生が滔々と流れるような講談なのに対して、伯山先生はメリハリの効いた調子という印象があります。
本書は2019年から2022年にかけて断続的に週刊プレイボーイで連載された伯山先生と11名の各界の著名人との対談を書籍化したものです。
- 又吉直樹
- 弘中綾香
- 宮藤官九郎
- アントニオ猪木
- 真島昌利
- 北方謙三
- 高田文夫、矢野誠一
- 中村勘九郎
- 中井貴一
- 寺島しのぶ
芸能界に疎い私でも本書に登場する人たちを全員知っているほど有名な方ばかりが登場しており、目次を見ただけで豪華な対談集という印象を受けます。
著者が講談師であることを生かして、普通のインタビュアーとは異なる角度、つまり講談を含めた演芸の世界に重ね合わせたり、時には1人の芸人が腕を磨いてゆく上でのヒントを対談の中に求めてゆくというスタイルと取っています。
本書に登場する人たちの中で著者より年下なのはアナウンサーの弘中綾香氏1人ですが、彼女へ対してはアドバイスを送っている点も印象的でした。
また全編に渡って、著者がインタビュー相手のことをよく知っている(もしくは事前に調べた)上で対談に臨んでいるのが伝わってきたました。
当然、自分のことをよく知ってくれている人へ対しては機嫌良く対応するが人の心情というもので、対談が終始雰囲気良く進行しているのが紙面からも伝わってきます。
逆に対談相手は人によって講談に詳しい、詳しくない人に別れますが、話の流れの中で講談のことを相手へ簡潔に説明してゆく箇所もあり、講談に詳しくない読者もハードルを下げて本書を読むことができます。
ちなみに高田氏、矢野氏が講談に詳しいのはもちろんですが、ミュージシャンである真島氏が演芸全般に明るい点は驚きでした。
こうしたさまざまなジャンルの著名人との対談を通じて、講談そのものが世間一般へ認知されることを期待する著者の意図も充分に伝わってきて、楽しみながら読むことができました。
いずれにせよ肩肘張って読む類の本ではなく、1日1人ずつというマイペースでも良いので気楽に手にとって読んでゆくのがお勧めです。
私も並行して読んでいる長編小説がある中で、気分転換やちょっとした合間に本書を少しずつ読み進めました。
私自身は歴史小説や歴史そのものが好きなこともあり、そうした人にとって講談は非常に相性の良い演芸だと思っています。
一方で歴史へ関心がない人でも、任侠伝のようにストーリーそのものが単純に面白い読み物も数多くあり、とくに伯山先生の講談は初心者にとっても受け入れやすい魅力を持っています。
私も講談というジャンルが世間にもっと認知され、落語と同じように目にする機会が増えると良いなと願っている1人です。
後白河院
井上靖氏による歴史小説です。
タイトルかわ分かる通り本書は後白河院が主人公ですが、この時代はいわゆる平家物語(源平合戦)と一致しており、分かりやすい活躍をした清盛や頼朝、義経といった武家側からの視点ではなく、あえて朝廷側の視点から作品を描いている点が特徴です。
また本作品はすべて三人称によって書かれており、後白河院を主人公としながらも彼の視点や心情が直接的に描かれることはありません。
全4部から構成されており、いずれも公卿である男女が過去を振り返っての語り、もしくは自らが記した当時の日記を振り返るという形で物語が展開してゆきます。
- 第1部:平信範
- 第2部:建春門院中納言
- 第3部:吉田経房
- 第4部:九条兼定
日本史の教科書でいえば、この時代は天皇の中央集権時代が終わりを告げて「武士の台頭」というタイトルで解説される箇所です。
武士の台頭といっても彼らの力の源泉は"武力"であり、その武力が衰えれば簡単に誰かによって取って代わられる運命にあります。
一方で天皇を頂点とした公卿たちの力の源泉は"権威"であり、それは「従三位」といった位階や「左大臣」や「大納言」といった官職によって表されます。
しかもこの権威は家柄に応じて、(努力なしで)自動的に子孫たちへ代々受け継がれ、容易に失われるものではありません。
つまり後白河院をはじめ公卿たちの目線からこの時代を見てゆくと、次々と新たな武士たちが生き急ぐかのように現れては消えてゆくを繰り返していくように映るのです。
その中で後白河院は30年以上にわたる院政を通じて武士たちの栄枯盛衰を誰よりも間近で見てきた人物であり、彼を中心に歴史を描くことで歴史の持つ無常さをうまく表現した作品であるといえます。
文体や作品中に登場する単語を含めて、かなり硬派な部類に入る歴史小説だと思います。
そのため慣れないうちはスラスラと読む進めることが難しいと思いますが、文庫本で約170ページというそれほど多くない分量ということもあり、腰を据えてゆっくりと読んでみてはいかがでしょう?
野火
作品の存在は以前から知っていましが、今回はじめて大岡昇平氏の「野火」を手にとってみました。
今まで本ブログでも戦争小説と言われるジャンルを紹介してきましたが、本作品も日本を代表する戦争小説の1冊です。
主人公はレイテ島で米軍と対峙する部隊にいる田村上等兵であり、彼は結核の症状が悪化したため野戦病院に収容されていましたが、そこを追い出されてしまいます。
その原因は深刻な食糧不足によるものであり、太平洋戦争において日本兵戦死者の半分以上が飢餓によるものだったと言われています。
こうして病院を追い出され、主人公は部隊へ戻りますが、ここでも上官から足手まといとして放り出されたところからストーリーが始まります。
客観的に見ると異国の地で"のたれ死に"を強要された悲惨な状況ですが、彼の心境は次のように不思議なものでした。
臓腑を抜かれたような絶望と共に、一種陰性の幸福感が身内に溢れるのを私は感じた。
行く先がないというはかない自由ではあるが、私はとにかく生涯の最後の幾日かを、軍人の思うままではなく、私自身の思うままに使うことが出来るのである。
彼は元から戦う意志などなく、徴兵されて仕方なく戦場へ駆り出された兵士だったのです。
また彼のほかにも同じような境遇の兵士たちもおり、彼らには何の任務も目的もなく病院近くで野宿をしていました。
主人公も彼らとともに過ごしていましたが、敵の砲撃によって病院が消失し、仲間ともはぐれて1人で島を彷徨うことになります。
その過程で主人公は島でさまざまな光景を見ることになります。
はじめは"生きる"こと諦めていた主人公でしたが、生きる希望を見つけたり、所持している食糧が尽きて飢えを感じると、やはり生への執着する気持ちが沸いてきます。
やがて極度の飢えに襲われた兵士たちの目線は、行き倒れになった同胞たちの屍体へ向くようになるのです。。。
「生きるために人肉を食べた」という証言は時々聞く話ですが、正直にそれを告白した人は圧倒的に少数だったはずです。
一方で平和で飽食の時代を生きる私たちの大多数が、「人肉を食べてまで生き残るくらいなら死んだほうがマシ」と答えるでしょう。
戦争、そして飢餓という非日常の中に人間が放り出されたときに、平時であれば"善良な市民"と言われる人たちがどのような行動を取るのか、そしてその状況下で精神は正常を保ち得るのかという想像をしてみてもなかなか実感が沸かないはずです。
いわば本作品はそれを小説という形を通じて追体験できるのです。
もちろん著者は善悪の区別や人生の価値観を読者へ伝えたかったわけでなく、すべてを読者へ委ねています。
文庫本で約200ページという分量ですが、多くのことを考えさせてくれる1冊です。
火星のタイム・スリップ
本ブログでも何度か紹介しているフィリップ・K・ディック氏のSF小説です。
本作品は1964年に発表されており、物語の舞台は1994年の火星です。
すでに人類は火星へ植民しているという設定ですが、まだまだ人口密度は少なく物資も不足しがちな状態にありました。
中でもより深刻なのが生活に欠かせない"水"の不足であり、水利労働者組合のトップであるアーニイ・スコットはそうした状況を背景に絶大な権力を握っていました。
彼は国連による火星の大規模な開発計画の噂を聞きますが、すでに地球の投機家たちに先を越されたことを知り、施設に入っている少年マンフレッドの特殊な能力を利用してその挽回を企むのです。
主人公は火星で機械の修理工として働くジャック・ボーレンという設定ですが、この壮大な計画と一見無関係に見える人物がアーニイやマンフレッド、さらには周辺の登場人物たちに巻き込まれる形でストーリーが進行してゆきます。
登場人物たちにはそれぞれの思惑があり、その利害関係が複雑に絡み合って次第に大きな話へと発展してゆきますが、ディック氏の作品は王道SFであると同時に、人間ドラマにも重点が置かれているのが特徴的です。
また荒涼とした火星に原住民が存在するといった設定も斬新です。
彼らは"ブリークマン"と呼ばれる移動しながら狩猟をして暮らしている人びとであり、テクノロジーとは無縁の生活をしています。
彼らの中には地球人に雇われている者もあり、アーニイ専属の料理人もブリークマンですが、彼らは独自の文化と精神世界を持っており、どことなくかつてのアメリカンネイティブたちを思わせます。
実際に彼らの予言めいた暗示はこの作品の大きなキーポイントになってきます。
テクノロジーの発展とともに際限なく膨らんでゆく人間の欲望、一方で物質的な豊かさが幸せには結びつかず、むしろ人間の心を蝕んでゆくといったメッセージが火星を舞台にしたSF作品を通じて語られている気がします。
ディック氏の描く作品には独特のカオスな世界観があり、これがSFとの相性が非常によく、社会の抱える問題の本質を浮き彫りするような鋭さを感じるのです。
兵士に告ぐ
本書はノンフィクション作家の杉山隆男氏がライフワークとしている自衛隊を追ったルポシリーズの第4弾です。
本ブログでは海上自衛隊の潜水艦や哨戒機部隊に迫った第3弾「兵士を追え」、東日本大震災で人命救助活動に従事した自衛隊員を取材した第5弾「兵士は起つ」を本ブログで紹介しています。
ブログでは紹介していませんが、第1弾、第2弾も自衛隊の実態を知る上でおすすめできる作品です。
著者は潜水艦やF15戦闘機にも乗った経験があり、自衛隊でもっとも過酷と言われているレンジャー訓練にも同行取材を行うなど、まさに自衛隊の表も裏も知り尽くしている作家といえます。
本書で取り上げているのは、2002年に創設された西部方面普通科連隊(通称:西普連)です。
私は本書ではじめてその存在を知りましたが、この名称は取材当時のものであり現在は"第1水陸機動連隊"へと改名されているようです。
今まで陸上自衛隊の戦力はソ連を仮想敵国とした北海道に重点的に配置されていましたが、近年脅威が高まりつつある中国の軍事力へ備えて、九州から沖縄までの防衛を担当するのが彼らの任務となります。
九州から沖縄といっても、その範囲は対馬列島から八重山列島までの南北1,200km、東西900kmという広大な面積となり、有人無人合わせて2,600もの島によって構成されています。
もちろんこれらの島々に隊員を分散させて常駐させているわけではなく、例えば外国の武装勢力によって島が占領された場合、海から上陸して奪還するような作戦を想定した訓練を繰り返しています。
所属する隊員は半数がレンジャーバッジを持つ精鋭揃いであり、「日本版海兵隊」と呼ばれることもあるようです。
それだけに彼らの訓練内容も通常の普通科連隊と比べて厳しいものであり、時には本家アメリカの海兵隊と合同訓練をすることもあるそうです。
そんな西普連を外部から見れば、規律を重んじる無口な兵士たちであり、イメージ通りの精鋭部隊そのものとして映るはずです。
西普連は3つの中隊からなる約600名の隊員が所属しており、著者は主だった隊員たちへ対して地道に取材をしてゆきます。
この兵士シリーズ最大の魅力は、普段私たちが接する機会のない自衛隊の実態、そしてそこで日々訓練や任務にあたる隊員たちの素顔(個性)を明らかにしてゆくという点です。
若い隊員であれば、今どきの音楽やファッションに興味を持っている普通の若者であり、それを知ると彼らとの距離が一気に縮まったような気になるのです。
それは彼らを指揮する下士官、中隊長、連隊長といった立場になっても変わりはなく、休日は家族サービスを心がけ、時には趣味の釣りやツーリングを楽しむどこにでいる人たちであることは変わりありません。
よく考えれば自衛隊には24万人もの隊員が在籍しており、仕事以外では私たちと変わらない生活を送っている一市民であることは当たり前なのです。
一方で私たちの大部分が経験している会社員とは明らかに異なる部分も確実に存在します。
それは外国から軍事的な攻撃が発生したときに私たちは安全な場所へ逃げることが出来ますが、彼らにはそれが許されないという点です。
その中でも本書に登場する西普連はもっとも危険な最前線へと赴く可能性が高いのです。
今でも日本で戦争は起こらないと考えている人が大部分ですが、ウクライナや中東情勢だけでなく、東アジアの情勢だけを見ていても安全保障上のりクスは年々高まっているように感じられます。
社員研修の一環で自衛隊を見学にし来た新入社員の1人が自衛隊員へ次のような質問をしたエピソードが本書で紹介されています。
「自衛隊に入ったということは戦争が好きなんですか?」
一見すると失礼な質問のように思われますが、好きなことを仕事にする価値観が広まりつつある昨今の風潮を考えると、必ずしも新入社員に悪気があったわけではないと思います。
それへ対して自衛隊員は次のように答えたといいます。
「私たちを動かしているのは、使命感と責任感です。頼もしいと思うと同時に、やはりそんな機会が訪れて来てほしくないと考えてしまいます。
国民を守るという覚悟を持った者の集まりが、自衛隊なんです。
ですから、戦争が好きという表現は合っていないと思います。」
杉山氏の兵士シリーズは、どれを読んでも自衛隊、もっと大きな視点で言えば平和や戦争が紙一重という現実を考えさせてくれる内容であり、これからもシリーズを読み続けたいと思わせてくれます。
しかし残念なことに著者は2023年に亡くなっており、ご冥福を祈るとともに新しい兵士シリーズが読めないことが残念でなりません。
日本沈没 下
累計500万部のベストセラー、そして日本のSFを代表する「日本沈没」の下巻レビューです。
日本近郊の海底異変、やがて日本各地で次々と起きる地震と噴火という現象は人びとを不安に陥れますが、決定的となったのが200万人以上の犠牲者を出した第二次関東大震災です。
ただしこの近代的過密都市を襲った未曾有の大災害さえも、これから起きる悲劇の序章に過ぎなかったのです。
やがて不眠不休でその原因を研究してきた田所博士らによって、日本列島が2年で海中へ沈没してしまうことが明らかになります。
つまり2年以内で1億人以上の人口を有する日本国民たちを海外へ避難させる必要が出てきたのです。
しかも列島はプレートに巻き込まれる形で人口が密集している太平洋側から傾いて沈没してゆき、さらには中央構造線沿いに列島が折れる形で海水が侵入してきている状態で、各地の主要道路、鉄道、空港、海港が使用不可の状態となり、脱出も容易ではなく日本中がパニック状態に陥ります。
そして1億人にのぼる大量の移民が発生する状況は世界にとっても始めての出来事であり、分散して日本国民を受け入れる世界各国も混乱に陥ります。
日本列島が沈没するという天変地異が起きたとしたらどのような悲劇が起こるのか?、避難にあたりどのような問題が発生するのか?、そして故郷、国土そのものが文字通り地上から消滅してしまう国民たちの心理的喪失がどのようなものなのか?、こうした事象が迫真の文章で綴られており、実際このような経緯を辿るのだろうなと思わず納得してしまうようなリアリティがあります。
また見逃せないのが物語の序盤から登場する深海潜水艇の操縦士である小野寺たちを始めとした個人のストーリーです。
やはり人間の感情として自分の命だけでなく、家族や恋人の命を何とか救いたいというのは自然なことであり、来たるべき災害へ備えて第一線で活躍してきた使命感との狭間で揺れ動く登場人物たちの心情を追ってゆくというのも本作品を見どころの1つです。
自然災害に備えることの重要性がメディアや自治体などによって呼びかけられていますが、人間の力では避けようのない天変地異を現実感を伴いながら追体験できる唯一無二の作品であり、これがSF小説という枠を超えて長年読み継がれてきた理由ではないでしょうか。
上下巻合わせて800ページに及ぶ大作でありながら、最初から最後まで手に汗握る展開で読者を引き込んでゆく作品です。
日本沈没 上
今年はハヤカワ文庫をはじめとした海外SF作品を読んできましたが、日本人SF作家による作品も読んでみようと本書を手にとってみました。
本書「日本沈没」は小松左京氏が1973年に発表した作品であり、発売から50年を経て累積約500万部を記録している日本SFの金字塔といえる1冊です。
何度か映画やTVドラマ化されていることもあり、タイトルだけでも知っている人は多いと思いますが、私もその1人でした。
物語は日本近郊の海底で異変が起きており、それを深海潜水艇で調査するところから始まります。
序盤は深海潜水艇パイロットの小野寺、海洋地質学者の幸長助教授、地球物理学の田所博士といった登場人物を中心に、日本に迫りつつある深刻な異変の正体が少しずつ明らかになってゆきます。
そして海底に起きている異変はやがて日本各地で立て続けに発生する地震、噴火という災害へと発展してゆきます。
もちろん大規模な災害が続く状況の中で政府も本格的に原因調査を進めてゆくことになります。
何と言っても本作品の特徴は、リアリティと迫力のある描写といえます。
日本列島が沈没するという出来事が突拍子のない非現実的な出来事に思えますが、著者は作品を執筆するにあたり専門家へ相談して科学的考証と理論構築を行っています。
それは太平洋プレート下のマントル層における対流層急変により列島が海中へ引き込まれるというもので、作品中でも何度となく専門的な解説がされています。
さらに未曾有の災害、そして危機が訪れた際の政治的な動きについても首相をはじめとした政府の働きかけを外交含めて詳細に描写しており、その緊張や切迫する状況が充分に伝わってきます。
そして近代都市を直下型地震を襲った際の惨劇についても具体的かつ迫力ある描写が行われており、かつて神戸を襲った阪神淡路大震災の光景が頭によぎってしまいますが、この作品が1970年代に書かれた作品であり、まるで未来でその光景を見てきたかのような著者の想像力に驚かされます。
2025年時点で読んでみても、まったく色褪せることなく楽しめる作品であり、まさしく名作に相応しい1冊です。
サスペンス的な要素も多く取り入れたれており、SFという分野に馴染みがない読者でも充分に満足できる作品だと思います。
その復讐、お預かりします
本ブログでおなじみになりつつある原田ひ香氏の作品です。
本作品はセレブたちを相手に復讐を代行するための会社「成海事務所」を構える成海慶介、そして秘書の神戸美菜代とそこを訪れる依頼者たちを中心に展開してゆきます。
原田氏といえば過去に事故物件に住むことでロンダリング(洗浄)するという、架空の仕事にまつわる作品を発表していますが、それに比べて「復讐屋」はかなりストレートな構想だなと感じました。
ただし作品を読み進めてゆくと、すぐに原田氏らしいカラーが出てきます。
プロの「復讐屋」というと物騒なイメージを持ちますが、成海のモットーは「復讐するは我にあり」という聖書に登場する言葉です。
知っている人は多いと思いますが、もちろん復讐の権利を主張する言葉ではなく、これは神自身の言葉であり、"復讐は神へ委ねよ"という意味になります。
復讐のためには手付金100万円、さらに必要経費+成功報酬100万という、セレブ相手の商売だけに決して安くはありませんが、依頼を受けた成海は基本的に何もせずに、復讐相手が勝手に自滅するのを待つというスタイルなのです。
言わば人の恨みを買うような所業をしている人は、いずれ天罰が下るということです。
本書に登場する復讐の理由をネタバレしない程度に紹介すると次のような感じになります。
- 婚約を断った男性への復讐
- 仕事上のライバルへの復讐
- 相続問題の中で生じた復讐
実際の復讐を依頼するまでの過程はもうすこし複雑ですが、理由自体は特別なものではなく、誰にでも起こり得るものばかりであることが分かります。
そしてもう1つ大事なのは、復讐は一方的な見方であって、復讐される側にもそれ相応の事情があるケースもあるという点です。
幸運にも私自身には復讐したいほどの相手はいませんが、「人を呪わば穴二つ」という言葉がある通り、よほどの龍がない限り、復讐を思いつくべきではありません。
ちなみに本書の主人公は成瀬よりも秘書である美菜代であり、基本的には彼女の視点からストーリーが展開してゆきます。
それは美菜代自身が交際相手に裏切りを受けた過去を持っており、その復讐の資金稼ぎをするために成瀬の秘書になっているという経歴を持つからであり、彼女の目に依頼者たちがどう映り変化してゆくのかも本作品の楽しみの1つです。
"復讐"をテーマにしているだけに物語は多少ドロドロすることがありますが、作品全体の印象は暗いというよりむしろ明るく、読了後は前向きになれる作品ではないでしょうか。
ホームレス消滅
村田らむ氏の著書を読むのは今回がはじめてですが、著者が出演するYoutubeチャンネルをたびたび見ていたこともあり、著者のルポライターとしての活動内容は以前から知っていました。
また住んでいるエリアが比較的近いのか、ラーメン屋で並んでいる著者を見かけたこともあるため(もちろん声は掛けませんでしたが)、本を手に取る前から勝手な親近感を抱いていました。
著者は昔から自殺の名所として有名な青木ヶ原樹海、かつて凄惨な事件が起きた現場を訪れては取材を続けており、ホームレスへの取材も彼のライフワークと呼べるものの1つです。
本書は2020年に出版された本であり、令和における最新のホームレスの実態をルポした作品です。
私がかつて東京を訪れたときに驚いた光景の1つが、ホームレスの人たちの多さです。
新宿西口地下道に並んだ段ボールハウスや新宿中央公園や宮下公園に並ぶ本格的な小屋、さらには街中にもホームレスを多く見かけました。
そして実際に見かけるだけではなく、お金のない学生時代は彼らが100円で販売しているマンガ週刊誌をたびたび購入し、社会人になってからも彼らが販売するストリートペーパー「ビッグイシュー」を定期的に購入していた時期がありました。
一方でここ数年でかつて見かけた段ボールハウスや小屋は姿を消し、時たまガード下で寝ているホームレスを見る程度で、街中で彼らを見かける頻度が極端に減少した実感があります。
一見するとホームレスが減ったことは町の景観や治安、衛生面で良いことのように思えますが、そこへ至るまでの過程、そしてそうした政策に問題はなかったという視点についても本書は言及しています。
かつて多くのホームレスの輩出する供給元となっていたのが、東京の山谷、横浜の寿町、そして大阪の西成に代表されるドヤ街であり、ここはおもに建設業に従事する日雇い労働者たちが暮らしている町でした。
こうした町へも定期的に訪れて取材を続けてきた著者だけに、最新の情報含めてその遍歴についても具体的に言及しています。
ホームレスへの取材を20年以上続けてきた著者だけに、彼らの暮らしへ起きた変化が具体的で分かりやすく描写されており、社会的な問題提起の内容も適切であるように思えました。
本書を読んで、私の中のホームレスたちへの印象、そして暮らしについての情報がかなりアップデートできました。
新書としてはすこし長めの300ページ近い分量でホームレスに関する統計情報が豊富に掲載されていることもあり、かなり読み応えのある社会派な1冊になっています。
箱男
かつて映画化もされた安部公房氏の話題作です。
タイトルにある「箱男」とは、段ボールを頭から腰まですっぽりと被り、雑踏の中や歩道橋の下、または公衆便所とガードレールの間など佇んでいる、つまり外見上は段ボールそのもので町の風景に溶け込んで暮らしている人たちのことを指します。
作品の世界で箱男たちは珍しい存在ではなく、全国各地に存在しているというかなり面白い設定が取り入れられています。
そうした作者の設定に現実味を持たせるために作品の冒頭では箱男が使用する"箱"の作成方法が詳細に解説されています。
箱から外界を観察するための"覗き窓"の位置や大きさ、生活のための最低限の持ち物を収納するスペースの作り方などが解説されていますが、いずれにせよ1時間ほどで作成できてしまうシロモノです。
肝心のストーリーは、"ある箱男"の手記という形で始まります。
ただし読み進めてゆくと、手記は別の箱男Aの手記、さらには箱男になろうとしている"贋(にせ)箱男"の手記(供述書)、さらには一見箱男と関係のない少年Dの手記などへ移ったり、再び戻ってきたりを繰り返します。
また手記の内容は実際に起こった事実とこれから起こるであろう事柄を妄想として書いてある部分があり、また登場する複数の手記同士のつながりが不明瞭な部分もあり、頭の中でストーリーを1本の線で結ぼうとすると混乱する箇所が出てくると思います。
上記のほかにも作品中に挿入される新聞記事、カメラ好きの著者が自分で撮影したスナップと抽象的な解説などがあり、小説としてかなり実験的な試みが取り入れられています。
たとえば登場する手記に物語的な一貫性がなくとも、作品が扱うテーマへ対して因果的な関係があることが分かります。
それを分かりやすく表現すれば、他人との接触を避けて(文字通り)自分の箱の中に閉じこもって世間をひたすら観察しながら暮らすとは本質的にどういうことなのか、また(箱男に代表される)人から自分が見られるとは本質的に何を意味するのかを考えさせてくれる作品になっています。
たとえば何もかもが面倒になったり、煩わしい現実に疲れて部屋に1人きりで閉じこもりたい気分になったことがある人は多いはずであり、そうした心理的象徴の1つが箱男かも知れないと思ったりしました。
すると箱の中は狭いながらも安心できる自分だけのスペースであり、そこから他人に干渉されずに一方的に他人を観察しながら暮らし続ける箱男の心理が何となく理解できる気もします。
ストーリー全体は決して抽象的なものに終始するわけではなく、サスペンスドラマのような要素がかなり取り入れられて、決して読者を退屈させることはありません。
本作品を巡っては多くの評論家や文学者によってさまざまな視点から書評されていますが、まずは難しく考えず単純に小説を楽しむことを目的に読んでみることをお勧めします。
他人の顔
本ブログではじめて登場する安部公房氏の作品です。
はじめてといいつつ安部公房といえば昭和を代表する作家の1人であり、彼の作品は今でも多くの人に読まれ続けています。
主人公は研究所に勤める40台の男性で、かつて実験中の事故により顔に大火傷を負い、それ以来、醜くなった自分の顔を包帯で覆った状態で日常を過ごしています。
主人公は自らの顔を"蛭の巣"と評し、結婚している妻にもその素顔を滅多に見せることはなく、また夫婦関係の絆までもが冷めてゆくことを感じていました。
そこで彼はかねてより綿密に計画していた、精密に作り込まれた仮面を製作し、まったくの別人になりきって行動することにします。
本書はその過程がリアルタイムに描かれているのではなく、すべての計画が実行され、その実行のために一時的に借りていたアパートに妻が訪れ、そこへ置かれていた表紙が黒、白、灰色のノートを読むことによってすべての真相が明らかになるという形式を取っています。
この作品を読み進めてゆくと、普段私たちがいかに(自分以外の人間という意味での)他人を顔によって識別しているかを改めて実感することになります。
中身はそのままでも、ある日自分の顔がまったくの別人のものになってしまったとしたら、他人の反応はもちろんですが、その違和感は自分自身にも及ぶはずです。
まして主人公のように不幸な事故によるものとはいえ、顔に包帯を巻いたミイラ男のような外見からは表情が読み取れず、初対面の人はもちろん彼を昔から知っている知人であっても不気味な感じを完全に払拭するのは難しいのではないでしょうか。
ただし主人公の計画は、(無意識を含めて)他人を顔で判断しようとする世間や妻へ対して復習を果たすといった単純な動機ではなく、そこにはさまざまな思惑や妄想が入り混じった複雑なものであることが分かってきます。
他人の顔を手に入れた主人公は果たしてまったく別の人間に生まれ変わるのか、また彼の屈折した心理状況がどんな行動を引き起こすのか、その結末を怖いもの見たさにどんどん読み進めてしまう作品であり、しかもそれを主人公が残した手記を読むという形で物語が進行してゆくため、ある種の緊張感が作品全体に漂っています。
物語の終盤には主人公の手記を読み終わった妻が残した手記が掲載されており、ミステリー小説のように怒涛の結末に向かってゆく部分も見ものです。
イルカと墜落
本書はノンフィクション作家である沢木耕太郎氏が、NHKクルーとともにドキュメンタリー番組制作のために訪れたブラジルでの出来事を執筆したものです。
番組の目的はアマゾン奥地に住み、文明社会と接触したことのない先住民族「イゾラド」を取材するというもので、2000年~2001年に撮影を行ったようです。
"イゾラド"の正体そのものはNHKスペシャルとして放映された番組を見てもらえればよいというスタンスで、本書で執筆されているのは、撮影の裏舞台を含めた"過程そのもの"になります。
有名なサンパウロやリオデジャネイロと違い、アマゾン奥地を目指すだけあって登場するのは聞いたこともない街が殆どです。
しかもそこへ辿りつくためにはチャーターしたセスナ機やアマゾン川を船で何日も遡る必要があり、取材過程そのものが冒険なのです。
そして一緒に取材することになるイゾラドを調査、保護している活動家・ポスエロ氏との出会いは一つの山場ですが、この作品の本当のピークはほかのところにあります。
1つは現地へ向かうためにトランジットで立ち寄ったカナダで、ワールドトレードセンターへ2機の旅客機が突っ込むというアメリカ同時多発テロ事件(911テロ)が発生したことを知る場面です。
そしてもう1つは、アマゾン奥地へ向かうために著者が乗り込んだセスナ機(双発機)が墜落事故を起こすという出来事です。
墜落した飛行機は大破したものの、著者含めて乗組員全員が奇跡的に助かるという九死に一生を得る体験をしています。
飛行中にタンクから燃料が流れ漏れ出てゆく様子、高度を維持するために著者がパイロットの指示で荷物を機外へ放り出す場面などは、客観的に見ると絶望的な状況です。
この時の著者は50代ですが、作品を読んでいてそっくりな雰囲気だと感じたのが、若き頃の自身の紀行小説「深夜特急」であり、旅先でのさまざまな出来事、そこで食べたもの、街の風景などが綴られています。
旅を通じての貴重は経験は若者たちだけの特権ではなく、何歳になっても旅でドラマチックな経験が出来ることを教えてくれているような気がします。
スロ-ライフ
著者の筑紫哲也氏といえば新聞記者出身で、夜の報道番組・NEWS23のキャスターとして長年活躍していた姿を覚えている人も多いと思います。
2008年3月に病気を理由に番組を降板、同年11月に惜しまれつつ死去しています。
筑紫氏はTV番組以外にも文化人としても多方面で活躍しており、NPO法人「スローライフ・ジャパン」の設立に携わり、また出身地である大分県日田市では自由の森大学の学長に就任しています。
本書は月間読書誌「図書」に2005年から全15回にわたり連載された「緩急自在のすすめ」を基に出版されたものです。
例えば私自身もインターネット技術の急速な発展と普及、ファストフードやファストファッションの恩恵を受けている1人であり、間違いなく生活が便利になりました。
一方でこれらが「人類へ幸せをもたらすか」と問われると、必ずしも"YES"と答えられる自信はありません。
大量生産と大量消費を繰り返し、技術革新が戦争へ応用され、ネットの普及が時間と心のゆとりを失わせている側面が確かにあるからです。
こうした風潮へ対していち早く警鐘を鳴らしていたジャーナリストの1人が筑紫氏であり、その想いがタイトルによく表れています。
本書は連載記事を書籍化していることもあり、起承転結で話が進んでゆくのではなく、エッセイ風に細かく論じられるテーマが変わってゆく側面があります。
世界中どこでも均質な飲食物が提供される一方で、得体の知らないものを身体へ取り込み続けることの弊害、またファストフードへ反対する形でイタリアで始まったスローフード運動の紹介、詰め込み式の教育により子どもたちから希望が失われている問題などに始まり、話題はほぼ衣食住全般へと及んでいます。
著者は生涯に渡ってインターネット、Eメール、携帯電話やパソコンといったものに無縁の生活を送っていたようです。
最新情勢にアンテナを張り巡らせるキャスターの素顔としては意外でしたが、それを真似することは(私を含めた)大部分の人にとって現実的ではありません。
ただし著者は"ファスト的なもの"をすべて拒否せよと主張しているわけではありません。
"ファストvsスロー"を良い悪いの一元論で片付けるのではなく、「早起きは三文の得(ファスト)」、「あわてる乞食はもらいが少ない(スロー)」、「早メシも芸のうち(ファスト)」、「急がば回れ(スロー)」など両義的に考えることが重要であり、それらを総括した言葉が連載の題名であり、本書の副題になっている"緩急自在のすすめ"ということになります。
ビジネス書やライフハックと称する記事には"コスパ"、"タイパ"に代表される効率化を追求する内容のものが多いですが、そこで立ち止まって何が自分の幸せにのためになるのかという視点を持つきっかけを本書は与えてくれるのではないでしょうか。
またもう1つ忘れてはならないのが、かなり広がってきた"Sustainability(持続可能性)"という視点です。
つまり資源の消費や環境への負担が少ない生き方を意識することで、私たちの次の世代がより幸せに暮らして行けるよう努力する義務があるといえます。
子どもの隣り
灰谷健次郎氏の短編集です。
約200ページの文庫本に4作品がコンパクトに収まっています。
それぞれの作品を簡単に紹介してみたいと思います。
燕の駅
心臓の病気により長い間入院生活を続けている少女・千佳が主人公のストーリー。彼女は今まで3回の手術を受けてきましたが、医師から必要と言われている4回目の手術を拒んでいます。
それは隣の病室で闘病を続けきた顔見知りの患者が亡くなり、また医師たちが(自分を含めた)患者をまるで実験動物のように見ていると思い込み、生きる希望を無くしているからでした。
そこへ新しく中年の立木さんという患者が隣室へ入院し、彼との交流を通じて少女の心に少しずつ変化が訪れてゆくというストーリーです。
長い闘病と反抗期が重なるという複雑な主人公の心境がよく描けている作品だと思います。
日曜日の反逆
勤務先から車で帰宅中の男は、毎週日曜日に国道を1人で歩く少年を見かける。そして何度か少年を送り届ける車中で、2人の間には奇妙な絆が生まれてくる。
男は過去に少年と同じ年頃の1人息子が自殺するという悲運を経験しており、少年が抱えている問題に力を貸してあげたいと思い始める。
自身を孤独だと感じている少年の心境を直接描くのではなく、男の視点を通じて描かれいる作品です。
友
中学生である主人公・美那子の視点を通じて両親への反抗、生徒と先生の対立を描く。また最初は反発していたが、自分とは違いはっきりとした意見を持ちクラスを引っ張る同級生の伊丹君を意識するようになる。
ど真ん中の思春期の子どもを描いており、多かれ少なかれ誰もが自分の過去を重ねて読んでしまうな作品です。
子どもの隣り
4歳の少年が主人公の作品。毎日のように目的もなく駅に集まる老人たち、また偶然に出会った視覚障害を持った少女、家出をして彼と同棲している少女たちと知り合い、幼い視点から大人と少年少女の世界を描いている。
4作品の中では1番長く、子どもを取り巻く社会の問題を風刺している側面もある作品。
本書を読んで改めて思うのは、灰谷氏の描く子どもの心理描写が精密かつリアリティに溢れている点です。
大人(親)の視点から見ると、子どものやること/考えていることが分からない場面によく出くわしますが、よく考えれば誰もがかつては子どもであった経験を持ち、彼らの気持ちに寄り添うための記憶が奥底に眠っているはずなのです。
そうした記憶を掘り起こしてくれるような魅力が本書には詰まっているのです。
スーパーリッチ
タイトルにある"スーパーリッチ"を直訳すれば"大金持ち"ということになります。
本書ではスーパーリッチをビリオネア、つまり10億ドル以上の資産を持つ人びとを指す言葉として具体的に定義しています。
これを日本円に換算すると1400~1500億円の資産を持つ富豪ということになり、私には想像できないレベルの金持ちです。
著者の太田康夫氏は日本経済新聞社の記者として、経済へ大きな影響を持つ彼らへ取材をしてきた経験を持ちます。
こうした大富豪は世界一の経済大国であるアメリカで一番多いのですが、その次に多いのは21世紀に入って経済成長の著しい中国です。
社会主義国家で経済格差の象徴でもあるスーパーリッチが増えているのは皮肉な現象であるといえます。
本書ではそんなスーパーリッチたちの衣食住、さらには趣味やバカンスの過ごし方などを紹介しています。
またスーパーリッチの中にも世代の違いによる価値観の違いが生まれており、かつての金持ちがブランド品や高級車、不動産といった"モノ"へ対してお金を消費する時代が変わりつつあり、特別な場所、食事などによる経験、つまり"コト"へ対してお金を使う風潮へと変わりつつあります。
本書ではスーパーリッチ、つまりビリオネアだけでなく、ミリオネア(100万ドル/約1.5億円以上の資産を持つ人たち)たちの傾向についても言及しています。
どちらもお金持ちには違いありませんが、この両者の間にはかなりの経済力格差があり、章によってはビリオネアとミリオネアが入り混じって記載されている点が分かりにくく残念な点でした。
私自身、10年近く前から富裕層向けビジネスが将来有望であるという話を聞いたことがあります。
それをはじめ聞いた時は、金持ちだけを相手に商売をしてもそもそも絶対数が少ないため、充分な需要が得られないのではないかと漠然と思った記憶があります。
しかし日本を含めて世界的に貧富の格差が年々広がりつつあり、たとえばアメリカでは上位10%の富裕層が全金融資産の52%を所有し、下位50%が所有する同資産はわずか8.5%という衝撃的なデータがあり、日本においてもその数字に近づきつつあります。
つまり、今や富裕層をターゲットから外したビジネスは非効率であるという時代が到来しているのです。
これはインバウンド観光客を代表とした一泊10万円のホテル、一杯5千円のラーメンといった一般市民からは法外な値段に感じるサービスや商品へ対して確実な需要があることからも分かります。
とはいえ私自身は富裕層には縁がないため、彼らの実態を知るために本書を手にとってみた次第です。
一方で本書の終盤で著者は、この格差社会の持つ危うさを指摘しています。
極端に経済格差の広がった状況は社会不安を招くという理論は私にもはっきりと理解できます。
必死に働いても上がらない賃金、あるいは解雇された人びとが明日の生活にも不安を抱えている一方で、雪だるま式に富を増やしている金持ち(その多くは彼らを雇用する資本家でもある)との間に、深刻な亀裂が入るのは当然のことだからです。
さらに付け加えるとこれも世界的な動きですが、経済的な影響力を持つ人びとは同時に政治的にも大きな影響力を行使できることを意味しており、世代を超えて格差を固定してゆく性格を持っています。
そして過去の歴史から行き過ぎた格差は政策によってではなく、革命という名の内戦、もしくは国家間の戦争によってしか解決していないという事実が不気味な将来を暗示しているかのように感じてしまうのです。
幕末百話
著者の篠田鉱造は明治4年東京生まれで報知新聞社へ入社し、明治35年から幕末を知る古老たちからの実話を「夏の夜物語」、「冬の四物語」として新聞で 連載し、明治38年に本書「幕末百話」として出版した本が元になっています。
この本の目的は知らせざる史実の解明ではなく、市井の人々の回顧録、つまり幕末を生きた古老たちからの昔話を集め後世に伝えてゆくこと自体を意図したものです。
よって昔話を語る老人たちの中には維新の立役者や幕府の要人といった名の知れた人物は1人も登場していません。
それだけに飾らない味のある昔話が掲載されており、その中から幾つか簡単に紹介してみたいと思います。
江戸の佐竹の岡部さん
佐竹家の家来で岡部菊外という生涯に81人斬りをした侍の話。町人相手へ無理難題を吹っかけたりしていたが、目の見えない按摩を辻切りした後にその怨念で病死したという。
ズバヌケた女国定忠次の妾
むかし本石町(日本橋あたり)に住んでいたお事という女性が、元は国定忠次の妾であったという話。男まさりの気性で、役者の(市川)小団次の後妻となり、その身上を盛り返したという。
江戸名物折助の生活
折助(武家で使われた下男)たちの生活実態を語った話。折助の仕事といえば殿様が登城する際のお供くらいで、彼らの当時の大部屋での暮らしの様子(食事や博打など)を紹介している。
血判起誓文のお話
歴史小説でよく出てくるいわゆる血判状についてのお話。すでに幕末の頃の血判は形式的なものになってしまい、勢いよく指を切るのではなく、薬指の爪の下の所を軽く突いて滲んできた血を押すだけだったこと。
最後に血判の文例を実際に書いて紹介している。
撃剣修行の道場
むかし斎藤弥九郎の道場(練兵館)へ通っていた人の昔話。寒稽古や道場へ行く途中に夜鷹蕎麦を食べたときの様子、さらに蕎麦屋の主人と揉めて峰打ちを食らわせたら逃げ出したので、置いていった蕎麦をたらふく食べた思い出を語っている。
どれも他愛もない話のようですが、それだけに当時の風景が蘇ってくるような独特の雰囲気があります。
本書の終盤では幕末百話とは別に「今戸の寮」という話が掲載されています。
当時、今戸(今の台東区の隅田川沿い)の寮(当時の別荘の呼び方)で女中をしていた老女による回想録で、当時の上流の人びとやそこで働く人たちの暮らし向きが伝わってくる内容です。
本書の内容が掲載された明治30年代に暮らす人びとにとって、すでに幕末は遠い昔の出来事となってしまい「江戸は遠くになかりけり」というのが実感だったようです。
CAN'T HURT ME
タイトルの"CAN'T HURT ME"を直訳すれば、"私を傷つけることは出来ない"ということになります。
著者のデイビッド・ゴギンズには次のような紹介文があります。
退役海軍特殊部隊(ネイビーシール)。米軍でシール訓練、陸軍レンジャースクール、空軍戦術航空管制官訓練を完了した、たった一人の人物である。
これまでに60以上のウルトラマラソン、トライアスロン、ウルトラトライアスロンを完走し、何度もコース記録を塗り替え、トップ5の常連となっている。
17時間で4,030回の懸垂を行い、ギネス世界記録を更新した。
やたら情報量が多いですが、尋常な経歴でないことは分かります。
たえとばネイビーシールの訓練が過酷で、その任務が命の危険と隣合わせにあることは私も知っていますが、ほかの経歴も合わせて考えると、とんでもなくマッチョでタフなアメリカ人です。
デイビッド氏はこうした経歴を才能ではなく、努力によって成し遂げたと述べており、本書は自伝であると同時にその考え方や取り組み方を同時に伝えてくれます。
昨年から定期的に読んでいるビジネス書が似たような内容であると感じ始めたこともあり、すこし毛色の違ったものを読んでみようと本書を手にとってみました。
そしてその期待は見事に的中し、著者は「タイパだのコスパだの、手抜きや効率なんてクソ食らえ」という考えで、自身を限界までハードに追い込み、周りからクソヤバいやつだと思われるくらい努力を続けることが重要だと主張しています。
なぜなら人間は本当の力の40%しか出していないはずであり、限界を超えた努力を続けることでその上限を突き破って不可能に思えることを次々とやり遂げ、自分を変えることが可能になるということです。
著者は暴力と貧困に怯える少年時代を過ごし、黒人であることから多くの差別を体験してきました。
これを現代風にいえば"人生ガチャに外れた"という表現になりますが、著者はそれを"甘え"であると一蹴し、すべては自分次第、つまり自分の人生は自分で何とかするしかないと主張しています。
とはいえ著者は最初から「鎧の心」を身に付けていたわけではなく、何度も挫折、失敗を繰り返しながら、試行錯誤の末に辿り着いた答えであり、本書にはその過程が細かく書かれています。
これをビジネスに応用するならば、昨今話題になっている働き方や生活スタイルを見直すワークライフバランスとはまったく真逆の考え方で、自分の心に打ち勝つには「とりつかれたかのような努力」、「とりつかれたかのようなハードワーク」が絶対に欠かせない要素であり、睡眠時間を3時間に削ってでも働き続ける姿勢が必要だということになります。
つまり昭和サラリーマンの「24時間戦えますか」のような世界観であり、TVで本書に書かれているような発言をすると大問題になりかねない時代ですが、本書は全米で500万部を記録した凄まじいベストセラー作品であり、日本以上に生産性や効率性にうるさく、AIの分野で世界を牽引するアメリカでこうした作品に多くの共感が寄せられていることを考えると、その懐の深さを改めて実感します。
ただし本書は単なる過激で直球な言葉の並ぶ自己啓発本ではなく、全体を通して著者が読者を叱咤激励してくれるような体温を感じることも事実です。
ありふれた世間並みの成功ではなく、周りから不可能だと言われるような目標へ向かって挑戦を続ける人にとって著者の言葉は勇気づけられるものであり、自分を変えたいと思っている人にとってもヒントを与えてくれる1冊です。
春の城
本作「春の城」は1952年(昭和27年)に発表されて読売文学賞を受賞し、著者の阿川弘之氏にとって出世作となった作品です。
阿川氏は帝国海軍を扱った作品を多く発表していますが、それは自身が大学生時代に学徒出陣により海軍予備員となった経歴が大きく影響しています。
本書はそんな自身の体験を元にした作品であり、作品が発表された時期は戦後6年が経過し、ようやく戦後の混乱期から脱出しつつあるものの、まだまだ戦争の傷跡が日本各地に残っている時代でもありました。
またもう1つ忘れてはならないのが、著者が広島市出身であり、両親は無事だったものの原爆により多くの知人を失った経験を持っているという点です。
著者の世代は青春時代の多感な時期に戦争を経験しており、それだけに本作品は戦争小説であると同時に青春小説でもあるという特徴を持っています。
主人公は東京帝国大学(現在の東大)文学部で日本文学を専攻し、学生時代を満喫しつつも勉学には打ち込めない、いわゆるモラトリアムな期間を過ごしていました。
将来は小説家を目指していましたが、日本がアメリカへ対して開戦し戦争が本格的になるにつれ、学徒動員の足音が聞こえてきます。
これは当時の若者でなければ本当に理解できない心境だと思いますが、将来の夢を抱きつつも、いずれ死ぬかも知れない戦地へと赴かなければならないという状況、つまり戦争という大きな時代の流れの中で自分の意思とは関係なく、未来そのものが不確かなものに思えてくるという不安定な心理がよく描かれていると思います。
心の底で好意を持っている女性との縁談の話も持ち上がりますが、そうした状況の中で主人公の気持ちはつねに不安定な状態です。
一方で学徒出陣により海軍予備員となると、戦争のために少しでも自分の力が役に立てばという気持ちも湧いてきます。
しかし軍では当然のように今まで経験したことのない厳しい上下関係やルールに馴染めない自分がいて、そこでも主人公の気持ちは複雑に揺れ動いてゆきます。
やがて戦況は悪化の一途を辿り、それは海軍に籍を置く主人公も実感するところであり、故郷の友人や同級生たちの中には戦死する者も出てきます。
やがて中国へ派遣される主人公は、そこでアメリカ軍によって故郷に原子爆弾が落とされたことを知るのです。。
とくに原爆のシーンでは、井伏鱒二氏の「黒い雨」の中にも見られる悲惨なリアリティのある描写に圧倒されます。
戦争小説の持つ暗いイメージと青春小説にある甘酸っぱいイメージが渾然一体となったような作品であり、自身の体験を元にしているだけにフィクション小説では決して到達できない、まさしく著者でなければ生み出せなかった作品であるといえます。
時代を超えて読み継いでほしい名作の1つであり、万人へお勧めできる1冊です。
日本人と日本文化
国民的作家・司馬遼太郎氏と世界的な日本文学研究家であるドナルド・キーン氏の対談本です。
2人の専門分野は異なるものの同年代であり、当時の中央公論社の会長がこの2人の対談を企画して実現したようです。
出版時期から対談は昭和46~47年頃に行われたと予測され、2人とも50歳目前の油の乗り切った時期であったことが分かります。
また対談にあたり司馬氏の方が、キーン氏へ対して自身が苦手意識のある日本文学についての話題を抜いてくれるならば、または自分の小説を読んで来ないことを条件に出したようです。
加えて主催者へ司馬氏らしいお願いをしています。
偶然というものが作為的につくれるものなら、そのような条件をつくってください。
つまり日本人と日本文化について関心をもっている同年配の人間二人が、ふと町角で出くわして、そこはかとなく立ちばなしを交わした。
というふうな体にしてくださるとありがたいです。
対談自体は司馬氏がリードして進めている印象を受けますが、お互いの発言を尊重して終始なごやかな雰囲気で対談が進んでいます。
タイトルにあるように、"日本"そのものをテーマにしていますが、以下目次の引用から分かるとおり、その話題は多岐にわたっています。
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第一章 日本文化の誕生
- 日本人の対外意識
- 外国文化の受け入れ方
- 「ますらおぶり」と「たおやめぶり」
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第二章 空海と一休
- 国際的な真言密教
- 一休の魅力
- 切支丹
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第三章 金の世界・銀の世界
- 足利義政と東山文化
- 革命としての応仁の乱
- 金の復活-鎌倉時代
- 日本的な美
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第四章 日本人の戦争観
- 忠義と裏切り
- 捕虜
- 倭寇
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第五章 日本人のモラル
- 日本人の合理主義
- 日本人と儒教
- 「恥」ということ
- 他力本願
- 西洋芸術・東洋道徳
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第六章 日本にきた外国人
- 津和野
- 緒方洪庵塾
- シーボルト
- ポンペ先生
- クラーク、ハーン(小泉八雲)
- アーネスト・サトー
- フェノロサ、チェンバレン、サンソム
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第七章 続・日本人のモラル
- 風流ということ
- 英雄のいない国
- 再び日本の儒教について
- 庶民と宗教
- 原型的な神道
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第八章 江戸の文化
- 上方は武士文化、江戸は町人文化
- 赤穂浪士
- 江戸文学を翻訳して
- 奇人、江漢と源内
- 本居宣長-むすび
今から50年以上も前に行われた対談ですが、現代において"日本人"、"日本文化"という同じテーマで対談を行ったときに、本書と同じような熱量や深さで論じることのできる知識人が果たして何人いるでしょうか。
すでに2人とも故人になっていますが、本という形で言葉が後世に伝わってゆくことを改めて貴重なことであると感じさせてくれる1冊です。
マンガでわかる バフェットの投資術
2024年から新NISA制度が始まったこともあり、日本人の投資への関心が高まっている雰囲気があります。
世界一有名な投資家といえばウォーレン・バフェットであることは私でも知っていますが、彼の経歴や具体的な活躍については殆ど知らなかったため本書を手にとってみました。
このブログを執筆している時点で彼の資産は1380億ドル(日本円にして20兆円以上)あると言われていますが、この額は日本の国家予算の1/5ほどの金額になります。
こう書いても実感することが難しい金額ですが、その財産は徒手空拳から投資によって築き上げたものであることは確かです。
タイトルに"マンガでわかる"と書かれていますが、実際に掲載されているマンガの分量は全体の半分程度で、のこりは文章や図によって構成されています。
彼は現在94歳という高齢ですが、驚くことにわずか11歳(1941年)から株式投資を始めています。
今のように投資に関する情報が溢れている時代ではなく、彼は恩師(大学時代の先生)からの直接の教えや実際の経験を通じて自分なりの投資スタイルを確立してゆきます。
具体的にはバリュー投資、つまり会社の資産や将来性などを踏まえて数値からその会社の株が割安と判断したときに投資を行う方法です。
そして、さらにフィッシャー理論を取り入れてゆきます。
これは投資判断に周辺情報を活用したもので、その会社の評判や商品の利用状況、さらには経営者の能力を評価の対象に加えたものです。
前者は財務情報から導き出すことができますが、後者は定量的なものではなく、聞き込みや実際に経営者と話す必要が出てきます。
具体的にどのような評価項目があるかについては本書で詳しく触れらており、図解もされているため実践的な知識を得ることができます。
私自身も新NISAは始めており、投資への興味はある程度ありますが、いわゆる専業投資家になるつもりは全くありません。
また注意しなければならないのが、バフェットの投資方法はあくまでも個別株を購入して長期保有を続ける方法であり、投資信託(ファンド)やETFといったNISAの中では一般的な方法ではなく、さらには1日の中で株売買を繰り返すデイトレーダーの手法とも異なります。
結果として私にとっては実用書というより、半分はバフェットの伝記として、残り半分は投資家が良い企業を見抜くための視点を知るといった意味で役に立った部分があります。
私のように投資に関してはほぼ初心者であっても本書を理解することは充分可能であり、これから投資を始めてみたい人にとっても参考になるのではないでしょうか。
また気が向いたら投資に関する本を手にとってみたいと思います。
遅れた時計
「星への旅」、「月夜の魚」に続いて3冊連続で吉村昭氏の短編集レビューとなります。
本書には以下の10作品が収録されています。
- 水の音
- 駆け落ち
- 笑窪
- 蜘蛛の巣
- オルゴールの音
- 遺体引取人
- 遅れた時計
- 十字架
- 予備校生
- 歳末セール
以前レビューした2冊の短編集に収められている作品が昭和36~53年の間に発表されたものであり、本書に収録されているのは昭和53~56年の間に発表された作品となります。
丁度このブログと同じ順番で読み進めてみると、吉村氏の作風がどのように変化してきたのかを分かりやすく感じることができます。
ちなみに吉村氏の代表作は長編小説が多く、これら短編小説を執筆している間に長編小説についてもコンスタントに発表し続けています。
その作風の変化を一言で表すのは難しいですが、あえて表現するならば次第に"シンプル"になっていると個人的には感じました。
それは文章の構成や単語そのものが単純になってゆくという意味ではなく、たとえば文章で自分の考えや想いを読み手へ対して伝える場合には文字数が増えてゆく傾向がありますが、吉村氏はそれを登場人物の何気ないセリフや状況描写の中で伝えてゆく、言い換えれば限られた紙面の中でより多くの情報を効率的に読者へ伝えることが出来ると言えるでしょう。
彼は事実を客観的に描写してゆく記録文学の第一人者と言われるようになりますが、それらは膨大な数の資料や関係者の証言を元にして執筆されています。
一方でそれらすべての情報を盛り込むことは不可能であり、長編小説といえども限られた紙面の中で多くの情報を伝える必要があり、こうした作品を執筆してゆく過程で作風も少しずつ変化していったのではないかと推測しています。
本書に収録されている作品でもっとも多い共通のテーマは「男女の関係」であると言えます。
しかし吉村氏は恋愛小説を書く気は始めからなく、それらはいずれも失恋、駆け落ち、さらには無理心中といったものであり、やはり恋愛成就という結末は文学作品に相応しくないのかも知れません。
一方で「オルゴールの音」、「十字架」、「予備校生」は恋愛とは関係のない作品であり、とくに「十字架」に関しては著者が戦争の取材や情報収集を行う中で長編小説にするには難しいエピソードへ対してフィクションの要素を加えた形跡が見られて個人的には好きな作品です。
吉村昭氏は30歳を過ぎてから本格的な作家活動を始めていますが、本書に収録されている作品を発表した頃(50歳前)にはその作風が完成し、成熟の時期を迎えていたのではないかと思われます。
月夜の魚
前回レビューした「星への旅」に引き続き吉村昭氏の短編集です。
1作品あたり20ページ程度の分量であり、本書には以下11作品が収録されています。
- 行列
- 蛍籠
- 夜の海
- 黒い蝶
- 月夜の魚
- 弱兵
- 雪の夜
- 位牌
- 干潮
- 指輪
- 改札口
掲載されている作品は発表された時代順であり、昭和44~53年に発表された短編となります。
初期の頃の短編集とは異なり、新人作家らしい野心的な雰囲気はなくなり、いずれの作品も吉村昭らしい安定した印象を受けます。
上記のうち「蛍籠」、「弱兵」、「干潮」は私小説であり、いずれも散発的な自身の経験を元に書かれています。
「蛍籠」では交通事故で亡くなった甥の葬式を、「弱兵」では戦死した4番目の兄について、「干潮」では父親の臨終に立ち会った経験を描いています。
いずれも「死」と関連する作品であり、著者のライフワークとなる歴史小説や戦史小説以外ではもっとも登場する頻度の多いテーマであるように思えます。
ただし著者の視点は死にゆく人の心情を代弁するというよりは、冷静な観察者のような視点から描いているのが印象的です。
それは著者自身が東京空襲で多くの人の死を見てきて、さらに自身も多感な時期に九死に一生を得た大病を患った経験があるだけに、現代に生きる私たちよりも「死」が身近であり、誰もが逃れることのできない生命が終焉するときの現象として客観的に捉えている傾向があると思います。
もっともそれは著者に限らず、戦争を経験した世代には共通する傾向なのかも知れません。
そして「黒い蝶」、「雪の夜」、「指輪」、「改札口」は離婚を素材とした短編小説になっていますが、立て続けに起きた知人たちの離婚に触発されて書いたと著者自身が説明しています。
一方で「夜の海」、「位牌」では複雑な事情があるものの、円満な家庭を描いた対照的な作品であり、バリエーションに富んだ物語で読者を飽きさせません。
1作品あたり10~15分程度で読めるため、本書を枕元に置いて寝る前にスマホを見るよりも、作品を1つ読み終わってから就寝してみるのは如何でしょう?
星への旅
吉村昭氏の初期作品を集めた1冊であり、以下の作品が収録されています。
- 鉄橋
- 少女架刑
- 透明標本
- 石の微笑
- 星への旅
- 白い道
表題にもなっている「星への旅」は吉村氏にとって始めて受賞した(太宰治賞)記念すべき作品です。
のちに歴史小説作家として広く知られることになる著者の作品ですが、その特徴は過度な演出や表現を抑え、まるでその場面が動画や音声で記録されていたかのような錯覚を起こすほど綿密な描写にあります。
私もこうした吉村氏の作品に触れてファンになった経緯があります。
一方で本書に収められているのは歴史小説を手掛ける以前の作品ということもあり、かなり文学的な演出が意識されています。
つまり中期・後期以降の作品とはかなり雰囲気やアプローチが異なっており、良い意味で作家としての若さや野心を感じさせる内容です。
本書の作品はいずれも「死」をテーマにしたものであり、後年の作品にもたびたび登場するテーマではあるものの、本書の作品はいずれも「死」を直接的、かつ真正面から描いているイメージがあります。
個人的に気になった作品を幾つか紹介してみたいと思います。
「少女架刑」は16歳という若さで亡くなった少女の意識が主人公であり、いわば幽体離脱のような形で両親によって自分の身体が病院へ献体され、そこで少しずつ切り刻まれてゆく過程を観察してゆくという、かなり冒険的な試みが取り入れられている作品です。
一方で「透明献体」は、人の死体から肉や脂肪、内蔵を除いて骨だけを取り出し、標本を作り病院や研究機関へ提供する老技師を主人公とした物語であり、先ほどの「少女架刑」とは対を成す作品であるといえます。
「星への旅」は、何不自由なく暮らしている若者たちが将来の目的、言い換えれば生きてゆく意味を見いだせずに「死んじゃおうか」というノリで集団自殺の旅へ出かける物語です。
いわゆる若者たちの衝動的な行動や暴走を描いた作品はほかの同世代の作家にもよく見られる傾向であり、のちに唯一無二の作風を確立してゆく著者が、駆け出しの頃とはいえ時代の流れを意識した野心的な作品を発表していたのが意外でした。
「白い道」は本書の中では唯一の私小説といえる作品であり、著者が戦中に体験した出来事を元にしています。
後年になり、こうした私小説風の短編を数多く発表するようになりますが、本作品はその先駆けとなる記念すべきものとなります。
どれも暗い雰囲気ではあるものの、純文学的な要素の多い作品であり、作家・吉村昭の原点を知る上で本書は欠かせない1冊であることは間違いありません。
応仁の乱 - 戦国時代を生んだ大乱
中公新書では日本の歴史上に起きた"乱"を扱った本を刊行しており、過去に「壬申の乱」、「承久の乱」を扱ったものを本ブログで紹介してきました。
今回はタイトルから分かる通り、歴史学者である呉座勇一氏による「応仁の乱」を扱った1冊です。
歴史上の大抵の乱は「誰が誰へ対して起こした反乱なのか?」、「誰が勝者なのか?」といったことが明確ですが、この応仁の乱ではそのいずれもが曖昧であり、しかも10年以上に渡って続くことになります。
分かりやすく整理すると、お互いに室町幕府の有力守護であった細川勝元(西軍)と山名宗全(東軍)が対立した戦いということになります。
また8代将軍・足利義政は西軍を支持していたため、東軍が反乱側という見方ができます(しかし東軍ものちに義政の弟・義視を将軍として擁立)。
事件の発端は、室町幕府管領である畠山氏、さらには斯波氏の家督争いであり、両家それぞれの後継者候補の後ろ盾として細川家と山名家が名乗りを上げたという構図で、元々、細川家と山名家の仲が悪かったわけではないようです。
さらに言えば、両軍の総大将(細川勝元・山名宗全)は、いずれも乱が終わるのを見届けることなく病没しています。
この争いの焦点が畠山家と斯波家の家督争いだけに終始していれば、教科書に載るような歴史上の出来事にはなりませんでした。
しかし結果から見ると、この争い(応仁の乱)がつづく戦国時代の幕開けを引き起こし、さらには後世の研究から近代歴史の転換期とまで評価される大事件になるとは、当事者たちも想像していなかったはずです。
有力な守護大名だった細川・山名家の元に、利害関係で敵対するほかの守護や守護代たちが次々に集まってきてしまい、元々の家督争いを大きく超えた規模の争いへと發展してゆき、さらにその両軍の力が拮抗していたため、戦いが長引き、また犠牲も大きくなっていったのでした。
著者はこの様子を次のように解説しています。
彼らはそれなりに、"出口戦略"を考えており、終戦に向けて様々な努力や工夫をしている。
にもかかわらず、コミュニケーション不足やタイミングのずれによって、終戦工作は失敗を重ね、戦争は無意味に続いた。
"損切り"に踏み切れなかった彼らの姿勢は、現代の私たちにとっても教訓になるだろう。
今も行われている世界各地の紛争はもちろん、身近な例として個人間のいざこざがグループや派閥を形成しての大きな対立に発展するということは起こりうることです。
本書は時系列に沿って解説されていますが、大和の興福寺で当時別当を務めていた経覚、尋尊によって詳細な日記が残されており、貴重な史料として各所で引用されています。
また興福寺自体が、応仁の乱自体に深い関わりを持っていることが本書から分かります。
とても一言で解説することが難しい「応仁の乱」ですが、乱が起きるまでの時代背景や経緯、また10年以上に及ぶ乱の経過に至るまでが丁寧に解説されているため、整理された情報が頭の中に入ってきます。
専門家が執筆する新書の中には難解な内容のものが少なくない中で、本書は複雑な出来事が分かりやすく書かれている印象を受け、歴史の教養書としてお勧めできる1冊になっています。
集金旅行
本書には井伏鱒二氏の作品が7編収められています。
- 集金旅行
- 追剥の話
- 因ノ島
- 白毛
- 丑寅爺さん
- 開墾村の与作
- 釣り場
最初の「集金旅行」は中編程度の長さがありますが、その他は短編小説になっています。
「集金旅行」では、望岳荘という荻窪にあるアパートの大家が亡くなり、小学生の息子が1人取り残された状態で、彼の生活を成り立たせるために大家と昵懇の仲であった主人公が部屋代を踏み倒して逃げた住人の元へ取り立ての旅へ向かうというものです。
さらにこの旅には同じ望岳荘の住人で中年独身の美人婦人が同道することになります。
彼女はかつての恋人から慰謝料を取り立てるといった別の目的を持っており、変わった組み合わせの2人による集金旅行といったストーリーです。
荻窪は著者の暮らしてた街として有名ですが、彼らが訪れる旅先は広島県、山口県、福岡県の町々であり、彼の出身地(広島県福山市)周辺に集中しています。
そこで2人が出会う人たちはさまざまな事情を持っていますが、訪れる町々の描写についても著者にとって馴染のある風景として、どこか旅情を誘う描写になっており、ストーリー以外にも楽しめる要素になっています。
そのほかの作品についても備忘録的に簡単に触れておきたいと思います。
「追剥の話」では当村大字霞ヶ森周辺に戦後の混乱期に出没した追剥への対策について、自治会の中で話し合いをする様子が描かれています。
この"当村"というのは山に囲まれた集落であり、具体的な名前のない他の作品にも登場する村ですが、著者が戦時中に自主的に疎開を行った山梨県の村がモデルになっていると言われています。
「因ノ島」は知人の招きに応じて訪れた因島での釣り旅行とそこで起こった事件を記しています。
「白毛」では初老を迎え白髪の増えた自身を顧みながら、その白髪と釣りにまつわる苦い思い出をテーマにしています。
「丑寅爺さん」は再び"当村"を舞台にした牛飼い老人の身の上を扱った作品です。
「開墾村の与作」は元禄時代を舞台としており、古文書を元に備後の開墾村での出来事を小説化しています。
「釣り場」では荻窪を舞台にした作品で、日課の釣りをする中で偶然に知り合い出席することになった若いカップルの結婚パーティーでのスピーチを題材にした作品になっています。
井伏鱒二氏といえば短編小説の名手として知られていますが、久しぶりに作品に触れてみて改めて思ったことがあります。
それはどの作品も日常の何気ない出来事を描いているように見えて、ある場面を鮮やかに鋭く切り取ったものが多く、本職の作家であっても簡単には真似できない作品であるという点です。
ドイツ人のすごい働き方
最近、本屋のビジネス書コーナーでドイツに着目した本が増えていることを実感します。
それは一般的にドイツへ対して次のようなことが言われているからではないでしょうか。
- 2023年にドイツが日本の名目GDPを抜いて世界3位となる。
- ドイツの1時間あたりの労働生産性は日本の1.5倍という調査結果がある。
- ドイツの労働時間は先進国の中でも短く、日本よりも年間約350時間も短い。
- その結果としてドイツの有給消化率は約100%である。
ドイツの人口は、日本の人口は約1億2500万人よりも少ない約8400万人であることを考えると、ドイツ人は日本人と比べて効率的な働き方をしていることが推測できます。
著者の西村栄基氏は、欧州で30年のビジネス経験があり、現在もなおドイツ在住17年を迎える現役のビジネスマンであることから、本書を執筆するのに最適な人物であるといえます。
まず序章では、ドイツの会社員がどのような1日を送っているか、具体的なタイムスケジュールや環境、また職場の雰囲気も交えて紹介しています。
そして1章では、高い労働生産性を実現しているドイツ社会の仕組みを紹介しています。
日本とドイツは真面目に働くという点でよく共通していると言われますが、文化・歴史・民族的な要因を掘り下げてゆくと、その背景にはかなりの違いがあることが分かってきます。
続いて2章では、具体的にドイツ人の日々の「すごい働き方」を著者の経験を織り交ぜつつ詳細に説明しており、本書でもっとも重要な章であるといえます。
3章ではマネジメント側の視点からその仕組を解説しており、例えばドイツの職場では2~3週間連続で夏季休暇を取るのが普通であり、それでも滞りなく業務やプロジェクトが回ってゆく仕組みを中心に解説しています。
最後の4章では、著者がドイツ式の日本の「ハイブリッドワークスタイル」を提案しています。
たしかに社会的背景が異なるドイツの働き方を全面的に日本企業へ取り入れるのは無理があり、日本の職場の良さを活かしつつ取り入れるのが現実的です。
本全体としては200ページほどであり、2時間ほどあれば読み終えることのできる分量になっています。
ドイツでは伝統的に個人の時間を重視する文化があり、その結果として基本的に残業を行わない習慣が根付いています。
一方であらかじめ決められた時間で最大限の成果を生み出すための効率性が重要視され、残業や休日出勤が珍しくない日本の「勤勉」とは本質的に異なることが分かってきます。
もちろんドイツ式の働き方が万能ではないことを念頭に置きつつも、参考になる部分も本書の随所で発見できると思います。
ドイツ人が実践してきたワークライフバランス、つまり仕事と私生活の両方を充実させようという価値観は日本でも「働き方改革」という形で浸透してゆくことが予想され、1つのロールモデルとしてドイツから学べることは多いと感じる1冊でした。
火宅の人 (下)
檀一雄氏の代表作であり遺作でもある「火宅の人」の下巻のレビューです。
5人の子どもを抱えた妻のいる自宅へは滅多に立ち寄らず、毎日のように飲み歩き愛人の恵子と同居していた主人公でしたが、出版社の協力もあり、半年間のヨーロッパ取材旅行へと単身向かうことになります。
主人公はサンフランシスコ、ニューヨークを経てロンドン、パリ、さらにはスペインやイタリアにも足を伸ばします。
著者の逞しい一面として、どの街を訪れても言葉が通じる通じないは関係なく繁華街の大衆酒場を訪れては大いに飲み、ときには市場で食材を買い求め自分で調理したりする適応能力です。
檀氏は美食家としても知られており、過去に国内外の名物料理を紹介したエッセイ「美味放浪記」を本ブログでも紹介しています。
もちろんと言うべきか、主人公はこのヨーロッパ旅行の最中に"もと子"という日本人女性と愛人関係になっています。
このヨーロッパ旅行を境に、主人公近辺の様子が少しずつ変わり始めてゆきます。
毎晩のように飲み歩く放蕩の生活は相変わらずであるものの、長年の愛人・恵子との間に少しずつ距離ができ始め、お葉という新しい愛人と九州旅行へ行ったり、さらに全身麻痺で寝たきりだった次男・次郎が急死するという悲しい出来事が重なります。
さらに追い打ちをかけるかのように、長年の不摂生な生活の影響で体調にも異変が起きてきます。
それでも主人公は今までの行いを後悔するどころか、その放蕩はさらに激しさを増してゆくのです。
紛れもなくかつての盟友であり、今は亡き太宰治や坂口安吾と同じく破滅的な運命を辿ることになるのですが、その胸中には我が人生の「夏は終わった」という一抹の寂しさが残るものの、最後には「これが我が生きざま。自分のために祝杯をあげろ」という愉快な気分が湧いてくるのです。
つまり主人公ははじめから自業自得、身から出た錆、当然の報いといったことは百も承知の上であり、死の床にありながらも完成へ辿り着いた本作品終盤でここまで断言できるのは、作家・檀一雄の意地と存在感を感じずにはいられません。
火宅、つまり煩悩という業火の中で己の身を焼き尽くしながら執筆を続けた作品であり、そこからは私小説の枠を超えた大きなテーマを感じます。
火宅の人(上)
「火宅の人」は檀一雄氏の代表作とされる私小説的な作品であり、20年間にわたり断続的に発表され続けました。
タイトルにある"火宅"という言葉はあまり聞き慣れないですが、仏語で煩悩や苦しみに満ちた現世を火炎に包まれた家に例えた言葉です。
檀一雄といえば太宰治、坂口安吾らと深い交友があったことで有名であり、従来の道徳観や価値観にとらわれない無頼派と呼ばれる作家グループの1人としても知られています。
当時の作家たちの中には、作風もそうですが私生活でも自由奔放に生きた人が多く、まさしく檀一雄がそれに当てはまります。
作品中には自らの家庭の状況が赤裸々に語られています。
長男の一郎は非行に走り、次郎は日本脳炎の後遺症で全身麻痺で寝たきり、三男の弥太、長女フミ子、次女サト子はまだ幼く、5人の子どもを抱えて大変な状態ですが、主人公(著者自身)は毎日のように飲み歩き、滅多に家に寄り付かないという生活を送っています。
そんな夫の行状を見かねた妻は家出騒ぎを起こします。
それでも主人公の行状が改まることはなく、女優の卵である恵子と新たに住居を構え、仕事での行事にも妻ではなく恵子を同伴させるといった具合で、家庭生活はほぼ崩壊しているような状態です。
当然のように結果として作品中で描かれる毎日の生活は、家庭中心ではなく、愛人・恵子との日々が大半を占めるようになります。
けっして主人公自身に常識や道徳概念が抜け落ちているわけではなく、自らの行いを客観的には自覚しながらも、それを改めることを拒否している態度です。
主人公は1日中ビールかウィスキーを飲んでいるような大酒飲みであり、シラフでいる時の方が少ない状態であり、さらに突発的にどんちゃん騒ぎを始めたり、思いつきで1ヶ月単位でふらりと旅に出かけたりと、とにかく1か所で落ち着いて生活を送るということが皆無なのです。
基本的には、こうした放蕩を尽くす日々が文庫本で上下巻800ページ以上にも渡って描かれ続けています。
一見すると完全な社会不適合者にしか見えませんが、やはり彼の作家という技量が本作品を単なる放蕩日記ではなく、後世に評価される文学作品に昇華させているのです。
作家という職業は程度の差こそあれ、作品を生み出すために自らをさらけ出し、そのために身を削るような苦しみが求められるものだと思います。
著者の場合、そうした仕事を続けてゆく中で火宅の中に身を置き続けることが必要不可欠な儀式であり、たまたま太宰のように愛人とともに入水自殺による最期を迎えた結末とは違った方向へ進んだに過ぎないのです。
こうした日々に1つの転機として訪れるのが、家庭や愛人と離れて向かった半年間に及ぶヨーロッパへの取材旅行であり、後半へと物語は続いてゆきます。
幻影への脱出
今までSF小説品は年間で1~2作品しか読んできませんでしたが、今年は早くも本書で5作品目となります。
今回はジョン・ブラナーというイギリスのSF作家で、私にとってはじめての作家です。
本作品は1963年に発表され、日本では1976年にハヤカワSF文庫として出版されました。
SF小説といっても作品の舞台は近未来の地球であり、火星や金星への探索が始まっているものの、まだテラフォーミングは始まっていない状況です。
地球の人口は80億人を超えて資源が枯渇し、食糧を含めたあらゆる物資が不足している近未来という設定です。
おまけに各国政府はこうした問題に対処できないため統治を放棄し、代わって国連が地球上ただ1つの政府として何とか機能しているという状態です。
本作品が発表された1960年代は大気汚染、水質汚染、化学物質による汚染など、深刻な公害問題が世界各地で発生し、環境問題への意識が高まり始めた時代です。
一方で現実の世界では既に2023年に本作品と同じく地球の人口が80億人を突破していますが、幸いなことに地球規模での資源枯渇には至っていません。
それでも地球温暖化による異常気象、生態系への影響などは深刻な問題となりつつあり、遠からず本作品のような未来が訪れる可能性が無いとは言えません。
ストーリー自体は比較的シンプルで、こうした社会不安の中でハッピー・ドリームと呼ばれる麻薬が若者たちを中心に爆発的に流行するといった現象が起こります。
この問題を調査するのが主人公ニコラス・グレイヴィルであり、彼の肩書は国連の麻薬捜査官です。
この麻薬は多くの中毒者を生み出しているにも関わらず製造拠点、流通経路が謎に包まれており、しかも初回は5ドル、2回目以降は1回あたり2ドルという驚くほど安価に入手することができます。
この安価で流行している麻薬という点は、最近世界的な問題になりつつある合成麻薬フェンタニルを連想してしまいます。
携帯電話やインターネット、さらにはAIのようなテクノロジーは登場せず、主人公は所構わず喫煙するヘビースモーカーである点などは本書が発表された時代を感じさせますが、作品の大筋としては妙な現実感がある作品になっています。
ネタバレを防ぐためこれ以上のストーリー紹介は控えておきますが、人口問題、資源枯渇問題が解決されないまま事態が深刻な状態となり、袋小路へ迷い込んでしまった近未来を描いた作品です。
未来を自由に空想して楽しむスペースオペラ作品ではなく、現実問題を風刺しているという側面が強く、今読んでも時代を超えて色々と考えさせられる作品になっています。
ネトゲ戦記
暇空茜(ひまそら あかね)氏による自伝です。
私自身は著者の名前は知らず、本のタイトルと書店のポップ紹介文だけを見て購入してみました。
本書は以下の3部構成になっています。
- 第一部 ネトゲ編
- 第二部 起業編
- 第三部 裁判編
いきなりですが本書の秀逸な点として、3部構成で書かれているテーマに見事なメリハリがある点です。
文章自体にはゲーム用語やネットスラングなどが多用されていることもあり、読みにくさを感じる部分がありますが、ページ下部に細かく注釈が付けられています。
また本書は右開きの横書きというスタイルですが、これは注釈の位置を含めてオライリー(O'Reilly)本に代表されるコンピューター技術書では定番の構成であり、個人的には面白い試みだと思いました。
まず第一部のネトゲ編ですが、著者はいわゆる高校を中退してひたすら自宅に籠もりゲームに没頭したネトゲ廃人であった経歴を持っています。
おもにUO(ウルティマオンライン)、FF11(ファイナルファンタジー11)といったゲームに没頭した時期を描いており、著者はいずれのタイトルにおいても有名プレイヤーとして活躍しています。
もっとも当時はeスポーツのような職業はないため、ゲーム自体では生計は立てられない時代です。
実はこの2つのタイトルは私自身もプレイした経験があり、かつネットゲームの中毒性は身をもって体験していることから、かなり感情移入しながら読むことができました(もっとも私がネットゲームを始めたのは社会人になってからであり、仕事が忙しくなるにつれ2年ほどでプレイするのを止めています)。
元々著者にはゲームの才能があり、さらにそこで得た知識と経験を活かしてゲーム会社へ就職することになります。
その顛末が第二部の起業編になります。
ゲーム業界に限らず当時のネットベンチャーの労働環境はブラックなところが圧倒的に多く、私も細いジャンルは違うものの同じような環境で仕事をしていた経験があることから、ここでも感情移入しながらどんどん読み進めてゆきました。
またネットベンチャーによくある現象として、創業メンバー(=経営陣)間での人間関係が泥沼化するという点です。
本当の意味での黎明期(事業立ち上げ時期)では寝食を忘れて共通の目標に向かってワンチームで進むことができますが、逆に事業が軌道に乗り始めると色々な問題が表面化することがしばしば起こります。
ここで創業メンバーの何人かが抜け、成長してゆく企業と倒産する企業とに別れます。
著者の場合、青天の霹靂のようにある日会社から追い出されることになります。
知らないのは本人のみで、水面下ですべての根回しが完了している状態であったため、当時の著者に反論の余地はありませんでした。
しかし社運を賭けたゲームタイトルの製作において中心的な役割を担っていたのは著者であり、この措置を不当であるとして裁判で争うことになる顛末が第三部の裁判編です。
大きな功績がありながらも、著者ほど鮮やかに創業者メンバーから裏切られる経験を持っているのは、ある意味で貴重だと言えます。
この第三部が一番長い章となりますが、それも裁判が8年にも及ぶ争いとなったからでした。
さすがに私にはこうした裁判の経験はありませんが、この部分は単純な好奇心として面白く読むことができました。
裁判で使われた書面もかなり豊富に掲載されており、そこからは著者が全身全霊で裁判を闘ったことを伺い知ることができます。
結果的に著者は裁判に勝利して6億円もの賠償金を手にすることになりますが、全人格、全人生を賭けて闘い続けた年月を思うと決して法外な金額ではない気がします。
現在の著者が具体的にどのような活躍をされているのか詳しく調べていませんが、個人的には再びゲーム業界に戻ってきて欲しいと思いました。
たまたま私自身の経験と重なる部分があり感情移入できる場面の多い1冊でしたが、そうでない人にとってもノンフィクション作品として充分に楽しめる1冊だと思います。
国境のない生き方 私をつくった本と旅
著者のヤマザキマリ氏は、「テルマエ・ロマエ」に代表される漫画家として有名ですが、エッセイ作家としても活躍されています。
とくに彼女の経歴はとてもユニークであり、それが多方面で活躍している源泉力にもなっています。
母親が音楽家(ヴィオラ奏者)という母子家庭で育ち、自身は音楽家ではなく画家を志すようになります。
14歳でヨーロッパへ1人旅を経験して17歳で高校を中退してイタリアで画家となるために留学し、そこで11年間暮らすことになります。
やがて詩人のイタリア人との間に子どもが誕生するものの、詩人のあまりの生活力の無さに離別し、シングルマザーとして男の子を育てることを決意します。
そこで画家として生活するのは難しいため、漫画家として生活費を稼ぐことを決意するのが現在の活躍につながっていきます。
それから日本に帰国して北海道でイタリア語の講師、ラジオパーソナリティ、TVリポーターとして活躍しつつも、のちに学者をしているイタリア人と結婚します。
それからは夫の仕事の都合で、エジプトやシリア、ポルトガル、アメリカなどを転居しながら暮らし、現在はイタリア在住という経歴を持っています。
彼女自身が好奇心や独立心旺盛だったことはもちろんですが、14歳でのヨーロッパ1人旅、17歳でのイタリア留学は母親の教育方針であったというから驚きです。
本書ではそうした彼女自身の経歴を追いながら、幼少期より読書家であったか彼女が人生の転機となった際に読んでいた(漫画も含む)本、映画などを紹介しています。
著者に限らず青春の多感な時期、人生の岐路に立った時、大きな困難にぶつかった時に出会った書籍や映像作品、音楽は後々になっても大きな影響力を持ち続けるものです。
著者は1967年生まれで私よりすこし上の世代であるため、漫画は完全に一致しないまでも幾つかの作品は私が読んでいたものと重なる部分があります。
また活字作品では開高健、安部公房、大岡昇平、ガルシア・マルケス、三島由紀夫などの作品を取り上げています。
映画はヨーロッパ作品がメインであるため私が知っている作品は殆どありませんでしたが、それでも著者が紹介している作品を興味深く読むことができました。
著者ほど起伏に富んだ退屈しない人生を送った人は少ないと思いますが、それだけに経験してきた挫折も大きく、かつては死のうと思った時期もあったようでした。
もう1つのテーマである"旅"については、私たちが思い浮かべるツアー旅行や1人旅とはすこし意味合いが違っていて、多くの国々で暮らしてきた経験そのものが著者にとっての"旅"であり、さすがにスケールが違います。
著者の言いたいことは、自分の暮らしている町や国を超えて、地球サイズの地図の中で生きてゆけば仕事や人間関係といった悩みは大抵片付くものであり、あらゆる扉を開け放って生きる場所を見つければいいというエールにほかなりません。
イタリア在住の著者自身もまだまだ1か所に留まる気はないようです。
死海のほとり
本ブログでかなり前に遠藤周作氏の「イエスの生涯」をレビューしていますが、本書「死海のほとり」とは表裏一体をなす作品であると著者は述べています。
「イエスの生涯」は著者独自の解釈によるイエス・キリストの伝記という形の作品ですが、本作品は現代と過去を行き来しつつ2つの物語によって構成されています。
1つ目は「巡礼」という物語であり、私(著者自身)がエルサレムを訪れ、そこで聖書研究をしている学生時代の友人・戸田と一緒にイエスの軌跡を訪れる、つまり巡礼するという構成になっています。
そして2つ目はイエスが生きてる時代、つまり約2000年前のエルサレムが舞台であり、弟子や彼と関わりを持ったユダヤ教徒、ローマ帝国の為政者や軍人、さらには市井のから見たイエスの姿が「群像の人」というタイトルで描かれています。
私自身は聖書(新約聖書)を読み込んだ経験がなく、散発的に何となく内容を知っている程度です。
聖書にはイエスが水をぶどう酒に変える、また盲人や不治の病を治すといった奇跡を行ったと記されていますが、著者の描くイエス像にはそうした奇跡は後世の弟子や後継者たちが付け足したものとして排除し、あくまでも1人の人間としてイエスの姿を描いているという特徴があります。
こうした解釈が神学的にどう評価されているかは分かりませんが、すくなくとも著者の作品中からは宗教者の持つ教義臭さのようなものは感じられません。
そもそもエルサレムを訪れた私(著者)は、熱心な宗教心から巡礼を思い立ったわけではありません。
聖書に書かれている内容、もっといえば信仰心そのものがグラついている状態であり、その迷いを解決するべく思い立った巡礼なのです。
"私"が同伴をお願いした学生時代の熱心なキリスト信徒であった友人・戸田はエルサレムにある国連組織の中で聖書研究に従事していますが、聖書の中から事実(史実)を知ろうとすれば知るほど、その殆どが根拠のないものであり、現代に残っている"聖地"と言われるものの大部分が人為的に後世になって作られたものであるとことも知っています。
何よりも戸田自身が"私"と同じように、信仰心を失いつつあるような状態でした。
そんな2人にリンクするように、当時を描いた物語においてもイエスは奇跡を行えない「何もできぬ人」とした描かれ、その事実が知れ渡ってキリストが迫害されるようになると弟子たちは1人また1人と彼の元を去ってゆきます。
イエスにできることと言えば、重病人や癩病患者、盲人たちと一緒に過ごし、手を握り、一緒に涙を流すことだけなのです。
彼の説く"愛"とは現代だけでなく、2000年前の過去おいても現実的には何の役に立たないモノとして人びとの嘲笑を受けるのです。
つまり私(著者)と戸田、そしてイエスを取り巻く弟子たち、この両者は2000年の時を超えて信仰に迷う同じ立場に置かれているのです。
これはキリスト教に限らず、信仰の本質を問いかけているように思えます。
(本作品とは逆に)聖書に書かれている通りイエスが奇跡によって病人を癒やし、死人を蘇らせることすら出来たとするならば、人びとは現実世界の目に見える利益を求めてその宗教を信仰するという見方もできるからです。
宗教に求められているのは物理的な利益ではなく、心の平穏であることは百も承知ですが、そのいずれも満たすことができずに生まれて死んでゆく人が大多数なのが現実なのです。
見方を変えれば人とは迷い続ける利己的で弱い存在であり、そうした人びとを否定せず寄り添う同伴者のような存在がイエス(宗教)であるという視点は遠藤周作氏のほかの作品からも感じることのできるテーマであり、私のようにクリスチャンでなくとも考えさせられる内容になっています。
塞王の楯 下
今村翔吾氏による「塞王の楯」の下巻のレビューです。
下巻では主人公・匡介が率いる穴太衆・飛田屋にとって最大のライバルが本格的に登場します。
それは穴太衆と同じ近江に集住している鉄砲鍛冶集団・国友衆(くにともしゅう)です。
戦国時代の戦い方を大きく変えたのが鉄砲の存在であり、その鉄砲をより強力に進化させてきた技術集団が国友衆であり、彼らを率いるのが匡介とほぼ同世代の彦九郎という設定です。
最強の矛が国友衆であるならば、最強の楯が穴太衆ということになり、その矛盾を決着させるための戦いが下巻で繰り広げられます。
舞台は実際に繰り広げられた大津城の戦いになります。
関ヶ原前夜に行われた有名な合戦といえば真田氏と徳川氏との間で行われた上田城合戦が知られていますが、近江国において東軍に味方した京極高次をはじめとする3000名が籠城する大津城へ対して、毛利元康を大将とした立花宗茂、小早川秀包、筑紫広門ら15000名が攻め寄せたこの合戦も有名です(作品中では4万の軍勢となっている)。
しかも上巻では主人公の匡介がはじめて1人で仕事を任せられたのが、この大津城の外堀を空壕から水壕へと移行させる工事であり、いわば決戦の舞台として申し分ない伏線が張られています。
石を自由自在に積み上げる穴太衆と、10町(約1.1km)もの射程距離を持つ大筒で攻撃を仕掛ける国友衆との戦いは、本作品全体を通したクライマックスになります。
戦国時代における野戦で両軍が真っ向からぶつかり合う合戦も魅力的ですが、時間をかけて行われる城攻めも見どころがあります。
とくに攻め手の将の1人である立花宗茂は戦国時代を代表する名将の1人であり、対する京極高次は名家の出身であるものの、信長の妹・お市の娘であり、秀吉の妻・淀殿(茶々)の妹でもあるお初が妻であったことから、その血縁関係により運良く大名になれた人物であり、当時から妻の七光りだけで出世できた"蛍大名"と当時から揶揄されてきた人物であり、お世辞にも名将とは言えない人物でした。
作者はそれを逆手に取って天真爛漫な、そして何事も家臣(部下)たちへ一任したら口を出さないという、今どきのマネジメント方法としてはむしろ好ましい手法を採用している武将として高次を描いています。
戦国時代をエンタメ小説として描いているため、先入観には囚われず、登場人物たちを魅力的に描いている点が印象的でした。
それは主人公側だけに留まらず彼らと敵対する人物たちにも言え、単純な勧善懲悪という構図でストーリーを展開していないという点も長編小説として読者を飽きさせない、つまり作品に愛着を抱きやすい工夫がされています。
戦国武将同士の戦いは基本的に領土を巡っての弱肉強食の争いですが、そこに領土的野心が絡まない純粋な職人同士(穴太衆vs国友衆)の意地がぶつかり合うというという新しい視点を与えているのが本作品の秀逸な部分であり、普通の歴史小説では描けない世界を表現できている作品といえます。
塞王の楯 上
今村翔吾氏による戦国エンタメ小説です。
あえて"エンタメ"という言葉を使ったのは、物語の背景は史実を元にしつつも、作者による創作的な要素が多分に入っているという意味になります。
著者が物語の中心に据えたのは、戦国時代好きの中ではよく知られている城や寺院などの石垣施工の専門家・穴太衆(あのうしゅう)です。
タイトルにある塞王(さいおう)とは穴太衆の中でもっとも優れた石工の棟梁に与えらる称号であり、楯とはその塞王が築いた石垣ということになります。
主人公の匡介(きょうすけ)は信長の朝倉氏侵攻による一乗谷城の戦いによって家族を失ってしまいます。
そしてたまたま一乗谷を訪れていた塞王の源斎に拾われて養子となり、やがて次期塞王と目されるまでに成長してゆきます。
戦国時代の花形は何といっても武将たちであり、石工、つまり職人を同時代の主人公に仕立てて長編小説を執筆するという試みは非常に面白いと思います。
穴太衆は特定の大名の勢力下にある訳ではなく、依頼があれば日本全国どこへでも赴いて石垣の施工を請け負う存在であり、彼らの築いた石垣は1000年保つとまで言われます。
本作品には大きく2つの見どころがあります。
1つは戦争孤児という暗い生い立ちから次世代の塞王になるべく匡介が成長してゆく過程です。
一口に石垣を組むといっても石工の世界は奥深く、とくに穴太衆が得意とするのは自然石をそのまま使用する野面積(のづらづみ)であり、石と石の隙間には栗石(ぐりいし)と呼ばれる小石を詰め込み、石同士をしっかりと噛ませる必要があります。
その頑丈さは一説には、江戸時代以降主流になった石を加工して隙間なく積み上げた切込接(きりこみはぎ)よりも上という説もあるほどです。
そしてもう1つは、懸(かかり)と呼ばれるものです。
この言葉は作者の造語だと思われますが、突貫で石積みを行うことを指し、場合によっては敵が攻めてくる中においても籠城方として入城しながら石積みを続行する非常事態をも意味します。
その場合は当然、敵味方の矢弾が飛び交う中での作業となるため、普段よりはるかに高い危険が伴います。
上巻では本能寺の変の混乱に乗じて、反明智を姿勢を鮮明にした蒲生氏郷の籠もる日野城での懸がクライマックスになります。
ここで合戦中であっても自由自在に石垣を組み替えてゆく穴太衆の本領が発揮されますが、城の攻防という場面だけに迫力のある描写が続きます。
まさしく戦国時代に相応しい内容であり、映像化しても見映えするシーンになるだろうなと思いながら読み進めました。
密教
密教と言えば仏教の一流派であることを知っている人は多いと思いますが、ほかの仏教の流派と比べて密教にはどのような特徴があるのかを知っている人は少ないのではないでしょうか。
自分の知らない分野への一般教養を身につける手段として岩波新書は最適な手段であり、私自身もそうした目的のために本書を手にとってみました。
著者の松長有慶氏は仏教学者であると同時に、本書が出版されたのちに真言宗における僧の最高位・金剛峯寺第412世座主を務めた僧でもあり、いわば密教の第一人者ということで本書を執筆するに相応しい経歴を持っています。
日本において密教の代表的な宗派は真言宗(東密)と天台宗(台密)が代表的ですが、世界中において現在密教が信仰されているのはチベット周辺と日本だけだと言います。
もちろん密教発祥の地はインドですが、その密教は前・中・後期の三期に分かれるそうです。
日本へ密教が伝来したのは9世紀初頭であり、長安へ留学した空海が持ち帰ったことは日本史の教科書でも書かれています。
一方でチベットには7世紀に仏教が伝搬したものの、途中2百年ほど仏教が中断し、密教が持ち込まれたのは11世紀のはじめになります。
チベットより先に日本で密教が広まったという事実は意外でしたが、よりインド密教の流れを色濃く受け継いでいるのはチベットの方だと言います。
中国では不空、恵果(空海の師)という高僧が密教を広めましたが、インドから直接仏教が伝来したチベットとは異なり、中国を経由して伝来した分だけ、その影響を受けていることは否めません。
さらに日本へ密教が伝来したのちも、日本固有の民俗信仰とも結びついて独自の形態を作り上げてゆくことになります。
本書では著者自らがチベットを訪れて、学者としての視点から日本密教との違いを比較しています。
続いて密教(おもに真言宗)が持つ世界観(宗教観)の解説へと入ってゆきます。
簡単に言えば浄土系宗派では「人は亡くなった後に極楽浄土へ行く」という教えであり、禅宗派では瞑想(坐禅)によって真理を悟るという教えですが、密教では「即身成仏」(注:即身仏とは異なる)、つまり戒律により定められた修行に精進することで生きながらにして仏になるという教えであり、より禅宗側に近い教えだと言えます。
密教にはさまざまな儀式があり、また真理を表したといわれる曼荼羅をはじめとした道具立てもほかの宗派と比べると多彩なのが特徴です。
また言葉そのものに真理が宿るという教えから、要所にサンスクリット語が用いられるのも特徴です。
もちろん本書は密教の入口を紹介しているに過ぎませんが、それでも本書によってはじめて知る事柄は多岐にわたり、たとえば密教僧の日々のお勤めの内容、曼荼羅の意味やその見方などが丁寧に解説されています。
さらに密教の歴史やチベット密教(ラマ教)と比較することで、その特色をより深く知ることができます。
密教といえば護摩を焚きながらお教を唱える儀式が有名ですが、その意味がよく分からないという人であれば是非本書を読んでその疑問を解消してみてはいかがでしょうか?
我利馬の船出
本ブログでははじめて紹介する灰谷健次郎氏の小説です。
本作の主人公は経済的、家庭環境においても不幸な環境で生まれ育った少年です。
過去を捨てて生まれ変わるために自らに「我利馬(ガリバー)」という新しい名前を付け、自分の力でボートを作り、新しい世界へ飛び出すために航海へ出るというのが前半のストーリーです。
少年が独力で造船し1人で大海原へ漕ぎ出すというのは現実離れした夢のような計画であり、最初は突拍子のないストーリーが展開されてゆくのかと想いながら読んでいましたが、その計画はかなり用意周到で地に足が着いたものでした。
我利馬は書籍で船の構造を勉強し、造船所を見学し、さらに模型で試作を作った上で数年かけて計画を地道に実行へ移してゆくのです。
実際に造船の段階に入ると、ホームレスの"おっさん"や最初は面白がって見学していた近所のガキたちという協力者たちがが現れるのです。
この"おっさん"には複雑な過去があるようですが、一種の聖人のような人物であり、惜しみなく我利馬のために働いてくれます。
はじめは一刻も早くみじめで不公平な社会から逃れたいという気持ちが動機でしたが、こうした過程を経て彼の心境に変化が生じてきます。
それでも最初の決心は揺るがずに、ついに我利馬は手作りのボートで出航することに成功します。
もっともこの航海には具体的な目的地はなく、何となく南半球にあるユートピアを目指すといった程度の目標がある程度です。
我利馬は地球上で未発見の島など存在しないことを充分承知していましたが、それでもそれを実行に移さずにはいられなかったのです。
そして大海原でさまざまな困難を経験し、孤独の中で自分と向き合う中でさらに我利馬の中には大きな心の変化が訪れます。
やがて我利馬は大嵐によって遭難し見知らぬ島に漂着します。
ここから読者が予想もしない急展開を迎えることになりますが、これから読む人のためにストーリーの紹介はここまでにしたいと思います。
ストーリーだけを見ると児童向けの作品のような突拍子のないものですが、著者自身が船を所有するほど好きなこともあり、船の構造や航海技術などのディテールはしっかり解説されており、そのバランスが面白い作品です。
我利馬は理不尽で不幸な境遇の中でどん底の現実を生きてきた影響で、はじめは世間を恨み妬み、自分のことしか考えられなくなっていました。
彼もやがて自分の行く末は犯罪者しかないと思い詰めながらも現実の中で足掻いてゆく中で、思いもかけず出会った人のやさしさに触れることで、人間的に成長してゆく過程が描かれています。
個人的には、少年が冒険を通じて成長してゆくという意味では正統派のファンタジー小説のようでもあり、人間のエゴを鋭く切り取った現代小説と言えなくもない不思議な印象を受けました。
いずれにしても読み終わった後も余韻が残り続ける作品であり、小説の醍醐味を味わえることは間違いありません。
主人公の年齢を考えると、とくに中学・高校生くらいの年代であればより感情移入できることは間違いなく、是非とも読んでもらいたい作品です。
シベリヤ抑留記 農民兵士の収容所記録
第二次世界大戦の終戦後、ソ連によってシベリアで強制労働に従事させられた日本人は57万5千人にも及ぶと言われ、そこで多くの人たちが亡くなりました。
多くシベリア抑留の体験記や記録が発表されていますが、本書はその中の1冊ということになります。
著者の三浦庸氏は山形県尾花沢市の出身で、終戦時には得撫島(ウルップ島)に駐留していましたが、ソ連軍によってシベリアへ連行されることになります。
このシベリア抑留を悲惨なものにしたのは、そこが極寒の地ということもありますが、何と言っても食糧事情の悪さです。
支給されるのは少量の殻付きの黒いコーリャン飯や黒パンであり、はじめは不味くて食べられるものではなかったといいます。
しかし1ヶ月も経過する頃にはコーリャンを1粒でも多く食べることだけが生き甲斐となり、家族や故郷を恋しくなる気持ちさえもはっきり思い出す力がなくなり、寝ても覚めても食べ物のことしか考えられなくなってしまったといいます。
また捕虜たちは収容場所の衛生的な問題があり、シラミや南京虫によって苦しめられる日々が続きます。
本書は著者自身の体験記であり、そこでの日々やエピソードがひたすら綴られています。
労働に従事する捕虜たちは例外なく痩せたカエルのような身体になり、体力のない者から容赦なく犠牲になってゆきます。
まさしく餓鬼道に落ちた亡者どもが現実世界に出現したかのような地獄絵図であり、そこでの体験記は悲劇的な内容になるのが当然といえます。
しかしこの体験記には、つねにユーモアの要素が垣間見れます。
喜劇王のチャップリンは「人生は近くで見ると悲劇だが遠くから見れば喜劇である」と言いましたが、たしかにこうした要素が各所に見受けられます。
たとえばシラミ対策として捕虜たちが、ドラム缶で着たきりの服を熱湯消毒し、さらに全身の体毛を剃るという対策を施しますが、服が乾くまでの間は痩せた全裸の和尚たちが集まっているような風景だったと表現しています。
ほかにもコーリャン飯によって皆が便秘に悩まされることになりますが、そこでの排便の苦痛を和らげるために発明された白川曹長考案の"白川式安産法"なるものの説明、さらには極寒の地でうず高く積み重なり凍った大便が見事な氷の彫刻のようであったこと、その芸術性を惜しいと思った捕虜の1人が収容所の入口に門松のようにそれを飾った話など、ほかにも数々のエピソードが全編にわたって散りばめられています。
一方で必ずしも捕虜となった日本人たちは互いに助け合い、励まし合いながら何とか生き延びようとしてきたという姿は、多くの場面では見られなかったようです。
とにかく他人を出し抜き、自分のための食料をすこしでも多く確保することで頭が一杯であり、そこで相互扶助という光景は見られませんでした。
これは人間性の問題ではなく、生物が極限の飢餓状態に置かれたときに見られる必然的な現象なのです。
つまり他人へ食べ物を分け与えるという行為は、自分の死へと直結する行為であったからです。
過去にホームレス体験記を読んだときにも思いましたが、今の日本ではどんなに貧乏でも飢える心配のない時代ですが、よく年寄りたちが言っていた「食べ物を粗末にするな」という言葉が重みを帯びてきます。
一括りに捕虜と言いますが、将校たちは労働を強制されることなく、住居も隔離され食料も多めに支給されていたようです。
敗戦によって軍隊は解体し、本来であれば階級の上下も存在しないはずですが、抑留生活でも待遇の違いは明確であり、抑留生活中も上官へ逆らうことは許されませんでした。
そして一部を除きほとんどの将校たちは悲惨な待遇にある部下たちを助けることもなく、まるで身分制度のような隔たりも見られました。
ページをめくるたびに色々な感情を読者へ与えてくれる1冊であり、シベリアに限らず戦争体験記としてもお進めできる1冊です。
幕末維新の民衆世界
世界的にはウクライナとロシアの戦争、イスラエルのガザ地区侵攻といったニュースが連日報じられており、国内では米価格の高騰やトランプ関税といったニュースが話題になっています。
こうした歴史に残るであろう出来事の中で人びとが何を考えて生活しているのかについてはニュース中でのインタビュー、そして何よりSNSの普及により、リアルタイムで知ることができます。
一方で過去の歴史上の出来事の中で、人びとが何を感じながら生活してきたかについては、その歴史的史料の少なさから教科書の中でも触れられることは殆どありません。
しかし江戸時代に入り、当時の日本人は世界屈指の識字率を誇るようになり、幕末維新の時期ともなると、多くの庶民が日記を残すようになり、またそれらが現存しています。
本書ではそうした膨大な庶民たちが残した日記を元に、黒船の来訪から維新直後の時代までを対象に紐解いています。
著者の佐藤誠郎氏は近代日本史を専門とする歴史学者ですが、維新志士たちや幕府側の要人たちからの視点とは一味違った、歴史のもつ重層構造を明らかにしてゆきます。
まずは1862年の黒船来航で有名なアメリカからのペリー提督率いる艦隊が日本沿岸を訪れた出来事に触れられています。
突然、異国船が訪れた出来事はやはり幕府の要人や武士たちを驚愕させたことが分かり、庶民だちの目から見ると村祭が延期になったり、江戸では武士の夜間外出が禁止されたため、商いが休みとなり日本橋や両国は閑散とした風景になったようです。
一方で翌年に再びペリーが来航した際には、庶民たちは見慣れぬ外輪船を見物しようと男も女も小舟に乗って見物へ繰り出しています。
ただしそれも一時的なもので、幕府の御用船がその間に割り込んできて異国船見物禁止を言い渡す事態になっています。
庶民たちは黒船の存在に最初恐怖を覚えたものの、やがて彼らに攻撃の意思がないと分かると、好奇心を抑えきれなかったようです。
ちなみに幕府から禁止された後も見物人は跡を絶たず、数十人が捕らえられたようです。
幕末に一貫して見られる傾向として、開国による金の流出が契機となって起きたインフレが挙げられます。
あらゆる物価が乱高下しながら全体としては上昇してゆくことを嘆く内容が残されており、とくに米の価格の高騰は現在の日本人にとっても実感できる出来事です。
ただし米への依存度が今と比べられないほど高い時代であり、幕府や裕福な商人たちが繰り返し貧窮民を対象に米やお金を援助した記録が残っています。
こうしたインフレは幕府の政策、そして外国人へ対する反発となってゆき、加えて開国によって広まったコロリ(コレラ)で多くの人が死んでゆく様子などは痛ましい内容です。
ほかにも江戸の長州屋敷が取り壊しになった際に、その廃材が江戸の風呂屋に払い下げになった出来事、徳川将軍である慶喜が鳥羽・伏見の戦いの後に大阪からフランスへ亡命した噂が広まるなど、それぞれ歴史上の出来事に対しての民衆の受け止め方を知ることができます。
こうした混乱の時期にはやはりというべきか、いわゆる多くのデマが広がることが多く、異人たちが女・子どもの生き血を飲むという説を真面目に信じている人が多かったことが分かります。
これはメディアやインターネットが普及していなかったことが原因と思われがちですが、むしろSNSの普及によりデマが当時よりも爆発的に広がる傾向があり、根底にある民衆心理は幕末の頃から変わっていないのです。
全体的に言えるのは幕末の内乱、その結果としての御一新といった混乱に振り回されながらも民衆たちは逞しく生活している点であり、たとえば戊辰戦争で官軍が東へ進軍する中、これを商機と見て戦地へと自ら赴く商人が居たりします。
歴史小説などでは描かれることの少ない当時の民衆たちの姿は、歴史へ対する新たな視点を与えてくれる新鮮なものであり、楽しく読むことができた1冊です。
古本食堂
本書は原田ひ香氏による神保町にある設定の「鷹島古書店」を舞台にした物語です。
主人公の鷹島珊瑚は帯広で老齢の両親を看取り、その後もそこで暮らしていましたが、兄の慈郎が急逝したことで、その遺言により兄の経営していた古書店を引き継ぐことになります。
しして本作品にはもう1人の主人公が登場します。
それは大学生の鷹島美希喜であり、彼女にとって珊瑚は大叔母にあたり、慈郎の生前から鷹島古書店に通っていました。
2人とも古書店の素人ではあるものの読書好きであることは共通しており、珊瑚は店主として、美希喜はアルバイトとして古書店を続けることになります。
古書店にはいろいろな客が訪れ、2人とその客との間に心温まるストーリーが繰り広げられてゆき、その過程で亡くなった慈郎の過去も明らかになってゆきます。
本書は6話から構成されていますが、それぞれに物語のキーとなる本、そしてグルメが登場します。
神田周辺には書店だけでなくカレーや喫茶店をはじめ昔からの有名店が密集していることでも知られており、作品中にはその名店のグルメが文字通りストーリーの味付けとして登場します。
ちなみに作品中の古書店は架空のお店ですが、実在する有名店のグルメや書店が登場します。
私自身はしばらく神保町を訪れていませんが、とくに学生時代にはたびたび訪れていた思い出のある場所です。
九段下から神保町を経て神田駅へ向かう一帯は裏通りへ一歩入ると都心でありながらも昔ながらの風情が残っている界隈で、東京の中でも私が好きな場所の1つです。
とくに地方出身の私にとって古本屋が立ち並ぶ神保町の風景が新鮮だった記憶があります。
本ブログで紹介している本の3~4冊に1冊は普通の書店では並ばない、つまり増販予定がない実質的な絶版本であり、古本としてしか入手できません。
私の場合、近くで定期的に開かれる大規模な古本市を楽しみにしていて、そこでまとめてそうした本を購入するのがここ数年の年中行事になっています。
その古本市では毎回30店以上の古書店が出店していますが、その中には当然のように神保町の店もあります。
おかげで通常の書店で購入した本も含めると、常時20冊くらいの積読本がある状態です。
出版不況の中で応援の意味を含めてなるべくネットではなく書店で本を購入するようにしていますが、一方で古書店が持つ独特の雰囲気や文化も魅力的であり、両者がうまく共存できる時代が続いて欲しいものです。
本作品を読んで久しぶりに神保町へ行きたい気持ちになりました。
そのマンション、終の住処でいいですか?
昭和40年代に建てられた都内にある赤坂ニューテラスメタボマンション。
有名建築家の故・小宮山吾郎による当時流行したメタボリズムの象徴的な建造物であるものの、老朽化という問題に直面しています。
外見はさいころ状の「細胞」を積み上げたようなデザインであり、最上階だけ2つの細胞が円錐形で並んで前方へ突き出ていることから、世間では「おっぱいマンション」と呼ばれていました。
この設定を読み、すぐに実在した黒川紀章デザインによる銀座の中銀カプセルタワービルをモデルにたマンションを思い浮かべた人も多いはずです。
本書はこの「おっぱいマンション」を舞台の中心として、さまざまな人たちの悲喜こもごもを描いた作品です。
まずは生前から父親(小宮山吾郎)とは距離を置いてきた長女の小宮山みどり。
かつて小宮山吾郎の右腕であり、今はデザイン事務所の代表を引き継いでいる岸田恭三。
教師を定年退職し、郊外から中古マンション(おっぱいマンション)を購入し引っ越してきた市瀬清夫妻。
40年間このマンションに住み続けている元女優の奥村宗子。
さらには彼らの家族や知人など登場しますが、それぞれが複雑な事情や過去を持っています。
このおっぱいマンションの老朽化による建て替えや修繕といった問題はマスコミによって全国的に報道されるようになり、最終的にはこの登場人物たちがマンションの将来を話し合う住民会議で勢揃いすることになります。
著者の原田ひ香氏は脚本家を経験していることもあり、この「おっぱいマンション」という巨大な舞台装置を中心とした人間ドラマの展開は、小説でありながらも舞台やドラマのような構成を連想させ、読者を一気に物語の中へ引き込むような魅力があります。
私自身もマンションに住んでいますが、個々の部屋は住人たちの個人所有であるものの、敷地や建物全体は共有物であり、老朽化などが進んだ場合、さまざまな人たちの事情や思惑が入り乱れることになるのだろうと将来の自分自身のことも何となく重ね合わせながら読んだこともあり、他人事ではないなとは思いつつも全体としては楽しく読むことができました。
戦士の遺書
戦史、昭和史を専門とする代表的なジャーナリストである半藤一利氏による1冊です。
本書は1992~1994年の間に行われた月刊誌での連載、及び単発で雑誌に掲載された2本の作品を加えてたものを文庫化したものです。
最初、著者はこの連載を依頼されたときに気が進まなかったといいます。
それは戦争において死を覚悟して書き残した遺書をテーマにした重いものであるからですが、多くの戦史に関する著書を発表してきた半藤氏はすでにその代表的な作家という立場にあり、だからこそそれに相応しい人選であったことも確かです。
本書では28人にも及ぶ軍人たちの遺書が、著者の紹介する経歴とともに掲載されています。
- 海軍中将 伊藤整一
- 海軍中将 安藤二十三
- 海軍大将 山本五十六
- 陸軍少将 水上源蔵
- 海軍大将 井上成美
- 陸軍中将 岡田資
- 海軍中将 大西瀧治郎
- 陸軍少尉 上原良司
- 海軍中将 宇垣纒
- 陸軍元帥 杉山元
- 陸軍大将 田中静豊
- 海軍少佐 野中五郎
- 陸軍大佐 中川州男
- 海軍技術中佐 庄司元三
- 陸軍大佐 山崎保代
- 海軍少佐 国定謙男
- 陸軍大将 山下奉文
- 海軍大佐 有泉龍之介
- 陸軍大佐 親泊朝省
- 陸軍少将 大田実
- 陸軍中将 栗林忠道
- 陸軍大尉 黒木博司・海軍大尉 樋口孝
- 陸軍中将 岡本清福
- 陸軍中尉 満渕正明
- 海軍少将 猪口敏平
- 陸軍中将 本間雅晴
- 陸軍大将 阿南惟幾
一括りに"帝国軍人の遺した遺書"といっても、書かれたシチュエーションは様々です。
それは迎えた最期が戦死、刑死、あるいは自裁(自殺)といった違いがあり、遺書についても辞世の句を添えて書かれた本格的なもの、あるいは日記や家族への手紙として書かれたものもあります。
また死を覚悟しているという点では共通していますが、その心情にもかなりの違いがあります。
たとえば戦争そのものを憂うような内容、多くの部下を死なせた自責の念に駆られているもの、残される家族への想いを中心としたもの、さらには一切の後悔なく軍人としての本領は果たしたといった内容などがあります。
読み進めてゆくと掲載されている遺書に同情したり、個人的には賛同できないものもありますが、やはり内容だけに重苦しいものであることは事実です。
いずれにしても過去に戦争という出来事があり、そこで死んでいった人びとが書き残した遺書が貴重な歴史的な史料であることは確かであり、これらをどう評価し何を想うのかは個々の読者に委ねられいるのです。
わたしの普段着
本ブログでも何冊か紹介してきた吉村昭氏のエッセイです。
本書の発表時点(2005年)では元気な様子の著者でしたが、その翌年に病没してしまうため結果的に最晩年のエッセイとなってしまいます。
本書には60篇にも及ぶエッセイが掲載されており、それらが以下の5つのテーマに分類されています。
- 日々を暮らす
- 筆を執る
- 人と触れ合う
- 旅に遊ぶ
- 時を歴(へ)る
まず「日々を暮らす」では家や近所、身の回りの人々に関する出来事が中心に描かれており、一番エッセイらしい作品です。
70台半ばとなった著者は、若い頃に肺結核の末期患者と診断された時期から奇跡的に回復した経験を持っていますが、体の不調もなく元気な様子であり、それでも電車で席をゆずられる機会が増えてきたことなどが綴られています。
「筆を執る」では、文字通り作家ならではの経験や、過去に発表した作品を執筆するに至ったきかっけなどが綴らています。
吉村昭ファンとしては興味深いエッセイであり、過去に読んできた作品へ奥行きを与えてくれます。
「人と触れ合う」では、編集者、また作品を書き上げるために取材て訪れた先での出会いなどに留まらず、歴史上に埋もれていた人を掘り起こした経験も同様に"出会い"として扱っています。
「旅に遊ぶ」では旅先での出来事が記されています。
著者は全都道府県を訪れており、例えば長崎には100回以上、札幌には150回以上、愛媛県宇和島には50回前後は訪れたといいます。
それでも著者はレジャーを目的とした旅行は皆無であり、また数回の講演のための旅行のほかは、すべて小説執筆のための取材旅行だったようです。
著者は1つの作品を書き上げるために何度も現地での取材を繰り返すことで知られていますが、その一端を垣間見ることができます。
最後の「時を歴る」では、自分の過去を振り返ったエッセイが中心です。
少年時代を過ごした町(日暮里)、風景、そして過去に出会い今は亡き人たちへの追憶からは、多くの名作を生み出し老境に差し掛かった作家ならではの雰囲気が漂い、そこからは吉村氏の原点や生きる上で指針としてきたことを垣間見ることができます。
ほかのエッセイでもそうですが、温和でありながらも作家としての"こだわり"は誰よりも強く、いわば真面目な職人肌である人物像が浮かんできます。
作家が追われがちな原稿の締め切りについても一度も遅れたことがないという逸話も、エッセイを読んでゆくといかにも吉村氏らしいと納得することができます。
趣味らしいものといえば、お酒が好きだったため飲み歩きくらいでしたが、この面でも酒癖の悪さを微塵も感じさせない「きれいなお酒の飲み方」が出来る人であったようです。
本書の帯には「静かな気骨に貫かれたエッセイ集。」という紹介があり、まさしくその通りだなと納得した1冊です。
楽に生きるのも、楽じゃない
国民的長寿番組「笑点」の司会でお馴染みの春風亭昇太師匠のエッセイです。
「笑点」でお馴染みとは言いつつ、私自身はその時間帯にTVを見ることは滅多にありません。
一方でたまに行く寄席で2回ほど著者の高座を聴いたことがありますが、2回ともその日1番の笑いは昇太師匠の落語だったことはよく覚えており、それが本書を手に取るきっかけにもなりました。
ただし本書は著者が「笑点」のメンバーとなる前の1997年に発表されたエッセイであり、それが2001年に文庫され、さらに出版社を文藝春秋へ変えて改めて2017年に出版された1冊です。
そのため、"あとがき"が3つも収録されている面白い作りになっています。
落語家という点では志ん生、米朝、談志辺りの著書を過去にブログで紹介したことがありますが、その中では一番落語へ言及している箇所の少ない1冊になります。
何気ない日々の出来事、大好きなお酒のこと、同期で仲の良い立川志の輔師匠と定期的に出かける海外旅行のこと、さらには自分で作詞した歌を載せたりと、かなり自由なエッセイとなっています。
読み進めてゆくと、たしかに談志師匠のように真面目に落語論や演芸論を語るのは似合わない人だなというのが感想です。
本書の中で唯一落語論について語っているのは、付録のような形で収められている立川談春師匠との対談内容のみです。
私自身、好きな落語家が何人かいますが、落語を"上手い"とか"名人"で評価するほどには詳しくありません。
良い意味でも悪い意味でも落語の本質は大衆演芸であり、個人的にはその場の観客を楽しませることが全てだと思っています。
そうした意味では著者は間違いなく一流の落語家であり、私にとって著者が名人に値するかどうかはどうでもよい問題なのです。
本書が最初に発表されたのは著者が39歳の時ですが、現在は60歳中盤となりベテランの域に入ろうとしています。
それでも落語会の重鎮のような威厳を感じさせないのは、"芸が軽い"からではなく、彼の個性や芸風がそうさせるのであり、それは立派な芸人としての魅力であることが本書からも伝わってくるのです。
テキヤの掟
お祭りが開催されると軒を並べて出店するさまざまな屋台が子どもの頃から好きだったという人は多いはずであり、私もその1人です。
一方で屋台を運営する人たち、つまりテキヤの実態を知っている人は少ないのではないでしょうか。
本書ではそんなお祭りの名脇役であるテキヤの世界を社会学者である廣末登氏が詳しく解説した1冊になります。
著者はテキヤのアルバイトに応募して実際に働いた経験もあるといいます。
そんな著者がまず主張しているのは、暴力団とテキヤを同一視するのは誤りだという点です。
もちろん何事にも例外はありますが、テキヤの大部分は暴力団とは何の関わりも持たない人たちであり、彼らはヤクザや博徒のことを符丁で「家業違い」と呼び、一般市民と同様に出来るだけ関わりを持つことを避けています。
著者はテキヤは売る商品を持っている、縁日など日本文化の一角を担う商売人であると定義しています。
まず序章では、テキヤ稼業の基本知識を分かりやすく解説しています。
テキヤのバイ(商売)には、コロビ(ゴザに商品を並べるスタイル)、サンズン(組み立て式の売店)などのスタイルがあり、ネタ(商品)の種類にはタカモノ(曲芸・見世物小屋など)、ハジキ(射的屋)、ヤチャ(茶屋)、ジク(クジ引き)、電気(綿菓子)、チカ(風船)など色々な符丁で呼ばれていることが分かります。
また全国各地を巡りながらテキヤ稼業をする人たちは、アイツキ(初対面の面通し)をして土地の祭りの一角で商売することを許されるのです。
すこし古いスタイルですが、「男はつらいよ」の主人公・寅さんの「姓は車、名は寅次郎、人呼んでフーテンの寅と発します」で終わる有名なセリフは、まさに土地の同業者へのアイツキの際に使われるものであり、同業者間での無用な争いを避け、円滑に商売を進める上で欠かせない大事にされてきた習慣なのです。
テキヤの商売の準備から後片付けまでの流れ、また仕事のサイクルなど殆ど知らなかった実態を知ることができます。
次に最近まで関東の由緒あるテキヤ組織の事務局長を努めていた大和氏(仮名)を取材する形で、テキヤ稼業を回想してもらっています。
さらに続いて本所・深川を本拠地とするテキヤの張本(親分)の娘へ取材を行い、同じくその回想録が収録されています。
彼女は取材時点(2022年)で74歳であり、その回想からは戦後・経済成長期の縁日史が見えてきます。
この2つの回想が本書の半分以上を占めていますが、まるで上質なドキュメンタリー作品を読んでいるような完成度の高さに驚きます。
まさに本書の見どころであると断言できます。
終盤では、こうした取材を総括してテキヤ業界の未来を憂慮しながらも前向きに考察しています。
著者が主張しているテキヤにしか担えない雰囲気、そして文化が存在するという点には私も全面的に賛成できます。
もしも昔から続く縁日の風景からテキヤの屋台が消え、キッチンカーだらけになってしまったらきっと味気ない風景になってしまうに違いありません。
ちなみに本書の最後にテキヤ社会の隠語・符丁が50音順で掲載されている付録のような章があり、しかも量もかなり充実していてパラパラと眺めているだけでも楽しめます。
かつて東京の花柳界で使われていた言葉や文化が衰退し、その大部分が継承されることなく失われていると聞いたことがあります。
個人的にはテキヤ文化がそうした事態にならないことを願うばかりです。
観光消滅
私自身しばしば都内へ行くことがありますが、外国人観光客が本当に増えたことを実感します。
テレビでも外国からの観光客が日本のグルメに舌鼓を打ち、その文化に感心する姿が放映される機会が増えています。
一方でオーバーツーリズムによる交通機関や観光施設、飲食店の混雑、さらには宿泊施設の不足と高騰といった問題がメディアに取り上げられることもありますが、彼らが外貨を落としてくれることもあり、全体的には概ね好意的に受け止められている印象があります。
政府としてもインバウンド誘致に力を入れる政策(観光立国推進基本法)に力を入れており、こうした動きをバックアップしているのが現状です。
著者の佐滝剛弘氏は、NHKのディレクターを経て現在は城西大学の観光学部教授を勤める、いわば観光のプロフェッショナルです。
本書ではこうした流れに水を差すわけではありませんが、観光立国と言われている日本各地で起こっている問題、さらには今後日本が観光立国として持続してゆくことへの危機感を中心に論じられています。
たしかに観光という産業は"水もの"である一面があり、コロナ禍により世界的な海外渡航の制限は記憶に新しいですが、日本は世界有数の地震大国で知られている通り自然災害による影響、さらには台湾有事などの地政学リスクの影響に大きく左右される部分があります。
著者はそれに加えて少子化による深刻な人手不足についても言及しています。
観光客を迎えるには、観光地の景観保全、飲食店や土産物店、さらには交通インフラの担い手など多くの人手が必要になります。
本書ではとくに交通インフラについて触れらており、地方の鉄道やバス路線の廃止が相次ぐ現状を具体的を挙げて紹介した上で、観光業界全体に従事する人たちの待遇面での課題、さらに円安が追い打ちをかけて人材の流出が起こり、機能不全に陥ることを懸念しています。
またコロナ禍などで政府が実施した「Go To トラベル」、「全国旅行支援」といった観光業界への政府支援についても検証を行っています。
私自身はこうした制度を利用したことはありませんが、支援に伴い発生した助成金に関する企業不正、予約殺到による混乱などのニュースは記憶に新しい出来事です。
終盤では海外の観光立国の例を挙げて、日本の政策などに活かせるヒントも紹介しています。
そもそも訪日観光客が急増したのは2014年から2015年にかけてであり、コロナ禍の時期を除けば観光立国としての日本はまだ10年にも満たない新興国であるといえます。
本書は観光学の専門家である立場からあえて厳しい苦言を呈している側面が強く、私のように直接観光業界に従事していない読者へ新しい視点を与えてくれます。
またメディアではあまり取り上げられない、そもそも本質的な"観光の意義"とは何か?という問題にも踏み込んで言及しており、著者の大学での講座に参加しているような感覚で観光について色々と考えさせられる1冊になっています。
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