本と戯れる日々


レビュー本が1000冊を突破しました。
引き続きジャンルを問わず読んだ本をマイペースで紹介してゆきます。

戦士の遺書


戦史、昭和史を専門とする代表的なジャーナリストである半藤一利氏による1冊です。

本書は1992~1994年の間に行われた月刊誌での連載、及び単発で雑誌に掲載された2本の作品を加えてたものを文庫化したものです。

最初、著者はこの連載を依頼されたときに気が進まなかったといいます。

それは戦争において死を覚悟して書き残した遺書をテーマにした重いものであるからですが、多くの戦史に関する著書を発表してきた半藤氏はすでにその代表的な作家という立場にあり、だからこそそれに相応しい人選であったことも確かです。

本書では28人にも及ぶ軍人たちの遺書が、著者の紹介する経歴とともに掲載されています。

  • 海軍中将 伊藤整一
  • 海軍中将 安藤二十三
  • 海軍大将 山本五十六
  • 陸軍少将 水上源蔵
  • 海軍大将 井上成美
  • 陸軍中将 岡田資
  • 海軍中将 大西瀧治郎
  • 陸軍少尉 上原良司
  • 海軍中将 宇垣纒
  • 陸軍元帥 杉山元
  • 陸軍大将 田中静豊
  • 海軍少佐 野中五郎
  • 陸軍大佐 中川州男
  • 海軍技術中佐 庄司元三
  • 陸軍大佐 山崎保代
  • 海軍少佐 国定謙男
  • 陸軍大将 山下奉文
  • 海軍大佐 有泉龍之介
  • 陸軍大佐 親泊朝省
  • 陸軍少将 大田実
  • 陸軍中将 栗林忠道
  • 陸軍大尉 黒木博司・海軍大尉 樋口孝
  • 陸軍中将 岡本清福
  • 陸軍中尉 満渕正明
  • 海軍少将 猪口敏平
  • 陸軍中将 本間雅晴
  • 陸軍大将 阿南惟幾

一括りに"帝国軍人の遺した遺書"といっても、書かれたシチュエーションは様々です。

それは迎えた最期が戦死、刑死、あるいは自裁(自殺)といった違いがあり、遺書についても辞世の句を添えて書かれた本格的なもの、あるいは日記や家族への手紙として書かれたものもあります。

また死を覚悟しているという点では共通していますが、その心情にもかなりの違いがあります。

たとえば戦争そのものを憂うような内容、多くの部下を死なせた自責の念に駆られているもの、残される家族への想いを中心としたもの、さらには一切の後悔なく軍人としての本領は果たしたといった内容などがあります。

読み進めてゆくと掲載されている遺書に同情したり、個人的には賛同できないものもありますが、やはり内容だけに重苦しいものであることは事実です。

いずれにしても過去に戦争という出来事があり、そこで死んでいった人びとが書き残した遺書が貴重な歴史的な史料であることは確かであり、これらをどう評価し何を想うのかは個々の読者に委ねられいるのです。

わたしの普段着



本ブログでも何冊か紹介してきた吉村昭氏のエッセイです。

本書の発表時点(2005年)では元気な様子の著者でしたが、その翌年に病没してしまうため結果的に最晩年のエッセイとなってしまいます。

本書には60篇にも及ぶエッセイが掲載されており、それらが以下の5つのテーマに分類されています。

  • 日々を暮らす
  • 筆を執る
  • 人と触れ合う
  • 旅に遊ぶ
  • 時を歴(へ)る

まず「日々を暮らす」では家や近所、身の回りの人々に関する出来事が中心に描かれており、一番エッセイらしい作品です。
70台半ばとなった著者は、若い頃に肺結核の末期患者と診断された時期から奇跡的に回復した経験を持っていますが、体の不調もなく元気な様子であり、それでも電車で席をゆずられる機会が増えてきたことなどが綴られています。

筆を執る」では、文字通り作家ならではの経験や、過去に発表した作品を執筆するに至ったきかっけなどが綴らています。
吉村昭ファンとしては興味深いエッセイであり、過去に読んできた作品へ奥行きを与えてくれます。

人と触れ合う」では、編集者、また作品を書き上げるために取材て訪れた先での出会いなどに留まらず、歴史上に埋もれていた人を掘り起こした経験も同様に"出会い"として扱っています。

旅に遊ぶ」では旅先での出来事が記されています。
著者は全都道府県を訪れており、例えば長崎には100回以上、札幌には150回以上、愛媛県宇和島には50回前後は訪れたといいます。

それでも著者はレジャーを目的とした旅行は皆無であり、また数回の講演のための旅行のほかは、すべて小説執筆のための取材旅行だったようです。
著者は1つの作品を書き上げるために何度も現地での取材を繰り返すことで知られていますが、その一端を垣間見ることができます。

最後の「時を歴る」では、自分の過去を振り返ったエッセイが中心です。
少年時代を過ごした町(日暮里)、風景、そして過去に出会い今は亡き人たちへの追憶からは、多くの名作を生み出し老境に差し掛かった作家ならではの雰囲気が漂い、そこからは吉村氏の原点や生きる上で指針としてきたことを垣間見ることができます。

ほかのエッセイでもそうですが、温和でありながらも作家としての"こだわり"は誰よりも強く、いわば真面目な職人肌である人物像が浮かんできます。

作家が追われがちな原稿の締め切りについても一度も遅れたことがないという逸話も、エッセイを読んでゆくといかにも吉村氏らしいと納得することができます。

趣味らしいものといえば、お酒が好きだったため飲み歩きくらいでしたが、この面でも酒癖の悪さを微塵も感じさせない「きれいなお酒の飲み方」が出来る人であったようです。

本書の帯には「静かな気骨に貫かれたエッセイ集。」という紹介があり、まさしくその通りだなと納得した1冊です。

楽に生きるのも、楽じゃない


国民的長寿番組「笑点」の司会でお馴染みの春風亭昇太師匠のエッセイです。

「笑点」でお馴染みとは言いつつ、私自身はその時間帯にTVを見ることは滅多にありません。

一方でたまに行く寄席で2回ほど著者の高座を聴いたことがありますが、2回ともその日1番の笑いは昇太師匠の落語だったことはよく覚えており、それが本書を手に取るきっかけにもなりました。

ただし本書は著者が「笑点」のメンバーとなる前の1997年に発表されたエッセイであり、それが2001年に文庫され、さらに出版社を文藝春秋へ変えて改めて2017年に出版された1冊です。

そのため、"あとがき"が3つも収録されている面白い作りになっています。

落語家という点では志ん生、米朝、談志辺りの著書を過去にブログで紹介したことがありますが、その中では一番落語へ言及している箇所の少ない1冊になります。

何気ない日々の出来事、大好きなお酒のこと、同期で仲の良い立川志の輔師匠と定期的に出かける海外旅行のこと、さらには自分で作詞した歌を載せたりと、かなり自由なエッセイとなっています。

読み進めてゆくと、たしかに談志師匠のように真面目に落語論や演芸論を語るのは似合わない人だなというのが感想です。

本書の中で唯一落語論について語っているのは、付録のような形で収められている立川談春師匠との対談内容のみです。

私自身、好きな落語家が何人かいますが、落語を"上手い"とか"名人"で評価するほどには詳しくありません。

良い意味でも悪い意味でも落語の本質は大衆演芸であり、個人的にはその場の観客を楽しませることが全てだと思っています。

そうした意味では著者は間違いなく一流の落語家であり、私にとって著者が名人に値するかどうかはどうでもよい問題なのです。

本書が最初に発表されたのは著者が39歳の時ですが、現在は60歳中盤となりベテランの域に入ろうとしています。

それでも落語会の重鎮のような威厳を感じさせないのは、"芸が軽い"からではなく、彼の個性や芸風がそうさせるのであり、それは立派な芸人としての魅力であることが本書からも伝わってくるのです。

テキヤの掟


お祭りが開催されると軒を並べて出店するさまざまな屋台が子どもの頃から好きだったという人は多いはずであり、私もその1人です。

一方で屋台を運営する人たち、つまりテキヤの実態を知っている人は少ないのではないでしょうか。

本書ではそんなお祭りの名脇役であるテキヤの世界を社会学者である廣末登氏が詳しく解説した1冊になります。

著者はテキヤのアルバイトに応募して実際に働いた経験もあるといいます。

そんな著者がまず主張しているのは、暴力団とテキヤを同一視するのは誤りだという点です。

もちろん何事にも例外はありますが、テキヤの大部分は暴力団とは何の関わりも持たない人たちであり、彼らはヤクザや博徒のことを符丁で「家業違い」と呼び、一般市民と同様に出来るだけ関わりを持つことを避けています。

著者はテキヤは売る商品を持っている、縁日など日本文化の一角を担う商売人であると定義しています。

まず序章では、テキヤ稼業の基本知識を分かりやすく解説しています。

テキヤのバイ(商売)には、コロビ(ゴザに商品を並べるスタイル)、サンズン(組み立て式の売店)などのスタイルがあり、ネタ(商品)の種類にはタカモノ(曲芸・見世物小屋など)、ハジキ(射的屋)、ヤチャ(茶屋)、ジク(クジ引き)、電気(綿菓子)、チカ(風船)など色々な符丁で呼ばれていることが分かります。

また全国各地を巡りながらテキヤ稼業をする人たちは、アイツキ(初対面の面通し)をして土地の祭りの一角で商売することを許されるのです。

すこし古いスタイルですが、「男はつらいよ」の主人公・寅さんの「姓は車、名は寅次郎、人呼んでフーテンの寅と発します」で終わる有名なセリフは、まさに土地の同業者へのアイツキの際に使われるものであり、同業者間での無用な争いを避け、円滑に商売を進める上で欠かせない大事にされてきた習慣なのです。

テキヤの商売の準備から後片付けまでの流れ、また仕事のサイクルなど殆ど知らなかった実態を知ることができます。

次に最近まで関東の由緒あるテキヤ組織の事務局長を努めていた大和氏(仮名)を取材する形で、テキヤ稼業を回想してもらっています。

さらに続いて本所・深川を本拠地とするテキヤの張本(親分)の娘へ取材を行い、同じくその回想録が収録されています。

彼女は取材時点(2022年)で74歳であり、その回想からは戦後・経済成長期の縁日史が見えてきます。

この2つの回想が本書の半分以上を占めていますが、まるで上質なドキュメンタリー作品を読んでいるような完成度の高さに驚きます。
まさに本書の見どころであると断言できます。

終盤では、こうした取材を総括してテキヤ業界の未来を憂慮しながらも前向きに考察しています。

著者が主張しているテキヤにしか担えない雰囲気、そして文化が存在するという点には私も全面的に賛成できます。
もしも昔から続く縁日の風景からテキヤの屋台が消え、キッチンカーだらけになってしまったらきっと味気ない風景になってしまうに違いありません。

ちなみに本書の最後にテキヤ社会の隠語・符丁が50音順で掲載されている付録のような章があり、しかも量もかなり充実していてパラパラと眺めているだけでも楽しめます。

かつて東京の花柳界で使われていた言葉や文化が衰退し、その大部分が継承されることなく失われていると聞いたことがあります。

個人的にはテキヤ文化がそうした事態にならないことを願うばかりです。

観光消滅


私自身しばしば都内へ行くことがありますが、外国人観光客が本当に増えたことを実感します。

テレビでも外国からの観光客が日本のグルメに舌鼓を打ち、その文化に感心する姿が放映される機会が増えています。

一方でオーバーツーリズムによる交通機関や観光施設、飲食店の混雑、さらには宿泊施設の不足と高騰といった問題がメディアに取り上げられることもありますが、彼らが外貨を落としてくれることもあり、全体的には概ね好意的に受け止められている印象があります。

政府としてもインバウンド誘致に力を入れる政策(観光立国推進基本法)に力を入れており、こうした動きをバックアップしているのが現状です。

著者の佐滝剛弘氏は、NHKのディレクターを経て現在は城西大学の観光学部教授を勤める、いわば観光のプロフェッショナルです。

本書ではこうした流れに水を差すわけではありませんが、観光立国と言われている日本各地で起こっている問題、さらには今後日本が観光立国として持続してゆくことへの危機感を中心に論じられています。

たしかに観光という産業は"水もの"である一面があり、コロナ禍により世界的な海外渡航の制限は記憶に新しいですが、日本は世界有数の地震大国で知られている通り自然災害による影響、さらには台湾有事などの地政学リスクの影響に大きく左右される部分があります。

著者はそれに加えて少子化による深刻な人手不足についても言及しています。

観光客を迎えるには、観光地の景観保全、飲食店や土産物店、さらには交通インフラの担い手など多くの人手が必要になります。

本書ではとくに交通インフラについて触れらており、地方の鉄道やバス路線の廃止が相次ぐ現状を具体的を挙げて紹介した上で、観光業界全体に従事する人たちの待遇面での課題、さらに円安が追い打ちをかけて人材の流出が起こり、機能不全に陥ることを懸念しています。

またコロナ禍などで政府が実施した「Go To トラベル」、「全国旅行支援」といった観光業界への政府支援についても検証を行っています。

私自身はこうした制度を利用したことはありませんが、支援に伴い発生した助成金に関する企業不正、予約殺到による混乱などのニュースは記憶に新しい出来事です。

終盤では海外の観光立国の例を挙げて、日本の政策などに活かせるヒントも紹介しています。

そもそも訪日観光客が急増したのは2014年から2015年にかけてであり、コロナ禍の時期を除けば観光立国としての日本はまだ10年にも満たない新興国であるといえます。

本書は観光学の専門家である立場からあえて厳しい苦言を呈している側面が強く、私のように直接観光業界に従事していない読者へ新しい視点を与えてくれます。

またメディアではあまり取り上げられない、そもそも本質的な"観光の意義"とは何か?という問題にも踏み込んで言及しており、著者の大学での講座に参加しているような感覚で観光について色々と考えさせられる1冊になっています。

先天性極楽伝


本書の紹介に「長編ユーモア・ピカレスロマン」という文句があります。

ピカレスロマンという言葉を聞き慣れない人も多いと思いますが、16世紀頃のスペインで生まれた悪漢を主人公とした小説作品のことで、アウトローに近い分野でありながらも風刺やユーモアを交えて描かれているのが特徴のようです。

本書はまさしくこうした表現にふさわしい内容になっています。

作品中にはハルカン子という男女の主人公が登場しますが、2人はかつて小学生同士で"結婚"をしていた仲であり、学校卒業後に再会することになります。

この2人に共通するのは、根っからの"ワル"という点と、どこまでも陽気で楽天家という点です。

ほかの登場人物も個性的で、たとえば詐欺を育成する塾を開催するガービー先生、暴力団組長のスットン親分、資産家のブクブク爺さん、チン夫人などが入り乱れて、3億円という現金を争奪するストーリーになっています。

著者は「麻雀放浪記」で知られる阿佐田哲也氏ですが、作品の雰囲気はかなり異なります。

麻雀放浪記」ではバイニン(麻雀玄人)の生きる勝負の世界の厳しさがリアルに描かれていましたが、本作品では暴力的なシーンや複雑な駆け引きのシーンはあまり登場せず、とにかくユーモアのあるドタバタ劇のような感じで物語が進行してゆきます。

前者をヤクザ映画やマフィア映画に例えるなら、後者は落語の滑稽噺、もしくは喜劇のような雰囲気に近いかも知れません。

そして作品中で風刺しているのは、世間のさまざまな社会のルール、慣習、そして道徳という概念をひとまず脇に置いて、自分の欲望へ対してどこまでも忠実で自由に生きてゆく逞しい人間の姿を描きたかったのだと思います。

場面描写よりも登場人物のセリフの掛け合いでテンポよくストーリーが進んでゆくため、落語を聴くように肩肘張らずに気楽に読んで欲しい1冊です。

勝つ極意生きる極意


タイトルにある通り"勝つ"、"生きる"をテーマにした津本陽氏による歴史エッセイです。

分かりやすい例でいえばプロスポーツ選手や政治家が現役(現職)を続けるためには勝ち続ける必要がありますが、視点を変えるとそれは多くの人にとっても当てはまります。

勉学(受験)、部活動、さらには社会人になってからの出世争いなど、意識する・しないは別としても、私たちはつねに競争にさらされているといえます。

著者は長年にわたり剣道を学び続け、かなりの使い手でしたが、その勝負の厳しさを次のように表現しています。
それにしても、剣道というものは大変難しい。
試合ではふだんの稽古の半分しか力が出せない。
真剣なら十分の一である。
平常心でいられなくなる。名誉とか、勝たねばならないとか、負けたらカッコわるいとか思うと、それだけで体が動かない。


もちろん著者自身が真剣での勝負を経験したわけではありませんが、肥前大村藩士で維新後に大阪府知事をつとめた渡辺昇の言葉を引用しています。

彼は神道無念流の達人で多くの真剣勝負をくぐり抜けてきた経験を持っていました。
「相手に斬りかかられ、なにをっと刀を抜いたとたん、脳中からすべての記憶は消え失せる。気がつくと前に敵が転がっており、手にした刀には血脂の虹が張っていて、はじめて敵を斬ったのだと気づいたものだ。相手をどのように攻め、いかなる技で斬り伏せたかは、まったく覚えず、五里霧中のことである。真剣勝負というのは、幾度場数を踏んでもそんなものだ。」

これは渡辺に限った話ではなく、新選組有数の剣客として知られた斎藤一も明治になって同じような述懐をしています。

しかし過去には想像を絶する修行を経て、また幾度の真剣勝負をくぐり抜け、勝負の真髄に辿り着いた"剣豪"と呼ばれる人物がいました。

本書ではその具体例として、二天一流の開祖・宮本武蔵と薩摩示現流の開祖・東郷重位を挙げおり、彼らは真剣勝負における恐怖を完全に乗り越え、勝負の真髄を会得した例として紹介されています。

幸いにも現代において両者のうちいずれかが斃れるかの真剣勝負を行う機会はありませんが、著者はこの考え方をビジネスなどの場でも応用できると主張しています。

さらに本書では剣豪だけでなく、色々な視点から勝者となった歴史上の人物をエッセイ中で紹介しています。

一例を挙げると、徳川吉宗曹操大石内蔵助平清盛などです。

彼らの個性はそれぞれ違いますが、いずれも個人の武力ではなく、優れた人心掌握術、統率力を持っていたことは共通しており、本質的にはノウハウやテクニックだけでなく、剣豪たちにとも共通する人間としての本質的な力を持っていたことが分かってきます。

つまり本書は歴史エッセイであると同時に、啓蒙書としても読むことができる1冊なのです。

青雲士魂録


約250ページの文庫本に津本陽氏の短編が12篇収められています。

津本陽といえば剣豪小説というイメージがありますが、本書では剣豪以外にも鉄砲や弓矢の名手、さらには主人公が剛力の持主や大名だったりする作品などもあり、バラエティに富んでいます。

以下が収録されている作品のタイトルと主人公です。

・淀の川舟
示現流の使い手である無名の薩摩藩武士

・睡り猫
伊藤典膳忠也(一刀流三世当主)

・御付家老
安藤帯刀直次(紀州藩初代家老)

・一矢参らすべし
別所山城守吉親の妻(大太刀の使い手)

・三年坂の決闘
宮本孫兵衛(雑賀衆の鉄砲名人)

・広隆昔語り
九鬼広隆(紀州藩御旗奉行)

・黒熊武兵衛
猪瀬庄兵衛(下妻の庄屋)

・佐武伊賀守 功名書き
佐武義昌(雑賀衆、のちに浅野幸長に仕える)

・炎の軍法
島津義弘

・剛力伝
吉田金平資清(紀州藩の侍)

・家康伊賀越え
徳川家康

・公事宿新左
大橋新左衛門(新陰流の使い手で深谷宿の公事方)

著者の出身が和歌山市ということもあり、うち5作品が紀州にゆかりのある物語ですが、全作品に共通するのは一世一代の危機に陥った主人公がどのようにして窮地を脱したのかをテーマにしています。

緊迫感のある作品が次々と読める贅沢な1冊であり、津本陽氏のファンであれば是非とも抑えておきたい1冊です。

修羅場の極意



本書は2013~2014年の間に月刊誌「中央公論」で連載されていた佐藤優氏の「修羅場の作法」を新書化したものです。

ちなみにタイトルにある"修羅場"とは、継続的に闘争が起きている場所を指すそうです。

著者にとっての修羅場は何といっても、鈴木宗男事件に連座する形で背任容疑で逮捕され、東京拘置所で512日もの期間にわたり勾留された経験が該当しますが、著者は序文で次のように述べています。
外交と政治の修羅場で、自分はどこで間違ったかについて、真剣に考えた。 そのときの気持ちにもう一度帰りながら、修羅場の作法に関し、考察したい。

もちろん"修羅場"の定義は人それぞれであり、著者のような修羅場を経験している人は少ないと思いますが、ひょっとしたら著者以上の修羅場を経験した人もいるかも知れません。

ちなみに本書で語られている修羅場における作法は、学生やサラリーマンとして、あるいは家族や友人とのトラブルが"修羅場"に該当する人にとっては少しそぐわないかも知れません。

なぜなら例に挙げられている人物たちがいずれも歴史の教科書に載る人物ばかりだからです。

一例として言及されているのはキリスト、マキャベリ、ドストエフスキー、ヒトラーとった感じあり、ほとんどの読者にとって実感を伴わない例が挙げられているからです。

つまり実生活におけるトラブル対処の実用書としてはほとんど役に立たないのですが、読み始める前から著者が佐藤優氏という時点である程度は予想できていました。

結論を言えば本書は"修羅場の作法"というテーマに沿って書かれたエッセイであり、歴史上の出来事、著者が専門とする(プロテスタント)神学からの視点、あるいは著者がかつて外務省職員として従事したインテリジェンスの視点からの考え方を読者へ伝えている1冊なのです。

著者の作家としての魅力を各所で味わうことのできる1冊であり、大きな視点でいえば先行きの不安な世界情勢、身近なものであれば自分自身の人生やキャリアを思考する上でのヒントが本書から"見つかるかも"といった程度の期待感で読む、もしくは単純な知的好奇心で読むことをおすすめします。

レッド・マーズ〈下〉


レッド・マーズ」上巻では、"最初の100人"と呼ばれる科学者たちが火星へ移住してテラフォーミング(火星を人類が住める環境に改造する)に従事するといった壮大なストーリーが展開されました。

下巻では初期のテラフォーミングの時代は終わり、地球から続々と移住者たちがやってくる本格的な開発が行われる段階へと移行してゆきます。

著者のキム・スタンリー・ロビンソンはアメリカのSF作家ですが、かつて自国の歴史にあったようなフロンティアの開拓が火星を舞台に行われてゆくストーリーになっています。

一方で火星の開発には大規模な資本投入が必要となり、そこでは国連火星事業局(UNOMA)や各国の思惑、そして巨大な多国籍企業(作品中では超国籍企業)との間に複雑な利害関係が生じ始めます。

"最初の100人"たちは人類最初の火星移住者ということもあり一定の影響力を持ち続けていましたが、彼らの間でもその考えは一枚岩ではありませんでした。

たとえば火星の緑化を積極的に進めるべきというグループと火星本来の環境をなるべく温存しようというグループが対立していたり、地球の影響力を排除するために独立すべきだというグループさえ存在していました。

さらには火星の未来を導くリーダーの地位を巡っても表面下でライバル争いが行われ、作品中ではそうした人間関係の描写に一定量が割かれています。

結果的には急進的に火星の開発を進めるグループが主導権を握り、やがて宇宙エレヴェーター(地上と宇宙をケーブルでつなぎ輸送するシステム)が完成することで、さらに加速度的に人と物資が火星へ送り込まれることになります。

それに伴う居住環境の悪化、資源や富の搾取といった事態が進行するに伴い、火星各地の植民街が一斉に蜂起するといった事態へ発展しゆきます。

最初の百人たちも両陣営に分かれて敵対することになり、この争いを収拾しようと火星各地を奔走するグループも存在します。

ストーリーの規模は壮大でありながらも、あくまで個々の登場人物の視点に沿った形で描かれているため、読者が感情移入しやすいのではないでしょうか。

またさまざまな角度から楽しむことの出来る作品でもあり、たとえば登場人物たちも個性的な多様であり、その中には自分と似たようなタイプの人物を見出すことができるかもしれません。

現実的に今世紀中に火星へ人類が降り立つことはほぼ確実であり、そこへ人類が定住するための計画も実施されてゆくはずです。

つまり本作品の内容はSF小説でありながらもリアルな近未来を示唆する内容であり、人類がまったく新しい世界へ適応してゆき、そこで新しい進化を遂げてゆく可能性を模索している作品であるともいえます。

レッド・マーズ〈上〉



個人的に興味のあるアメリカ合衆国によるアルテミス計画(有人宇宙飛行の計画)が時々ニュースで報じられると、つい聞き耳を立ててしまいます。

この計画によれば2030年年代には有人火星探査を目指しており、現時点においてもNASAの無人火星探査機であるオポチュニティキュリオシティによって新しい事実が次々と明らかになってきており、こうした記事がWebで公開されると同じくつい見入ってしまいます。

つまり最近になって急速に火星は遠い存在ではなくなりつつあるのです。

タイトルから分かるとおり本作品の舞台は火星であり、それも古典SFにあるような火星人が登場するような内容ではなく、人類が火星へ植民するという近未来を描いています。

上下巻で合計1000ページにも及ぶ長編であり、ストーリーの序盤では100人の科学者が南極での訓練を経て植民のために火星へ向かうことになります。

本書は1992年に発表されていますが、100人の科学者たちは2026年に火星へ向かって飛び立つという設定になっています。

また100人の科学者といっても地質学、生物学、植物角、農学、遺伝子工学、機械工学などさまざまな分野の専門家たちからなる人類の叡智を結集したチームであり、長い宇宙飛行を経て火星へ到着した後にはテラフォーミングという大きな使命が待っています。

テラフォーミングは最近急速に研究が進められている分野でもあり、簡単にいえば無人の惑星を人類が住める環境に変えてゆく計画や技術のことであり、大気が極端に薄く、かつ北極より気温が低く、高い宇宙放射線にさらされているといった過酷な環境下にある火星では避けては通れない道です。

現実問題として地球では人口増加に伴う資源の枯渇や自然環境の悪化という課題を抱えており、長い目で見ると人類の一部が火星へ移住することへの必要性はかなり現実味を帯びてきています。

もしかすると私の孫の世代には火星へ移住することが外国への移住のように珍しくない時代になっているかも知れません。

本書はまさにそうした近未来を描いた作品であり、SFの大家であるアーサー・C・クラークは本作品を次のように評しています。
驚愕すべき1冊。
これまで書かれた中で最高の火星植民小説だ。
来世紀の移民者たちにとって必須の書となるだろう。

本書は現代科学の延長線上に沿って書かれたリアルな描写が特徴であると同時に、ヒューマンドラマという面でも特筆すべき特徴があります。

それは科学者といえども普通の感情を持った人間であり、100人の間には恋人、同志、ライバル、さらには決して相容れることのない敵対者といったさまざまな関係性が生まれ、やがてそれらは幾つかのグループを構成してゆきます。

それでも彼らがバラバラになってしまえば過酷な環境にある火星への植民計画が失敗することは明白であり、彼らを必死にまとめようと悪戦苦闘するリーダーの視点からもストーリーが描かれており、大きな視点から見れば人類にとって火星をどのように開発すべきかといった問題へと発展してゆきます。

とにかく作品の分量に見合うだけの壮大な物語であり、読者をどっぷりと火星の世界へ浸からせてしまう魅力に溢れる作品になっています。

偶然世界


現在、日本をはじめ民主主義国家では、直接的、間接的の違いはあれど選挙によってその国の最高権力者を選ぶ制度を持っています。

そして大多数の民主主義国家の国民たちは、その制度を独裁国家よりは望ましい(あるいはマシな)方法と考えているはずです。

しかし歴史が証明しているように、国民によって選ばれた権力者が常に正しい決断を行うのかは別の話になります。

そもそも民衆は無知で愚かなものであるという考えは、紀元前から直接民主政を行ってきたアテネ人たちの実感でもありました。

そこで登場するのが、今話題になっている「AI(人工知能)」です。
この先AIが人間よりもはるかに高度な知性を持ち、感情に左右されない理性を兼ね備えるようになれば、AIに最高権力者を選んでもらうのが最善の方法となるかもしれません。

本書はアメリカの代表的なSF作家であるフィリップ・K・ディックのデビュー作であり、まさしくそのような時代が到来した未来を描いた作品です。

作品の舞台となるのは23世紀初頭であり、地球を含めた太陽系の各惑星に60億の人類が住んでいるという設定です。

この人びとの頂点に君臨するのがクイズマスターと呼ばれる最高権力者であり、それはボトルと呼ばれる権力転送装置(つまり一種のAI)によって選ばれるのです。

しかしクイズマスターにはつねに公式に認められた刺客によって生命を狙われる存在でもあり、その座に就いて数時間、あるいは数日でその地位(と生命)を失う可能性があり、その就任期間は平均して2週間という短さです。

彼の描くSF作品は、綿密な科学的考証を元にした近未来というよりも、人間の本性を鋭く切り取ったようなある意味で突拍子もない未来世界であり、それだけに文学的なSF作品という見方ができるかもしれません。

このような無機質でシステマチックな未来をたくましく生き抜く主人公は、飄々としながらもハードボイルドな雰囲気が漂っています。

とくに本書はデビュー作ということもあり、荒削りな部分はありながらもその傾向が顕著に現れているような気がします。

本書はちょうど今から70年前に発表された作品でありながらも、現代に生きる私たちに考えさせる点があり、SF作品であると同時に文学作品であるといえるでしょう。

母の待つ里


世界最大手のユナイテッドカードが提供する世界最高ステータスであるプレミアムクラブの年会費は35万円。

そのプレミアムクラブ会員向けに1泊2日で50万円という価格で提供されているのが、ユナイテッド・ホームタウン・サービスであり、次のように宣伝されています。
ふるさとを、あなたへ。
1971年、マサチューセッツ州コンコード、ケンタッキー州エリザベスタウン、アリゾナ州メサの3ヶ所を拠点として始まった、ユナイテッド・ホームタウン・サービスは、現在全米に32のヴィレッジと100人以上のペアレンツを擁するプロジェクトに成長しました。
ユナイテッド・ホームタウン・サービスは別荘事業でもホームステイでもありません。失われたふるさとを回復し、過ぎし日に帰るという、ライフストーリーの提供です。
このたび、アメリカ合衆国におけるプロジェクトをそのまま日本に移入し、プレミアムクラブ・メンバー限定のサービスを開始する運びとなりました。

このホームタウン・サービスは、東北の雪深い山村で提供されており、そこには表札まで用意されたクライアントの擬似的な生家が用意され、84歳になる母親役が出迎えて手料理を振る舞ってくれるのです。

利用者は経営者、定年を迎えた会社員、ベテラン医師などいずれも60歳を超えた男女です。

彼らは最初は戸惑いながら、そして次第にほかのツアー旅行では得難い経験と感動を得ることが出来るのです。

そして彼らに共通するのは東京で生まれ育ち、今や両親も居なくなり、現在は1人暮らしで"帰るべきふるさと"を持たないという点です。

このホームタウン・サービスが提供されている地域は過疎化が進んでいるのものの、豊かな自然と美しい風景、そして絵に書いたような藁葺きの曲がり屋が生家が用意されています。

それはまるで「まんが日本昔ばなし」、もう少しリアルティのある例えをするとNHKの「小さな旅」の舞台となるような、日本人が共通して抱いている"ふるさとの原風景"なのです。

私の周りに元々地方の出身であり、定年、または定年自体を早めて帰郷して暮らしている人を何人か知っていますが、それは帰るべきふるさとを持っている人の特権であり、こうした"ふるさと"を持たない人たちを癒やしてくれるのがホームタウン・サービスなのです。

ホームタウン・サービスでは母親だけでなく、店の店主、寺の和尚、隣人に至るまで、訪れるゲストと昔から顔なじみのように接してくれる徹底ぶりです。

裕福な大人だけが楽しむことのできる道楽という妖しい設定のようにも思われますが、そこには始めからホストとゲスト双方が納得ずくのルールがあり、何よりもペアレンツ(母親)役のちよさんが心から(擬似的な)息子や娘たちをもてなす心を持っているというポイントがあります。

設定がかなりメルヘンチックなだけに大人が読んで楽しめる物語として成立させるのはかなり難しいように思えますが、稀代のストーリーテラーである浅田次郎氏は、それを軽々とクリアしてゆきます。

著者は東京都出身ですが、本書で使われている南部弁はかなり本格的で味わいがあり、作品の演出に大きな役割を果たしています。

これは「壬生義士伝」を読んでいるときにも感じたものでもあり、やはり一流のストーリーテラーにとって地道な雰囲気作りの努力は欠かせないものであることが分かります。

作品の部類としてはネタバレしない方が楽しめると思いますので詳しくは書きませんが、人の持つ優しさや寂しさを味わえる作品に仕上がっています。

神々の明治維新



かつて国家的規模で日本人の宗教生活の全体を再編成、帰属させようとした試みが行われました。

明治維新の過程で王政復古が宣言された際に、皇祖神崇拝の考えを中心とする国家神道が作り出され、やがて神仏分離・廃仏毀釈といった具体的な政策が実行に移されました。

本書では日本思想史を研究する安丸良夫氏が、こうした政策を推進した人々の思惑、またそれが明治以前の既成宗教へどのような影響をもたらしたのか、さらにこうした経験を通して日本人の精神史的伝統がどのように転換していったのかを考察しています。

明治以前まで大きな神社には(禰宜などの)神職のほかに僧侶が在籍し、神殿に仏像が祀られていることが珍しくなく、それは寺においても同様でした。

こうした神社仏閣を神仏習合と言いますが、以前、関東で唯一の神仏分離から免れた竹寺へ訪れた際には、牛頭天王(ごずてんのう)が祀られており、独特の雰囲気がありました。

この牛頭天王自体が、密教や道教、陰陽思想、さらには神道などの要素が混ざり合った神仏習合を代表する神であり、ほかにも蔵王権現などが神仏習合の神として有名です。

ともかく神仏分離によって江戸時代までは当たり前だったこうした風景が少なくなったことは事実です。

さらに日本人には地域に根付いた民俗信仰が存在します。

これは仏教、または天照大神といった日本神話の神々が知られる以前から存在していた神々(信仰)で、修験道(山岳信仰)塞(さい)の神道祖神、さらにはナマハゲのような地域共同体に密着していることが特徴的です。

本書は岩波新書らしく、学術的な表現でさまざまな事例が紹介されており、原文の引用も各所に見られる硬派な作りになっています。

神仏分離や廃仏毀釈がうまく進んだ地域、強い抵抗にあった地域などが紹介されており、とくに強い抵抗を示したのは本願寺に代表される真宗の勢力だったようです。

また修験道の分野でも抵抗が強く、新政府の政策への不満や不安からさまざまな流言や妖言が発生したと言います。

確かにどのような神であれ先祖代々拝んでいた石像や神体などを目の前で破壊されれば、たとえそれが政府の方針であろうと強い怒りとともに、神罰を恐れる不安が生じるのは当然であるといえます。

一方で政策を実行する側においても、維新を経て日本という国を近代国家の仲間入りさせるため、まずは天皇を中心とした国家的祭祀を体系化し、日本国民の信仰を統一させることで団結を図ろうとする意図がありました。

しかし国家の強制力によって長年に渡り生活や習俗に根付いた信仰を変革するといった考え自体に無理があり、西洋諸国の反対もあってこうした政策は失敗することになります。

神仏分離・廃仏毀釈といった政策自体は明治維新史上の1エピソードに過ぎないかもしれませんが、そこを通して見えてくる景色は思ったより奥深く広いものであることを認識させられた1冊です。

無芸大食大睡眠


麻雀放浪記」で有名な阿佐田哲也氏のエッセイ集です。

彼には色川武大(いろかわ たけひろ)というペンネームもありますが、こちらは純文学的な作品を執筆する時に用い、阿佐田哲也名義ではおもにギャンブル(その中でも特に麻雀)を題材とした作品の場合に使用するようです。

もちろんこれは著者が二重人格ということではなく、エッセイのときは阿佐田哲也名義のほうが、より自然体で本音を書きやすいということではないでしょうか。

著者は1929年(昭和4年)生まれで東京で育ち、「麻雀放浪記」の主人公・"坊や哲"のモデルが自分自身だったことから分かる通り、若い頃はかなりアウトローな経験を積んできたようです。

さらに東京というカルチャーの最先端に触れられるという利点を活かして博打だけではなく、演芸、演劇、映画、音楽、スポーツといった幅広い分野に造形が深く、盛り場にも早くから出入りしており、この分野でも生き字引のように詳しいようです。

こうした分野がそのまま著者の交友範囲の広さとなり、エッセイの中にも数え切れないほどの有名人が登場します。

エッセイの中で個人的に興味深かった部分を幾つか紹介してみようと思います。

本書の中に"開花しなかった芸人"という題のエッセイがあります。

TVやラジオといったマスメディアが発達し、世の中に爆発的に売れる芸人が出てきました。

現在存命の芸人であれば萩本欽一、ビートたけし、タモリなどが該当しますが、著者とは一世代年齢が離れていることもあり、本書でも名前は登場するものの殆ど触れらていません。

著者は開花しなかった芸人を以下のように定義付けています。
テレビに向かない芸がある。 ご家庭向きでない芸もある。 凄い芸の持主だったり、ユニークな才があっても、ブラウン管にはまらない孤高の芸がある。
演芸会ばかりに限らないが、こういう人たちはどうしてもマイナーな職場しかなくて、だんだんクサってしまう例が多い、

本書ではその代表例として、パン猪狩、マルセ太郎、深見千三郎(こちらは映画でビートたけしの師匠として名前が知られるようになった)などの名前が挙がっていますが、彼らの芸を知らなくとも楽しく読むことができます。

また"なつかしの新宿"という題のエッセイでは、著者がヤミ市の頃より盛り場に出入りしてこともあり、味わい深い店たちを紹介しています。
現在ある店で、一番古く、貫禄上位は「みち草」であろう。ここのママは七十をすぎたはずだが、まだ元気で店に出ているらしい。
それから「利佳」「ノアノア」「五十鈴」「小茶」「呉竹」。皆古いが健在のようだ。

これは本書に登場する店のほんの一部ですが、店ごとに俳優やミュージシャン、芸人や作家といった同業者が集まる特徴があったらしく、幅広い交友のあった著者はその殆どに出入りしていたようです。

私自身、しばしば新宿を訪れることがあるため気になって少し調べてみましたが、残念ながら現時点では殆ど閉店してしまっているようです。

こうした話題は映画、相撲、さらには競輪など幅広い分野で語られており、私自身が生まれる前の昭和10~30年代の風景が感じられます。

ただしこうした昔を振り返る話題だけではなく、普段の著者の暮らし、たとえば締切に追われてホテルに缶詰になっている間にも、誘惑に負けてそこを抜け出して酒場や麻雀へ出かけてしまうなど、著者の人間らしい一面も存分に楽しむことができる贅沢な1冊です、

一気にわかる!池上彰の世界情勢2025



テレビを中心にメディアに引っ張りだこの池上彰氏による1冊です。

駅で10分ほど空き時間があった際に立ち寄った書店で、ゆっくりと本を物色する時間がなかった中でとりあえず手にとって購入した1冊です。

池上氏はNHKでキャスターを経験していたこともあり、その分かりやすい解説には定評があり、この「一気にわかる!池上彰の世界情勢」はシリーズとして毎年刊行されているようです。

最新の2025年度版の目次は以下の通りです。

  • 第1章 アメリカ大統領選挙でトランプ勝利、世界はどうなる?
  • 第2章 政治経済の混迷と激甚災害の増加に直面する日本
  • 第3章 戦火拡大の危機にある中東
  • 第4章 景気低迷で閉塞感が広がる中国、そして台湾と北朝鮮と韓国
  • 第5章 長期化するロシアのウクライナ侵攻、全方位外交を貫くインド、そしてヨーロッパ

5章というそれほど多くありませんが、日本を含め世界の注目が集まっている地域を一通り網羅していることが分かります。
また世界の最新情勢を解説していると同時に、アメリカ大統領選の仕組み、石破茂総理大臣が選出された自民党総裁選の仕組み、イスラエルとパレスチナの対立の根本原因など、毎日のニュースではなかなか解説される機会のすくない背景にも丁寧に言及してくれています。

ただし1つ1つの情勢については、その部分だけを取り上げた専門書に比べると内容は簡略であり、深く掘り下げている訳ではありません。

本書は2時間ほどで読み終えることのできる分量であり、毎日部分的にニュースで報じられる世界情勢を一通り網羅しながら、その内容を整理するといった意味では良くまとまった1冊になっています。

つまりタイトルにある通り、一気に世界情勢をおさらいするという点では満足できる1冊であり、本書を通じて個別に掘り下げたいテーマが見つかれば、さらに関連した専門書を手にとってみることをお勧めします。

剣のいのち


津本陽氏の幕末を舞台とした歴史小説です。

主人公は紀州藩を脱藩した東使左馬之助
若干18歳にして心形刀流師範・伊庭軍兵衛より中伝目録免許を受け、二尺八寸五分の大刀・文殊重國を佩刀しているという設定です。

"設定"といったのは彼は作者が創造した架空の人物であり、本作品は左馬助が風雲の幕末時代で活躍する歴史フィクション小説になっています。

左馬之助には京都で偶然出会い、夫婦同然の仲となる芸妓の佳つ次(かつじ)が登場しますが、この2人の登場人物以外はすべて実在の人物が登場します。

脱藩した左馬之助は薩摩藩に身を置き、そこで同じく剣客である中村半次郎(のちの桐野利秋)と出会い、さらには薩摩藩から新選組へ客分として潜入する危険な任務を請け負うことになります。

そこでは近藤、土方、沖田、斎藤、永倉などといったお馴染みの新選組のメンバーたちと行動を共にすることになります。

さらには同郷で幼い頃からの親しい友人である伊達陽之助(のちの陸奥宗光)の薦めによって勝海舟・坂本龍馬らの率いる海軍操練所へ入ることになります。

激しい時代の流れに翻弄されるように、左馬之助の立場は目まぐるしく変わってゆくことになりますが、先ほど述べたように作中では実在の人物が登場し、さらに作中での政治的な事件はすべて史実に基づいて細かく書かれています。

つまり左馬之助の目線がそのときの立場で描かれているため、薩摩藩、新選組、幕府海軍(のちの海援隊)といったさまざまな視点から幕末史が楽しめる内容になっています。

もちろん津本陽氏の十八番ともいえる左馬之助がさまざまな強敵たちと対決する剣劇シーンもたっぷりと描かれており、歴史好きの読者を楽しませてくれるエンターテイメント性がかなり高い作品です。

昔流行した講談本の現代版のような作品であり、大人も夢中にさせてくれる1冊です。

雑賀六字の城



今まで本ブログで津本陽氏の作品を30冊以上紹介していますが、同氏の作品を読むのは久しぶりです。

本書は著者の代表的な歴史小説でタイトルから推測できる通り、戦国時代の雑賀衆を描いた作品です。

タイトルの"六字"は、浄土真宗の六字名号「南無阿弥陀仏」のことであり、雑賀衆の多くは熱心な本願寺門徒であると同時に、戦国時代を代表する鉄砲隊を中心とした傭兵軍団です。

似たような存在にすぐ隣の根来衆が知られていますが、雑賀衆と決定的に異なるのは、兵士たちの多くが本願寺門徒ではないこと、その結果として信長・秀吉といった権力者へ味方した点です。

また雑賀衆といえば鈴木孫一が知られていますが、本作品の主人公は雑賀年寄衆の1人である小谷玄意の三男である七郎丸という設定です。

著者は、この雑賀衆の仕組みを次のように分かりやすく解説しています。
雑賀衆とは、紀の川下流域のほぼ三里四方の平野に棲みついた、雑賀荘、中郷、十ヶ郷、南郷、宮郷の五つの連合国家ともいうべきものであった。
その人口は三万とも四万ともいわれ、狭い地域に当時としてめずらしいほど、密集した集落をかたちづくっていた。
雑賀五組とも、五搦(いつがらみ)ともいわれる五つの荘郷の盟主は、兵力、富力ともに最強を誇る雑賀の荘で、全雑賀衆一万ともいわれる動員兵力の過半を擁していた。
五組を代表する地侍は、妙見山に居館をかまえる鈴木孫一重秀、虎伏山に城郭をもつ土橋若太夫、宮本兵部太夫、狐島左衛門太夫など、四十人に及んでいる。

現在の和歌山市を流れる紀の川の南岸に位置する地域であり、主人公・七郎丸の父・玄意はその中の地侍の1人ということになります。

七郎丸には太郎右衛門、左近という2人の兄がいるという設定ですが、父を含めてこれらはすべて著者の創作によるものです。

本作品は石山本願寺で籠城する雑賀衆含めた本願寺門徒6万人へ対し、信長が10万の軍勢を率いて攻め込んだ石山合戦、さらに信長が10万の軍勢を率いて雑賀衆の本拠地へ攻め込んできた戦いを描いています。

信長は台頭してゆくに従い、武田家、浅井家、朝倉家、三好家、毛利家、上杉家など多くの大名と敵対しますが、その最大の敵は10年もの間戦い続けた本願寺勢力だといえます。

その本願寺にとって欠かせなかった戦力が雑賀衆であったことを考えると、いかに彼らの戦闘力が高かったが分かります。

主人公・七郎丸は初陣で石山本願寺へ出向き、そこで地面が動くかのような信長の大軍との戦いを経験し、さらには毛利海軍と連合しての海上戦などを通じて、雑賀衆の1人として成長してゆく過程が描かれています。

合戦の迫力、そして死が隣り合わせにある戦場の生々しい描写は著者の得意とするところであり、ほかの作品と比べても筆が冴えている印象を受けます。

著者は和歌山市の出身で、両親は毎朝念仏を唱える熱心な門徒であり、自身も5歳の頃からお経をそらんじていたといいます。
つまり著者の遠い先祖は雑賀衆の1人であった可能性が高く、自身の先祖が参加していたかもしれない合戦を描くという意気込みがあったからこそ生み出された名作であるといえるでしょう。

老人初心者の覚悟



阿川佐和子氏が雑誌「婦人公論」で2016~2019年の間に執筆した連載エッセイを文庫化したものです。

タイトルに"老人初心者"とありますが、著者は1953年(昭和28年)生まれのため本エッセイが執筆された時期では63~66歳ということになります。

たしかに最近は年配でも活動的な人が多く、このくらいの年齢であれば老人の入口、つまり老人初心者という点は納得できます。

著者は私よりかなり年上ですが、それでも昭和の作家が好きな私にとっては、同業者からも短気で"瞬間湯沸かし器"として有名だった阿川弘之氏の長女という印象が強いのです。

著者は当時も今もTVで活躍していますが、作家の血を受け継いで多くのエッセイや小説なども発表しており、本ブログでも過去に何冊か紹介しています。

父親のエッセイが大正生まれで旧帝国海軍に在籍していたこともあり、骨太で厳格な人柄が伺える内容になっているのに対して、著者のエッセイは親しみやすく等身大の自分を描いている印象を受けます。

若い世代とのギャップや価値観の違いに嘆きつつも一方的にそれらを拒絶するのではなく、なるべく理解したり受け入れようと努力する姿勢が見られ、職業柄という要因もありそうですが、好奇心旺盛なことが伺われます。

また老いつつある自身を客観的に観察して、腰が痛い、涙腺がゆるくなった、可愛らしい声が出なくなったということをエッセイ中で告白しながらも、必要以上に悲観することはなく、あくまで前向きに捉えてゆきます。

なお著者は密かな結婚願望を持ちつつも、長く独身であったことで有名ですが、このエッセイが連載されている最中の2017年に元大学教授の方と結婚しています。

比較的高齢での結婚であるものの、50代、60代での結婚が増えている時代であり、そう珍しいことではありません。

それよりも著者の数々のエッセイの中ではじめてパートナーに言及しているという点も注目できるのではないでしょうか。

いずれにしても初老を迎えながらも、それを人生の一部として楽しんでいる様子が読者にも伝わってきます。

私自身にも確実に訪れる老後を考えると、老人になった我が身を哀しみつつも楽しめるような著者の姿勢を見習いたいと思います。

ちなみに著者の父親時代に活躍した作家の老年期のエッセイは、老いによる悲哀と愚痴の混ざったような内容が多く、遠からず訪れる"死"を明確に意識したものが多い印象がありますが、それはそれで文士らしくて個人的には好きなのです。

誰か故郷を想はざる


寺山修司という名前だけはかなり以前から知っていました。

代表的な肩書は歌人、劇作家とありますが、私自身は彼の歌集や劇を見たことはありません。

そもそも彼は47歳という若さで1983年に没しているため、その姿をTVなどでタイムリーに見た記憶もありません。

ただし寺山修司の軌跡を追ってみると、先ほど上げた肩書のほかにも、TVやラジオの作家として、随筆や評論作家として、さらには作詞家や映画監督など多岐にわたっており、きっと私も無意識に彼の作品には触れいているはずです。

今でこそ多方面のメディアで活躍している人は珍しくありませんが、寺山氏はその先駆者的存在であり、どの分野においても彼の才能は一流と認められていました。

本書は彼の少年から青年にかけての自叙伝ですが、副題には「-自叙伝らしくない-」と付いています。

実際に本書を読んでみると、紛れもなく書かれている内容は自叙伝です。

自らや父と母の出生、無口でアル中だったという父の逸話、そして父が出兵地で戦死してのちは母と二人での暮らしの様子、疎開での暮らしから玉音放送を聴いたときの記憶、さらには中学、高校のときの想い出などが綴らています。

そして本書の後半では、大学生となるための上京、たった1年で退学しての東京での暮らしの様子が綴られています。

先ほど副題で触れた"自叙伝らしくない"という部分ですが、これは全編にわたって見られる作家らしい鋭い比喩、ときには世の中や自分の存在さえも揶揄するような表現が多用されていることであり、さらには歌人らしい詩的な表現が多用されているという点です。

詩的な表現というのは時に具体的な状況をひどく抽象化してしまう場合がありますが、その時の著者の気分や心情を本質的に表現できるというメリットがあります。

また作品中でしばしば用いられる鋭い比喩からはアウトロー的な雰囲気が感じられ、彼に熱狂的なファンがいたことにも頷けます。

これは彼と同年代の石原慎太郎氏の若い頃の雰囲気にも似たようなものを感じさせます。

さまざまな分野において、つねに時代の最先端を走り続けた鬼才・寺山修司の研ぎ澄まされた感性とその原点の全容とまでは行きませんが、その一端を垣間見ることができる1冊ではないでしょうか。

面白くて眠れなくなる植物学


普段食べている野菜、近所の桜並木、公園の樹木、さらには庭に植えられている花など、植物は私たちの身近に溢れています。

それだけに学校で習った植物の基本的な仕組み、幾つかの花木の名称が分かる程度で、あまりにも当たり前の存在である過ぎるせいか、なかなか植物について深く知る機会がありません。

本書は植物学者である著者が、誰もが興味を持てるような視点で植物の不思議を解説しています。

たとえば以下のような不思議が具体的に解説されていますが、自然好きで植物に詳しい人でもなかなか答えられないような内容ではないでしょうか。

  • 木の仕組み上、どこまで大きくなることが可能なのか?
  • ちょうちょはなぜ、菜の花に止まるのか?
  • トリケラトプスは進化した植物によって中毒死した?
  • タンポポの踏まれても立ち上げるはウソ?
  • 紅葉はなぜ赤くなる?
  • コーヒーやお茶は植物の毒によって生まれた?
  • マツなどの針葉樹は時代遅れのシステムのおかげで生き延びた?
  • 雑草を育てるのは難しい
  • 竹は木か草か?
  • 木が先か?草が先か?
  • 植物が動かない理由
  • 植物の血液型は?
  • ねこじゃらしが夏の炎天下でも萎れない理由
  • つる植物の成長の早さの秘密
  • 食物繊維はなぜ体にいいのか?

    • 上記のほかにも植物の遺伝について、野生の植物が人間の栽培植物となった経緯などが分かりやすく解説されています。

      学者が普段研究している内容へ対して、なかなか一般の人が興味を持つことは難しいですが、視点や切り口を変えることで興味が湧いてくるような工夫がされている内容だと感じました。

      本書の内容が実生活やビジネスの中で役に立つことはありませんが、単純に知的好奇心を満たすという行為は読書の大きな醍醐味であり、そうして点では優れた1冊だと言えます。

      普段、勉強やスキルアップのために読書をする機会の多い人は、息抜きに本書を手にとってみてはいかがでしょうか。

剣豪血風録



津本陽氏は多くの作品を残していますが、その中で私がもっとも好きなジャンルは剣豪小説です。

本書では10人の高名な剣客がそれぞれ短編の形式で登場し、彼らが会得した剣の真髄を垣間見れる構成になっています。

  • 塚原卜伝
  • 富田勢源
  • 伊藤一刀斎
  • 佐野祐願寺
  • 東郷重位
  • 小野次郎右衛門
  • 柳生兵庫助
  • 宮本武蔵
  • 柳生十兵衛
  • 堀部安兵衛

    • 剣豪好きでなくとも、知っている名前があるのではないでしょうか。

      作者自身が剣道三段、抜刀道五段の腕前を持ち、また武道全般にも通じているため、剣豪と言われた人たちが辿り着いた境地、命がけの修行や決闘の中で体得した神業、さらには剣客たちの息詰まる決闘シーンが非常にリアルに描かれており、かなり贅沢な1冊となっています。

      もともと本書のために書き下ろされた作品はなく、過去に発表された長編、短編の中から選りすぐりの部分を転載する形で構成されています。

      つまりこれから"津本陽"という作家の魅力を知りたいという方にとっては、うってつけの1冊といえるでしょう。

      私自身、読んだことのあるシーンが幾つか収録されていましが、それでも充分に楽しむことが出来ました。

      単純に著者の文章から伝わってくるスリルや緊迫感を楽しむという読み方がもっともシンプルだと思いますが、生死を賭けた勝負という場面における人間の心理状態、その勝負を幾度も制してきた剣豪たちに学ぶという点でも生半可な啓蒙書よりもはるかに役に立つ1冊であるように思えます。

北越雪譜



北越雪譜」は、江戸後期に越後塩沢(旧:塩沢町、現:南魚沼市)に住む商人であり文筆家でもあった鈴木牧之(1770~1842)が執筆した書籍です。

さほど雪の積もらない江戸の人びとたちへ挿絵も交えて雪深い越後の生活や文化、民話を紹介している書籍で、当時のベストセラーとなりました。

当時の雪国での暮らしを伝える歴史的にも貴重な資料であり、歴史小説に限らず多くの書籍で引用されることも多く、さらに私自身も作者の出身地からそう遠くない場所で生まれ育ったこともあり、本書の存在は以前から知っていました。

岩波文庫から版されている同書は学術的な価値を損なわないように原本の内容を忠実に再現していますが、今回紹介するのは教育社から原本現代訳シリーズとして出版されているものです。

すこし前に古本市で購入し自宅で積まれたままになっていましたが、冬の寒い時期に読む本として相応しいと思い今回手にとってみました。

牧之はしばしば雪を風流だと言う人は、雪のあまり降らない地域に住んでいるからだとし、塩沢のように数メートルの雪が積もる地域に住む人にとっては四苦八苦する厄介な存在であることを繰り返し述べています。

具体的に雪かき(本書では雪掘)の大変さ、交通の難儀さ、時には人の生命を奪う吹雪や雪崩の恐ろしさと共に、そこで生活する人びとの知恵も同時に紹介しています。

ただしすべての面で雪が厄介な存在かといえばそうでもなく、雪上でさらすことで生まれる名産・越後縮(えちごちぢみ)の製造過程についても細かく紹介されています。

現在は小千谷縮(おじやちぢみ)が有名ですが、当時は堀之内、浦佐、小出、塩沢、六日町、十日町、高柳など周辺の地域でも盛んに作られ、縮の種類も地域ごとで違っていたようです。

紹介されている民話については怪奇な内容のものも多く、囲炉裏端で老人から聞く昔話そのものという雰囲気があります。

本書で紹介されている文化や生活の一部は、200年もの時を超えて未だに地元に根付いているものも多く、本書が貴重な史料と言われる所以がよく分かります。

ちなみに本書はの序盤では作者である牧之の生い立ちや「北越雪譜」が出版されるまでの経緯が細かく紹介されており、執筆に至るまでの背景を知ることができます。

さらに本編においても原本を省略したり、要約や入れ替えなどをせずに忠実に現代語訳されているようであり、どことなく原文の雰囲気が伝わってくる点は好感が持てます。

おそらく絶版になっている本ですが、今でも入手するのはそう難しくないため、興味のある方は是非手にとってみて損はない1冊です。

ビジネスエリートの新論語



本書は2016年に発刊されていますが、帯には「20年ぶりの新刊!初の新書!」とあります。

著者の司馬遼太郎氏は1996年に亡くなっていますが、本書は1955年(昭和30年)、産経新聞記者であった著者が本名、福田定一の名で刊行した「名言随筆サラリーマン ユーモア新論語」を元本としています。

つまり著者が本格的な作家活動を始める前に執筆した本ということになり、貴重な資料としての意味と多くのファンたちの要望によって出版された1冊だと思われます。

まず昭和30年当時のビジネス書という視点で見ると、かなり貴重ではないでしょうか。

本書が発表された当時はようやく戦争の傷跡が癒えつつある時期でしたが、高度経済成長期の前夜というタイミングであり、「日本は戦争に負けて大国から4等国へ落ち潰れた」と言われていた時期でもあります。

タイトルから察して本書の内容は論語を紐解きながら、サラリーマン(ビジネスマン)の理想の姿、つまり成果を上げて出世するノウハウが書かれた本ではないかと思いました。

しかし実際に読んでみると、ビジネス書というよりユーモアをり入れたエッセイであり、のちの著書にここまで砕けた文体で書かれた著書は見当たりません。

社長はおろか重役のイスの数は限られたものであり、そこを目指して出世する努力をするより、サラリーマンとして大過なくキャリアを全うするための処世術、また出世しなくとも実現できる幸せを追求する方法といったものが中心に書かれています。

著者自身もまえがきで「一種の"悪書"かもしれない」と語っており、本書よりも元本となったタイトルの方が相応しい内容です。

さすがの著者もこの時から十数年を経て、「東洋の奇跡」と言われる経済成長を果たし、日本が世界第2位の経済大国となることは予想できなかったに違いありません。

昭和30年当時のサラリーマンたちの風景が見れる作品として、一種の古書を読むような気分で読んだほうが楽しめると思います。

また第2部では、職業記者として著者へ大きな影響を与えてくれた先輩、また新聞記者として自身の10年の職歴を振り返った内容が書かれており、こちらは完全に後年の司馬遼太郎としての片鱗が垣間見れる文体で書かれています。

いずれにしても私にとって司馬遼太郎とは、中学生時代に読書と歴史の楽しさを教えてくれた作家の1人であり、その"番外編"という形で楽しませてもらいました。

軍師の門 下



竹中半兵衛、そして黒田官兵衛を主人公した火坂雅志氏「軍師の門」下巻のレビューです。

信長から離反した荒木村重の説得に失敗した官兵衛は有岡城に1年間幽閉されますが、城が落ちて救出された際には衰弱しきって足は生涯にわたって不自由になってしまいます。

しかしそれよりも官兵衛にとってショックだったのは、信長から殺害を命じられていた嫡男の松寿丸(のちの黒田長政)を匿ってくれた半兵衛がその間に病没していたことでした。

そして官兵衛は図らずも半兵衛に替わって本格的に秀吉の軍師となります。

秀吉の毛利攻めにあたって活躍する官兵衛でしたが、その中でもっとも有名なものは本能寺の変で信長が斃れた際に直ちに明智光秀を討伐するよう進言したことではないでしょうか。

つまり秀吉が天下人となるもっとも大きな転機となった中国大返しは官兵衛の策であったという点であり、まさしく軍師として面目躍如たる場面です。

一方で天下取りが近づくにつれ、秀吉は次第に官兵衛を遠ざけるようになります。

鬼謀によって数々のピンチをチャンスに変えてきた官兵衛でしたが、ライバルである柴田勝家賤ヶ岳の戦いで破り、確固たる地位を築き始めた秀吉にとって、もはや官兵衛の助言は必要ではなくなりつつあったのです。

加えてより深刻なのは、主人・信長に替わって天下を掌握すべきだと助言をした官兵衛の凄みは、隙あらば次には自分の地位を狙うのではないかと警戒されてしまったのです。

そこに軍師として他人の心を読むことに長けている官兵衛自身が気付かないわけがなく、意識的に権力の中枢から距離を置くようにします。

実際に秀吉が天下統一を成し遂げた後、官兵衛に与えられたのはわずか豊前中津12万石であり、自分より後輩の加藤清正石田三成よりも低い石高しか与えられませんでした。

こうした葛藤と失意の中で官兵衛は如水と号して、嫡男の長政へ家督を譲り隠居することになります。

やがて高山右近の勧めによりキリスト教に改宗したことにより、心の安らぎを得たように思えましたが、彼の心の奥底にある自らの知謀をもって天下に名を轟かせたいという野望の火は完全には消えていませんでした。

そして官兵衛は秀吉の死後、関ヶ原前夜になってその野望を実行に移します。

それは東方で徳川家康石田三成による決戦が行われている間に九州を平定しまい、あわよくば中国地方へも攻め入り、日本を2分する西方の大勢力になることを狙ったものでした。

蔵の金銀をすべて使い、9,000の兵を集めた官兵衛はまたたく間に九州を席巻してゆきます。

家康との間に「九州切り取り次第(九州の領土取り放題)」という密約があったようですが、官兵衛が1~2年は続くであろうと予測していた対決が関ケ原でわずか1日で終わったこともあり、あとは島津領を残すのみとなった状態で官兵衛の野望は終わりを迎えます。

これによって秀吉の軍師としてではなく、自らが主人公となって天下分け目の戦いを制するというという官兵衛の夢が潰えたのです。

ひょっとすると官兵衛は、自らの野望を実現することで先に亡くなった竹中半兵衛の夢をともに叶えようと考えていたのかもしれません。

軍師の門 上


戦国時代の醍醐味といえば、両陣営の軍勢が真っ向からぶつかり合う合戦であり、そこで活躍する猛将たちにスポットが当たりがちですが、個人的には謀略をもって戦いを有利に進めるべく戦場の片隅で活躍する知将、つまり軍師たちの活躍に一番心惹かれるものがあります、

本作品の主人公は秀吉麾下で両兵衛(りょうべえ)と言われ、張良・陳平にも例えられた竹中半兵衛黒田官兵衛の2人です。

若干21歳の竹中半兵衛が歴史の表舞台に出てきたきっかけは劇的なものでした。

それは難攻不落といわれた稲葉山城をわずか十数名の手勢だけで乗っ取り、主人である斎藤龍興(道三の孫)を追い出したというものです。

それを知った信長は美濃半国と引き換えに稲葉山城の引き渡しを求めますが、それをあっさりと断り、半年後にはこれもあっさりと稲葉山城を龍興へ返しています。

それを聞きつけた若き日の官兵衛は、はるばる播磨から半兵衛を訪ねに来るというのが物語の序盤です。

この2人が秀吉に仕える以前に出会ったという記録はありませんが、武力ではなく知力によって戦国時代に名を馳せようという野望を持つ2人が運命的な出会いを果たすという演出には、軍師好きの私としては引き込まれてしまう場面です。

半兵衛は官兵衛より2歳ほど年長ですが、秀吉へ仕えたタイミングは10年近く半兵衛の方が早いようです。

よって官兵衛が秀吉に仕え始めた時点で、半兵衛は軍師として確固たる地位を築いていました。

一方でその頃には半兵衛は体調を崩し始め、それと前後して官兵衛は信長から離反した荒木村重の説得に失敗し、有岡城に約1年間幽閉されてしまいます。

その後、半兵衛は36歳という若さで病気により早逝してしまうため、この2人が揃って秀吉麾下にいた期間はわずか1年間ということになります。

それでも官兵衛が村重に加担したと思い込んだ信長により嫡男・松寿丸(後の長政)の殺害を命じた際には、半兵衛は危険を犯して松寿丸を自らの領地で匿います。

短い時間ではあるものの、官兵衛にとって半兵衛はその背中を追いかける存在であると同時に、友であり恩人でもあるという強い絆があったのです。

本作品ではこの2人の活躍を余すことなく描かれており、「THE・戦国時代小説」という印象を受けます。

上下巻で約900ページもある分量でありながら、戦国ファンであればページをめくる手が止まらなくなり一気に読んでしまいたくなるような作品です。

死は存在しない



著者の田坂広志氏は、原子力工学を専門をする研究者であり、現在は企業経営、大学教授、私塾の運営など多岐にわたって活躍しており、作家としても多くの著書を発表しています。

人間は、寿命や病気などにより、いつか「」を直視しなければならない時期が来ます。

しかし日本人の大多数は、自分が死を迎えた後にどうなるのかという疑問を抱いているはずです。

深い信仰心のある方ならば、その教義に従ってたとえば極楽、または地獄へと行くことになると信じている人もいるはずです。

ただし中には信仰心を持ちながらも、極楽では美しい音楽が流れ、池には蓮の花が咲いている快適な場所、あるいは地獄には閻魔大王と鬼たちがいて血の池や針の山があるという昔ながらのアナログ的な説明に納得できない人もいるのではないでしょうか。

一方で科学では肉体が滅べば、そこで自分という意識も消えてすべてが「」になるという説が有力ですが、これはこれで無味乾燥だと感じてしまいます。

本書では最先端の量子科学の研究成果である「ゼロ・ポイント・フィールド仮説」という観点から、死後の世界がどのようなものであり、そこで私たちの意識がそのように変わっていくのかについて説明したものです。

私には量子科学を正確に説明することはできませんが、簡単に言えば原子やそれを形作る電子、陽子、中性子、さらに小さなニュートリノといったミクロな世界を研究する学問で、それによって宇宙の起源を解き明かすことを目的としているようです。

宇宙がどのように誕生し、形作られたのが分かれば、地球をはじめとしたあらゆる惑星、そしてそこに生息する生物の謎にも迫ることができ、本書のテーマである生物の「死」についても考察できるということになります。

また本書のもう1つのテーマが、最先端の量子科学が提示している仮説を用いて、宗教的な神秘の解明を試みているという点です。

一例として「以心伝心」、「予感」、「予知」といった現象が該当しますが、著者は宗教的な神秘を科学の力によって種明かして、それまで科学が「偶然」、「妄想」、「錯覚」と断じていたものを再評価し、理性的な視点から両者の間に「橋を架ける」ことを目的としています。

具体的にどういった仮説が紹介されているかは本書を読んでのお楽しみですが、手軽に読める新書という形式で最新科学の一端を知るとともに「死」へ対して新たな視点をもたらしてくれるという点では是非読んでおいて損はない1冊だといえます。

コンサル一年目が学ぶこと



正直に言うと、以前はコンサルティングという業種をあまり信用していませんでした。

それは私は現場で専門的な業務に従事していたこともあり、彼らの言う事が時には空論のように聞こえることがしばしばあったという個人的な経験から来ます。

一方で優秀なコンサルタントと仕事をする機会があり、そこで感心したこともあり、結局は"その人の能力による"ものだなと今は思い直しています。

本書は副題に「新人・就活生からベテラン社員まで一生役立つ究極のベーシックスキル30選」と名付けられており、著者はコンサルティングとしてのベーシックなスキルを応用することで、他の業種でも応用できると主張しています。

読み終えてみて、個人的にはおもに1~3年目くらいの社会人がメインターゲットになる内容という印象を受けましたが、それでも15年、20年と経験してきている人にとっても部分的に参考になる点もありました。

まずコンサルタントに求められるのは論理的な考え方と、それを効果的にクライアントへ対して伝えるスキルだと言えます。

  • 第1章 コンサル流話す技術
  • 第2章 コンサル流思考術

最初の上記2章はまさしくその点にフォーカスしており、社会人として20年以上経過している私にとっても参考になる点が一番多い内容でした。

次にコンサルタントという仕事は基本的に忙しい業種であり、抱えている業務も膨大になる傾向があります。
つまり効率的にタスクを消化させる必要があり、その秘訣については以下の章で述べられています。

  • 第3章 コンサル流デスクワーク技術

パワーポイントがコンサルティングの最終成果物として主流のため、ややその点に絞られた内容になっていますが、異なるツールを使っている業種の方にとっても間接的に参考になる部分はあると思います。

最後の章では日々の仕事の中で持つべきマインドについて述べられています。

  • 第4章 プロフェッショナル・ビジネスマインド

コンサルタントは比較的高給であることが多く、年収1,000万円以上の人が珍しくなく、人によっては更にその数倍の年収という方も存在する業界です。

これはクライアント側の視点から見るとそれだけの金額に見合った、あるいはそれ以上の成果を求めらるということであり、相応のプロフェッショナル意識が求められるのです。

ただし給与に見合った、出世を目指すのであればそれ以上の成果を出す必要があるという点は、他の業種でも一緒であり、高いハードルを求められるコンサルタントの考え方は参考jになる点が多く、この章は社会人経験の浅い人にこそ読んでほしい章だと思いました。

全体としては良くまとまっており、かつ専門用語についても丁寧に解説されていて分かりやすいため、ビジネス書初心者の方も手軽に読んでみてはいかがでしょうか。

新選組100話


本書は1981年に発刊されたものを文庫化した1冊であり、すこし前の本となります。

著者の鈴木亨氏は、秋田書店時代から歴史に関する雑誌の編集長、のちに歴史研究家として活躍された作家です。

子母澤寛司馬遼太郎をはじめ新選組を題材とした歴史小説は沢山ありますが、本書はすこし変わったアプローチが取られています。

それはタイトルにある通り、新選組の歴史を100話に分割して、それぞれ特定の人物にスポットを当てて語られているという点です。

重複している人物が何人かいるものの、90名近い人物が登場します。

そして登場するメンバーも近藤や土方をはじめとした新選組の隊員だけでなく、倒幕側(薩長土肥)の志士や幕府の要人、さらには商人や隊員たちの家族など多彩な顔ぶれが登場します。

この本を読めば、新選組の中核メンバーの流派である天然理心流の創設期から、箱館戦争後も生き残った元新選組の隊員に至るまでを網羅することができます。

ただし本書は小説ではなく歴史考証であり、著者は几帳面な性格らしく、それぞれの考証には「史料メモ」という形で参考にした史料や異説なども紹介されています。

とにかく編集者出身だけに丁寧に作られている印象を受け、私の中でも新選組に関わる人物の整理や、さらには歴史小説などでは余り触れらなかった人物についても改めて認識させてくれる良い機会となりました。

ただし本書を読む前提として新選組を題材とした歴史小説を1冊は読み、全体像を頭に入れた上で読んだほうが楽しめることは間違いありません。

そもそも中公文庫ということもあり、新選組ファンや歴史好きの読者をターゲットにした本だと思われますが、前提となる基本的な知識さえあれば本書の内容は決して難解なものでなく、むしろ簡潔かつ丁寧な解説書として優れている1冊です。

渇きの海


地球光」に引き続きアーサー・C・クラークの作品を紹介します。

物語の連続性はまったくない独立した作品ですが、偶然にも舞台が""であるという点が共通しています。

ちなみにNASAが主導しているアルテミス計画では有人月面探査が計画されており、2040年代には人類が火星探査へ向かう際の中継基地を月面に築くという壮大な内容となっています。

よって地球から最も身近な惑星である月は、今後ますます注目されてゆくはずです。

本作では人類が月へと進出して生活を始めていますが、まだ数万人程度の規模であり、限られた人(ある程度社会的地位の高い人)たちが地球から月への観光旅行に参加するといった時代背景の中で繰り広げられます。

ちなみに本作品は1961年に発表されており、人類初の月面着陸の8年前ということになります。

物語の大筋は、月の観光事業として有名になっている直径100kmにも及ぶ、月独自の細かい砂礫の堆積地である「渇きの海」を遊覧観光するセレーネ号(砂上遊船舶型式坂東一号)の事故、そしてセレーネ号の救出作戦というものになります。

事故の内容は、男女22人を乗せたセレーヌ号は、月では滅多に起きない地殻変動(地震)により砂礫に飲み込まれてしまうというものです。

セレーヌ号の船長ハリスと客室乗務員であるウィルキンズ、さらに偶然にも観光客として乗り込んでいた宇宙探検の元提督であるハンスティーンをはじめ、さまざまな人物が登場します。

また救出側にも月の交通管制センターの技術部長であるローレンス、気難しがり屋のローソン博士など多彩な人物がします。

まるでドキュメンタリーのように緊迫した雰囲気の中でストーリーが展開されてゆきますが、月には大気や水が存在しない、重力が地球の6分の1という特殊な環境に加えて、月の砂礫は粉塵といえるほど細かいものであり、さまざまな制約の中で救出計画を立てる必要性に迫られます。

科学技術に関する描写は既に現代社会においても古いと感じさせるアナログ的な部分もありますが、作品が発表された時期を考えると仕方ない部分があり、個人的にはそこも含めて古典SFの味わいのようなものが感じられて好みです。

砂礫に沈んだ観光船をどのような手段で救い出すのか、船内の乗客たちはピンチをどのように切り抜けるのかといった細かい描写は本作品の醍醐味であり、作品としての完成度は同じ月を舞台にした「地球光」と比べても高く、最初から最後まで読者を楽しませてくれます。

ちなみに原題は「A Fall of Moondust」であり、邦題よりも作品の内容を直接的に示唆した題名になっています。

地球光


やや歴史小説に偏っているものの、なるべく広いジャンルの本を読みたいと思っており、今回紹介するSF小説も今後積極的に読んでゆきたいジャンルの1つです。

いきなり最近のSF小説を読むよりも、古典的な作品の持つ雰囲気が好きなこともあり、古本市などでハヤカワ文庫SF創元SF文庫などを見ると少しずつ買い溜めるようにしています。

さほどSFに詳しくない私でも本作品の著者であり20世紀を代表するSD作家であるアーサー・C・クラークの名前は知っているほどです。

彼はSF作家であると同時に、特に宇宙に関する科学技術の解説者としても知られており、最先端の科学知識を小説作品へ取り込むことによって、SF小説というジャンルを確立した功労者の1人です。

また「2001年宇宙の旅」の原作者として知っている人も多いと思います。

舞台は2300年頃と思われ、人類が宇宙へ進出してからかなりの年月が経過し、太陽系のおもな惑星に住んでいる人たちが大勢いるという設定です。

一方で地球政府と各惑星へ移住した人たちの惑星連合との間に資源配分などを巡って対立が続き、一触即発の危機を迎えているという状態です。

ストーリーそのものは地球政府の管轄下にある""を舞台に進みます。

主人公は地球政府が惑星連合のスパイあぶり出しのために送り込んだ秘密情報部員・サドラーであり、彼は会計士という肩書でスパイがいるとされている月に設置された天文台へ派遣されるところから物語が始まります。

正直に言えば、前半は月での人びとの暮らし方、移動手段や娯楽手段、さらには登場人物の紹介などの描写が続き、物語の起伏自体は少ないため、若干退屈と思いながら読み進めていました。

ただ注目すべきは本作品が発表されたのは1955年であり、人類初の月面着陸よりも約15年も早いという点です。

月の重力が地球の6分の1であることなど当時の科学的知見を作品中に反映しつつも、月には若干の大気と植物が存在するという著者の予測に基づいた描写は後世になって否定される部分でもあります。

物語は地球政府と惑星連合が軍事衝突を起こし、その戦場の近くである天文台に緊張感が走るところから一気に動き出します。

宇宙を舞台にした戦争で使用される兵器の描写などは斬新であり、この作品のクライマックスといえます。

スパイ小説としては不完全な部分がありますが、SF小説として捉えるとスパイの正体が誰なのかという点ははそれほど大きな問題ではないかも知れません。

月面を舞台にして展開するストーリーは期待通り独特の雰囲気があり、全体としては楽しく読むことができました。

ギリギリ



昨年あたりから、何となく小説を読みたいというときに手にとってしまうのが原田ひ香氏の作品です。

ドラマや映画の原作を意識したような起伏の大きな物語も悪くないですが、立て続けに読んでしまうとすぐに食傷気味になってしまうのに比べ、原田氏の作品は文学作品のようにゆっくりと味わいながら読むことができる作品が多いと感じますす。

本作品のおもな登場人物は3人です。

まずは若くして夫・一朗太を亡くした瞳、そして瞳と再婚した元同級生である健児、一朗太の母であり夫にも先立たれ、ひとり暮らしをする静江の3人です。

舞台は東京の高円寺界隈であり、他の作品でも同じ場所が舞台になっていることが多く、著者自身がこの付近に在住であること、そしてこの場所に愛着があることを伺わせます。

作品は5章に分かれており、先ほど紹介した3人の視点が切り替わるような構成で描かれています。

私自身は東京に勤め先があり、さらに高円寺含めた中野界隈の下町的な雑踏の雰囲気が嫌いではないこともあり、作品の中にすぐに引き込まれています。

登場人物たちにはそれぞれの事情があるものの、大都会という多くの人が生活を送る町において特別な存在ではありません。

言い方を変えれば、読者である私自身とまったく同じ境遇である人物が登場しても不自然ではない設定です。

物語自体も世間を巻き込むような大きな事件が起きるわけではなく、ひたすら登場人物の心境を丁寧に掘り下げて描写しており、こうした部分に文学作品特有の心地よさがあるのかも知れません。

例えば先ほど例に挙げた瞳の場合であれば、表面上は彼女は夫を亡くした後も生活のため、それなりのやりがいを感じつつIT企業の女性管理職として忙しい毎日を送っています。

しかし内面では夫を亡くした後にすぐに健児と再婚したことに若干の後ろめたさを感じつつ、今でも交流のある前夫の母である静江との距離感に微妙なものを感じている様子がよく描かれています。

もちろん健児、静江にも同じように心にさまざまな想いを抱きながら大都会での生活を続けています。

普通であれば内面とどこまでも深く掘り下げてゆくと純文学のような重さが出てくるものですが、作品の持つ軽快なリズムと登場人物たちの"前向きな姿勢"によって作品全体としては明るい印象を受けます。

この"前向きの姿勢"というのは、どんな困難にも屈しない不屈の精神といった類のものではなく、仕事や人間関係上のトラブルや過去の不幸な出来事を乗り越えるために、目の前の山積みの問題をひたすら処理したり、生活リズムを変えてみたりといった、その人なりの試行錯誤のことを指しています。

こうした描写が読者にとって作品中の登場人物を身近な存在となり、ささやかな勇気を与えてくれるのです。

成瀬は信じた道をいく


2024年本屋大賞をはじめベストセラーとなった「成瀬は天下を取りにいく」の続編です。

前作でわが道をゆく主人公・成瀬あかりの魅力に引き込まれ、作品のファンになった読者も大勢いると思いますが、続編も期待を裏切らない出来になっています。

前作では成瀬の中・高校生時代が描かれていましたが、本作品では大学受験、そして大学1年生時代のストーリーになっています。

主人公の持つ魅力については前作のレビューで紹介したので割愛しますが、本作品の持つ別の魅力を紹介してみたいと思います。

それはストーリーの中心となる舞台が、著者の在住している滋賀県大津市であるという点です。

滋賀県でありながら京都からもほど近い地方都市である大津市は、大都会でも田舎でもない適度に発展した地方都市です。

私自身も地方都市で育ったため、その魅力のようなものは想像がつきます。

地方都市では生活を送る上で必要はモノは不自由なく手に入れることができます。
一方で東京の最先端のカルチャーといったものには縁遠いものの、地方独自の文化がきちんと残っていることが多く、ある程度の賑わいと独特の雰囲気が存在しているという点です。

主人公の成瀬は入学した京都大学へは自宅から通学しつつも、アルバイトは大津市に実在する商業施設「オーミー大津テラス」に入っているスーパーでアルバイトをしています。

実在している商業施設でアルバイトをしているという設定は、物語の舞台を鮮明に思い描くことができるため、主人公をより身近に感じることができます。

著者は生まれと育ちは静岡県ですが、現在は大津市在住とのことで、作品中から今住んでいる街への愛着がよく感じられます。

そして主人公である成瀬は、この大津市で生まれ育ったという設定であり、地元への強い愛着を持っています。

さらに大学生になるのとほぼ同じタイミングで応募した「びわ湖大津観光大使」に選ばれます。

名前から想像できるように大津市の顔として観光宣伝のPRを担うボランティアですが、これも実在する役職です。

つまり本作品は、現在進行形の大津市を中心に繰り広げられるパラレルワールドの物語ということがいえます。

幼少の頃より周りに流されず、タイトルにある通り信じた道を歩き続ける主人公ですが、年齢とともに社会との関わり合いが増えてくるにつれ"自分らしさ"を貫き通す生き方は難しくなってゆくはずです。

それでも数少ない周りの友人たちは成瀬に魅せられつつも暖かく見守り応援している点では、心温るストーリーであるともいえます。

本シリーズは実際の時間の流れと同じ速さで物語が展開してゆくことが予想され、今から3~4年後にやってくる主人公成瀬の就職活動、さらに社会人で活躍するストーリーに期待して気長に待ちたいと思います。